第11話 幼馴染が少しだけ離れただけで、好きな人との次の約束より気になってしまいました
火曜日の朝、午前五時三十一分。
目覚ましが鳴るよりも四分早く目を覚ました私は、枕元へ置いたスマートフォンへ手を伸ばした。
画面には新しい通知がない。
昨夜、春斗から送られてきた最後のメッセージは、いつもより五分早く迎えに来るというものだった。
『話す時間欲しい』
『何話すの?』
『知らない』
『じゃあ普通でいいじゃん』
『普通が分からない』
そのやり取りをもう一度見返す。
普通が分からない。
春斗がそう言ったことが、昨日からずっと胸へ残っていた。
私にとって春斗と一緒に学校へ行くことは、考える必要もないくらい当たり前だった。朝、どちらかの家の車へ乗り、岩瀬駅まで行く。ホームでは同じベンチへ座り、水戸へ向かう電車でも大抵は隣にいる。
放課後になれば合流し、同じ電車で帰る。
何かあれば話す。
何もなければ、春斗が本を読み、私はスマートフォンを見る。
それが普通だった。
でも春斗にとっては、もう同じ形では続けられない。
竹下くんを好きな私の隣で、恋愛相談を聞き続ける。
竹下くんとの時間が増えるたび、何も言わず待っている。
私が恋人を作っても、幼馴染だからという理由だけで、今まで通り近くにいる。
春斗はそれを無理だと言った。
私が竹下くんと付き合い、それでも春斗を今まで通り隣へ置こうとするなら、自分から離れる。
思い出しただけで、胸の奥が重くなる。
私は竹下くんとの次の約束を楽しみにしている。
次の日曜日。
まだ部活の予定次第ではあるけれど、午前中に偕楽園へ行くかもしれない。
その話を思い浮かべれば、胸は自然に高鳴る。
竹下くんとまた二人で出かけられる。
今度は映画館の暗い座席ではなく、外を並んで歩く。
話す時間も増える。
もしかしたら、昨日よりも距離が近づくかもしれない。
嬉しい。
楽しみ。
それは本当だ。
同時に。
春斗が少し離れる未来を考えると、その楽しみが見えなくなるくらい不安になる。
「……失いたくないだけで選ぶな、か」
昨日、春斗に言われた。
春斗を失うのが怖いから。
今までの生活を変えたくないから。
その理由だけで春斗を選ぶのは違う。
分かっている。
でも、失いたくないという感情のどこからが恋で、どこまでが幼馴染への依存なのか、私にはまだ区別がつかなかった。
私はスマートフォンを置き、ベッドから起き上がる。
今日は五分早い。
春斗は、何を話すつもりなのだろう。
知らないと言っていた。
もしかすると、本当に何も決めていないのかもしれない。
それでも会いたいと思ってくれた。
好きだから待つ。
昨日、春斗はそう言った。
その言葉を思い出すだけで、少しだけ頬が熱くなった。
◇
午前五時三十七分。
玄関を出ると、昨日より空が明るかった。
東の空は薄い橙色へ染まり始め、夜の名残を抱えた雲が住宅街の屋根の上へ低く流れている。雨上がりの湿り気はまだ残っていたが、道路はほとんど乾き、庭先の植木から落ちる水滴だけが静かな朝の中で小さく響いていた。
今日は春斗の家の送迎当番。
私は家の前で車を待つ。
いつもより五分早いだけなのに、通りには人の姿がほとんどない。新聞配達のバイクが遠くを走り、家々の窓にも明かりはまばらだった。
少しして、見慣れた車が角を曲がる。
私の前で停まった。
後部座席のドアを開けると、春斗はいつもの窓際へ座っていた。
「おはよう」
「はよ」
声は普通。
昨日、好きと言われたあとで初めて迎える、次の朝。
それなのに春斗は、本当にいつも通りの顔をしている。
「おはよう、真理ちゃん」
「おはようございます」
運転席の春斗のお母さんへ挨拶し、私は春斗の隣へ座った。
ドアを閉める。
車が静かに動き出す。
春斗の膝には本が置かれていた。
でも、開いていない。
「五分早くしたのに、何も話さないの?」
私が聞く。
「今考えてる」
「会ってから考えるんだ」
「昨日は話したいと思った」
「何を?」
「だから今考えてる」
春斗は少し不機嫌そうに答える。
でも、私を避けているわけではない。
「じゃあ、待つ」
「何を」
「春斗が考えるの」
「朝から見張るな」
「見張ってない」
私は春斗の横顔を見る。
春斗は前を向いたまま、少しだけ眉を寄せた。
「顔見すぎ」
「だって、何話すか考えてる顔ってどんなかなと思って」
「普通だろ」
「少し困ってる」
「お前がいるから」
「ひどい」
前の席から、春斗のお母さんの小さな笑い声が聞こえた。
「母さん」
「何も言ってないわよ」
「笑った」
「朝から仲が良いなと思って」
「良くない」
「良いよ」
