第12話 五分長く隣にいたいと言っただけなのに、幼馴染はそれを期待と呼びました
水曜日の朝、午前五時二十九分。
目覚ましが鳴る一分前。
私は、ほとんど眠っていなかったような感覚のまま目を開けた。
実際には、何度か夢を見た気がする。
偕楽園の広い道を竹下くんと歩く夢。
梅の時期ではないのに、木々には白や薄桃色の花が咲いていた。竹下くんは私の少し前を歩き、何度も振り返っている。
追いつこうとすると、今度は後ろから春斗に呼ばれる。
振り返った先には、いつもの制服姿の春斗が立っていた。
でも。
どちらへ進んでも、片方の姿が少しずつ遠くなる。
そんな夢だった。
目を覚ましたあとも、胸の奥には細い痛みが残っている。
私は枕元のスマートフォンを手に取った。
画面には、昨夜のやり取りがそのまま残っている。
『明日も五分早くしてほしい』
『何話す』
『何もなくてもいい』
『普通と同じだろ』
『五分長く一緒にいる』
『期待する』
『分かってる』
『それでも?』
『うん』
『じゃあ五分早い』
何度読み返しても、自分がかなり踏み込んだことを言っているように見えた。
五分長く一緒にいたい。
ただ、それだけ。
私にとっては、思ったままを口にしただけだった。
でも春斗は、それを期待すると言った。
私が春斗との時間を求めれば、春斗は自分にも可能性があると思う。
私が嬉しいと言えば、春斗は待ち続けようとする。
そのことを分かったうえで、私は「それでも」と答えた。
期待させたいわけではない。
でも、春斗が自分を諦めるのも嫌だった。
やっぱり、私はずるい。
竹下くんとの次の約束を楽しみにしながら。
春斗には、自分を好きなままでいてほしいと思っている。
愛ちゃんに言われた。
二人の優しさへ甘え続けない。
春斗にも言われた。
俺がお前を好きだから、何をしても離れないと思うな。
分かっている。
分かっているのに。
春斗が五分早く来てくれることを思うと、胸が少しだけ温かくなる。
「……今日は何も話さなくてもいいんだよね」
私は小さく呟いた。
何も話さない。
ただ一緒にいる。
以前なら、そんな時間へ特別な意味など感じなかった。
今は違う。
春斗が私のために五分早く起き、五分早く家を出る。
その事実だけで、今まで当たり前だった朝が、少しだけ特別なものへ変わっていた。
◇
午前五時三十六分。
玄関を出ると、空気は昨日より冷たかった。
空は明るくなり始めているものの、東の雲が朝日を隠している。住宅街には淡い青灰色の光が広がり、庭木や塀の輪郭が柔らかく霞んでいた。
私は門の前へ立つ。
今日は私の家の送迎当番。
母はすでに車のエンジンをかけ、運転席で待っている。
「春斗くん、もう出てるかな」
母が聞く。
「五分早くしたから、たぶん」
「最近、その五分に意味があるの?」
「……少し」
「何を話すの?」
「何も」
「何も話さないために五分早く?」
「うん」
母は少しだけ笑った。
「贅沢な五分ね」
「贅沢?」
「話すことがなくても一緒にいたい相手なんでしょう」
心臓が少し強く鳴る。
「幼馴染だから」
反射的に答える。
でも、その言葉は以前ほど自然に出なかった。
「昨日までは、そうやって何でも幼馴染で片づけてたね」
「今は違うって言いたいの?」
「お母さんが決めることじゃないよ」
母はそれ以上言わず、車を動かした。
春斗の家まではすぐ。
見慣れた角を曲がると、門の前に春斗が立っている。
昨日より少し眠そう。
左手には鞄。
右手には文庫本を持っていた。
車が停まる。
春斗が後部座席のドアを開けた。
「おはようございます」
「おはよう、春斗くん」
「おはよう」
「はよ」
春斗が隣へ座る。
ドアが閉まる。
車内へ、いつもの距離が戻る。
昨日の夜。
五分長く一緒にいたいと言った。
その五分が、今始まっている。
「何」
春斗が私を見る。
「まだ何も言ってない」
「見てる」
「今日は何話す?」
「何もなくていいって言ったのお前だろ」
「本当に何も話さないの?」
「何か話したいなら話せば」
「春斗が五分早くしたんだから、春斗が話して」
「頼んだのお前だろ」
「そうだけど」
春斗が少しだけ呆れた顔をする。
「じゃあ、何で五分早くしたかった」
聞かれる。
私は少し考える。
