第16話 好きな人と手を繋げたのに、思っていたより答えには近づけませんでした
日曜日の朝、午前六時四十三分。
目覚ましが鳴るより十七分も早く目を覚ました私は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。
昨日までとは違う。
今日は学校ではない。
春斗と五分早く会う朝でもない。
竹下くんと、偕楽園へ行く日。
二回目のデート。
そして。
たぶん。
手を繋ぐ日。
そう思った瞬間、まだ起き上がってもいないのに心臓が少し速くなった。
私は枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
画面には、二件の通知があった。
最初は春斗。
『三十六度四分。喉もほぼ大丈夫』
午前六時十八分。
次は竹下くん。
『おはよう。晴れ』
午前六時三十一分。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は明るい。
昨日まで空に残っていた雲も、今日はほとんど見えなかった。
私はまず、春斗へ返信する。
『よかった』
少し考え。
『今日はちゃんと休んで』
送る。
既読はすぐについた。
『うん』
それだけ。
昨日決めた通り。
春斗は、今日のデート中には連絡を送らない。
朝の体調報告だけ。
そのあとは竹下くんとの時間。
私は少し寂しいと思った。
でも。
同時に。
これでいいとも思った。
春斗から何度も連絡が来れば、私はきっと画面を見る。
熱は大丈夫か。
喉はどうか。
何をしているか。
月曜日の朝は本当に五分早いのか。
竹下くんと一緒にいても、気になってしまう。
今日は。
竹下くんを見る。
そう約束した。
私は春斗との画面を閉じ、竹下くんへ返信する。
『おはよう。本当に晴れたね』
すぐに既読。
『毎日確認したから』
『竹下くんのおかげ?』
『少し』
『そんな力あるの?』
『今日だけ』
『じゃあ帰るまで晴れさせて』
『任せて』
画面を見ながら、私は少し笑った。
『体調大丈夫?』
竹下くんから届く。
『私?』
『うん。眠れた?』
昨日。
楽しみで眠れないかもしれないと話していた。
『少し早く起きた』
『何時?』
『六時四十三分』
『早い』
『竹下くんは?』
『六時前』
『もっと早い』
『目覚めた』
『楽しみで?』
少し間が空く。
『うん』
胸が温かくなる。
『私も』
送る。
『服』
『何?』
『楽しみ』
『まだ見てないのに』
『久保さんが俺に最初に見せるって言ったから』
その言葉で。
昨日、竹下くんが「俺とのデートを、俺とのものにしてくれた感じがする」と言ったことを思い出す。
今日は。
春斗へ服を見せていない。
春斗の意見も聞いていない。
私と母と愛ちゃんで選んだ。
竹下くんへ会うための服。
竹下くんが最初に見る。
それだけなのに。
昨日までより、今日の約束が少し特別に感じられた。
『ちゃんと反応してね』
送る。
『可愛いって言う』
『まだ見てない』
『言う』
『何でも可愛いは駄目』
『本当に思ったら?』
『そのときは言って』
『分かった』
少しして。
『手も』
届く。
胸が大きく鳴る。
昨日。
ちゃんと聞くと約束した。
私はちゃんと答えると返した。
『そのとき聞いて』
『うん』
『今は聞かないで』
『緊張するから?』
『うん』
『俺も』
竹下くんも緊張している。
私だけではない。
それが少し嬉しかった。
『九時半』
『うん』
『待ってる』
『私も待つかも』
『早く来るな』
『竹下くんも』
『無理』
『私も』
二人とも。
待たせたくない。
少しでも早く会いたい。
その気持ちは同じだった。
◇
午前七時十分。
私は朝食を終え、自分の部屋で服へ着替えた。
クリーム色のブラウス。
薄い青のデニム。
白いスニーカー。
小さな茶色のバッグ。
髪は、昨日買った茶色の髪留めで片側を少しまとめる。
鏡の前へ立つ。
派手ではない。
前回よりも歩きやすい。
でも。
いつもの学校の私よりは、少しだけ女の子らしく見える気がした。
「……変じゃない」
自分へ言い聞かせる。
春斗なら。
どう言うだろう。
その考えが浮かび。
私は鏡から少し目を逸らした。
今日は考えない。
無理に忘れるのではない。
でも。
竹下くんへ会う服を、春斗の反応で確かめない。
そう決めた。
スマートフォンを見る。
春斗からの追加連絡はない。
送らないと決めたから。
分かっている。
私は画面を伏せる。
扉が軽く叩かれた。
「入るよ」
母が顔を出す。
「どう?」
私は両腕を少し広げる。
「いいと思う」
「本当?」
「似合ってる」
「髪は?」
「そのままでいいよ」
「子どもっぽくない?」
「真理は高校生でしょう」
「そうだけど」
母が部屋へ入り、私の肩へ少し触れる。
「昨日より顔が固いね」
「緊張してる」
「楽しみ?」
「うん」
「怖い?」
少し考える。
「うん」
「手を繋ぐから?」
「それも」
「ほかは?」
「竹下くんと近づいたら」
言葉が止まる。
母は急かさない。
「春斗と少し離れる気がする」
私は続けた。
「実際、離れるかもしれないね」
母は優しく誤魔化さなかった。
「うん」
「それが怖い?」
「うん」
「じゃあ、手を繋がない?」
私は鏡を見る。
右手。
竹下くんが握るかもしれない手。
「繋ぎたい」
「なら、その気持ちを大事にしなさい」
「春斗が傷ついても?」
「誰も傷つけずに選べるとは限らないよ」
静かな声。
「真理が竹下くんを好きなのも本当。春斗くんが大事なのも本当」
「うん」
「でも、傷つけたくないから何もしないで、二人を待たせ続けるのも傷つけることになる」
「うん」
「今日は竹下くんとどうなりたいかを考える日なんでしょう」
「うん」
「なら、春斗くんがどう思うかではなく、真理が竹下くんと手を繋ぎたいかで決めなさい」
昨日から何度も言われている。
分かっている。
今日。
その瞬間が来たら。
春斗ではなく。
竹下くんを見る。
「行ってくる」
私は言った。
「まだ早いよ」
「駅まで時間かかる」
「待ち合わせの一時間以上前に着くでしょう」
「電車あるから」
