第13話 好きな人との手を繋ぐ約束が近づくほど、幼馴染との五分が特別になっていきました
木曜日の朝、午前五時二十八分。
目覚ましが鳴るより二分早く目を覚ました私は、まだ薄暗い部屋の中でしばらく天井を見つめていた。
眠い。
身体も重い。
昨日は日曜日の予定を確認し、数学の復習をし、ノートへ考えを書き終えたあとも、なかなか眠れなかった。
竹下くんと手を繋ぐかもしれない。
その想像をすると胸が高鳴る。
春斗と五分長く一緒にいられる。
そのことを考えると、胸の奥が静かに温かくなる。
どちらも嬉しい。
でも、同じ嬉しさではない。
昨日、やっと少しだけ分かった。
竹下くんへ向かう気持ちは、前へ進みたいというものだった。
次に会いたい。
もっと知りたい。
手を繋いでみたい。
恋人になった自分たちを想像してみたい。
春斗へ向かう気持ちは、今まであったものを失いたくないだけではない。
今までと同じでは足りなくなっている。
女の子として見てほしい。
ほかの誰かを好きになってほしくない。
好きと言われたことを忘れたくない。
ただ。
その先へ進む覚悟があるかは、まだ分からない。
私は枕元のスマートフォンを取った。
昨夜の春斗との最後のやり取りが残っている。
『明日』
『何?』
『五分早い?』
今日は春斗から聞いてくれた。
それが嬉しかった。
私だけが求めているのではない。
春斗も、五分長く一緒にいたいと思ってくれている。
でも、それをそのまま恋人になる希望へ変えないでほしいとも伝えた。
春斗は少し嫌だったと言いながら、それでも「前よりいい」と返してくれた。
期待させるだけではなく。
違うことは違うと伝える。
それが誠実なのだと、私は少しずつ学んでいる。
「……今日も何も話さないかもしれないんだよね」
小さく呟く。
それでもいいと言った。
本当に、何もなくてもいい。
春斗と一緒にいる五分が欲しかった。
そのことを認めると、また胸が少し熱くなる。
私は布団から出た。
◇
午前五時三十五分。
玄関を出ると、空には薄い雲が広がっていた。
朝日はまだ雲の向こうにあり、住宅街全体が淡い銀色の光へ包まれている。道路の端には昨夜の風で落ちた小さな葉が集まり、遠くでは新聞配達のバイクが細い音を残して走っていた。
今日は春斗の家の送迎当番。
私は門の前へ立ち、腕時計を見る。
五分早い。
それが、もう昨日ほど不自然に感じない。
少しして、春斗の家の車が見えてくる。
いつもの角を曲がり、私の家の前で停まった。
後部座席のドアを開ける。
「おはようございます」
「おはよう、真理ちゃん」
「おはよう」
「はよ」
春斗は昨日よりも眠そうだった。
目元が少し重く、制服の襟もほんの少しだけ曲がっている。
「春斗、寝不足?」
「少し」
「何してたの?」
「本読んでた」
「また?」
「悪いか」
「五分早いのに遅くまで読んでたの?」
「朝の五分と夜の本は別」
「便利な言葉」
「お前に言われたくない」
私は春斗の隣へ座る。
ドアを閉める。
車が動き出した。
「襟、曲がってる」
「どこ」
「こっち」
私は手を伸ばしかけた。
でも。
途中で止める。
春斗の制服の襟。
以前なら、何も考えず触っていたかもしれない。
今は。
春斗が私を好きだと知っている。
自分も春斗を男の子として意識し始めている。
竹下くんと日曜日に手を繋ぐかもしれない。
その状態で、簡単に春斗へ触れるのは違う気がした。
「自分で直して」
私は言う。
春斗が少し驚いた顔をする。
「どこ」
「左」
「分からない」
「鏡見れば」
「朝から面倒」
「私がやると駄目な気がする」