「昨日、石井さんと話してる春斗見たから」
「またそれか」
「違う。昨日だけじゃなくて」
「じゃあ何」
「朝、一緒にいる時間が減るかもしれないって聞いたから」
春斗の表情が少し静かになる。
「まだ減らしてない」
「でも、いつか減るかもしれない」
「お前が竹下と付き合ったら」
「うん」
「だから今のうちに増やすの?」
言葉に詰まる。
そう言われると。
今ある時間を失うのが怖いから、少しでも多く持っておきたいように聞こえる。
「違うと思う」
「思う?」
「今も一緒にいたいから」
「今も?」
「うん」
「竹下との日曜が決まってても?」
「決まってるから春斗といなくていい、にはならないよ」
「俺には分けられない」
「知ってる」
「知ってて言うんだな」
春斗の声は怒っていない。
でも、少しだけ苦しそうだった。
「ごめん」
「今日はそれ言わない」
「何を?」
「謝るなって言うの疲れた」
「じゃあ謝っていい?」
「よくない」
「どっち」
母が前の席で小さく笑う。
「二人とも、朝から難しい会話してるわね」
「母さんは運転して」
「してるわよ」
春斗は窓の外へ視線を向ける。
少し沈黙。
車内には、タイヤが道路を滑る音と、低く流れるラジオの音だけが残った。
話すことがなくてもいい。
私がそう言ったのだから、この沈黙も約束の一部なのかもしれない。
以前なら、何も思わなかった。
今は、隣にいる春斗の呼吸まで意識する。
文庫本は膝の上。
指は表紙へ乗っている。
でも開かない。
「読まないの?」
私が聞く。
「五分のために早くしたのに、読んだら怒るだろ」
「怒らないよ」
「見る」
「何を」
「俺が本読むと」
「少し寂しいかも」
「ほら」
「でも、読んでもいい」
「どっち」
今度は春斗が言う。
私は少し笑った。
「お互い難しいね」
「お前が難しくしてる」
「春斗も」
「俺は最初から竹下の話聞きたくないって言えばよかった」
「言われたら、相談できなかった」
「それでよかったかも」
胸が少し痛む。
「春斗と今みたいにならなかった?」
「たぶん」
「それは嫌」
「そういうところ」
「何」
「竹下との恋を進めるために俺を使って、今は俺との関係が変わったことも失いたくない」
胸へ刺さる。
春斗は言葉を選びながら続けた。
「お前が悪いって言いたいわけじゃない」
「少し言ってる」
「少しは」
「うん」
「でも、俺も自分で相談乗ってたから」
「うん」
「だから、お互い今から変えるしかない」
「どう変える?」
「分からない」
「昨日からそればっかり」
「お前に言われたくない」
春斗の口元が少しだけ緩む。
私も笑った。
「じゃあ、今日の五分は」
「うん」
「変え方を決める時間?」
「毎日決めるのか」
「駄目?」
「重い」
「じゃあ普通にいる時間」
「普通が分からない」
「便利だね、その言葉」
「お前が使ったんだろ」
少しずつ。
会話がいつもの調子へ戻っていく。
それだけで、私は安心した。
「春斗」
「何」
「今日も五分早くしてよかった?」
春斗はすぐに答えなかった。
窓の外へ視線を向けたまま、少しだけ考える。
「よかった」
短い返事。
胸が温かくなる。
「私も」
口にした。
春斗がこちらを見る。
「それ、期待する」
「分かってる」
「なら言うな」
「でも本当」
「真理」
「何」
「昨日から、お前が期待させるって分かって言うようになったの、前より悪い」
「前は分からず言ってた」
「そっちも悪い」
「じゃあどうすればいいの」
「少しは黙れ」
「嫌」
春斗が深く息を吐く。
でも、その顔は本気で怒ってはいなかった。
◇
岩瀬駅のホームは、朝の冷たい風が通り抜けていた。
ベンチは空いている。
私と春斗はいつもの場所へ座った。
通勤客の足音。
自動販売機の低い機械音。
線路の向こうから聞こえる鳥の声。
時間は昨日までと変わらないはずなのに、今日は五分長い。
「春斗」
「何」
「昨日の石井さん」
「まだ聞くのか」
「今日は話す予定ある?」
「知らない」
「聞かれたら話す?」
「話す」
「そっか」
「嫌そうな顔するな」
「嫌だから」
「お前には竹下がいる」
「それ言えば全部終わると思ってる?」
「終わらないのがおかしい」
「私の中では別」
「便利に使うな」
「春斗も同じこと言う」