「遅刻はしないね」
「絶対」
母が少し笑う。
「楽しんでおいで」
「うん」
「本当にね」
「分かってる」
「考えるためだけのデートにしないで」
胸へ刺さる。
私は最近。
何をしても意味を考えている。
誰へ何を期待させるか。
どちらへの気持ちが大きいか。
失いたくないだけなのか。
恋なのか。
必要なこと。
でも。
竹下くんとの時間を、答えを出すための試験のように扱ってはいけない。
「今日は竹下くんと楽しむ」
「うん」
「手も、自分が繋ぎたかったら繋ぐ」
「うん」
「帰ってから考える」
「それがいいよ」
母に見送られ。
私は家を出た。
◇
午前八時二十二分。
岩瀬駅のホーム。
日曜日の朝は、平日より静かだった。
通学する生徒はいない。
仕事へ向かうらしい人も少ない。
旅行鞄を持った家族と、部活動の制服を着た中学生たちが、少し離れた場所で電車を待っている。
私は、平日のいつものベンチへ座った。
右側。
春斗が座る場所。
今日は空いている。
私はそこを見ないようにしようとした。
でも。
無意識に、少しだけ右へ身体を寄せていた。
まるで。
春斗の場所を避けるように。
「……今日は違う」
小さく呟く。
今日。
私は竹下くんに会う。
春斗は家で休んでいる。
明日の朝。
また五分早く会う。
私はスマートフォンを出す。
竹下くんから。
『もう出た?』
『駅』
『早い』
『竹下くんは?』
『今向かってる』
『どこに?』
『水戸駅』
『もう?』
『俺も早い』
二人とも。
予定よりかなり早い。
『何時に着く?』
『九時前』
『私もそのくらい』
『じゃあ九時に会う?』
胸が少し高鳴る。
予定より三十分早い。
『うん』
送る。
『北口』
『分かった』
『早く会える』
その言葉。
嬉しい。
『うん』
返す。
春斗のことは。
今は考えない。
スマートフォンを鞄へ入れる。
電車がホームへ入ってくる。
風が吹き。
私の髪が少し揺れた。
◇
午前八時五十八分。
水戸駅北口。
改札を出た私は、階段を上がる。
休日の駅前には、すでに多くの人がいた。
待ち合わせをする若者。
旅行鞄を引く家族。
バス乗り場へ急ぐ人。
道路を走る車の音と、駅前の案内放送が重なっている。
階段を上がりきったところで。
竹下くんを見つけた。
柱の近く。
白いシャツ。
薄い紺色の上着。
黒いパンツ。
前回よりも少し落ち着いた服装。
スマートフォンを見ていた竹下くんが、顔を上げる。
目が合う。
一瞬。
竹下くんの動きが止まった。
私は少し不安になる。
変だっただろうか。
髪。
服。
何か間違えたかもしれない。
竹下くんはスマートフォンをポケットへ入れ、こちらへ歩いてくる。
「おはよう」
「おはよう」
声が少し硬い。
緊張している。
竹下くんも。
私も。
「早かったね」
「久保さんも」
「うん」
「服」
竹下くんが言う。
胸が鳴る。
「変?」
「違う」
「じゃあ何?」
竹下くんは少し視線を逸らす。
耳が赤い。
「可愛い」
言われた。
昨日から。
言うと言われていた。
それでも。
実際に目の前で言われると、胸の奥が熱くなる。
「本当に?」
「うん」
「何でも可愛いって言ってない?」
「本当に似合ってる」
「どこが?」
「どこって」
竹下くんが困る。
「服の色も」
「うん」
「髪も」
「うん」
「全部」
「やっぱり何でも」
「違う」
竹下くんは少し焦ったあと。
「俺に最初に見せてくれたのも嬉しい」
小さな声で言う。
胸が温かくなる。
「春斗には見せてない」
自分から言った。
竹下くんの目が少し揺れる。
「本当?」
「うん」
「聞かれなかった?」
「聞かれた」
「でも見せなかった?」
「うん」
「どうして?」
「竹下くんに最初に見てほしかったから」
竹下くんは、しばらく何も言わなかった。
周囲には人が多い。
待ち合わせの声。
バスの案内。
車の音。
その中で。
竹下くんの表情だけが、ゆっくりと柔らかくなる。
「ありがとう」
「うん」
「今日」
竹下くんが言う。
「もう少し早く会えてよかった」
「私も」
素直に答える。
「まだバスまで時間ある」
「うん」
「少し歩く?」
「どこ?」
「駅の近く」
「偕楽園で歩くのに?」
「話したい」
胸が少し鳴る。
「うん」
二人で。
予定より早く。
駅前を歩き始めた。
◇
駅前の通り。
日曜日の朝は、平日よりも人の流れがゆっくりだった。
店はまだ開店前のところも多い。
歩道には、同じように待ち合わせをしている人たちや、散歩をする年配の夫婦がいる。
私と竹下くんは並んで歩く。
前回の映画の日より、距離が少し近い。
肩が触れるほどではない。
でも。
手を伸ばせば届く。
「昨日眠れた?」
竹下くんが聞く。
「少し」
「俺も」
「何時まで起きてた?」
「十二時くらい」
「私より遅い」
「久保さんは?」
「十一時半くらい」
「何考えてた?」
「今日のこと」
「手?」
すぐに聞かれ。
私は顔が熱くなる。
「それも」
「本当?」
「うん」
「俺も」
竹下くんも少し照れている。
「怖かった?」
私が聞く。
「うん」
「何が?」
「断られるの」
「まだ聞いてないよ」
「聞くけど」
「うん」
「今聞いていい?」
足が止まりそうになる。
「まだ」
「何で?」
「偕楽園で」
「場所の問題?」
「心の準備」
「まだできてない?」
「少し」
竹下くんは急かさなかった。
「分かった」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「うん」
「でも」
「何?」
「聞いたら、ちゃんと答えて」
「約束した」
「逃げない?」
「逃げない」
竹下くんが少し笑う。
「じゃあ待つ」
「待って」
「今日は長くないけど」
「うん」
「大事にしたい」
その言葉へ。
胸が静かに温かくなった。
◇
午前九時四十二分。
予定していたバスへ乗る。
車内は思っていたより混んでいた。
観光客らしい人たち。
家族連れ。
年配の夫婦。
空いている二人席を見つけ、私と竹下くんは並んで座る。
窓側が私。
通路側が竹下くん。
バスが動き出す。
車体が少し揺れ。
私の肩が竹下くんの腕へ触れた。
「ごめん」