春斗の手が止まる。
「何で」
「触れるから」
言うと。
車内が少し静かになる。
春斗のお母さんは前を向いたまま、何も言わない。
「今さら?」
春斗が小さく聞く。
「今さらだから」
「どういう意味」
「今までは幼馴染だったから、何も考えてなかった」
「今は?」
「考える」
春斗は少しだけ視線を逸らした。
「竹下と手繋ぐかもしれないから?」
「それもある」
「俺のことも意識してるから?」
胸が鳴る。
春斗は逃げずに聞くようになった。
私も、曖昧に誤魔化さないと決めた。
「……それもある」
正直に答える。
春斗の耳が少し赤くなる。
「じゃあ」
春斗は自分の襟へ手をやる。
「これ、直ってる?」
「逆」
「分からない」
「少し外側」
「ここ?」
「もう少し」
「ここ?」
「違う」
「じゃあやれよ」
「駄目」
「何で」
「自分でやって」
「面倒」
春斗のお母さんが、運転席で小さく笑った。
「信号で停まったら鏡見なさい」
「母さんが言うなら最初から言って」
「二人のやり取りが面白かったから」
「面白くない」
「私は少し面白い」
私が言うと、春斗がこちらを見る。
「誰のせいだよ」
「春斗が不器用だから」
「襟くらいで」
「その襟が直せない」
車が信号で停まる。
春斗は窓へ映る自分の姿を見ながら、ようやく襟を整えた。
「これでいい?」
「うん」
「最初から場所言えよ」
「言った」
「分かりにくい」
「春斗が不器用」
「もういい」
春斗は少し不機嫌そうに窓の外を見る。
でも、私は気づいていた。
少しだけ嬉しそうでもある。
私が春斗を意識している。
触れることへ意味を感じるようになっている。
それを聞いて、春斗は期待したのだと思う。
「春斗」
「何」
「期待した?」
聞く。
春斗は少し黙る。
「した」
正直な答え。
「でも」
私は続ける。
「触れなかったことも、ちゃんと考えて」
「分かってる」
「竹下くんと日曜に会うから」
「うん」
「春斗だけ特別みたいに触るのは違うと思った」
「……うん」
春斗の声が少し沈む。
胸が痛む。
でも、必要なこと。
「嫌だった?」
「少し」
「ごめん」
「でも前よりいい」
「昨日も言った」
「本当にそうだから」
春斗は膝の上の本へ視線を落とした。
「今までなら、俺が喜ぶかも考えず触ってた」
「うん」
「今は、俺がどう思うか考えて止めた」
「うん」
「嫌だけど、そっちの方がいい」
春斗の言葉に、私は小さく頷いた。
「私も少しずつ分けたい」
「俺と竹下を?」
「うん」
「比べないように?」
「同じことをしないように」
「同じ優しさを渡さない?」
昨日、愛ちゃんと話したことに近い。
「うん」
「それでいいと思う」
春斗はそう言った。
少し寂しそうに。
でも、きちんと受け止めてくれた。
◇
岩瀬駅へ着くと、ホームには冷たい風が吹いていた。
雲の隙間から朝日が少しだけ差し込み、線路の金属が細く光っている。通勤客はまだ少なく、いつものベンチも空いていた。
私と春斗は並んで座る。
五分早い分、電車が来るまで少し余裕がある。
「何話す?」
私が聞く。
「昨日もそれ聞いた」
「今日は春斗から聞いたから」
「五分早いかだけ」
「同じ」
「違う」
春斗は本を開く。
「読むの?」
「少し」
「せっかく五分早いのに」
「何も話さなくていいって言っただろ」
「言ったけど」
「じゃあ読む」
少し寂しい。
でも、読ませないのも違う。
「分かった」
私はスマートフォンを出す。
竹下くんからの通知はない。
昨夜の最後。
『少し楽しみにしてる』
『俺も』
手を繋ぐこと。
日曜日。
その文字を見ると、胸が高鳴る。
