第17話 好きな人と手を繋いだ次の日なのに、幼馴染の顔を見ただけで安心してしまいました
月曜日の朝、午前六時二十八分。
目覚ましが鳴るよりも早く目を覚ました私は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。薄いカーテンの向こうでは、朝の光が少しずつ強くなっている。鳥の声と、遠くを走る車の音が聞こえ、いつもと変わらない一日の始まりが部屋の外で進んでいた。
けれど、私の頭の中には昨日の景色が残っている。
偕楽園の木漏れ日。並んで歩いた道。肩が触れたときの緊張。竹下くんが差し出した手と、指が重なった瞬間の温かさ。少し汗ばんでいて、思っていたよりも大きくて、私が強く握り返すと竹下くんが驚いたようにこちらを見た。
好きと言われた。
私も好きだと答えた。
次も手を繋ぎたいと言った。
彼女になってほしいと言われた。
それに対する答えだけは、まだ出せなかった。
昨日のことを思い返すと、胸の奥が温かくなる。恥ずかしさもあるけれど、それ以上に嬉しかった。竹下くんと手を繋いで歩いている間、私は確かに竹下くんだけを見ていた。
それなのに。
今朝、目を覚まして最初に考えたのは、春斗のことだった。
今日、会える。
五分早く駅へ行けば、いつものベンチに春斗がいる。
金曜日は熱を出して学校を休み、土曜日も日曜日も会わなかった。会えなかったのは、たった三日だけ。それでも私には、その三日が思っていたより長く感じられた。
春斗の熱は下がった。
昨夜も三十六度二分だと聞いた。
喉もほとんど痛くないと言っていた。
それでも。
実際に顔を見るまでは、安心できない。
「……何でこんなに緊張するんだろ」
声に出すと、余計に分からなくなった。
竹下くんとの昨日を後悔しているわけではない。むしろ、次も会いたいと思っている。次も手を繋ぎたいと言ったことにも、嘘はない。
それと同じくらい。
春斗に会いたいと思っている自分も、もう誤魔化せなかった。
◇
朝食を終え、制服へ着替えて部屋を出る。
玄関で靴を履いていると、居間から母が顔を出した。
「今日は早いね」
「五分早く行くから」
「春斗くん?」
「うん」
母はそれ以上、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、かえって落ち着かない。
「何?」
「何も言ってないでしょう」
「顔が言ってる」
「どんな顔?」
「昨日、竹下くんと手を繋いだのにって顔」
「してない」
「そう?」
母は少しだけ笑ったが、からかうような強さはなかった。
「会いたいんでしょう」
「うん」
私は靴紐を結びながら答える。
昨日までなら、少し迷ったかもしれない。
でも今は。
会いたいものは会いたい。
その気持ちまで否定してしまえば、竹下くんにも春斗にも嘘をつくことになる。
「昨日のこと、なかったことにしないよ」
「うん」
「竹下くんと手を繋いで嬉しかった」
「うん」
「次も会いたい」
「うん」
「でも春斗にも会いたい」
母は頷く。
「なら今日は、それをそのまま持っていきなさい」
「重い」
「自分で持つしかないよ」
「分かってる」
「春斗くんの顔を見て安心したからって、昨日を間違いだったことにしない」
「うん」
「昨日が楽しかったからって、今日会えて嬉しい気持ちも否定しない」
「うん」
「それでいいんじゃない?」
「答えは出ないけど」
「今日一日で決める必要はないでしょう」
ただし、と母は続ける。
「二人とも、いつまでも待つわけではないけどね」
「分かってる」
昨日、竹下くんにも言われた。
春斗も同じ。
待つ。
でも、ずっとではない。