「大丈夫」
すぐに離れる。
でも。
次の揺れで、また少し触れる。
前回。
映画館の座席でも近かった。
暗い中。
指先が少し触れた。
今日は明るい。
周囲にも人がいる。
それなのに。
隣にいる竹下くんの体温を、前回より強く意識した。
「久保さん」
「何?」
「緊張してる?」
「少し」
「俺も」
「さっきからそればっかり」
「本当だから」
「私も本当」
二人で少し笑う。
窓の外を街並みが流れていく。
「春斗くん」
竹下くんが言う。
胸が少し固くなる。
今日は。
竹下くんとの時間。
それでも。
竹下くんから名前を出した。
「熱、下がった?」
「うん。三十六度四分」
「よかった」
「ありがとう」
「今日は連絡来る?」
「来ない」
「どうして?」
「デート中に送ったら、私が見るからって」
竹下くんの表情が少し変わる。
「春斗くんが言った?」
「うん」
「そっか」
「嫌?」
「少し」
「何が?」
「俺との時間を考えてくれたのが」
「嫌なの?」
「春斗くんにされるのが」
竹下くんは正直に答える。
「俺が気にすることまで、春斗くんは分かってる」
「うん」
「久保さんのこと、俺よりずっと知ってる」
「長いから」
「分かってる」
声は静か。
でも、少し苦しそう。
「竹下くん」
「何?」
「今日は見ない」
「スマホ?」
「うん」
「本当に?」
「緊急じゃなければ」
「春斗くんからは来ない」
「うん」
「なら」
竹下くんは少しだけ笑う。
「今日は俺を見る?」
「見る」
私は答える。
「ずっと?」
「できるだけ」
「そこはずっとって言ってほしい」
「景色も見る」
「そういう意味じゃない」
竹下くんが少し困ったように笑う。
「でも」
私は続ける。
「今日は竹下くんとの時間」
「うん」
「春斗のことを忘れるわけじゃない」
「うん」
「でも、比べない」
「うん」
「竹下くんと私のことを考える」
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「それでいい」
「本当?」
「うん」
「春斗のことが消えなくても?」
「消せとは言えない」
「うん」
「でも、今日のことまで春斗くん基準にしないで」
「しない」
「手も?」
胸が鳴る。
「うん」
「俺と繋ぎたいかで?」
「決める」
竹下くんは、少し安心したように頷いた。
◇
偕楽園へ着く。
園内へ入ると。
朝の街中よりも風が柔らかく感じられた。
梅の時期ではない。
木々には濃い緑の葉が茂り、ところどころから鳥の声が聞こえる。広い道には休日の散策を楽しむ人たちが歩き、少し離れた芝生では小さな子どもが走っていた。
空は明るい青。
昨日まで何度も確認した天気予報通り。
よく晴れている。
「晴れた」
竹下くんが言う。
「竹下くんのおかげ?」
「うん」
「本当に?」
「今日だけ力使った」
「じゃあ明日は雨?」
「知らない」
二人で笑う。
「どこ行く?」
私が聞く。
「少し見せたいところある」
「秘密の?」
「うん」
「遠い?」
「少し歩く」
「大丈夫」
「靴」
「スニーカー」
「よし」
「子ども扱い」
「前に足痛くなったことあるって言ったから」
「覚えてたの?」
「覚えてる」
些細なこと。
でも。
私が以前話した内容を、竹下くんが覚えている。
それが嬉しい。
「竹下くん」
「何?」
「私の話、結構覚えてるね」
「覚えるよ」
「何で?」
「好きだから」
真っ直ぐ。
何でもないことのように言われる。
胸が大きく鳴る。
「急に言う」
「本当だから」
「恥ずかしい」
「俺も」
「言った方が?」
「言ったあと」
竹下くんも耳が赤い。
でも。
最近は、気持ちを隠さない。
「私も」
口にしかける。
好き。
竹下くんを好き。
それは本当。
でも。
簡単に返していいのか、少し迷った。
竹下くんは私を見ている。
私は逃げない。
「私も、竹下くんを好き」
言った。
竹下くんの目が少し見開かれる。
「今」
「うん」
「言った?」
「言った」
「もう一回」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしい」
「俺は言った」
「一回ずつ」
「ずるい」
竹下くんは笑った。
嬉しそう。
その顔を見て。
私も嬉しくなる。
今。
春斗がどう思うかは考えなかった。
竹下くんへ。
竹下くんを好きだと伝えた。
それだけだった。
◇
園内を歩く。
竹下くんの歩幅は、普段より少し遅い。
私に合わせている。
それへ気づき。
「もっと普通に歩いていいよ」
と言う。
「これが普通」
「嘘」
「何で」
「学校だともっと速い」
「今日は急いでないから」
「私に合わせてる?」
「少し」
「言うんだ」
「隠すことじゃない」
竹下くんは、少し先の道を見る。
「短い時間だから」
「うん」
「ゆっくり歩きたい」
胸が温かくなる。
午後一時から部活。
十二時過ぎには水戸駅へ戻らなければならない。
ここで過ごせる時間は長くない。
だからこそ。
一歩ずつ。
ゆっくり歩く。
「部活、休めなかった?」
聞く。
「休もうと思えば」
「じゃあ何で」
「急に休むと迷惑かかる」
「うん」
「それに」
「何?」
「今日は短い方がいいかもって思った」
「どうして?」
竹下くんは少し考える。
「長すぎると、俺が焦るから」
「何を?」
「久保さんに答え求める」
胸が少し固くなる。
「手だけじゃなく?」
「うん」
「付き合ってって?」
「言うかもしれない」
竹下くんは正直に言う。
「今日は言わない?」
「分からない」
「竹下くんも分からないんだ」
「久保さんといると変わる」
「何が?」
「もっと欲しくなる」
胸が強く鳴る。
「次も会いたい」
「うん」
「手も繋ぎたい」
「うん」
「彼女になってほしい」
言われる。
まだ正式な告白ではない。
でも。
竹下くんの望んでいること。
私は分かっている。
「私」
言葉を探す。
「今日は、手を繋ぐところまで考えてきた」
「うん」
「付き合う答えまでは」
「まだ?」
「うん」
竹下くんは少し苦しそうに頷く。
「分かった」
「嫌?」
「嫌」
「うん」
「でも、手は考えてくれた?」