「前から言ってる」
私は膝の上へ手を置いた。
「昨日、愛ちゃんにも言われた」
「何を」
「春斗が私を好きだからって、ずっと私のものじゃない」
春斗の指が本の端で止まる。
「そうだな」
「簡単に言うね」
「事実だろ」
「でも嫌」
「それも昨日聞いた」
「今日も嫌」
「毎日確認するな」
「だって、春斗が少しずつ離れる準備してるみたいだから」
春斗がこちらを見る。
「してない」
「本当?」
「今は」
「また今は」
「先のことは分からない」
「私は分からないって言うと怒るのに」
「同じじゃない」
「似てる」
「違う」
私たちはしばらく見つめ合う。
先に春斗が目を逸らした。
「真理」
「何」
「俺がほかの誰かを好きになるのが嫌なら」
「うん」
「お前が俺を選べばいい」
心臓が大きく鳴る。
簡単な言葉。
でも、すぐには答えられない。
春斗も分かっている。
答えを急かすつもりはない。
それでも言った。
「ずるい」
私が言う。
「何が」
「それ言われたら、竹下くんとの日曜が悪いことみたいになる」
「悪いとは言ってない」
「でも、春斗を選ばないなら、誰かに取られても仕方ないってことでしょ」
「そう」
「嫌」
「なら選べ」
「今は無理」
「じゃあ我慢しろ」
静かな声。
でも厳しい。
「春斗、最近厳しい」
「今まで甘すぎた」
「優しかった」
「都合よかっただけかもしれない」
「そんなことない」
「お前にとっては」
胸が痛む。
「春斗は後悔してる?」
「何を」
「私の相談に乗ったこと」
春斗はすぐに答えなかった。
ホームへ電車接近のアナウンスが流れる。
遠くから、線路の振動が少しずつ近づいてくる。
「後悔してる」
やがて、春斗が言った。
「……そっか」
「でも」
春斗は続ける。
「乗らなかったら、お前が竹下と話せなくて落ち込むの見てたと思う」
「うん」
「それも嫌だった」
「じゃあ」
「どっちでも嫌だった」
春斗は少しだけ笑った。
「好きになった時点で、楽な方なんかなかった」
胸が締めつけられる。
「春斗」
「何」
「好きになるの、やめたい?」
「やめられるなら」
「やめたいの?」
聞く。
春斗は私を見る。
「今は、やめたくない」
真っ直ぐな目。
逃げない言葉。
胸が熱くなる。
嬉しいと言いたい。
でも。
それを言えば、また期待させる。
私は唇を閉じた。
「何」
春斗が聞く。
「言わない」
「また?」
「期待するから」
「顔に出てる」
「仕方ない」
春斗は少しだけ困ったように笑った。
電車がホームへ入ってくる。
強い風が吹き、私の髪が頬へかかる。
春斗が手を伸ばしかけた。
でも、触れる前に止めた。
「何?」
「髪」
「ついてる?」
「顔にかかってる」
私は自分で髪を直す。
春斗の手は膝へ戻った。
触れそうで、触れない。
昨日までなら、そんな動きに気づかなかったかもしれない。
今は、止まった指先ばかりが気になった。
◇
午前七時二十四分。
教室へ入ると、竹下くんは窓際で小野寺くんと話していた。
私へ気づくと、すぐに手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、晴れたね」
「うん」
「日曜もこのくらいだといいな」
朝一番で、次の約束の話。
胸が少し高鳴る。
「天気予報見た?」
「まだ」
「俺、見た」
「早い」
「気になるから」
竹下くんが笑う。
「今のところ晴れ」
「本当?」
「うん。でも変わるかも」
「晴れてほしい」
「俺も」
近くにいた小野寺くんが、すぐに会話へ入る。
「朝から次のデートの天気確認?」
「うるさい」
「竹下、分かりやすくなったな」
「久保さんの影響?」
女子たちまで笑う。
昨日ほど強いからかいではない。
竹下くんも少し恥ずかしそうにしながら、今回は否定しなかった。
「楽しみだから見るだろ」
その一言で、周囲が少し騒がしくなる。
「言った!」
「竹下、強い」
「久保さん顔赤い」
私は自分の席へ鞄を置いた。
「竹下くん、朝から言わないで」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあいい?」
「恥ずかしい」
「ごめん」
竹下くんの表情が少し申し訳なさそうになる。
「でも嬉しい」
私は小さく付け加えた。