私がすぐに否定すると、春斗がこちらを見る。
「お前は少し黙れ」
「何で」
「余計なこと言うから」
「仲良くない方がいいの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ仲良い?」
「……普通」
「普通が分からないって言ったの春斗でしょ」
春斗が黙る。
私は少しだけ笑った。
「やっと勝った」
「何に」
「言葉」
「勝負してない」
春斗は短く息を吐き、窓の外へ視線を向けた。
車内にはラジオから朝のニュースが流れている。今日の天気は晴れ。昼間は気温が上がるらしい。
数分。
会話が途切れる。
春斗は考えている。
私は待つと決めたのに、気になって何度も横顔を見てしまう。
「真理」
ようやく春斗が呼んだ。
「何?」
「昨日、ノートに書いたんだろ」
「うん」
「俺と竹下のこと」
「うん」
「答えは出た?」
「一日で出ないよ」
「そうだよな」
春斗は分かっていたように頷いた。
「じゃあ何で聞いたの?」
「聞きたかったから」
「聞かないって言ってたのに」
「内容は聞いてない」
「答えが出たか聞くのは内容じゃない?」
「違う」
「似てる」
「違う」
春斗は少しだけ言い張ったあと、膝の上へ置いた本へ指を乗せた。
「俺さ」
「うん」
「待つって言ったけど」
胸が少し固くなる。
「やっぱり待てない?」
「そうじゃない」
「じゃあ何?」
「待つって、何もしないって意味じゃないから」
竹下くんも昨日、似たことを言った。
待つだけは嫌。
もっと話す。
次も誘う。
春斗より、自分との恋愛を楽しいと思ってもらう。
「竹下くんも同じこと言ってた」
口に出した瞬間、春斗の眉が動く。
「また竹下と同じか」
「嫌?」
「嫌」
「でも本当」
「分かってる」
春斗は少し不機嫌そうに息を吐いた。
「俺も、お前が自分で気づくまで何も言わずにいるのはやめる」
「何を言うの?」
「嫌なことは嫌って言う」
「今も言ってるよ」
「もっと」
「もっと嫌って言うの?」
「必要なら」
「怖い」
「お前が今まで聞かなすぎただけ」
否定できない。
春斗が黙って恋愛相談へ乗ってくれていたことを、私は優しさだと思っていた。
実際、優しさだった。
でも、その優しさに甘え、春斗の苦しさを考えようとしなかった。
「それから」
春斗が続ける。
「毎朝一緒に行くのも、毎日一緒に帰るのも、当たり前だと思うな」
胸の奥が冷たくなる。
「やめるの?」
「今すぐじゃない」
「じゃあ何で」
「竹下と付き合ったときの話」
「まだ付き合ってないよ」
「分かってる。でも、付き合ったら変える」
「どこを?」
「帰りは毎日一緒じゃなくする」
すぐに嫌だと思った。
でも、昨日の春斗の言葉を思い出す。
幼馴染のまま、何でも受け入れるのは無理。
「朝は?」
「家の当番があるから、今まで通りの日もある」
「それ以外は?」
「知らない」
「一緒じゃないかもしれない?」
「うん」
胸が苦しい。
竹下くんと付き合えば、竹下くんとの時間が増える。
それは嬉しいはずだ。
でも、その代わりに春斗との朝や帰り道が減る。
考えたことがなかった。
私は何かを手に入れても、今まで持っていたものは全部残ると思っていた。
「嫌」
小さく言う。
「だから、それで俺を選ぶな」
「分かってるけど」
「昨日も言った」
「でも嫌なものは嫌」
「それも考えろ」
春斗の声は冷たくない。
ただ、静かだった。
「俺はお前の幼馴染だけど」
「うん」
「お前の都合のいい場所で、ずっと同じ形ではいられない」
胸へ重く落ちる。
春斗のお母さんは何も言わない。
運転席から見える横顔は穏やかだが、会話へ口を挟むつもりはないらしい。
「春斗」
「何」
「今まで、都合よかった?」
「少し」
春斗は正直に答えた。
「竹下と上手くいったら嬉しいって話をして、駄目だったら慰めてもらって、分からないことは全部聞いて」
「……うん」
「俺が嫌だって言っても、離れるのは嫌って言う」
「うん」
「俺の気持ちを知って嬉しいって言うのに、竹下との次の約束も楽しみにしてる」
「それは」
「責めてるわけじゃない」
「でも、責められてるみたい」
「少しは責めてる」
胸が痛む。
春斗がはっきり言う。
「俺も我慢してた分、全部優しく言えるわけじゃない」
「うん」
「お前が迷う時間は必要だと思う。でも、その間ずっと俺が今まで通り何でも受け入れると思うな」
「……うん」
春斗の言葉は厳しい。
でも、逃げていない。
私を好きだからと、全てを許しているわけでもない。
自分が傷つかないための線を引こうとしている。
「じゃあ、春斗が嫌なこと、教えて」
「全部?」
