第14話 好きな人との次のデートが明後日なのに、幼馴染との五分がなくなる方が怖くなりました
金曜日の朝、午前五時三十分。
目覚ましの音で目を覚ました私は、布団の中で一度だけ目を閉じ直した。
今日は、起きるのが少し遅かった。
昨日までは目覚ましより先に目が覚めていたのに、昨夜はノートを書き終えたあとも竹下くんとの日曜日を考え、春斗との五分を考え、いつの間にか日付が変わる直前まで眠れなかった。
竹下くんとの二回目のデートまで、あと二日。
水戸駅北口に午前九時半。
そこからバスで偕楽園へ向かう。
午後から竹下くんの部活動があるため、十二時過ぎには水戸駅へ戻る。
映画の日よりも短い。
でも、今度は暗い映画館に座っている時間がない。
歩きながら、ずっと話せる。
手を繋ぐかもしれない。
そのことを考えると、胸の奥がふわりと浮くように軽くなる。
竹下くんは、期待していいかと聞いた。
私は、期待していいと答えた。
まだその場で決めるつもりではいる。
でも。
本当は少しだけ。
もう繋ぎたいと思っている。
別れ際に指先へ触れたときよりも、今は竹下くんを知っている。
人混みが少し苦手なこと。
姉が二人いること。
思っていたより恋愛漫画を読むこと。
中学生の頃、一度告白して振られたこと。
急かして選ばれるより、待ってでも本当の気持ちで選ばれたいと思っていること。
格好いいだけではない。
優しいだけでもない。
嫉妬もする。
嫌なことは嫌だと言う。
それでも私を困らせすぎないように、一度止まってくれる。
私は、そんな竹下くんをもっと好きになっている。
だから。
日曜日が楽しみなのは、本当だった。
私は布団から起き上がり、枕元のスマートフォンを確認する。
春斗から、まだ連絡はない。
昨日の夜は、今日も五分早いと決めた。
『明日の五分は期待していいよ』
『何を』
『一緒にいられること』
『それだけ?』
『今は』
『分かった』
そして。
『春斗』
『何』
『明日の五分は期待していいよ』
『何を』
『一緒にいられること』
何度見ても、同じところで胸が温かくなる。
竹下くんには、前へ進む期待を渡した。
春斗には、朝の五分を大切にする約束を渡した。
同じではない。
私は、そう考えようとしている。
でも。
春斗との五分が一日ずつ増えるたび、その時間は以前よりも特別になっていた。
何も話さない日がある。
本を読む日もある。
恋愛の話をしないまま駅へ着く日もある。
それでも。
五分長く隣にいる。
たったそれだけを、私も春斗も楽しみにしている。
「……今日も起きてるよね」
私は春斗とのトーク画面を開いた。
『起きてる?』
送ろうとして。
指を止める。
五分早くするのは、もう決まっている。
わざわざ確認すれば、急かしているように見えるかもしれない。
私はメッセージを消し、スマートフォンを伏せた。
ただ。
胸の奥には小さな不安が残った。
◇
午前五時三十八分。
玄関を出ると、空には厚い雲が広がっていた。
雨は降っていない。
ただ、遠くの山の上には黒い雲が低く垂れ込め、冷たい風が住宅街を抜けている。庭先の木々が小さく揺れ、枝先の葉が擦れる音が静かな朝へ細く混じっていた。
今日は私の家の送迎当番。
母はすでに車のエンジンをかけている。
「春斗くん、まだ?」
助手席の窓を開けた母が聞く。
「今から迎えに行くんでしょ」
「そうだけど。真理、さっきから道路ばかり見てるから」
「見てない」
「見てるよ」
「……五分早いから」
「今日は何を話すの?」
「何も決めてない」
「それでも早いんだ」
「うん」
母は少しだけ笑った。
「本当に、その五分が好きなのね」
「好きっていうか」
「大事?」
すぐに答えられない。
「たぶん」
「じゃあ、ちゃんと大事にしないとね」
「してるよ」
「真理だけが楽な形にならないように?」
胸へ刺さる。
母は運転席から前を向いたまま、静かに続ける。
「春斗くんは、真理と五分長くいられるだけで嬉しいんでしょう」
「うん」
「でも、その五分へ何を期待していいか、毎回迷っている」
「うん」
「真理も考えているんだろうけど」
「分かってる」
「ならいいよ」
母はそれ以上何も言わなかった。
私は後部座席へ座る。
車が動き出す。
春斗の家までは、いつもならすぐに着く。
でも今日は、道が長く感じた。
角を曲がる。
いつも春斗が立っている門の前。
誰もいない。
「まだ出てないね」
母が言う。
胸がざわつく。
時計を見る。
五分早い時間は、もう過ぎている。
「連絡してみる?」
母が聞く。
「うん」
私はすぐにスマートフォンを出した。
『春斗?』
送る。
既読はつかない。
車を門の前へ寄せる。
一分。
二分。
春斗は出てこない。
「寝坊かな」
「春斗が?」
「することもあるでしょう」
「でも、五分早いって」
声が思ったより不安そうになった。
母がバックミラー越しに私を見る。