竹下くんが笑う。
「なら良かった」
胸が温かくなる。
春斗へは、嬉しいと何度も言わないように気をつけている。
竹下くんへは、素直に言える。
それは竹下くんが私へ期待しても、その期待が私の望んでいる方向と近いからなのかもしれない。
私は竹下くんを好き。
次の約束も嬉しい。
もっと近づきたい。
だから、嬉しいと言っても大きな矛盾はない。
春斗へ嬉しいと言うときは違う。
春斗を恋人として選べるか分からないのに。
期待だけを与えてしまう。
その違いが、少しだけ見えた気がした。
「真理」
愛ちゃんが隣へ来る。
「何?」
「今、何か分かった顔」
「分かる?」
「少し」
「竹下くんには嬉しいって言いやすい」
「春くんには?」
「言うと重くなる」
「どうしてだと思う?」
「竹下くんの期待は、私が進みたい方向と同じだから」
愛ちゃんが少し目を見開く。
「春くんは?」
「まだ、同じ方向か分からない」
「……真理」
「何?」
「少し進んだね」
「本当?」
「うん」
褒められ、胸が少し軽くなる。
「じゃあ竹下くんを選ぶの?」
「それはまだ分からない」
「そこまでは進んでないか」
「うん」
でも。
自分の言葉が誰へどんな意味を持つか。
少しだけ考えられるようになった。
◇
二時間目の休み時間。
私は愛ちゃんと廊下へ出た。
教室の中が少し暑くなり、窓際の空気を吸いたかった。
廊下には別のクラスの生徒も多い。移動教室へ向かう者や、購買の予約表を確認する者が行き交っている。
その中に、春斗がいた。
石井さんと、昨日一緒にいた男子。
三人で階段を上がってくる。
また胸がざわつく。
昨日よりは落ち着いている。
何度も自分へ言い聞かせたから。
春斗が同じクラスの女子と話すことは普通。
私が止める権利はない。
でも。
石井さんが笑いながら春斗へ何か言い、春斗も少しだけ口元を緩めた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「真理」
愛ちゃんが小さく呼ぶ。
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「顔でしょ」
「うん」
春斗も私へ気づいた。
目が合う。
昨日なら、私は呼び止めていた。
用事がなくても。
今日も呼びたい。
でも。
自分は日曜日に竹下くんと出かける。
竹下くんから手を繋いでもいいか聞かれている。
その状態で、春斗が女子と話すたび止めるのは違う。
私は何も言わなかった。
春斗たちはそのまま近づいてくる。
「おはよう」
石井さんが私へ声をかける。
「おはようございます」
「昨日ぶり」
「はい」
「久保くん、朝も一緒だった?」
「はい」
石井さんの問いは普通。
特別な意味はない。
「本当に毎日一緒なんだね」
「家が近いので」
「いいなあ。通学長いと一人だと暇だよね」
石井さんは春斗を見る。
「久保くん、電車でも本読んでるの?」
「大体」
「真理ちゃんと話さないの?」
真理ちゃん。
呼び方が少し近くなった。
でも、それも昨日自己紹介したからだろう。
「話すときもある」
春斗が答える。
「朝は寝てることもあるよね」
私はつい口を挟む。
「お前が話しかけても返事しないときあるだろ」
「それは本読んでるから」
「寝てるときもある」
「少し」
石井さんが笑う。
「二人、仲良いね」
昨日と同じ。
春斗は否定するだろうか。
私は隣で少し緊張した。
「まあ、長いから」
春斗が答える。
仲良くないとは言わなかった。
胸が少し温かくなる。
「じゃあ、また」
石井さんたちは移動教室へ向かう。
春斗もそのあとを歩こうとする。
「春斗」
結局、呼んでしまった。
春斗が振り返る。
「何」
用事。
何か用事を考える。
「……帰り」
「一緒」
「分かった」
昨日と同じ。
春斗の眉が少し動く。
「朝も確認しただろ」
「したけど」
「それだけ?」
「うん」
春斗は少しだけ呆れた顔をする。
「じゃあ、またあとで」
「うん」
春斗が石井さんたちの方へ戻る。
私はその背中を見送った。
「呼ばないように頑張ったのに」
愛ちゃんが言う。
「最後に負けた」
「でも、石井さんと話すなとは言わなかった」
「進歩?」
「少し」
「本当に少しだね」
厳しい。
「でも」