「うん」
「それなら」
竹下くんは一度息を吐く。
「今日はそこまで」
「いいの?」
「よくない」
「また」
「でも、急かして違う答えになる方が嫌」
春斗も。
竹下くんも。
嫌なことを嫌と言う。
でも。
私へ全てを押しつけない。
「ありがとう」
「その代わり」
「何?」
「手、ちゃんと考えて」
「うん」
「俺のことだけで」
「うん」
約束する。
◇
竹下くんが見せたかった場所は。
園内の少し高い場所から、周囲の景色を眺められる場所だった。
木々の間から。
遠くの街。
広い空。
水面の光。
風が少し強く吹き。
髪が揺れる。
「ここ」
竹下くんが言う。
「来たことある?」
「家族と昔」
「覚えてる?」
「少し」
「俺、去年部活の帰りに来た」
「一人で?」
「友達と」
「サッカー部?」
「うん」
「男の子だけで偕楽園?」
「悪い?」
「少し意外」
「写真撮って帰った」
「何の?」
「景色」
「見せて」
「スマホにあるかも」
竹下くんがスマートフォンを出す。
二人で画面を見る。
去年の写真。
空。
木々。
友人たち。
笑っている竹下くん。
学校で見るより少し幼く見える。
「楽しそう」
「うん」
「これ誰?」
「同じ部活」
「小野寺くんもいる」
「いた」
「竹下くん、今より髪短い」
「夏だったから」
「こっちの方が子どもっぽい」
「一年しか違わない」
「でも違う」
写真を見ながら。
自然に。
私と竹下くんの肩が触れている。
今度は離れなかった。
竹下くんも。
私も。
そのまま画面を見る。
「久保さん」
「何?」
「近い」
「竹下くんも」
「嫌?」
聞かれる。
私は、自分の気持ちを確かめる。
肩が触れている。
竹下くんの体温。
近い。
胸が少し速い。
でも。
嫌ではない。
「嫌じゃない」
答える。
竹下くんが少しだけ息を吐く。
「よかった」
「緊張した?」
「した」
「私も」
画面を閉じる。
でも。
二人の距離は、そのまま。
景色を見る。
風が吹く。
周囲にはほかの人もいる。
でも。
今。
私は竹下くんの隣へいる。
それが嬉しかった。
◇
午前十時五十一分。
少し歩いたあと。
私たちは、人の流れが少ない道へ入った。
両側に木々が続き。
足元には、ところどころ木漏れ日が落ちている。
前を歩く家族連れとの距離が少し開き。
後ろから来る人の気配も遠い。
竹下くんの歩みが少し遅くなる。
私も。
何となく。
その理由を感じた。
「久保さん」
「うん」
声が少し硬い。
「聞いていい?」
胸が大きく鳴る。
「うん」
竹下くんが立ち止まる。
私も止まる。
向かい合う。
竹下くんの右手が。
少しだけ動く。
「手」
「うん」
「繋いでもいい?」
聞かれた。
昨日から。
何度も想像した。
この瞬間。
春斗がどう思うかではなく。
竹下くんと繋ぎたいか。
自分で決める。
私は竹下くんを見る。
緊張している。
目を逸らさない。
でも。
無理に近づかない。
私の答えを待っている。
胸が高鳴る。
怖い。
でも。
繋ぎたい。
「うん」
私は答えた。
竹下くんの目が少し見開かれる。
「本当に?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「繋ぎたい」
言った。
自分から。
竹下くんの表情が、ゆっくり変わる。
嬉しそう。
でも。
まだ少し信じられないような顔。
「手」
私は右手を少し出す。
竹下くんも。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先が触れる。
前回。
映画館で少しだけ触れたときとは違う。
竹下くんの指が。
私の指の間へ入る。
手のひらが重なる。
温かい。
思っていたよりも。
しっかりしている。
少し汗ばんでいる。
竹下くんも緊張している。
握る力は弱い。
私が嫌なら、すぐに離せるようにしているようだった。
「……繋いだ」
竹下くんが小さく言う。
「うん」
「本当に?」
「今繋いでる」
「うん」
竹下くんの声が少し震えている。
私も。
顔が熱い。
心臓が速い。
手だけが。
不自然なくらい意識される。
「歩く?」
私が聞く。
「うん」
二人で。
また歩き始める。
最初の数歩は。
歩幅が合わない。
竹下くんが少し速く。
私が少し遅い。
手が引かれる。
「ごめん」
「ううん」
竹下くんが歩幅を合わせる。
今度は。
ゆっくり。
一歩ずつ。
手を繋いで歩く。
嬉しい。
恥ずかしい。
周囲に見られている気がする。
実際には。
誰も私たちを気にしていない。
でも。
すれ違う人が来るたび。
手を離したくなるような。
もっと強く握りたいような。
変な気持ちになる。
「久保さん」
「何?」
「大丈夫?」
「うん」
「嫌になったら言って」
「うん」
「今は?」
「嫌じゃない」
「それだけ?」
竹下くんが少し笑う。
私は手を見た。
繋がった指。
温かい。
竹下くんと恋をしている。
その形が。
目に見える。
「嬉しい」
私は答えた。
竹下くんの握る力が、ほんの少しだけ強くなる。
「俺も」
同じ言葉。
同じ意味。
今。
竹下くんと手を繋いでいることが嬉しい。
それは。
確かだった。
◇
歩きながら。
二人とも。
しばらく上手く話せなかった。
「何か話して」
私が言う。
「久保さんが」
「竹下くんが聞いた」
「手のこと考えてた」
「私も」
「じゃあいい」
「沈黙?」
「うん」
「気まずい」
「俺は気まずくない」
「私は少し」
「何話す?」
「何でも」
「手、柔らかい」
「それは言わなくていい」
「何でもって」
「別のこと」
「緊張してる?」
「してる」
「俺も」
「それも何回目」
二人で笑う。
笑うと。
少し力が抜ける。
「竹下くんの手」
「うん」
「思ったより大きい」
「サッカーしてるから?」
「関係ある?」
「知らない」
「少し硬い」
「ボール蹴るの足」
「でも手も使うでしょ」
「キーパーじゃない」
「転んだとき」
「それは」
会話が少しずつ戻る。
手を繋いでいることは変わらない。
でも。
最初ほど強く意識しなくなる。
普通に歩く。
普通に話す。
ただ。
指は重なったまま。