「竹下?」
春斗が本を見たまま聞く。
「昨日の画面見てただけ」
「何の」
「言わない」
「そう」
春斗は少しだけ本を持つ手へ力を入れた。
聞きたい。
でも、聞かない。
そう決めてくれている。
私はスマートフォンを伏せ、鞄の上へ置いた。
「見てもいいんだぞ」
春斗が言う。
「うん」
「俺がいるからって、全部隠すな」
「でも、春斗との五分だから」
春斗が本から顔を上げる。
「何」
「今は春斗との時間」
「……そう」
「竹下くんとの連絡はあとで見る」
「そこまでしなくていい」
「私がしたい」
春斗はしばらく私を見る。
「期待する」
「何を?」
「俺との時間を優先したって」
「今この五分は優先したよ」
「それだけ?」
「それだけ」
春斗は小さく息を吐いた。
「分かった」
少し寂しそう。
でも、受け入れる。
私はその顔を見ながら、胸が痛むのと同時に安心した。
こうやって。
期待させることと、実際に渡せるものを分ける。
残酷に感じる。
でも、曖昧に笑って全てを受け取るよりは正しいと思いたかった。
「春斗」
「何」
「今日の五分は、春斗を優先した」
「うん」
「でも日曜日は竹下くんを優先する」
「分かってる」
「それでいい?」
「よくない」
即答だった。
私は少し驚く。
「でも、仕方ない」
春斗は続ける。
「俺がいいって言ったら、嘘になる」
「うん」
「嫌だけど、止められない」
「うん」
「だから行ってこい」
いつもの言葉。
楽しんでこい。
でも、今はまだ木曜日。
少し早い。
「まだ三日あるよ」
「今から言っとく」
「何で」
「日曜に言いたくないかもしれないから」
胸が締めつけられる。
「春斗」
「何」
「日曜、連絡しない方がいい?」
聞く。
春斗はすぐに答えなかった。
「終わったら?」
「うん」
「楽しかった、だけなら」
「分かった」
「細かいことは言うな」
「言わない」
「手のことも」
「言わない」
「顔で分かっても聞かない」
「うん」
昨日決めたことを、もう一度確認する。
それが必要なのだと思う。
「でも」
春斗が本を閉じる。
「月曜の朝、一緒なのは変えない」
胸が温かくなる。
「本当?」
「家の当番あるから」
「それだけ?」
聞いてしまう。
春斗は少しだけ視線を逸らした。
「それだけじゃない」
「何?」
「会いたいから」
真っ直ぐ言われる。
胸が大きく鳴る。
「……うん」
「嬉しいって言うな」
「言ってない」
「顔」
「仕方ない」
「竹下とのデートのあとでも?」
「月曜は春斗と会いたい」
「期待する」
「それは止められない」
「真理」
「何」
「お前、本当に前より悪くなってる」
「正直になっただけ」
「それが悪い」
春斗は困ったように笑った。
その笑顔を見て。
私は少しだけ安心した。
◇
午前七時二十一分。
教室へ入ると、竹下くんはまだ来ていなかった。
少し残念。
私は自分の席へ鞄を置き、椅子へ座る。
愛ちゃんがすぐ近くへ来た。
「春くんとは?」
「今日も五分早かった」
「何話した?」
「襟が曲がってた」
「それだけ?」
「触って直そうとして、やめた」
愛ちゃんの表情が少し変わる。
「どうして?」
「今は簡単に触るの違うと思ったから」
「春くんは?」
「少し嫌だったけど、前よりいいって」
「そっか」
「正しかった?」
聞く。
愛ちゃんは少し考えた。
「正解かは分からないけど、考えたことは大事だと思う」
「竹下くんと手繋ぐかもしれないのに、春斗の襟直すの変だよね」
「昔なら普通だったんでしょ」
「うん」
「でも、今は春くんの気持ち知ってるからね」
「うん」
「同じ行動でも意味が変わる」