「電話する?」
「うん」
すぐに通話ボタンを押す。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
「どうしたんだろ」
胸が落ち着かない。
寝坊。
それだけかもしれない。
でも。
昨日の夜。
春斗は五分を楽しみにしていると言った。
それなのに出てこない。
私が竹下くんとの日曜を進めていることが、やっぱり苦しくなったのだろうか。
五分長くいるだけでは耐えられなくなったのだろうか。
もう、早く会うのをやめたいと思ったのだろうか。
「真理」
母が呼ぶ。
「何」
「顔、真っ青」
「そんなことない」
「寝坊だと思うよ」
「でも」
「春斗くんが何も言わず約束をやめる子?」
「違う」
「なら、今は待ちなさい」
正しい。
でも、胸が苦しい。
もう一度電話をかけようとしたとき。
家の玄関が開いた。
春斗のお母さんが慌てた様子で出てくる。
「ごめんなさい!」
その声に、私はすぐ車のドアを開けた。
「春斗、どうしたんですか?」
「大丈夫よ。昨日、少し熱があったみたいで」
「熱?」
「今朝も下がってなくて。本人、起きて行こうとしてたんだけど、さすがに休ませることにしたの」
胸の奥が冷たくなる。
「何度?」
「三十七度八分。高熱ではないけど、喉も痛いって」
「昨日、何も言ってなかった」
「夜までは平気だったみたい」
春斗のお母さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「連絡しようと思ってたんだけど、春斗が自分でするって言ったまま寝ちゃって」
「寝てるんですか?」
「今は」
私は春斗の家の玄関を見る。
会えない。
今日は、五分がない。
その事実が、思ったより大きかった。
「学校、休むんですよね」
「うん」
「……そうですか」
母が運転席から声をかける。
「真理、電車の時間あるよ」
「うん」
返事をする。
でも、足が動かなかった。
「少しだけ、顔見ちゃ駄目ですか」
口から出る。
春斗のお母さんが少し驚いた顔をする。
「寝てるけど」
「起こさないです」
「でも学校が」
「一分だけ」
自分でも必死すぎると思う。
春斗のお母さんは、私の顔を見たあと、小さく笑った。
「玄関まで呼んでくる?」
「寝かせてください」
「でも」
「大丈夫か確認できたから」
それでも。
家の中に春斗がいる。
熱がある。
今日の五分はない。
そのことが、胸へ重く残る。
「真理ちゃん」
春斗のお母さんが言う。
「あとで起きたら連絡させるね」
「無理させないでください」
「うん」
「水分取らせてください」
「取らせる」
「喉痛いなら」
「真理ちゃん」
少し笑われる。
「私が母親だから大丈夫」
「……すみません」
「心配してくれてありがとう」
私は頭を下げ、車へ戻った。
ドアを閉める。
母が車を動かす。
春斗の家が窓の外へ遠ざかっていく。
私は振り返り続けた。
「心配?」
母が聞く。
「うん」
「熱はそこまで高くないよ」
「分かってる」
「一日休めば良くなるかもしれない」
「うん」
「それでも不安?」
「……五分」
「何?」
「今日、五分早く会うはずだった」
「うん」
「なくなった」
言葉にすると。
自分がどれだけ子どもみたいなことを言っているのか分かる。
春斗は体調が悪い。
五分どころではない。
それなのに。
私はその五分がなくなったことへ、こんなに動揺している。
「真理」
「何」
「五分がなくなって悲しいの?」
「うん」
「春斗くんに会えなくて?」
「うん」
「春斗くんが自分を好きか確認できなくて?」
胸が止まる。
母は前を向いている。
「違う」
すぐに答える。
「本当に?」
「会いたかった」
「好きって言われなくても?」
「うん」
「何も話さなくても?」
「うん」
「竹下くんとの日曜日がなくならなくても?」
「うん」
答えながら。
胸の奥へ一つの感情が落ちる。
春斗に会いたかった。
自分を好きでいてくれるか確認したかったのではない。
石井さんのことを聞きたかったわけでもない。
竹下くんとの日曜を話したかったわけでもない。
ただ。
いつもの朝。
隣にいてほしかった。
「それなら」
母が静かに言う。
「失いたくないからだけじゃないかもしれないね」
私は何も答えられなかった。
◇
岩瀬駅のホーム。
今日は一人だった。
いつものベンチ。
いつもなら右側に春斗が座る。
そこが空いている。
私は左端へ座った。
広い。
たった一人いないだけなのに、ベンチが必要以上に大きく感じる。
スマートフォンを見る。
春斗からの連絡はない。
眠っている。
分かっている。
それでも、何度も画面を確認してしまう。
竹下くんからは、朝のメッセージが届いていた。
『おはよう。日曜、天気まだ晴れ』
いつもなら。
すぐに嬉しくなる。
今日も嬉しい。
でも、その前に。
春斗の熱が気になる。