愛ちゃんが続ける。
「春くんも、真理が呼ぶの待ってたように見えた」
「本当?」
「すぐ振り返ったし」
胸が少し軽くなる。
でも、そこでまた安心しようとする自分へ気づく。
「駄目」
「何が?」
「春斗が私を気にしてるから大丈夫って思った」
「それ自体は悪くないよ」
「甘えてる」
「甘えるのと、確認するのは違う」
「どう違う?」
「春くんの気持ちを利用して、自分だけ自由にするなら甘え。春くんも自分を気にしてるって知って嬉しくなるだけなら、今は仕方ない」
「難しい」
「全部を悪いことにしなくていいよ」
愛ちゃんの言葉に、私は小さく頷いた。
◇
昼休み。
今日は竹下くんから声をかけられた。
「久保さん、一緒に食べる?」
教室の入口。
愛ちゃんも隣にいる。
私は少し迷った。
昨日は愛ちゃんと食べた。
今日は竹下くんと食べたい。
そう思う。
「うん」
答える。
竹下くんの表情が明るくなる。
「大杉さん、ごめん」
「毎回謝らなくていいよ」
「でも」
「今日は私も別の子と食べるから」
愛ちゃんは私へ意味ありげな視線を向ける。
「ちゃんと竹下くんとの時間にしてきな」
「うん」
竹下くんと二人で食堂へ向かう。
廊下を歩く生徒たちの視線は、もう昨日ほど気にならなかった。
何人かがこちらを見て笑う。
小さな声で「また二人」と聞こえる。
でも、竹下くんと並んでいることが少しずつ自然になっている。
「今日は何食べる?」
竹下くんが聞く。
「迷う」
「毎回迷うね」
「選択肢多いから」
「俺、日替わり」
「早い」
「朝から決めてた」
「食堂のメニュー見たの?」
「掲示板に出てた」
「そんなところ見てるんだ」
「結構大事だろ」
二人で笑う。
食堂は混んでいたが、端の二人席が空いていた。
トレーを置き、向かい合う。
「朝」
竹下くんが言う。
「春斗くんと一緒だった?」
「うん」
もう隠さない。
「五分早くした」
「どうして?」
「春斗と少し長くいたかったから」
竹下くんの箸が止まる。
表情が僅かに固くなる。
「……そっか」
その反応を見て、私は続ける。
「でも、今日は何も特別なことしてない」
「何もなくても、一緒にいたかったんだよね」
「うん」
竹下くんは少し俯く。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも嫌だった?」
「嫌」
竹下くんも、最近は正直に言う。
「俺との次の約束決まってるのに、春斗くんといる時間も増やしたいんだ」
「うん」
「正直すぎる」
「嘘つかない方がいいと思って」
「何でも言えばいいわけじゃないけど」
春斗にも似たことを言われた。
全部共有しなくていい。
「ごめん」
「でも、聞いたの俺だから」
竹下くんは一度深く息を吐いた。
「俺も春斗くんと同じだな」
「何が?」
「聞きたくないのに、知らないのも嫌」
「春斗も言ってた」
「そこも同じか」
「嫌?」
「嫌」
少し困ったように笑う。
「俺、春斗くんと比べられるの苦手かも」
「比べてないよ」
「比べてると思う」
「……少しは」
「正直」
「ごめん」
「だから謝らないで」
二人とも同じことを言う。
私はいつも、謝るしかできない。
「竹下くん」
「何?」
「私、昨日より少しだけ分かったことある」
「何?」
「竹下くんに嬉しいって言うのと、春斗に嬉しいって言うのは意味が違う」
竹下くんが静かに私を見る。
「どう違う?」
「竹下くんとは、もっと近づきたいって思ってる」
「うん」
「だから、誘われて嬉しいとか、可愛いって言われて嬉しいとか、そういうのを言っても、自分の気持ちと同じ方向だと思う」
「春斗くんは?」
「まだ、同じ方向か分からない」
竹下くんは黙る。
周囲の食器の音や、生徒たちの会話が少し遠く感じる。
「それなら」
竹下くんがゆっくり口を開く。
「俺の方が近い?」
胸が鳴る。
簡単には答えられない。
「恋人になりたいって意味では」
「うん」
「今は竹下くんの方が想像しやすい」
正直に答える。
竹下くんの表情が少し明るくなる。
「本当?」
「うん」
「じゃあ日曜」
「うん」
「もっと想像しやすくする」
「どうやって?」
「一緒に歩いて、話して」
竹下くんが少し照れながら続ける。
「手も繋げたら」
胸が大きく鳴る。