私は立ち上がり、鞄を肩へ掛けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉を開ける。
朝の空気は少し冷たかった。
昨日の偕楽園で感じた風よりも硬く、通学する朝の匂いがする。近くの家からは食器の音が聞こえ、道路の向こうでは自転車に乗った中学生が急いでいた。
私は駅へ向かって歩きながら、何度も右手を見そうになった。
昨日、竹下くんと繋いだ手。
今日。
春斗には触れない。
そう決めていた。
◇
午前七時十二分。
岩瀬駅のホームには、いつもの平日の朝が戻っていた。
制服姿の高校生が何人も並び、眠そうな顔でスマートフォンを見ている。部活動用の大きな鞄を足元へ置く生徒。友達同士で週末の話をする女子。イヤホンをつけ、柱へ寄りかかっている男子。
人の声。
改札の電子音。
遠くから近づく電車の音。
いつもと同じ。
私はベンチへ向かう。
その途中で。
春斗を見つけた。
いつもの右側。
制服姿で座っている。
少しだけ俯き、スマートフォンを見ていた。
頬は以前より少し白く見える。でも、金曜日に玄関越しで会ったときのような弱った顔ではない。髪も整っているし、制服の襟も曲がっていない。
私が近づく気配に気づいた春斗が顔を上げる。
目が合う。
その瞬間。
胸の奥へ張りついていた何かが、静かにほどけた。
大丈夫だった。
春斗がいる。
いつもの場所に。
いつもの制服で。
それだけで。
驚くほど安心した。
「おはよう」
声が少しだけ掠れた。
「おはよう」
春斗が答える。
いつもの声。
少し眠そうで、平坦で、それでも私にはよく分かる声。
私は春斗の隣へ座る。
座った瞬間、肩の力が抜けた。
自分でも分かるくらい大きく息を吐いてしまう。
春斗がこちらを見る。
「何」
「何が?」
「今、安心した」
「してない」
「した」
「してない」
「絶対した」
春斗の声には、少し笑いが混ざっていた。
私は前を向いたまま、鞄を膝へ乗せる。
「……少しだけ」
「少しか」
「顔色、思ったより普通だったから」
「普通じゃなかったら?」
「保健室連れていく」
「駅から?」
「学校着いたら」
「元気だよ」
「本当に?」
「三十六度二分」
「昨日の夜も聞いた」
「じゃあ信じろ」
「顔見るまでは分からない」
言ったあと。
春斗が少し黙った。
私は自分の言葉の意味へ気づく。
顔を見るまでは安心できなかった。
つまり。
ずっと気にしていた。
昨日。
竹下くんと一緒にいる間は考えなかった。
でも。
帰ったあと。
春斗から返事が届けば安心し。
今朝も。
こうして顔を見るまで落ち着かなかった。
「真理」
「何?」
「それ、期待する」
春斗は正直に言った。
私は少しだけ視線を落とす。
「体調の心配」
「分かってる」
「恋人としてとかじゃない」
「分かってる」
「でも?」
「嬉しい」
言われる。
胸が少し痛む。
「ごめん」
「謝るな」
「でも期待するって」
「俺が勝手にする」
「勝手にしていいの?」
「よくないかもしれない」
春斗は一度言葉を止めた。
ホームの向こうへ視線を向け、少しだけ息を吐く。
「でも、真理に会えて安心してもらえたのは嬉しい」
「うん」
「それを違うって言われる方が嫌」
春斗の言葉は。
いつも優しいわけではない。
でも。
私が誤魔化すことを許さない。
「会いたかった」
気づけば。
口から出ていた。
春斗がこちらを見る。
「何?」
「今日」
「うん」
「会いたかった」
もう一度言う。
胸が速くなる。
春斗はすぐに返事をしなかった。
目を逸らさず。
でも嬉しそうに笑うこともせず。
私の言葉をそのまま受け止めるように、しばらく黙っていた。
「昨日」
春斗が言う。
「うん」
「楽しかったんだろ」
「うん」
「それでも?」
「うん」
「俺に会いたかった?」