『おはよう。見た。晴れそうだね』
返す。
すぐに既読がつく。
『朝から確認してた?』
『竹下くんがしてると思って』
『してた』
『やっぱり』
『楽しみだから』
胸が少し温かくなる。
竹下くんとの日曜日。
楽しみ。
それは変わらない。
『私も楽しみ』
送る。
でも。
竹下くんとの会話を続けながら、何度も通知欄を見る。
春斗から来ていないか。
来ない。
『久保さん』
『何?』
『今日、春斗くんと一緒?』
質問。
私は少し迷う。
『春斗、熱で休み』
送る。
竹下くんからの返事は少し遅れた。
『大丈夫?』
『三十七度八分だって』
『心配だね』
『うん』
『朝、会ってない?』
『家までは行ったけど寝てた』
『そっか』
私は画面を見つめる。
竹下くんへ、五分がなくなって悲しいとは言わない。
これは春斗との時間の話。
竹下くんとの日曜へ持ち込まない。
『日曜までには治るといいね』
竹下くんから届く。
少し驚く。
『何で?』
『久保さん、心配したまま来ても楽しめないと思うから』
胸が少し痛む。
竹下くんは分かっている。
私が春斗を気にしていること。
それでも責めずに。
日曜を楽しめるよう、春斗が治ればいいと言う。
『ありがとう』
『うん』
『でも日曜は竹下くんを見る』
送る。
少し間。
『無理しなくていい』
返ってくる。
『無理じゃない』
『春斗くんが治ってれば?』
『うん』
『治ってなくても?』
指が止まる。
春斗が日曜日まで熱を出していたら。
家で寝込んでいたら。
私は竹下くんと偕楽園へ行けるのだろうか。
行きたい。
約束した。
竹下くんも楽しみにしている。
でも。
春斗が苦しんでいたら。
気にならないふりはできない。
『分からない』
正直に返す。
既読。
少し長い沈黙。
『分かった』
『怒った?』
『少し嫌だった』
『ごめん』
『でも嘘つかれるよりいい』
竹下くんも。
春斗と同じような言葉を言う。
『日曜までには治るよ』
続けて届く。
『うん』
『今日は俺のことも少し考えて』
胸が鳴る。
『考える』
『少しじゃなくてもいい』
『欲張り』
『前に言った』
私は少し笑った。
ホームへ電車が入ってくる。
風が吹く。
いつもなら春斗が立ち上がり、私より先に車両へ向かう。
今日は一人。
その寂しさを抱えたまま。
私は竹下くんとのトーク画面を閉じた。
◇
午前七時二十二分。
教室へ入ると、竹下くんはすでに席にいた。
私へ気づく。
いつものように笑おうとしたあと、私の顔を見て少し表情を変えた。
「おはよう」
「おはよう」
「大丈夫?」
「私?」
「春斗くん」
「熱あるけど、たぶん大丈夫」
「そう」
「心配してくれた?」
「するよ」
竹下くんは少し迷ったあと、私の机の横へ立った。
「久保さんも、あんまり考えすぎないで」
「顔に出てる?」
「うん」
「最近みんなそれ言う」
「分かりやすいから」
小野寺くんが近くから会話へ入ってくる。
「春斗って幼馴染の?」
「うん」
「休み?」
「熱」
「久保さん、看病行くの?」
軽い口調。
でも。
竹下くんの表情が僅かに硬くなる。
「行かないよ」
私は答える。
「家近いんでしょ」
「近いけど」
「幼馴染なら普通じゃない?」
「普通じゃない」
少し強く言った。
小野寺くんが驚いた顔をする。
「ごめん」
「ううん」
私は自分の言葉を考える。
以前なら。
春斗が熱を出せば、家へ行っていたかもしれない。
母親同士も知り合い。
子どもの頃なら、プリントを届けたり、様子を見に行ったりした。
でも今は。
春斗は私を好き。
私は竹下くんとのデートを控えている。
簡単に看病へ行くことには、別の意味が生まれる。
「行きたい?」
竹下くんが小さく聞く。
周囲には聞こえない声。
「少し」
正直に答える。
竹下くんの表情が曇る。
「でも行かない」
「どうして?」
「今、私が行ったら春斗は期待する」
「うん」
「私も、近くにいることで安心する」
「うん」
「それが、ただの幼馴染の看病じゃなくなると思う」
竹下くんは黙って聞いている。
「だから行かない」
「俺がいるから?」
「それもある」
私は少し考え、続ける。
「でも、竹下くんがいなくても、今は考えたと思う」
「どうして?」
「春斗の気持ち知ってるから」
竹下くんの表情が少しだけ柔らかくなる。
「そっか」
「でも、プリントは届けたい」
「それは?」
「学校のことだから」
「家には入らない?」
「入らない」
まるで約束を確認するような会話。
竹下くんに許可をもらう必要はない。
でも。
今の私が何を選ぶかを、竹下くんに隠したくなかった。
「久保さん」
「何?」
「俺にそこまで説明しなくてもいいよ」
「嫌だった?」
「違う」
竹下くんは少し笑う。
「ちゃんと考えてくれてるの分かったから」
「うん」
「でも、俺の許可で春斗くんと話すみたいになるのも嫌」
胸へ落ちる。