愛ちゃんの言葉に、私は頷く。
「触らないの、少し寂しかった」
「真理が?」
「うん」
「春くんに触りたかった?」
少し考える。
「襟を直したかった」
「それだけ?」
「……たぶん」
「本当に?」
「少し、触れたらどうなるか気になった」
愛ちゃんは小さく息を吐いた。
「やっぱり意識してるね」
「うん」
「でも止めた」
「うん」
「それなら、今日はそれでいいんじゃない」
「日曜日、竹下くんとは繋ぐかもしれない」
「繋ぎたい?」
「少し」
「それも本当」
「うん」
「なら、二つとも本当のまま考えるしかないね」
そのとき。
教室の入口から声が聞こえた。
「おはよう」
竹下くん。
私へ気づき、すぐにこちらへ歩いてくる。
「おはよう」
「日曜の天気、まだ晴れ」
「また見たの?」
「朝起きて」
「毎日見るの?」
「たぶん」
竹下くんが笑う。
その笑顔を見ると、胸が自然に高鳴る。
「楽しみなんだ」
私が言う。
「うん」
「私も」
迷わず答える。
竹下くんの表情がさらに柔らかくなる。
「じゃあ今日も頑張れる」
「部活?」
「授業も」
「授業はいつも頑張って」
「久保さんに言われたら」
「私も人のこと言えないけど」
「数学?」
「何で分かるの」
「昨日ノート見てたから」
「見てたの?」
「少し」
「恥ずかしい」
「春斗くんに教えてもらった?」
名前が出る。
竹下くんの声は自然だった。
でも、少しだけ緊張が混じっている。
「うん」
「そっか」
「昨日の帰りに」
「うん」
「でも、日曜の話とは分けてる」
私は自分から言った。
竹下くんが少し驚く。
「どういうこと?」
「竹下くんとの予定の話へ、春斗を出さないようにする」
「昨日言ったから?」
「うん」
「気にしてくれた?」
「気にするよ」
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「ありがとう」
「でも」
「何?」
「春斗との時間も大事にする」
笑顔が少しだけ止まる。
「うん」
「同じにしない」
「うん」
「竹下くんとの時間は、竹下くんとの時間にする」
「それなら」
竹下くんは少し考え、頷いた。
「嬉しい」
「本当?」
「春斗くんとの時間をなくせとは言えない」
「うん」
「でも、俺といるときまで春斗くんのことばかり考えられるのは嫌」
「分かってる」
「日曜は?」
「竹下くんを見る」
「本当に?」
「うん」
「期待していい?」
昨日と同じ言葉。
私は少しだけ頬が熱くなる。
「していいよ」
答える。
春斗には言えない言葉。
竹下くんへは言える。
その違いを、自分でもはっきり感じた。
◇
一時間目の休み時間。
教室の空気は朝よりも賑やかになっていた。
授業が終わると同時に、小野寺くんが竹下くんの席へ近づく。
「日曜、天気晴れらしいな」
「何で知ってる」
「お前が朝から話してたから」
「聞くな」
「手繋ぐんだろ?」
教室の何人かが反応する。
昨日から続く話題。
私の顔が熱くなる。
「まだ決めてない」
竹下くんが答える。
「竹下が?」
「二人で」
「久保さんは?」
視線が集まる。
昨日までは、恥ずかしくて否定した。
今日は。
少し考える。
「そのとき決める」
私は答えた。
教室が少し騒がしくなる。
「可能性ある!」
「竹下、よかったな」
「二回目で手繋ぎ?」
「普通じゃない?」
「高校生なら」
勝手な言葉が飛び交う。
竹下くんが少し眉を寄せる。
「だから周りが決めることじゃないって」
「分かってるけど、気になるじゃん」
小野寺くんは笑っている。
悪気はない。
でも。
私は昨日より少し違うことを思った。