そのことが。
じわじわと嬉しくなる。
私は。
竹下くんとこうなりたかった。
好きな人と。
手を繋ぎ。
並んで歩く。
恋人になる前。
でも。
幼馴染でも。
ただの友達でもない。
特別な距離。
「久保さん」
「何?」
「今、何考えてる?」
聞かれる。
正直に答える。
「嬉しいって」
「うん」
「竹下くんと手繋げた」
「うん」
「恋してる感じする」
竹下くんが少し足を止めかける。
「それ」
「何?」
「嬉しい」
「本当?」
「うん」
竹下くんは私を見る。
「春斗くんじゃなく?」
名前。
胸の中へ。
小さく何かが落ちる。
でも。
今。
私は竹下くんと手を繋いでいる。
「今は竹下くん」
答える。
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「それでいい」
「うん」
「今日だけじゃなくしたい」
胸が少し固くなる。
「何を?」
「こうやって歩くの」
「うん」
「次も」
「うん」
「その次も」
竹下くんは。
未来を望んでいる。
「彼女になってほしい」
今度は。
はっきり言われた。
足が止まる。
手は。
繋がったまま。
「今日は言わないって」
「言わないとは言ってない」
「言わないと思ってた」
「俺も」
「じゃあ何で」
「手繋いだら」
竹下くんは、少し苦しそうに笑う。
「もっと欲しくなった」
正直な言葉。
「答え」
「今?」
「今じゃなくていい」
「うん」
「でも、考えて」
「考えてる」
「春斗くんと比べて?」
「比べないようにしてる」
「無理だと思う」
胸へ刺さる。
「俺と付き合うって、春斗くんと今まで通りではいられないことも含む」
「うん」
「だから比べずに決めるのは無理」
「うん」
「でも」
竹下くんが私の手を少し握る。
「今日、俺といることを選んでくれた」
「うん」
「服も俺に最初に見せてくれた」
「うん」
「手も繋いでくれた」
「うん」
「俺は、期待する」
竹下くんの目は真っ直ぐだった。
「していいって言った」
「うん」
「だから待つ」
「うん」
「でも、ずっとじゃない」
胸が痛む。
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
「春斗くんも待ってる」
「うん」
「俺も待ってる」
「うん」
「久保さんが二人を好きなままでも、今は待つ」
「うん」
「でも、今日手を繋いだことを、なかったことにしないで」
胸へ落ちる。
「しない」
「春斗くんに会ったら、今日の気持ちが全部変わるのは嫌」
「うん」
「俺と手を繋いで嬉しかったこと、覚えてて」
「覚えてる」
「約束?」
「うん」
私は竹下くんの手を。
自分から少しだけ強く握った。
竹下くんの目が少し見開かれる。
「忘れない」
私は言う。
「今日、竹下くんと手を繋ぎたいって思った」
「うん」
「繋げて嬉しかった」
「うん」
「それは本当」
竹下くんが少し笑う。
「ありがとう」
二人で。
また歩き始める。
◇
午前十一時四十分。
帰りの時間が近づく。
私たちは園内を出て、バス停へ向かっていた。
手は。
まだ繋いでいる。
途中で何度か離れた。
飲み物を買うとき。
スマートフォンで写真を撮るとき。
道を確認するとき。
でも。
歩き始めると。
どちらからともなく。
また手を重ねた。
最初の一回だけではない。
二回。
三回。
それが。
少しずつ自然になっていった。
「写真」
竹下くんが言う。
「何?」
「一緒に撮ってない」
「撮る?」
「うん」
「誰かに頼む?」
「自分で」
竹下くんがスマートフォンを出す。
二人で並ぶ。
画面の中。
近い。
竹下くんの肩。
私の髪。
「もっと寄って」
「竹下くんが」
「もう寄ってる」
「私も」
少しだけ。
身体を寄せる。
肩が触れる。
竹下くんが撮影ボタンを押す。
一枚。
「見せて」
「うん」
二人で画面を見る。
私。
思ったより笑っている。
竹下くんも。
学校ではあまり見ない、柔らかい顔。
「送って」
「うん」
「誰かに見せる?」
竹下くんが聞く。
「愛ちゃんには」
「春斗くんは?」
胸が少し固くなる。
「見せない」
「うん」
「見せられない」
「どうして?」
「春斗が見たくないから」
「それだけ?」
「私も」
言葉を選ぶ。
「今日の写真を、春斗の反応で見たくない」
「どういう意味?」
「春斗が傷つく顔を想像したら」
胸が痛む。
「今日楽しかったことまで、悪いことみたいに思うから」
竹下くんは黙る。
「今日は竹下くんと楽しかった」
「うん」
「手も繋げて嬉しかった」
「うん」
「この写真も、嬉しい」
「うん」
「だから、春斗に見せて何を思うか確かめるものにしたくない」
竹下くんの表情が少し柔らかくなる。
「それならいい」
「うん」
「俺と久保さんの写真」
「うん」
「大事にして」
「する」
写真が送られてくる。
私は保存する。
画面の中。
竹下くんと私。
手は写っていない。
でも。
二人の距離が。
以前より近い。
◇
水戸駅へ戻る。
時刻は十二時十四分。
竹下くんは、ここから急いで部活へ向かわなければならない。
「間に合う?」
「たぶん」
「たぶん?」
「少し急ぐ」
「ごめん」
「久保さんが謝ることじゃない」
「長くいたから」
「俺がいたかった」
駅前。
朝より人が増えている。
私たちは、改札へ向かう少し手前で立ち止まった。
手は。
まだ繋いでいる。
「そろそろ」
竹下くんが言う。
「うん」
「離す?」
聞かれる。
私は繋がった手を見る。
離れなければ。
竹下くんは部活へ行けない。
「うん」
答える。
でも。
指を離すのに。
少し時間がかかった。
竹下くんも。
すぐには離さなかった。
ゆっくり。
指がほどける。
手のひらが離れる。
そこだけ。
少し冷たくなる。
「寂しい」
竹下くんが言う。
私も。
同じことを思った。
「うん」
「また繋いでいい?」
次。
「うん」
私は答えた。
竹下くんの目が少し大きくなる。
「本当に?」
「今日嫌じゃなかった」
「嬉しかった?」
「うん」
「じゃあ次も」
「うん」
次。
また会う。
また手を繋ぐ。
それを。
私は約束した。
「久保さん」