「うん」
即答した。
迷わなかった。
迷わなかった自分に。
私自身が驚く。
「ずるいな」
春斗が小さく言う。
「分かってる」
「竹下のこと好きで」
「うん」
「昨日楽しくて」
「うん」
「その次の日に俺へ会いたいって言う」
「うん」
「期待するなって方が無理」
胸が痛い。
でも。
ここで。
昨日を否定してはいけない。
「昨日、楽しかった」
「うん」
「竹下くんと手を――」
言いかけて。
止まる。
細かいことは話さない。
愛ちゃんにも。
竹下くんにも。
自分自身にも。
そう決めた。
春斗の視線が私の顔から。
右手へ落ちる。
私は反射的に手を隠しそうになった。
でも。
隠さなかった。
膝の上へ置いたまま。
指を少し握る。
「言わなくていい」
春斗が先に言う。
「うん」
「分かるから」
「分かるの?」
「たぶん」
「何で」
「顔」
「顔だけで?」
「右手も」
私は右手を見る。
「意識してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「ずっと見てる」
「見てない」
「今も見た」
言い返せない。
私は少し唇を噛む。
春斗は笑わなかった。
「聞かない」
静かに言う。
「うん」
「聞きたいけど」
「うん」
「聞いたら嫌になる」
「何が?」
「竹下も」
少し間が空く。
「真理も」
胸が痛む。
「私も?」
「細かく聞いて」
「うん」
「怒って」
「うん」
「そのくせ離れたくなくなる」
春斗は視線を逸らした。
「だから聞かない」
私は何も言えなかった。
春斗は。
知らないことに苦しんでいる。
でも。
知ればもっと苦しくなる。
その間で。
自分から線を引いている。
「昨日のこと」
私はゆっくり言葉を選ぶ。
「なかったことにはしない」
「うん」
「楽しかった」
「うん」
「竹下くんを好きだって思った」
「うん」
春斗の返事は。
少しずつ小さくなる。
「でも」
私は春斗を見る。
「今朝、春斗に会えて安心した」
春斗は黙る。
「会いたかった」
「うん」
「それも、なかったことにしない」
ホームの空気が。
少しだけ重くなる。
周囲にはたくさん人がいる。
笑う声。
電車を待つ足音。
誰も。
私たちの話を気にしていない。
でも。
私と春斗の間には。
昨日までとは違う沈黙があった。
「真理」
「何?」
「俺」
春斗は一度言葉を止める。
「昨日、何回もスマホ見た」
「連絡しないって言ったのに?」
「送ってない」
「うん」
「でも見た」
「何を?」
「真理から来てないか」
胸が大きく鳴る。
「デート中は送らないって言ったでしょ」
「分かってる」
「じゃあ何で」
「分かってても見る」
春斗は少し苦しそうに笑った。
「終わったって来たとき」
「うん」
「安心した」
「何で?」
「帰ってきたから」
「どこから?」
「俺のところじゃない」
春斗は自分で言って。
少しだけ顔を歪めた。
「でも、連絡が来た」
「うん」
「それで安心した」
私も。
春斗から返事が来て安心した。
同じようで。
同じではない。
「私も返事来て安心した」
「期待する」
「うん」
「止めないんだ」
「もう、期待するって言うたび止めても意味ないから」
春斗が少し笑う。
「学んだな」
「春斗が何度も言うから」
「真理が何度も期待させるから」
「わざとじゃない」
「分かってる」
「でも?」
「嬉しい」
同じ場所へ戻る。
それが。
少しだけおかしくて。
二人で笑った。
◇
電車がホームへ近づく音が聞こえる。
アナウンスが流れ。
周囲の生徒たちが立ち上がる。
私と春斗もベンチを離れた。
人の列へ並ぶ。
春斗は私の半歩前。
私は少し後ろ。
以前なら。
何も考えずに制服の袖を掴んだかもしれない。