手を繋ぐかどうか。
竹下くんと私が決める。
春斗の反応でも。
教室の期待でもない。
「本当に、二人で決めるから」
私は少し強く言った。
周囲の声が止まる。
小野寺くんも少し驚いた顔をする。
「ごめん」
すぐに謝った。
「ただ、応援してるだけ」
「うん。分かってる」
「でも聞きすぎた」
「うん」
私が頷くと、小野寺くんは自分の席へ戻った。
竹下くんが私を見る。
「ありがとう」
「何が?」
「二人のことって言ってくれた」
「本当だから」
「うん」
竹下くんの声が少し嬉しそうだった。
私も。
今の言葉を春斗へ伝えようとは思わなかった。
これは竹下くんと私のこと。
その線を、自分で引けた。
◇
三時間目の移動教室。
愛ちゃんと廊下を歩いていると、向こうから春斗たちのクラスが来た。
春斗。
石井さん。
昨日一緒にいた男子。
ほかにも数人。
今日は大きな集団だった。
石井さんが春斗の隣で話している。
胸がざわつく。
でも昨日より少しだけ落ち着いていた。
春斗は私へ気づく。
目が合う。
私は呼ばない。
ただ、小さく手を上げた。
春斗も少しだけ手を上げる。
それだけ。
すれ違う。
胸は少し痛い。
でも、昨日のように止めたいとは思わなかった。
「呼ばなかったね」
愛ちゃんが言う。
「うん」
「我慢した?」
「少し」
「でも?」
「今は春斗のクラスの時間だから」
自分で言って、少し驚く。
「真理」
「何?」
「それ、良いと思う」
「本当?」
「うん」
「でも、石井さんと隣だったの嫌」
「それも本当」
「うん」
「嫌でも止めない」
「うん」
「昨日より進歩」
「少し?」
「今日は少し多め」
愛ちゃんが笑う。
私も少し笑った。
◇
昼休み。
今日は愛ちゃんと食堂へ行く予定だった。
教室を出ようとしたところで、竹下くんが近づいてくる。
「久保さん」
「何?」
「今日、部活のミーティングあるから一緒に食べられない」
「うん」
「昨日誘ったから、今日は大杉さんとだと思ってたけど」
「うん」
「一応言っとこうと思って」
少し意外だった。
「何で?」
「誘わなかったって思われたくなかった」
胸が温かくなる。
「気にしてくれた?」
「うん」
「ありがとう」
「日曜はちゃんと時間取るから」
「分かった」
「じゃあ、またあとで」
竹下くんが友人たちのところへ戻る。
愛ちゃんが私を見ている。
「嬉しそう」
「うん」
「ちゃんと言ってくれるの、良いね」
「うん」
私たちは食堂へ向かう。
「竹下くんとは、進んでるね」
愛ちゃんが言う。
「うん」
「春くんとは?」
「止まってる?」
「違う」
「じゃあ何?」
「形を作り直してる感じ」
私は少し考える。
「前は、幼馴染だから何でも同じだった」
「うん」
「今は、触ることも、時間も、言葉も考える」
「うん」
「近づいてるのか、離れてるのか分からない」
「両方じゃない?」
「両方?」
「今までの雑な近さからは離れて、恋愛としては近づいてる」
胸へ落ちる。
確かに。
以前より簡単に触れない。
何でも話さない。
毎日一緒を当たり前と思わない。
でも。
好きと言われた。
五分長く一緒にいたいと伝えた。
ほかの誰かを好きになってほしくないと認めた。
「春斗とは、近づくほど難しくなる」
「幼馴染だからね」
「竹下くんとは?」
「新しく作る関係だから、進む方向が分かりやすい」
「うん」
「でも、分かりやすいから正解とは限らない」
「分かってる」
「難しいね」
「愛ちゃんまで」
二人で少し笑った。
◇
放課後。
竹下くんはミーティングのあと、そのまま部活へ向かうらしい。