「俺は久保さんの恋人じゃない」
「まだ」
口から出た。
竹下くんの目が少し見開かれる。
私の顔が熱くなる。
「ごめん」
「今の」
「忘れて」
「無理」
「竹下くん」
「まだ、って言った?」
「言ったけど」
「期待していい?」
胸が強く鳴る。
竹下くんは真っ直ぐ私を見る。
日曜日。
もっと近づけるかもしれない。
その期待。
「……していい」
私は答えた。
竹下くんの表情が、ゆっくりと明るくなる。
「分かった」
「でも、日曜に全部決めるとは言ってない」
「分かってる」
「春斗のことも考える」
「うん」
笑顔が少し曇る。
でも。
竹下くんは頷いた。
「それでも、今の言葉は嬉しい」
「うん」
「今日はそれで頑張れる」
「授業も?」
「全部」
少しだけ笑う。
春斗がいない朝。
竹下くんとの会話で胸は高鳴った。
でも。
その高鳴りの奥で、春斗から連絡が来ていないことを気にしている自分も消えなかった。
◇
一時間目の授業中。
私は何度も時計を見た。
春斗は、まだ寝ているのだろうか。
熱は上がっていないか。
水分は取れているか。
喉はどのくらい痛いのか。
スマートフォンは鞄の中。
授業中だから見られない。
分かっている。
でも、通知が来ている気がして落ち着かない。
「久保」
教師に呼ばれる。
「はい」
「今、どこを読んでいた」
答えられない。
教室の何人かがこちらを見る。
「すみません」
「珍しいな」
教師は少しだけ眉を上げた。
「体調悪いのか」
「大丈夫です」
「なら集中しろ」
「はい」
小さな笑いが教室に広がる。
竹下くんが少し心配そうにこちらを見る。
私は大丈夫という意味で頷いた。
でも。
大丈夫ではなかった。
◇
一時間目が終わる。
教師が教室を出た瞬間、私は鞄からスマートフォンを取り出した。
春斗から。
『起きた』
短いメッセージ。
胸の力が抜ける。
すぐに返信する。
『大丈夫?』
『喉痛い』
『熱は?』
『さっき三十七度五分』
『下がった?』
『少し』
『水飲んだ?』
『母さんよりうるさい』
『飲んだ?』
『飲んだ』
『ご飯は?』
『少し』
『薬は?』
『飲んだ』
返事がある。
それだけで安心する。
『朝、電話した』
『寝てた』
『知ってる』
『ごめん』
『何で謝るの』
『五分』
胸が止まる。
春斗も、今日の五分を覚えていた。
『なくなった』
『熱だから仕方ない』
『うん』
『悲しかった?』
聞かれる。
少し迷う。
でも。
正直に答える。
『悲しかった』
既読。
返事が来ない。
私は続ける。
『春斗が熱なのが一番心配だった』
『うん』
『でも会えなかったのも寂しかった』
既読。
長い沈黙。
『期待する』
届く。
いつもの言葉。
胸が痛む。
『何を?』
『俺に会いたかったって』
『会いたかった』
『竹下との日曜前でも?』
『うん』
『それ、どういう意味』
答えられない。
教室では、周囲の生徒たちが次の授業の準備をしている。
竹下くんがこちらを見ている。
春斗との連絡だと気づいているかもしれない。
私は画面へ視線を戻した。
『分からない』
送る。
春斗からの返事はすぐだった。
『そっか』
短い。
落胆したようにも見える。
『でも』
私は続ける。
『好きでいてくれるか確認したかったわけじゃない』
『うん』
『ただ会いたかった』
既読。
少しして。
『それが一番期待する』
胸が熱くなる。
『ごめん』
『謝るな』
『でも』
『熱あるから考えられない』
『寝て』
『うん』
『プリント届ける』
送る。
すぐに返事。
『来るの?』
『玄関まで』
『入らない?』
『入らない』
『何で』
胸が痛む。
『今入ったら期待させるから』
『もう期待してる』
『分かってる』
『じゃあ同じ』
『違う』
『何が』
『家に入って看病するのは、もっと近い』
既読。
返事が来ない。
『嫌?』
送る。
『嫌』
正直な答え。
『でも分かった』
続けて届く。
『玄関でいい』
『うん』
『会う?』
聞く。
少し長い沈黙。
『会いたい』
胸が大きく鳴る。
『でもうつす』
『玄関の中と外』
『少しだけ』
『うん』
『じゃあ寝る』
『寝て』
『授業集中しろ』
見られていたかのような言葉。
『何で分かるの』
『お前だから』
私は少し笑った。
その笑顔を。
竹下くんが見ていた。
◇
二時間目の休み時間。
竹下くんが私の席へ来る。
「春斗くん?」
「うん」
「熱、少し下がったって」
「よかった」
「うん」
「放課後、行くの?」
「プリントだけ」
「会う?」
「玄関で少し」
竹下くんは黙る。
私も、誤魔化さない。
「嫌?」
聞く。
「嫌」
「うん」
「でも、行くんだ」
「うん」
「どうして?」
「会いたいから」
正直に答える。
竹下くんの表情が明らかに曇った。
胸が痛む。
でも。
嘘はつけない。
「それ」
竹下くんが静かに言う。
「俺に言うんだ」
「聞かれたから」