人が多いから。
はぐれないため。
それくらいの理由で。
でも。
今は触れない。
昨日。
竹下くんと手を繋いだ。
春斗に触れれば。
春斗は期待する。
私も。
何かを感じるかもしれない。
だから。
触れない。
電車の扉が開く。
人が流れ込む。
春斗が一度振り返った。
「来てる?」
「子どもじゃない」
「遅いから」
「人多い」
「先行くぞ」
「待って」
口にしたあと。
春斗が止まる。
その背中を見て。
胸が少し温かくなる。
春斗は私が追いつくまで待った。
触れない。
でも。
離れない。
二人で車内へ入り、空いている二人席へ座る。
窓側が春斗。
通路側が私。
車体が動き出す。
窓の外へ。
朝の町並みが流れていく。
「五分」
春斗が言う。
「何?」
「終わった」
「もう?」
「駅着いた時点で終わってる」
「じゃあ今は?」
「普通の通学」
「違うの?」
「約束した五分とは違う」
「でも一緒」
「うん」
春斗は少しだけ笑った。
「真理」
「何?」
「五分」
「うん」
「楽しかった?」
私は答える。
「楽しかった」
「俺も」
同じ意味。
今朝。
春斗と会えて嬉しかった。
昨日。
竹下くんと手を繋げて嬉しかった。
どちらも。
嘘ではない。
そのことが。
少しだけ怖い。
でも。
今朝は。
昨日よりも。
その二つを別々に考えられていた。
「春斗」
「何?」
「昨日のこと」
「うん」
「大事にする」
春斗の表情が少し固くなる。
「うん」
「竹下くんに言われたからだけじゃなく」
「うん」
「私が大事にしたいから」
「うん」
「でも」
春斗を見る。
「今朝のことも大事」
春斗は。
すぐに答えなかった。
窓の外を見る。
朝日が車内へ差し込み。
春斗の横顔を照らす。
「嫌だ」
春斗が言う。
「うん」
「竹下との昨日と」
「うん」
「俺との今朝を」
少し間を置く。
「同じ真理の中へ置かれるの」
「うん」
「嫌」
「うん」
「でも」
春斗は私を見る。
「捨てられるよりいい」
胸が痛む。
「春斗」
「何?」
「私、春斗を捨てたくない」
言った瞬間。
春斗の目が少し細くなる。
「それ」
「何?」
「一番期待する言い方」
「でも本当」
「分かってる」
「ただの幼馴染だからじゃない」
口にして。
自分でも驚く。
春斗も。
目を見開いたまま何も言わない。
「真理」
「何?」
「今の」
「うん」
「どういう意味?」
聞かれる。
逃げたくなる。
でも。
逃げない。
「分からない」
「またそれ?」
「でも」
私は制服のスカートを少し握る。
「ただ昔から一緒だから失いたくないだけじゃない」
春斗は黙る。
「石井さんと話してると嫌だった」
「うん」
「会えないと寂しかった」
「うん」
「返信が遅いと何も手につかなかった」
「うん」
「今日、顔見て安心した」
「うん」
「だから」
言葉が止まる。
「ただの幼馴染ではないと思う」
電車の走行音が響く。
周囲では。
向かいの席の女子生徒が友達と話している。
少し離れた場所では、男子がゲーム画面を見せ合っている。
誰も。
私たちの声を聞いていない。
春斗は。
しばらく何も言わなかった。
嬉しいと言うかと思った。
でも。
春斗の表情は。
苦しそうだった。
「それ」
「うん」
「俺を選ぶって意味じゃないんだろ」
「うん」
「竹下を好きじゃなくなったわけでもない」
「うん」
「なら」
春斗は小さく息を吐く。
「期待するけど、答えじゃない」
「うん」
「分ける」
「うん」
「今の言葉だけで、真理が俺を選んだと思わない」
「うん」
「でも」
春斗は少しだけ笑った。
「嬉しい」
胸が温かくなる。
「ありがとう」
「感謝するな」
「何で?」
「選ばれるまで、まだ負けてる」
「勝ち負け?」
「竹下とは手を繋いだんだろ」