「まだ決めてない」
「分かってる」
「でも、繋ぎたい?」
「うん」
即答。
胸が熱くなる。
「久保さんは?」
「嫌じゃない」
「それだけ?」
「……少し繋いでみたい」
口にした瞬間、顔が熱くなる。
竹下くんの目が少し見開かれる。
「本当?」
「うん」
「じゃあ期待する」
春斗と同じ言葉。
でも、胸へ落ちる感覚は違う。
「していいよ」
私は言った。
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「それ、嬉しい」
「うん」
「日曜、晴れるといいな」
「うん」
竹下くんへは、期待していいと言えた。
春斗には言えない。
その違いが、また少しはっきりした。
◇
午後の授業。
私は何度も自分の左手を見た。
日曜日。
竹下くんと手を繋ぐかもしれない。
しかも。
少し繋いでみたいと、自分から言った。
嬉しい。
恥ずかしい。
期待している。
その感情は、恋らしい形をしていた。
でも。
教室の時計を見るたび、放課後に春斗と帰ることも気になる。
竹下くんへ、春斗との五分を増やしたことを話した。
春斗へ、日曜日に手を繋ぐかもしれないことはすでに知られている。
二人とも嫌だと言った。
私は、その嫌を知りながら両方の時間を増やしている。
昨日より自分の気持ちは少し見えた。
でも、誠実にできているのかは分からない。
◇
放課後。
竹下くんは部活へ向かう前、私の机へ来た。
「日曜のバス、時間調べた」
「早い」
「歩くなら三十分くらいだけど、帰り時間あるから行きはバスにしようと思う」
「うん」
「帰りは歩けそうなら歩く」
「分かった」
「靴、歩きやすいので」
「春斗にも言われた」
言ってから、竹下くんの表情が僅かに曇る。
「また春斗くん」
「ごめん」
「今日は何回謝るの」
「たくさん」
「じゃあ、もう一回禁止」
「何を?」
「日曜まで、俺との予定の話で春斗くん出すの禁止」
少し驚く。
でも、竹下くんは笑っていない。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「俺と久保さんの話だから」
胸へ落ちる。
昨日も言われた。
全部春斗基準で考えられると寂しい。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ靴」
「スニーカーにする」
「よし」
「子どもみたい」
「久保さんが途中で足痛いって言わないように」
「言わないよ」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
二人で少し笑う。
「じゃあ部活行ってくる」
「頑張って」
「日曜、楽しみにしてる」
「私も」
今度は迷わず言えた。
◇
いつもの合流場所へ向かうと、春斗はまだ来ていなかった。
私は壁際へ立ち、スマートフォンを見ずに待った。
竹下くんからのメッセージを確認すれば、春斗へ会う直前まで日曜日のことを考えることになる。
それが悪いわけではない。
でも、今からは春斗との時間。
全部同じにしない。
母にも、愛ちゃんにも言われた。
二人を大事にする方法は、同じでなくていい。
数分後。
廊下の向こうから春斗が歩いてきた。
今日は一人。
私へ気づき、少し歩みを速める。
「遅い」
私は言う。
「一分」
「一分は一分」
「また真似」
「先に言いたかった」
「何で」
「いつも春斗が言うから」
春斗が隣へ来る。
二人で歩き始める。
「今日」
春斗が言う。
「石井さんと話した」
自分から言われ、胸が少しざわつく。
「何を?」
「課題」
「二人で?」
「もう一人いた」
「そっか」
「嫌?」
「嫌」
正直に答える。
「でも、話すなとは言わない」
春斗が少しだけこちらを見る。
「進歩?」
「愛ちゃんには少しって言われる」
「本当に少し」
「春斗まで」
「でも」
春斗が続ける。
「呼ばなかったな」
「見てたの?」
「少し」
「呼んでほしかった?」
「別に」
「嘘」
「帰り一緒って分かってたから」
胸が少し温かくなる。
「私は呼びたかった」
「呼べばよかっただろ」
「我慢した」
「何で」
「春斗を縛らないため」
春斗は少し黙る。
「無理しすぎなくていい」
「でも」
「呼ばれるくらいなら嫌じゃない」