「言わない方がよかったと思う?」
「分からない」
竹下くんは少し目を伏せる。
「俺、日曜に期待していいって言われた」
「うん」
「恋人になるかもしれないって期待してる」
「うん」
「その二日前に、久保さんは春斗くんに会いたいから家へ行く」
「玄関まで」
「距離の話じゃない」
胸へ刺さる。
竹下くんも、春斗と同じように線を引こうとしている。
「俺が熱出したら来る?」
聞かれる。
すぐには答えられない。
「学校のプリントなら」
「会いたいと思う?」
考える。
竹下くんが熱を出した。
学校へ来ない。
心配する。
会いたいと思う。
でも。
今朝、春斗がいないと分かったときの、胸の冷たさ。
あれと同じかは分からない。
「思う」
「春斗くんと同じくらい?」
「……分からない」
竹下くんが小さく息を吐く。
「正直だね」
「ごめん」
「謝られると、もっときつい」
「じゃあ何て言えば」
「今は何も言わなくていい」
竹下くんは少し離れようとする。
私は反射的に袖を掴みかけた。
でも。
触れない。
手を止める。
「竹下くん」
呼ぶ。
「何?」
「日曜、行きたい」
竹下くんは振り返る。
「春斗くんが熱でも?」
「日曜まで治ってほしい」
「治ってなかったら?」
「……行きたい」
今度は答える。
少し迷った。
でも、言った。
「約束したからだけじゃない」
「うん」
「竹下くんと行きたい」
「うん」
「今日春斗に会いたいのも本当」
「うん」
「でも、日曜に竹下くんと歩きたいのも本当」
竹下くんは黙って聞いている。
「どっちも本当って、また同じこと言ってる」
「分かってる」
「俺は、それがずっと続くのは無理」
「うん」
「日曜に手を繋いでも」
「うん」
「久保さんが春斗くんの方ばかり見てたら、俺は嫌になる」
「うん」
「たぶん、待てなくなる」
胸が痛む。
竹下くんも。
ずっと待つわけではない。
「分かった」
「本当に?」
「分からないままだけど」
「うん」
「日曜は竹下くんを見る」
「うん」
「今日、春斗に会うことを隠さない」
「うん」
「どっちも誤魔化さない」
竹下くんは少しだけ苦しそうに笑った。
「それ、俺にとって良いのか分からない」
「私も」
「でも、嘘よりはいい」
春斗と同じ。
竹下くんも。
私の正直さに傷つきながら、それでも嘘よりはいいと言う。
「日曜」
竹下くんが言う。
「来て」
「うん」
「俺も、今日のこと引きずらないようにする」
「無理しないで」
「無理しないと少し無理」
「どっち」
「久保さんに言われたくない」
少しだけ。
二人で笑う。
でも。
笑いの奥には、消えない痛みが残っていた。
◇
昼休み。
愛ちゃんと食堂へ向かう。
竹下くんは部活の友人たちと食べるらしい。
いつもなら少し残念に思う。
今日は、少しだけ安心した自分がいた。
さっきの会話のあと、二人で食べれば何を話せばいいか分からなかった。
「竹下くんと何かあった?」
愛ちゃんがすぐに気づく。
「春斗の家にプリント届けるって言った」
「うん」
「会いたいからって」
「竹下くんに?」
「うん」
「正直だね」
「嫌って言われた」
「そうだろうね」
「日曜に期待していいって言ったのに、その二日前に春斗に会いたいって」
「うん」
「私、ひどい?」
愛ちゃんはすぐに答えなかった。
階段を下りる。
昼休みの廊下は混んでおり、前を歩く生徒たちが食堂や購買へ向かっている。笑い声や足音が反響し、二人の会話も少し声を近づけなければ聞こえない。
「ひどい部分はあると思う」
愛ちゃんが言う。
「うん」
「でも、春くんが休んで寂しかったのも本当なんでしょう」
「うん」
「竹下くんとの日曜に行きたいのも?」
「うん」
「なら、今はどっちも本当」
「またそれ」
「ただ」
愛ちゃんが続ける。
「本当だから、何をしてもいいわけじゃない」
「うん」
「春くんに会うのは、何のため?」
「会いたいから」
「看病したい?」
「したいけど、しない」
「どうして?」
「期待させるから」
「じゃあ玄関で少し会う」
「うん」
「それで真理は何を得たい?」
質問。
すぐに答えられない。
「安心したい」
「春くんが大丈夫だって?」
「うん」
「自分を好きだって?」
「違う」
すぐに答える。
「春斗が元気か見たい」
「それなら」
愛ちゃんが私を見る。
「少し会って帰る。特別なことはしない。それでいいんじゃない」
「竹下くんには嫌って言われた」
「嫌でも、真理が決めること」
「でも」
「竹下くんの嫌を軽く扱うのは駄目。でも、竹下くんが嫌だから春くんを心配しちゃ駄目、でもない」
「難しい」
「人の気持ちは、どっちか一人に決めるまで存在しちゃいけないわけじゃないから」
「うん」
「ただ、二人とも真理のためだけに待ってる人じゃない」
「分かってる」
「今日のことが、竹下くんの気持ちを離すかもしれない」
胸が痛む。
「嫌」
「それでも会う?」