心臓が跳ねる。
「聞かないって」
「今のは予想」
「ほぼ聞いてる」
「答えなくていい」
「うん」
春斗は窓の外へ視線を戻す。
「俺は触ってない」
「うん」
「触りたい」
真っ直ぐ言われる。
胸が鳴る。
「でも触らない」
「うん」
「今、触ったら」
「うん」
「昨日の竹下と同じ場所へ行ける気がするから」
私は右手を見る。
昨日。
竹下くんと繋いだ手。
今。
春斗の左手は。
すぐ隣。
少し伸ばせば届く。
でも。
触れない。
春斗も。
手を動かさない。
「春斗」
「何?」
「触らないで」
「うん」
「今は」
「分かってる」
「でも」
少し迷う。
「触りたいって言われて」
「うん」
「嫌じゃなかった」
春斗が目を閉じる。
「真理」
「何?」
「朝から強い」
「何が?」
「期待」
「違うって言わない」
「言わないんだ」
「本当だから」
春斗は。
苦しそうに笑う。
「竹下、大変だな」
「何で竹下くん?」
「こんな真理を待ってる」
「春斗もでしょ」
「俺も大変」
「ごめん」
「謝るな」
また。
同じ言葉。
二人で少し笑う。
◇
電車が水戸駅へ近づく。
車内アナウンスが流れ。
立ち上がる人が増える。
私も鞄を持ち直した。
「学校」
春斗が言う。
「うん」
「竹下と会う」
「うん」
「昨日の続きになる?」
聞かれる。
私は少し考える。
「分からない」
「そっか」
「でも」
「うん」
「昨日をなかったことにはしない」
「うん」
「竹下くんと会えて嬉しいと思う」
「うん」
「それも言うかもしれない」
「うん」
春斗の返事は。
少し苦しそう。
「嫌?」
「嫌」
「でも?」
「嘘よりいい」
昨日の夜と。
同じ答え。
「春斗」
「何?」
「今朝、会えて嬉しかった」
「うん」
「それも、春斗とのことだから」
「うん」
「竹下くんに会ったあとでも、なかったことにしない」
春斗は私を見る。
少し驚いたような顔。
「それ」
「何?」
「嬉しい」
「期待する?」
「する」
「うん」
「止めない?」
「止めない」
「変わったな」
「毎回同じだから」
「俺が?」
「春斗も、私も」
電車が速度を落とす。
ホームが近づく。
「じゃあ」
春斗が言う。
「何?」
「今日の五分」
「うん」
「ちゃんと覚えといて」
「覚えてる」
「竹下に会っても?」
「うん」
「俺も」
「何を?」
「今朝」
春斗は少しだけ笑った。
「真理が会いたかったって言ったこと」
胸が鳴る。
「忘れないで」
「無理」
「何で?」
「ずっと覚えてる」
電車が止まる。
扉が開く。
人の流れが動き出す。
私は立ち上がる。
春斗も。
並んで電車を降りる。
触れない。
でも。
離れない。
水戸駅のホームへ降りると。
朝の人波が私たちを包んだ。
昨日。
竹下くんと手を繋いだ。
今日。
春斗の顔を見ただけで安心した。
どちらも。
もう消せない。
答えには。
まだ近づけていないのかもしれない。
それでも。
私は今朝。
春斗へ会いたかったと言えた。
ただの幼馴染だからではないと。
初めて。
自分の口で認めた。
春斗は。
それを答えにはしなかった。
期待するけれど。
選ばれたとは思わない。
そう言った。
その線を。
春斗は自分で守った。
私は。
昨日の竹下くんとの時間を守る。
春斗は。
今朝の五分を守る。
同じ日に。
別の相手との大切な時間がある。
そのことが。
苦しくて。
ずるくて。
それでも。
今の私の本当だった。
改札へ向かう階段の前で。
春斗が少しだけ振り返る。
「真理」
「何?」
「遅い」
「人多いから」
「置いてくぞ」
「待って」
春斗は。
少し先で立ち止まる。
私が追いつくまで。
以前と同じように。
でも。
以前とは違う意味で。
待っていた。