「何?」
「好き」
真っ直ぐ言われる。
胸が熱くなる。
私は。
逃げない。
「私も好き」
答える。
竹下くんが少し笑う。
「彼女になってほしい」
もう一度。
「考える」
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
「今日のことも」
「うん」
「春斗のことも」
竹下くんの笑顔が少しだけ曇る。
でも。
頷いた。
「分かってる」
「ごめん」
「謝らないで」
「うん」
「でも」
竹下くんは少し息を吸う。
「次までに少しは、俺の方へ来て」
胸が痛む。
でも。
その言葉を。
重いとは思わなかった。
竹下くんは。
今日。
私へたくさん近づいた。
私も。
手を繋いだ。
好きと言った。
次も繋ぐと約束した。
「うん」
私は答える。
「考える」
「待ってる」
「うん」
「でも今日は」
「何?」
「楽しかった?」
「うん」
「本当に?」
「すごく」
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「俺も」
「部活、頑張って」
「今から現実」
「遅刻しないで」
「走る」
「転ばないで」
「久保さんじゃないから」
「ひどい」
最後に。
二人で笑う。
「じゃあ」
「うん」
「また明日」
「学校で」
「うん」
竹下くんは少し名残惜しそうに歩き出す。
数歩進み。
振り返る。
私も。
その場に立ったまま。
手を振る。
竹下くんも手を上げる。
そして。
今度こそ。
人の流れの中へ消えていった。
◇
午後十二時二十六分。
一人になった私は。
駅の中を歩く。
右手。
さっきまで。
竹下くんと繋いでいた。
まだ。
体温が残っている気がする。
私は手を軽く握る。
嬉しかった。
竹下くんと。
手を繋いだ。
思っていたより。
自然だった。
緊張した。
でも。
嫌ではなかった。
離したとき。
少し寂しかった。
次も繋ぎたいと思った。
これは。
確かな恋。
そう思える。
私は電車へ乗る。
空いている座席へ座る。
スマートフォンを出す。
通知はない。
春斗からも。
約束通り。
何も来ていない。
竹下くんからも。
今は部活へ向かっている。
私は写真を開く。
二人で撮った写真。
笑っている。
胸が温かくなる。
『今日はありがとう』
竹下くんへ送ろうとして。
部活中かもしれないと思い。
少し迷う。
でも。
送るだけならいい。
『今日はありがとう。楽しかった』
送る。
すぐには既読がつかない。
当然。
私は画面を閉じる。
春斗とのトーク画面。
朝。
『三十六度四分。喉もほぼ大丈夫』
『よかった』
『今日はちゃんと休んで』
『うん』
それだけ。
終わったら。
『楽しかった』
だけ送る。
約束。
私は指を動かす。
『終わった。楽しかったよ』
送信。
すぐに既読がついた。
春斗は。
スマートフォンを見ていた。
『そっか』
短い返事。
胸が少し痛む。
『熱は?』
聞きたくなる。
でも。
今。
春斗との会話を続ければ。
竹下くんとの余韻が消えるわけではない。
それでも。
すぐに春斗へ戻るような気がした。
私は少し待つ。
春斗から。
『三十六度三分』
届いた。
胸が安心する。
『よかった』
『うん』
『手』
来た。
心臓が止まりそうになる。
春斗は。
聞かないと言った。
でも。
聞いた。
『聞かないって言った』
送る。
既読。
『分かってる』
『じゃあ何で』
『顔見えないから』
『うん』
『今なら聞いても分からないと思った』
春斗の言葉。
苦しい。
『答えたくない』
私は送る。
『うん』
『竹下くんとのことだから』
『うん』
『嘘はつかない』
既読。
少し長い沈黙。
『分かった』
返ってくる。
『明日』
『五分早い』
『うん』
『会う』
『うん』
『顔見たら分かるかも』
胸が痛む。
『聞かない?』
『たぶん』
『たぶんなんだ』
『無理かも』
春斗は正直。
『答えないかも』
『うん』
『怒る?』
『怒る』
『でも?』
『それでいい』
昨日まで。
何度も交わした言葉。
『今日は休んで』
『うん』
『月曜』
『会いたい』
春斗から来る。
胸が温かくなる。
『私も』
返す。
指が止まる。
竹下くんと手を繋いだ。
離したとき寂しかった。
次も繋ぐと約束した。
それでも。
明日。
春斗へ会いたい。
この気持ちは。
何なのだろう。
『それ、今も同じ意味?』
春斗が聞く。
私は画面を見る。
春斗は。
好きな人へ会いたい。
私は。
今日。
好きな人と手を繋いだあと。
それでも春斗へ会いたい。
同じではない。
でも。
ただの習慣より。
ずっと強い。
『明日会いたいって意味は同じ』
送る。
少しして。
『分かった』
返ってくる。
『寝る』
『昼だよ』
『休む』
『うん』
『おやすみ』
『おやすみ』
会話を閉じる。
窓の外。
街が流れていく。
私は右手を見る。
竹下くんの体温は。
もうほとんど残っていない。
でも。
手を繋いだ感覚は。
はっきり覚えている。
それなのに。
春斗から返事が来ただけで。
胸が安心した。
◇
午後一時四十六分。
自宅へ戻る。
母が居間にいた。
「おかえり」
「ただいま」
「早かったね」
「竹下くん、部活あるから」
「楽しかった?」
「うん」
「服、褒めてもらえた?」
「可愛いって」
「よかったね」
「うん」
母は私の顔を見る。
「手は?」
すぐに聞かれる。
私は右手を少し見る。
「繋いだ」
「そう」
「うん」
「どうだった?」
「温かかった」
「それだけ?」
「緊張した」
「うん」
「嬉しかった」
「うん」
「離したとき寂しかった」
母の表情が少し柔らかくなる。
「なら、良かったね」
「うん」
「答えは出た?」
胸が少し重くなる。
「出なかった」
「そう」
「もっと分かると思った」
「何が?」
「竹下くんと手を繋いだら」
私は靴を脱ぎ、居間へ入る。
「竹下くんが一番って思えるとか」
「思えなかった?」
「竹下くんを好きって思った」
「うん」
「次も繋ぎたい」
「うん」
「彼女になりたい気持ちも、前より大きくなった」
「うん」
「でも」
言葉が止まる。
「春斗から連絡来て」
「うん」