聞かれる。
私は少し考える。
竹下くんが嫌がる。
それで、日曜の距離が遠くなるかもしれない。
手を繋げなくなるかもしれない。
それでも。
「会う」
答える。
「どうして?」
「春斗に会いたいから」
口にすると。
胸の中で何かがはっきりした。
竹下くんを失いたくない。
でも。
その不安だけで、春斗に会いたい気持ちを消すことはできない。
「そっか」
愛ちゃんは静かに頷いた。
「じゃあ、それが今の真理の答えの一つなんだと思う」
「春斗を選ぶってこと?」
「そこまでは言ってない」
「じゃあ」
「竹下くんに嫌われたくないからだけで、自分の気持ちを曲げられなかったってこと」
胸へ落ちる。
私は。
春斗に会いたい。
それは。
竹下くんとの日曜より大切という意味ではない。
でも、竹下くんに嫌がられても消せない感情だった。
◇
放課後。
担任から春斗の分のプリントを受け取る。
連絡事項。
課題。
来週提出の小テスト直し。
透明なファイルへまとめる。
「久保くんの?」
クラスの女子が聞く。
「うん」
「幼馴染だから届けるんだ」
「家近いから」
「いいなあ。私も休んだら誰か届けてほしい」
軽い言葉。
以前なら、私も笑っていた。
今は。
春斗へ届けることが、ただの幼馴染の役割ではないと分かっている。
教室を出る前。
竹下くんの席を見る。
部活へ向かう準備をしていた。
目が合う。
竹下くんは少し迷ったあと、こちらへ来る。
「今から?」
「うん」
「春斗くんの家」
「うん」
「そのあと連絡して」
「何で?」
「ちゃんと帰ったか」
「心配?」
「……少し」
意外だった。
「嫌なのに?」
「嫌だから気になる」
春斗と同じ。
聞きたくない。
でも知らないのも嫌。
「細かいことは言わない」
「うん」
「会ったかだけ?」
「それと、何分いたか」
「時間?」
「長かったら嫌」
正直な言葉。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「久保さん」
「何?」
「俺、嫌って言っても、行くなとは言いたくない」
「うん」
「でも、平気なふりもできない」
「うん」
「だから、帰ったら教えて」
「分かった」
竹下くんは頷く。
「日曜」
「うん」
「来る?」
「行く」
「絶対?」
「熱が上がっても?」
春斗の。
聞かれる。
私は一度息を吸う。
「行く」
答える。
「春斗が入院するようなことなら別だけど」
「それは俺も行けって言わない」
「うん」
「普通の熱なら?」
「日曜は竹下くんと行く」
竹下くんの表情が少しだけ緩む。
「分かった」
「楽しみにしてる」
「俺も」
少しだけ。
二人の間の空気が戻る。
「部活頑張って」
「うん」
竹下くんは教室を出る。
私はその背中を見送ったあと。
春斗のプリントが入ったファイルを、両手で抱えた。
◇
今日は一人で帰る。
駅へ向かう道。
電車。
岩瀬駅から家まで。
いつも隣にいる春斗がいない。
一日中、何度も感じた空白が、帰り道ではさらに大きくなる。
春斗は家にいる。
これから会える。
それでも。
毎日一緒に帰ることが、どれだけ身体へ染みついていたのか分かった。
午後五時二十分。
私は一度自宅へ戻り、制服のまま春斗の家へ向かった。
母には、プリントを届けてくると伝えた。
「家には入らないの?」
母が聞く。
「入らない」
「春斗くんのお母さんは、上がってって言うと思うよ」
「断る」
「どうして?」
「今は、簡単に看病したら駄目だから」
母は少し驚いたあと。
「そう」
とだけ言った。
「でも顔は見る」
「うん」
「一分」
「本当に?」
「……五分以内」
「朝の五分と同じね」
母が少し笑う。
「違う」
「何が?」
「今日は、熱あるから」
「そう」
でも。
五分。
その言葉へ、胸が少し温かくなった。
◇
春斗の家のインターホンを押す。
すぐに、春斗のお母さんが出てきた。
「真理ちゃん、ありがとう」
「これ、学校のプリントです」
「わざわざごめんね」
「近いので」
「上がる?」
予想通り。
私は少しだけ迷う。
「玄関で大丈夫です」
「春斗、起きてるよ」
「会ってもいいですか」
「もちろん」
春斗のお母さんが家の奥へ声をかける。
「春斗、真理ちゃん来たよ」
少しして。
ゆっくりした足音。
廊下の奥から、春斗が現れる。
部屋着。
髪は少し乱れている。
マスクをしており、顔色もいつもより白い。
姿を見た瞬間。
胸の奥に張っていたものが少し緩んだ。
「本当に来た」
春斗の声は少し掠れていた。
「プリント」
私はファイルを見せる。
「それだけ?」
聞かれる。
胸が鳴る。
「顔も見たかった」
正直に答える。
春斗の目が少し見開かれる。
「期待する」
「分かってる」
「竹下に言った?」
「行くって」
「嫌がった?」
「うん」
「それでも来た」
「うん」
春斗は黙る。
玄関の中。