私の席へ来る時間はなかった。
代わりに、スマートフォンへ短いメッセージが届いた。
『今日は先に行く。日曜の集合は予定通りで』
『分かった。部活頑張って』
『ありがとう』
短い。
でも、必要なことだけ。
私は少し嬉しくなり、スマートフォンを鞄へ入れた。
いつもの合流場所へ向かう。
春斗はまだ来ていない。
壁際で待つ。
昨日までは、待っている間に竹下くんとのトーク画面を見ていた。
今日は見ない。
今からは春斗との時間。
そう決めたから。
数分後。
春斗が廊下の向こうから歩いてくる。
石井さんも一緒だった。
胸が少しざわつく。
二人は何か話しながらこちらへ来る。
春斗が私へ気づく。
「真理」
「うん」
石井さんも軽く頭を下げる。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
「久保くん、ノートありがとう」
石井さんが春斗へプリントの束を返す。
「別に」
「助かった。じゃあまた明日」
「うん」
石井さんは別の階段へ向かった。
私はその背中を見送る。
「何」
春斗が聞く。
「ノート貸したの?」
「昨日の課題」
「二人で勉強した?」
「教室で少し見せただけ」
「そっか」
「嫌?」
「嫌」
正直に答える。
「でも、貸すなとは言わない」
「うん」
「私も竹下くんと日曜会うから」
「うん」
「同じではないけど」
「それは言わなくていい」
「何で」
「竹下と出かけるのと、ノート貸すの比べたら俺が虚しくなる」
「ごめん」
「それも言わなくていい」
「難しい」
「知ってる」
二人で歩き始める。
「今日」
春斗が言う。
「廊下で呼ばなかったな」
「見てた?」
「少し」
「手上げた」
「俺も」
「石井さんと話してたから」
「うん」
「春斗の時間だと思った」
春斗が少しだけこちらを見る。
「何それ」
「今は春斗のクラスの時間」
「……そう」
「止めないようにした」
「進歩?」
「愛ちゃんには少し多めって言われた」
「大杉が採点してるのか」
「うん」
「何点」
「聞いてない」
「じゃあ今度聞いとけ」
「何で春斗が気にするの」
「お前が進歩してるか分かるから」
春斗の口元が少し緩む。
私も笑う。
「春斗」
「何」
「今日は竹下くんと何話したか聞かない?」
「聞きたくない」
「うん」
「でも、日曜楽しみ?」
少し驚く。
「聞くの?」
「それだけ」
「楽しみ」
正直に答える。
春斗の表情が僅かに曇る。
「そっか」
「嫌?」
「嫌」
「でも聞いた」
「顔で分かるより、自分で聞いた方がましだった」
春斗も少しずつ方法を探している。
「春斗」
「何」
「日曜のあと、私の顔見て分かっても聞かないって言ったよね」
「うん」
「本当に聞かない?」
「たぶん」
「絶対じゃない」
「お前が分かりやすすぎるから」
「じゃあ、答えたくないことは答えない」
「そうして」
「怒らない?」
「少しは」
「でも?」
「それでいい」
春斗は静かに言う。
「俺も、お前と竹下の全部を知る必要ない」
「うん」
「知らないことが増えるのは嫌だけど」
「うん」
「それでも、俺のものじゃないから」
胸が少し痛む。
「春斗」
「何」
「その言い方嫌」
「事実」
「私、春斗のものでもない」
「知ってる」
「でも、そう言われると離れてるみたい」
「離れようとしてるんじゃない」
「じゃあ何?」
「線を引いてる」
「同じじゃない?」
「違う」
春斗は少し歩みを緩める。
「線がないと、俺はお前に全部期待する」
「うん」
「お前も、俺が全部受け入れると思う」
「うん」
「それじゃ無理だから」
「分かった」