「本当?」
「用事ないのに毎回は困るけど」
「じゃあ、たまに」
「たまに」
小さな約束。
それだけで安心する。
「春斗」
「何」
「私も今日、竹下くんと日曜の話した」
「そう」
「細かいことは言わない」
「その方がいい」
「聞きたい?」
「少し」
「でも言わない」
「そうして」
春斗の声は少しだけ苦しそうだった。
「じゃあ別の話する」
「何」
「今日の授業」
「珍しい」
「数学分からなかった」
「どこ」
「ここ」
私は鞄からノートを出す。
歩きながら見せようとすると、春斗が眉を寄せた。
「駅で見せろ」
「今少し」
「転ぶ」
「転ばない」
「お前は転ぶ」
「ひどい」
「前見ろ」
いつもの会話。
恋愛の話ではない。
竹下くんの話でもない。
ただ、学校の授業。
今までなら何でもない。
でも今日は。
春斗との時間を、竹下くんとの話で埋めずにいられたことが少し嬉しかった。
◇
岩瀬駅のホーム。
春斗へ数学のノートを見せる。
「ここ」
「式変形間違ってる」
「どこ?」
「最初」
「最初から?」
「うん」
「全部駄目じゃん」
「全部ではない。最初が違うから後ろもずれた」
「同じ」
「違う」
春斗が私のペンを取り、ノートへ式を書く。
指先。
近い。
私は春斗の手を見てしまう。
「見るな」
「ノート見てる」
「手見てる」
「少し」
「日曜に竹下と繋ぐんだろ」
胸が跳ねる。
「まだ決めてない」
「そう」
「でも」
言いそうになる。
少し繋いでみたい。
竹下くんへは言った。
春斗へは言わない。
比べないために。
「何」
「何でもない」
春斗が少しだけ私を見る。
「言わないんだ」
「竹下くんとの話だから」
春斗の表情が僅かに変わる。
寂しそうにも見えた。
でも、頷いた。
「それでいい」
「本当?」
「聞きたくない」
「うん」
「でも」
「何?」
「ちゃんと分けようとしてるのは分かる」
少しだけ褒められたような気がした。
「進歩?」
「少し」
「みんな同じ」
「本当に少しだから」
春斗はノートへ視線を戻した。
「ここ、分かった?」
「うん」
「説明して」
「え」
「分かったなら」
私は式を見つめる。
「最初にこっちを移項して」
「うん」
「符号変えて」
「うん」
「それから」
「それから?」
「……忘れた」
「分かってない」
春斗が小さく笑う。
私も笑った。
駅のホーム。
朝より人は少ない。
夕方の風が、線路沿いを通り抜ける。
今は、恋の答えを出さなくてもいい。
ただ数学を教えてもらう。
その時間が、少しだけ懐かしく感じた。
◇
帰りの電車では、隣の席が空いていた。
私と春斗は並んで座る。
窓の外には夕方の街が流れ、遠くの空が橙色へ染まり始めている。
春斗は本を開いた。
私はスマートフォンを出す。
竹下くんからメッセージが届いている。
『日曜、バスの時間これ』
時刻表の画像。
確認しようとして。
私は春斗を見る。
「何」
「竹下くんから日曜の連絡来た」
「そう」
「今見てもいい?」
聞いてから、自分でも変だと思う。
許可を取る必要はない。
春斗も少し驚いた顔をした。
「俺に聞くな」
「でも」
「お前と竹下の話だろ」
「うん」
「見ればいい」
「嫌じゃない?」
「嫌」
「じゃあ」
「でも止めない」
春斗は本へ視線を戻す。
「俺がいる間、竹下の連絡見るなって言ったら、それも違うだろ」
「うん」
「ただ、返事しながら俺に内容話すな」
「分かった」
私はメッセージを開く。
時刻表を確認し、『ありがとう。九時四十二分のバスでいい?』と返す。
竹下くんからすぐに『それで』と来る。
会話は短く終えた。
私はスマートフォンを伏せる。
「終わった?」
春斗が聞く。
「うん」
「早いな」
「必要なことだけ」
「そう」
春斗は本を読んでいる。
でも、さっきより少しだけ表情が柔らかい。
「春斗」
「何」
「今の、よかった?」
「何が」
「竹下くんの連絡見ても、話さなかった」
「子どもみたいに褒めてほしいのか」
「少し」
「普通」
「それ褒めてる?」
「前よりは」
嬉しい。
でも、口へ出す前に少し考える。
「ありがとう」
それだけ言った。
春斗は何も返さなかった。
でも、本のページをめくる指が少しだけ止まった。
◇
夜、午後十時十一分。