私と春斗の間には、開いたドアの境目がある。
私は外。
春斗は中。
近い。
でも。
入らない。
「熱は?」
「三十七度四分」
「まだある」
「少し」
「喉」
「痛い」
「ご飯食べた?」
「昼は」
「夜も食べて」
「母さんみたい」
「みんな言う」
「朝、悲しかった?」
春斗が聞く。
「うん」
「五分なくて」
「うん」
「俺がいなくて?」
「うん」
もう誤魔化さない。
「春斗」
「何」
「今日、駅のベンチ広かった」
春斗の目が少し揺れる。
「いつもと同じだろ」
「春斗いなかったから」
「うん」
「電車も」
「うん」
「帰りも、一人だった」
「うん」
「寂しかった」
言う。
春斗は何も答えない。
マスクで口元は見えない。
でも、目が少し苦しそうだった。
「真理」
「何」
「俺を選ぶ?」
突然の質問。
胸が止まる。
「今?」
「今」
「分からない」
春斗の目が閉じられる。
「そっか」
「でも」
「何」
「今日会いたかったのは本当」
「うん」
「竹下くんに嫌って言われても」
「うん」
「会いたかった」
「それ、俺にとっては期待する」
「分かってる」
「でも選べない」
「うん」
「怒る?」
「少し」
「うん」
「でも」
春斗は壁へ少し背を預ける。
熱で立っているのがつらいのかもしれない。
「来てくれて嬉しい」
掠れた声。
胸が温かくなる。
「私も会えて嬉しい」
「同じ意味?」
聞かれる。
昨日。
同じ嬉しいならいい。
そう話した。
今日は。
同じ意味だろうか。
「会えたことが嬉しい」
「俺も」
「それなら同じ」
「うん」
静かな時間。
春斗のお母さんは、いつの間にか奥へ下がっている。
玄関には二人だけ。
「入らないの?」
春斗が聞く。
「入らない」
「少しくらい」
「駄目」
「何で」
「近すぎるから」
「玄関も近い」
「境目ある」
私は足元を見る。
段差。
家の中と外。
たった一段。
でも、今は大きな線。
「俺が熱じゃなかったら?」
「それでも入らない」
「何で」
「春斗の部屋まで行ったら、期待させる」
「もう期待してる」
「もっと」
春斗は少しだけ笑った。
すぐに咳き込む。
「大丈夫?」
反射的に手を伸ばしかける。
でも。
触れない。
春斗の肩へ伸びた手を、途中で止める。
春斗もそれを見る。
「触らないんだ」
「うん」
「熱だから?」
「うつるから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
春斗は少し寂しそうに目を伏せる。
「でも、触ってほしい」
胸が大きく鳴る。
「春斗」
「熱あるから言ってる」
「明日忘れる?」
「忘れない」
「じゃあ駄目」
「何で」
「今、私が触ったら」
「うん」
「私も、もっといたくなる」
口から出た。
春斗の目が大きくなる。
私も驚いた。
「真理」
「何」
「それ」
「忘れて」
「無理」
「熱上がるよ」
「もう上がったかも」
「測って」
「今はいい」
「駄目」
春斗が少し笑う。
私も、少しだけ笑った。
「帰る」
言う。
「もう?」
「五分」
「まだ四分くらい」
「数えてた?」
「少し」
胸が温かくなる。
「あと一分」
私は言う。
「うん」
「何話す?」
「何もなくていい」
いつもの朝と同じ。
何も話さない。
ただ、玄関の内側と外側で向き合う。
春斗は熱がある。
私は日曜日に竹下くんと会う。
二人の間には境目がある。
それでも。
会えて嬉しい。
その気持ちは同じだった。
「一分」
春斗が言う。
「終わった?」
「たぶん」
「じゃあ帰る」
「真理」
「何」
「月曜」
「うん」
「五分早い」
胸が温かくなる。
「熱下がったらね」
「下げる」
「気合いで?」
「下げる」
「無理しないで」
「会いたいから」
真っ直ぐな言葉。
「……うん」
「嬉しい?」
「うん」
「期待する」
「月曜の五分を?」
「それ以上も」
「それ以上は、まだ」
「分かってる」
「でも」
私は春斗を見る。
「月曜、会いたい」
春斗の目が柔らかくなる。
「俺も」
「じゃあ寝て」
「うん」
「薬飲んで」
「飲んだ」
「水」
「飲む」
「ご飯」
「母さんよりうるさい」
「元気そう」
「お前来たから」
「そういうこと言う」
「本当」
胸が鳴る。
でも。
私は家の中へ入らない。
「帰るね」
「うん」
「お大事に」
「日曜」
呼び止められる。
「何?」
「楽しんでこい」
春斗の声。
少し掠れている。
苦しそう。
それでも。
言ってくれる。
「うん」
「でも、細かいことは言うな」
「言わない」
「終わったら」
「楽しかった、だけ」
「うん」
「春斗もちゃんと治して」
「分かった」
私は一歩下がる。
春斗がドアの内側から見ている。
手を振る。
春斗も少しだけ手を上げる。
ドアが閉まる。
たった五分。
でも。
朝に失った五分が、少し違う形で戻ってきたように感じた。
◇
自宅へ戻る途中。