「安心した」
「それが嫌?」
「分からない」
「竹下くんとの恋が嘘になった気がする?」
私は少し考える。
「嘘じゃない」
「うん」
「今日、竹下くんと手を繋ぎたかった」
「うん」
「嬉しかった」
「うん」
「でも、春斗にも会いたい」
「うん」
「思ったより、答えに近づかなかった」
母は少しだけ笑う。
「一回手を繋いだだけで、全部決まる方が珍しいよ」
「でも」
「真理は、手を繋ぐことを試験みたいにしてた?」
胸へ刺さる。
「少し」
「竹下くんと繋いで、春斗より好きか確かめようとした?」
「比べないようにした」
「うん」
「でも、どこかで答えが出ると思ってた」
「そう」
「駄目?」
「駄目じゃないよ」
母は静かに言う。
「でも、今日分かったことはあるでしょう」
「何?」
「竹下くんと手を繋ぎたいと思った」
「うん」
「繋げて嬉しかった」
「うん」
「次も繋ぎたい」
「うん」
「それだけでも、大きいよ」
胸へ落ちる。
「春斗くんへの気持ちが消えなかったからって、竹下くんへの気持ちまで小さくしなくていい」
「うん」
「逆も同じ」
「うん」
「一つ進んだから、もう一つがなくなるわけじゃない」
「じゃあ、どうやって決めるの?」
「積み重ねるしかないね」
「時間かかる」
「二人が待てる間に決めないとね」
胸が重くなる。
春斗も。
竹下くんも。
ずっとは待たない。
今日。
竹下くんははっきり言った。
今日手を繋いだことを、なかったことにしないで。
次までに。
少しは自分の方へ来てほしい。
「竹下くん、彼女になってほしいって言った」
「告白された?」
「まだ答えなくていいって」
「うん」
「でも待つって」
「うん」
「ずっとじゃないって」
「そうだね」
「春斗も同じ」
「うん」
「私、遅すぎる?」
母は少し考える。
「遅いかもしれない」
誤魔化さない。
「でも、早く決めて間違えるよりはいい」
「うん」
「ただ」
「何?」
「迷っている間にも、二人との関係は進んでいることを忘れないこと」
今日。
竹下くんと手を繋いだ。
好きと言った。
次も繋ぐと約束した。
もう。
ただ迷っているだけではない。
竹下くんとの恋は。
前へ進んでいる。
◇
午後三時七分。
竹下くんから返信が来る。
『今休憩』
『部活大丈夫?』
『少し遅れた』
『ごめん』
『俺が長くいたかったから』
『怒られた?』
『少し』
『大丈夫?』
『大丈夫』
少しして。
『今日』
『うん』
『手繋げて嬉しかった』
胸が温かくなる。
『私も』
『本当?』
『うん』
『次も?』
『繋ぎたい』
送る。
既読。
少し長い沈黙。
『久保さん』
『何?』
『今かなり嬉しい』
私も。
画面を見ながら笑う。
『でも』
竹下くんから続く。
『彼女になることも考えて』
胸が少し重くなる。
『うん』
『今日手繋いだのに、何も変わらないのは嫌』
『うん』
『急かしてる?』
『少し』
『ごめん』
『謝らなくていい』
『でも』
『竹下くんがそう思うのは分かる』
『うん』
『今日嬉しかったこと、忘れない』
『うん』
『春斗のこと考えても?』
質問。
正直に答える。
『忘れない』
『本当に?』
『今日のことは、竹下くんと私のことだから』
既読。
『ありがとう』
『うん』
『次いつ会える?』
『学校以外?』
『うん』
『部活は?』
『来週は午後なら空くかも』
『じゃあまた考える』
『うん』
『俺から誘っていい?』
『うん』
『よかった』
次。
竹下くんは。
もう次の時間を考えている。
私も。
嫌ではない。
むしろ。
また会いたい。
『私もまた会いたい』
送る。
既読。
『それ、期待していい?』
『うん』
今度は迷わない。
竹下くんとの次。
楽しみにしていい。
◇
夕方。
私は愛ちゃんへ写真を送った。
二人で撮った一枚。
すぐに電話がかかってくる。
『近い』
「そう?」
『近いよ』
「肩触れてる」
『見れば分かる』
「手は写ってない」
『繋いだ?』
「うん」
通話の向こうが少し静かになる。
『どうだった?』
「嬉しかった」
『うん』
「次も繋ぎたい」
『うん』
「竹下くんを好きって思った」
『うん』
「でも」
『春くん?』
「うん」
『連絡した?』
「終わったって」
『何て?』
「楽しかっただけ」
『春くんは?』
「手って聞いた」
『聞かないって言ってたのに』
「うん」
『答えた?』
「答えなかった」
『そっか』
「明日会いたいって言われた」
『うん』
「私も会いたいって言った」
『うん』
「何で、竹下くんと手繋げたのに」
声が少し震える。
「春斗への気持ち、全然小さくならないの?」
愛ちゃんはすぐに答えなかった。
『真理』
「何」
『手を繋ぐのは、消しゴムじゃないよ』
「消しゴム?」
『竹下くんと手を繋いだから、春くんへの気持ちが消えるわけじゃない』
「うん」
『竹下くんへの気持ちが本物なら、春くんへの気持ちは嘘になるわけでもない』
「うん」
『今日分かったのは、竹下くんとの恋がちゃんと進められるってこと』
「うん」
『春くんへの気持ちが残ってることも、前から分かってた』
「うん」
『なら、答えが出なかったんじゃなくて』
「何?」
『二つとも本当だって、もっとはっきりしたんじゃない』
胸へ落ちる。
「余計難しくなった」
『そうだね』
「愛ちゃん」
『何?』
「どっち選べばいい?」
『それは言わない』
「分かってる」
『でも』
「何?」
『今日、手を繋いでる間、春くんのこと考えた?』
質問。
私は今日を思い返す。
最初に手が触れた瞬間。
竹下くんの指。
温かさ。
歩幅。
緊張。
嬉しいと伝えた。
その時間。
「考えてない」
『本当に?』
「うん」
『じゃあ、竹下くんとの時間にいられた』
「うん」
『それは大事』
「でも、終わったら春斗に連絡した」
『約束してたからでしょ』
「うん」
『返信来て安心した』
「うん」
『それも本当』
「うん」
『今日は、両方を比べなくても別々に感じられたんじゃない』
私は少し考える。
竹下くんと手を繋いだ嬉しさ。
春斗から返信が来た安心。
同じではない。
どちらかで。
もう一方を測ってはいなかった。
「少しだけ」