私はノートを開いた。
竹下くん。
日曜日の手繋ぎを少し期待している。
竹下くんへは、期待していいと言えた。
春斗との時間を増やしたことを話すと、竹下くんは嫌だと言った。
日曜まで、竹下くんとの予定へ春斗を入れないと決めた。
春斗。
五分長く一緒にいられて嬉しかった。
春斗は好きでいることを、今はやめたくないと言った。
石井さんと話していても、今日は止めなかった。
竹下くんからの連絡を、春斗の隣で必要なことだけ返した。
細かい内容は話さなかった。
書いていて気づく。
今日は昨日までと少し違った。
二人を同じ場所へ入れないようにした。
竹下くんとの日曜日は、竹下くんとの時間として考える。
春斗との帰り道は、春斗との時間として過ごす。
完全ではない。
途中で何度も相手のことを考えた。
比べそうにもなった。
でも、少しだけ分けられた。
それが正しいのか。
ただ決断を先延ばしにしているだけなのか。
まだ分からない。
スマートフォンが震える。
竹下くん。
『日曜、手繋ぐ話したの嫌じゃなかった?』
胸が高鳴る。
『嫌じゃなかったよ』
『本当?』
『うん』
『よかった』
少し迷い。
『少し楽しみにしてる』
送る。
既読。
すぐに返事が来る。
『俺も』
胸が温かくなる。
これは、竹下くんとの恋。
私はそのまま会話を続けた。
『でもそのとき決めるね』
『分かってる』
『急かさない?』
『急かさない』
『ありがとう』
『でも期待はしてる』
『していいよ』
送信。
自分で書いた言葉を見て、頬が熱くなる。
竹下くんには、期待していい。
そう言える。
そのあと。
春斗からメッセージが届く。
『明日』
短い。
『何?』
『五分早い?』
私は少し驚いた。
今日は私から頼んだ。
明日は春斗から聞いてくれた。
『春斗がいいなら』
『お前は?』
『早い方がいい』
すぐに返す。
既読。
『期待する』
また同じ言葉。
私は画面を見つめる。
竹下くんには。
『していいよ』
と言えた。
春斗には。
同じことを言えない。
私は少し考えてから、指を動かす。
『何を期待するかは、春斗が決めないで』
送る。
少し長い沈黙。
『どういう意味』
『五分長く一緒にいたいのは本当』
『うん』
『でも、それだけで春斗を選ぶって意味にはできない』
既読。
返事が来ない。
胸が痛む。
でも、誤魔化したくない。
『嫌だった?』
送る。
しばらくして。
『少し』
返ってくる。
『ごめん』
『でも分かってる』
『うん』
『前よりいい』
胸が少し軽くなる。
『何が?』
『期待させるだけじゃなくて、違うことは違うって言った』
春斗も、私が分けようとしていることに気づいている。
『じゃあ五分早い?』
送る。
少し間。
『早い』
胸が温かくなる。
『ありがとう』
『何も話さないかもしれない』
『それでもいい』
『本当に?』
『うん』
『じゃあ寝ろ』
『まだノート書いてる』
『今日も俺のこと書いた?』
『書いた』
『竹下も?』
『書いた』
しばらく返事がない。
『そっか』
短い。
『内容聞く?』
『聞かない』
『少しは?』
『聞きたいけど聞かない』
昨日と同じ。
でも、今日は少し違う。
『私も、日曜の細かい話は言わない』
『そうして』
『でも五分早いのは嬉しい』
『何度も言うな』
『今日は一回』
『もう二回目』
『数えたの?』
『寝ろ』
私は少し笑った。
『おやすみ』
『おやすみ』
スマートフォンを置く。
ノートの一番下へ、今日の言葉を書く。
『同じ「嬉しい」でも、誰に伝えるかで意味は違う。だから、自分の言葉が相手に何を期待させるのか考える』
文字を見つめる。
竹下くんには、期待していいと言えた。
春斗には、期待の内容を勝手に決めないでと伝えた。
残酷かもしれない。
でも、どちらにも同じ希望を与えるよりは、少しだけ誠実だと思いたい。
明日の朝も。
春斗は五分早く来る。
日曜日には。
竹下くんと偕楽園へ行く。
手を繋ぐかもしれない。
私はまだ、二人の間で迷っている。
でも。
二人を同じ場所へ置いたまま、どちらにも同じ言葉を渡すことはやめようとしている。
答えは出ていない。
それでも、何も考えず二人の優しさを受け取っていた頃より。
ほんの少しだけ。
私は、自分の選ぶ責任へ近づいていた。