私は竹下くんへメッセージを送る。
『今帰ってる』
すぐに既読。
『何分いた?』
『五分くらい』
『家入った?』
『入ってない』
『会った?』
『玄関で』
少し間。
『そっか』
『嫌?』
『嫌』
正直な返事。
『でも約束守ってくれた』
『うん』
『春斗くん、大丈夫そう?』
『熱はまだあるけど、話せた』
『よかったね』
胸が痛む。
竹下くんは、自分が嫌でも。
私が安心したことを分かってくれる。
『ありがとう』
『日曜は?』
『行く』
『本当に?』
『うん』
『俺を見る?』
約束。
『見る』
送る。
『手』
続けて来る。
胸が鳴る。
『そのとき決める』
『分かってる』
『でも』
少し迷う。
『少し楽しみにしてる』
送る。
既読。
『俺も』
胸が温かくなる。
春斗に会えて安心した。
竹下くんとの日曜も楽しみ。
どちらも、本当。
ただ。
今日。
竹下くんに嫌われるかもしれなくても、私は春斗に会うことを選んだ。
その事実は。
今までよりも重く、胸の中へ残った。
◇
夜、午後十時三分。
私はノートを開く。
左に竹下くん。
右に春斗。
今日のことを書く。
竹下くん。
日曜日まであと二日。
「まだ恋人ではない」と言ったとき、私は「まだ」と答えた。
竹下くんに、恋人になる期待をしていいと伝えた。
春斗の家へ行くことを嫌がられた。
それでも、行くことを隠さなかった。
日曜日は竹下くんを見ると約束した。
手を繋ぐことを、少し楽しみにしている。
春斗。
熱で学校を休んだ。
朝の五分がなくなり、とても寂しかった。
駅のベンチも、電車も、帰り道も広く感じた。
春斗が自分を好きか確認したかったのではない。
ただ会いたかった。
竹下くんに嫌がられても、玄関まで会いに行った。
家には入らなかった。
触れなかった。
五分だけ話した。
月曜日も会いたいと思った。
書き終える。
今日の出来事を並べると。
竹下くんへ進んでいる自分と。
春斗へ戻っているような自分がいる。
違う。
戻っているのではない。
春斗との関係は、もう昔と同じではない。
家へ入らなかった。
触れなかった。
ただの幼馴染なら、そこまで考えなかった。
近づきたい。
でも、近づけば期待させる。
自分も期待する。
だから。
境目で止まった。
それは。
春斗を大事にしたいからなのか。
竹下くんを裏切りたくないからなのか。
自分が悪者になりたくないからなのか。
全部かもしれない。
私はペンを置く。
スマートフォンが震える。
春斗。
『熱三十七度二分』
少し下がった。
『よかった』
『寝る』
『寝て』
『今日』
『何?』
『来てくれてありがとう』
胸が温かくなる。
『うん』
『五分』
『うん』
『嬉しかった』
『私も』
『同じ意味?』
また聞かれる。
『会えたことが嬉しい』
『俺も』
『同じ』
返す。
少しして。
『触ってほしかった』
胸が鳴る。
『駄目』
『分かってる』
『熱下がっても、今は簡単に触らない』
『竹下と繋ぐのに?』
胸が痛む。
『だから』
『分かってる』
『嫌?』
『嫌』
少し間。
『でも今日、止めたのは分かった』
『うん』
『月曜』
『五分』
『うん』
『治す』
『無理しないで』
『会いたい』
胸が熱くなる。
『私も』
送る。
今回は。
同じ意味。
月曜日に会いたい。
その期待なら。
渡していい。
『寝ろ』
『春斗が』
『おやすみ』
『おやすみ』
会話を閉じる。
少しして。
竹下くんから。
『日曜の天気、晴れのまま』
『うん』
『春斗くん、少し下がった?』
驚く。
『三十七度二分だって』
『よかった』
『ありがとう』
『日曜、安心して来られるといいね』
胸が痛む。
優しい。
その優しさへ甘えたくない。
『行くよ』
『うん』
『竹下くんに会いたいから』
送る。
既読。
少し間。
『嬉しい』
『私も楽しみ』
『手』
『まだ聞くの?』
『気になる』
『少し楽しみ』
『俺も』
竹下くんとの「楽しみ」は。
前へ進む意味。
春斗との「会いたい」は。
今ある大切さを確かめる意味。
違う。
でも。
今日。
竹下くんに嫌がられても、春斗へ会いに行った。
その選択を。
私は軽く扱えなかった。
ノートの一番下へ、ゆっくり書く。
『誰かに嫌われたくないからではなく、それでもしたいと思ったことには、自分の本当の気持ちが隠れている。』
文字を見つめる。
日曜日。
私は竹下くんとの約束へ行く。
手を繋ぐかもしれない。
その時間を、本気で楽しみにしている。
月曜日。
春斗と五分早く会いたい。
今日いなかっただけで。
驚くほど寂しかった。
好きな人との次のデートまで、あと二日。
それなのに。
今日の私が一番怖かったのは。
日曜日がなくなることではなく。
春斗との五分が、このまま戻らなくなることだった。
その意味を。
私はまだ。
恋だと決めることができなかった。
でも。
ただの習慣だとは。
もう、言えなくなっていた。