「線を引いた上で、隣にいる」
胸へ落ちる。
線を引く。
離れるためではない。
隣にい続けるため。
「それ、少し安心した」
「期待する」
「安心しただけ」
「分かってる」
春斗は少しだけ笑った。
◇
岩瀬駅のホーム。
電車を待ちながら、私は春斗へ数学の小テストを見せた。
「七十二点」
「低い」
「前より上がった」
「前六十一だろ」
「十一点も上がった」
「最初が低い」
「褒めて」
「嫌」
「教えてくれたの春斗なのに」
「間違えたのはお前」
「でも合ってたところもある」
「ここは」
春斗が答案を指す。
「途中式書いてない」
「頭の中でやった」
「それで間違えるんだろ」
「答え合ってる」
「次も合うとは限らない」
「厳しい」
「ちゃんと書け」
「竹下くんは褒めてくれると思う」
口にした瞬間。
春斗の表情が止まる。
私も気づく。
比べた。
無意識に。
「ごめん」
「今の嫌」
「うん」
「俺と竹下を、褒め方で比べるな」
「うん」
「竹下に褒めてもらいたいなら見せれば」
「それは違う」
「何が」
「今は春斗に見せてる」
春斗が少し黙る。
「だから、春斗の反応が欲しかった」
「……そう」
「竹下くんを出したのは違った」
「うん」
「ごめん」
「次から気をつけろ」
「うん」
少し沈黙。
春斗は答案をもう一度見る。
「でも」
「何?」
「十一点上がったのは、まあ頑張った」
胸が温かくなる。
「褒めた?」
「少し」
「ありがとう」
「調子乗るな」
「乗らない」
私は答案を大切に鞄へしまった。
今のやり取りも。
以前なら、竹下くんならどう言うかを話題にして終わっていた。
今日は。
春斗との会話へ、竹下くんを入れたことを自分で止められた。
◇
帰りの電車。
座席は少し混んでいたが、二人並んで座れた。
春斗は本を開く。
私は窓の外を見る。
夕方の空。
灰色の雲の向こうに、細い橙色の光が残っている。
「真理」
春斗が本を見たまま呼ぶ。
「何」
「今日の五分」
「うん」
「明日も?」
胸が少し温かくなる。
春斗から聞いてくれた。
「うん」
「何も話さなくても?」
「うん」
「日曜が近くても?」
「うん」
春斗が本から顔を上げる。
「何で」
「春斗との五分だから」
「答えになってない」
「日曜日は竹下くん」
「うん」
「朝の五分は春斗」
「うん」
「分けるって決めた」
春斗は少し黙る。
「それ、嬉しいけど」
「うん」
「苦しい」
「どうして?」
「日曜は竹下って、はっきり言われるから」
「ごめん」
「でも、前よりいい」
「また」
「本当」
春斗は小さく息を吐いた。
「曖昧に、俺も大事って言われるより」
「うん」
「今の五分は俺って言われる方がまし」
「じゃあ明日も」
「五分早い」
胸が温かくなる。
「ありがとう」
「期待する」
「今の五分を楽しみにしていいって期待なら」
「うん」
「していいよ」
私は言った。
春斗の目が少し見開かれる。
「恋人になる期待じゃなくて?」
「それはまだ言えない」
「分かってる」
「でも、明日の五分は楽しみにしていい」
「……分かった」
春斗は本へ視線を戻した。
でも、もうページを読んでいなかった。
◇
夜、午後十時七分。
私はノートを開いた。
左に竹下くん。
右に春斗。
その下へ、今日のことを書く。
竹下くん。
日曜日を毎朝楽しみにしてくれている。
手を繋ぐかは、二人で決めると教室で言えた。
日曜は竹下くんを見ると約束した。
期待していいと伝えた。
春斗。
襟を直そうとして触れなかった。
簡単に触れることへ意味があると考えた。
石井さんと話していても呼ばなかった。