『それなら進歩だよ』
「答え出てないのに?」
『答えだけが進歩じゃない』
愛ちゃんの声は静かだった。
『ただ、竹下くんへはもうかなり期待を渡した』
「うん」
『手を繋いだ』
「うん」
『次も繋ぐ』
「うん」
『好きって言った』
「うん」
『また会いたいって』
「言った」
『なら、その重さはちゃんと持って』
「うん」
『春くんへ会った瞬間、全部分からないに戻らないで』
竹下くんにも言われた。
今日のことを。
なかったことにしないで。
「分かった」
『月曜』
「うん」
『春くんに会うんでしょ』
「うん」
『何か聞かれても、竹下くんとの今日を否定しない』
「うん」
『でも、細かく話さない』
「うん」
『できる?』
「やる」
『真理の場合、それが一番難しいから』
「分かってる」
二人で少し笑う。
◇
夜、午後十時九分。
私はノートを開いた。
左。
竹下くん。
右。
春斗。
今日は。
左側へ書くことが多い。
竹下くん。
私の服を可愛いと言ってくれた。
最初に見せてもらえたことが嬉しいと言った。
偕楽園をゆっくり歩いた。
好きと言われた。
私も好きと答えた。
手を繋いでもいいか聞かれた。
私は、繋ぎたいと答えた。
手は温かく、少し硬かった。
歩幅を合わせてくれた。
手を繋いで嬉しかった。
離したとき、寂しかった。
次も繋ぎたいと答えた。
彼女になってほしいと言われた。
すぐではなくていいけれど、今日のことをなかったことにしないでと言われた。
また会いたいと思った。
次も誘っていいと言った。
右側。
春斗。
熱は下がった。
デート中は連絡を送らなかった。
終わったあと、「楽しかった」とだけ伝えた。
春斗は手を繋いだか聞いた。
私は答えなかった。
月曜に会いたいと言われた。
私も会いたいと答えた。
書き終える。
今日。
竹下くんと。
恋人のように手を繋いだ。
まだ恋人ではない。
でも。
ただ好きな人を遠くから見ていた頃とは、もう違う。
竹下くんの手を。
私が選んだ。
自分から差し出した。
次も繋ぎたいと言った。
その重さ。
忘れてはいけない。
同時に。
春斗へ会いたい気持ちも消えなかった。
それが。
少し怖い。
竹下くんを好きなのに。
春斗も大事。
春斗が好きなのかもしれない。
でも。
今日の私は。
竹下くんと手を繋いでいる間。
春斗を考えなかった。
竹下くんだけを見ていた。
それも。
大切な事実。
スマートフォンが震える。
竹下くん。
『部活終わった』
『お疲れさま』
『今日はありがとう』
『私もありがとう』
『写真見てる』
胸が温かくなる。
『私も見た』
『久保さん笑ってる』
『竹下くんも』
『手写ってない』
『写さなくていい』
『次は写す?』
胸が鳴る。
『考える』
『嫌?』
『恥ずかしい』
『じゃあ二人だけで見る』
『誰にも見せない?』
『見せない』
『なら少し』
『期待する』
『していい』
竹下くんへ。
また期待を渡す。
でも。
これは。
私も望んでいる期待。
『彼女』
短く来る。
胸が重くなる。
『考える』
『うん』
『待って』
『待つ』
『ずっとじゃない?』
『うん』
正直。
『分かってる』
『でも今日で前より近くなったと思ってる』
『私も』
『本当?』
『うん』
『嬉しい』
『私も』
同じ意味。
今日。
竹下くんと近づけたことが嬉しい。
『おやすみ』
『おやすみ』
会話を閉じる。
少しして。
春斗から通知。
『起きてる?』
『うん』
『熱三十六度二分』
『もう大丈夫そう』
『うん』
『明日』
『五分早い』
『うん』
短い会話。
でも。
胸が少し緊張する。
『真理』
『何?』
『今日』
止まる。
『聞かないって約束』
『分かってる』
『うん』
『でも一つだけ』
『何?』
『楽しかった?』
答えは。
決まっている。
『楽しかった』
送る。
既読。
長い沈黙。
『そっか』
『うん』
『俺に会いたい?』
胸が鳴る。
『会いたい』
返す。
『楽しかったのに?』
『うん』
『何で』
聞かれる。
答えられない。
でも。
誤魔化したくない。
『春斗だから』
送る。
既読。
返事が来ない。
『それ、期待する』
『分かってる』
『竹下と何しても』
『うん』
『俺に会いたい?』
『うん』
『ずるい』
胸が痛む。
『うん』
『でも』
春斗から続く。
『明日会う』
『うん』
『五分』
『うん』
『俺も会いたい』
胸が温かくなる。
『ありがとう』
『顔見たら聞くかも』
『答えないかも』
『うん』
『怒る?』
『怒る』
『でも?』
『それでいい』
何度も。
同じ場所を確認する。
線を引いたまま。
隣へいる。
『春斗』
『何』
『今日楽しかったこと、否定しない』
送る。
既読。
長い沈黙。
『うん』
『竹下くんを好き』
指が震える。
それでも。
送る。
『うん』
『でも明日、春斗に会いたい』
既読。
しばらく返事がない。
『分かった』
短い。
『嫌?』
『嫌』
『うん』
『でも嘘よりいい』
竹下くんも。
春斗も。
同じことを言う。
『おやすみ』
春斗から。
『おやすみ』
送る。
会話が終わる。
私はノートの一番下へ。
今日の言葉を書く。
『手を繋げば答えが出ると思っていた。でも、分かったのは、竹下くんとの恋が本物だということと、それでも春斗へ会いたい気持ちが消えないことだった。』
ペンを置く。
右手を見る。
今日。
竹下くんと繋いだ手。
明日。
春斗には触れない。
五分早く。
隣へいるだけ。
でも。
きっと。
顔を見た瞬間。
私は安心する。
そのことを。
もう誤魔化せない。
好きな人と手を繋げた。
嬉しかった。
次も繋ぎたい。
彼女になる未来も。
前よりずっと近く想像できる。
それなのに。
答えは。
思っていたほど近づかなかった。
むしろ。
二つの気持ちが。
どちらも嘘ではないと。
前よりはっきり分かってしまった。
明日の朝。
春斗と会う。
今日の私を。
春斗は。
どんな顔で見るのだろう。
そして。
私は。
春斗を見た瞬間。
どんな顔をしてしまうのだろう。
その不安を抱えたまま。
私は、今日竹下くんと撮った写真をもう一度だけ見て。
スマートフォンを伏せた。