春斗との時間へ竹下くんを入れないようにした。
小テストの反応を竹下くんと比べ、すぐに謝った。
明日の五分を楽しみにしていいと伝えた。
文字を見つめる。
今日は初めて。
二人へ違う期待を渡した気がする。
竹下くんへは。
日曜日。
もっと近づけるかもしれない。
手を繋げるかもしれない。
恋人になる未来へ進む期待。
春斗へは。
明日の朝。
五分長く隣にいられる。
でも、それだけで恋人になる約束ではない。
今ある時間を大切にする期待。
どちらも同じ優しさではない。
同じ言葉でもない。
少し残酷。
でも。
どちらにも同じ「好きかもしれない」を渡し続けるより、誠実に近いと思いたい。
スマートフォンが震える。
竹下くんから。
『日曜、偕楽園で見たいところある?』
『特にない』
『じゃあ俺が少し調べる』
『任せていい?』
『任せて』
『楽しみにしてる』
『うん』
少しして。
『手のことも?』
胸が大きく鳴る。
私は少し迷う。
『少し』
送る。
『俺も』
『でもそのとき決める』
『分かってる』
『急かさないでね』
『急かさない』
竹下くんとの会話を終える。
胸が高鳴っている。
恋が進む予感。
そのあと。
春斗からメッセージ。
『明日五分』
『うん』
『眠い』
『早く寝て』
『お前も』
『私は起きる』
『寝坊したら置いてく』
『待って』
『五分早くする意味ない』
『絶対起きる』
少し間。
『今日』
『何?』
『襟』
『うん』
『直してほしかった』
胸が鳴る。
春斗も、触れてほしかった。
でも。
私はすぐに答えなかった。
『でも触らなくてよかったとも思う』
続けて届く。
『どうして?』
『今触られたら、期待する』
『うん』
『だから止めたのは正しかった』
春斗は、自分が傷ついても線を守ろうとしている。
『ありがとう』
『何が』
『分かってくれて』
『分かりたくないけど』
『うん』
『でも分かる』
胸が少し痛む。
『春斗』
『何』
『明日の五分は期待していいよ』
『何を』
『一緒にいられること』
『それだけ?』
『今は』
長い沈黙。
『分かった』
返ってくる。
『嫌?』
『少し』
『でも?』
『嬉しい』
春斗が自分から言った。
胸が温かくなる。
『私も』
送る。
少し迷ったが。
これは同じ期待。
明日の五分を楽しみにする気持ち。
『それならいい』
春斗から返ってくる。
『何が?』
『同じ意味の嬉しいなら』
胸へ静かに落ちた。
同じ言葉でも、意味が違う。
でも今日は。
春斗と私の「嬉しい」が、初めて同じ場所にあった。
恋人になる約束ではない。
竹下くんを諦めるという意味でもない。
ただ。
明日の朝も、五分長く一緒にいられること。
それを二人とも楽しみにしている。
『おやすみ』
『おやすみ』
スマートフォンを置く。
私はノートの一番下へ、今日の言葉を書いた。
『同じ優しさを二人へ渡さない。竹下くんには前へ進む期待を。春斗には、今この時間を大切にする約束を。』
書いてから。
少しだけ手が止まる。
日曜日。
竹下くんと手を繋ぐかもしれない。
そのことは、恋として楽しみだった。
明日の朝。
春斗と五分長く一緒にいる。
そのことは、言葉にしにくいほど大切だった。
好きな人との約束が近づくほど。
幼馴染との五分が、ただの習慣ではなくなっていく。
その意味を。
私はまだ、完全には分かっていない。
それでも。
どちらにも同じ顔で笑い。
同じ言葉で期待させることだけは、少しずつやめようとしていた。
明日の五分。
日曜日の数時間。
どちらも大切。
でも、同じではない。
私はその違いを忘れないように。
今日もノートをゆっくり閉じた。