「できれば」
「竹下の話を細かく聞くのは嫌」
「うん」
「デート服を見せられるのも嫌」
「昨日は見てくれた」
「昨日だけ」
「うん」
「竹下に言われたことと、俺に言われたことを比べられるのも嫌」
「比べてないよ」
「お前の中では比べてる」
「……少し」
「俺の反応を見て、竹下との関係を考えるのも嫌」
「それはしてない」
「本当に?」
すぐに答えられない。
映画の中で春斗を思い出した。
竹下くんとの時間を過ごしながら、春斗の反応を何度も気にした。
「してたかも」
「だろ」
「ごめん」
「それから」
春斗の指が膝の上で少し動く。
「俺に好きって言われて嬉しいって言いながら、答えはまだ分からないって何度も言われるのも、正直きつい」
「……」
「嬉しいって言うなってこと?」
「そうじゃない」
「じゃあ」
「何度も言うな」
春斗は少し視線を逸らした。
「期待が増えるから」
胸が締めつけられる。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「なら、今日は言うな」
「何を?」
「好きって言われて嬉しかったって」
「今言ったの春斗だよ」
「そういうところ」
「ごめん」
春斗のお母さんが、今度は堪えきれず小さく笑った。
「母さん」
「ごめんなさい。でも、二人とも少し落ち着きなさい」
「真理が」
「春斗くんもよ」
春斗が黙る。
私も少しだけ口を閉じた。
車内へラジオの音が戻る。
話していた内容は重かった。
でも、春斗が何を嫌だと思っているのか、初めて少し分かった。
「春斗」
「何」
「私も言っていい?」
「何を」
「嫌なこと」
「あるの?」
「あるよ」
「言えば」
私は少し考える。
「急に離れるって決めるのは嫌」
「まだ決めてない」
「でも、竹下くんと付き合ったら離れるって」
「毎日一緒をやめるって言っただけ」
「私には離れるのと同じ」
「同じじゃない」
「近い」
昨日、私が言った言葉を返されたようだった。
「それから」
私は続ける。
「春斗がほかの女の子と仲良くするのも嫌」
「まだ言うのか」
「嫌なこと言っていいって言った」
「お前には竹下がいるだろ」
「でも嫌」
「俺は誰とも話すなって?」
「そこまでは言ってない」
「じゃあどこまで」
「分からない」
「結局それか」
「春斗が、私以外の女の子を好きになるのが嫌」
車内の空気が少し変わる。
春斗のお母さんがバックミラー越しにこちらを見たが、今度は何も言わなかった。
春斗はしばらく黙り、窓の外へ視線を向けた。
「今はならない」
「本当?」
「今はお前が好きだから」
胸が強く鳴る。
嬉しい、と口にしそうになる。
でも、何度も言うのは嫌だと春斗に言われたばかりだ。
私は唇を閉じる。
春斗がこちらを見る。
「何」
「言わない」
「何を」
「約束したから」
「……そう」
春斗は少しだけ困ったような顔をした。
「言ってほしかった?」
「言わなくていい」
「顔が違う」
「見るな」
「春斗も分かりやすくなったね」
「お前のせいだろ」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
◇
岩瀬駅へ着くと、ホームにはいつもより多くの高校生がいた。
昨日の雨で部活動が短縮され、朝練へ変更した学校があるらしい。スポーツバッグを肩へ掛けた生徒たちが集まり、電車の到着時刻を確認している。
いつものベンチは先に座られていた。
私と春斗は、少し離れた柱の近くへ並んで立つ。
風が吹くたび、制服の裾が揺れた。
「春斗」
「何」
「今日は帰り一緒?」
「今のところ」
「今のところ?」
「お前、竹下と何かあるかもしれないだろ」
「今日はないよ」
「じゃあ一緒」
その返事へ安心する。
でも、安心した顔を見せると、また春斗へ期待を持たせる気がして、私は表情を抑えようとした。
「何その顔」
すぐに気づかれる。
「普通」
「変」
「嬉しそうにしないようにしてる」
「何で」
「春斗が期待するから」
春斗が少し黙る。
「そこまでしろとは言ってない」
「難しい」
「普通にしろ」
「普通が分からないって言ったの春斗でしょ」
「またそれ使うのか」
「便利だから」
春斗が呆れたように息を吐いた。
「真理」
「何」
「嬉しいときは嬉しそうにしていい」
「いいの?」
「俺が勝手に期待するのは、俺の問題でもある」
「でも」
「お前が全部気を遣って、何も言わなくなるのも嫌」
「どっち?」
「間」
「一番難しい」
「俺も分からない」
二人とも分からない。
だから、少しずつ決めるしかない。
「じゃあ」
私は少し迷う。
「今日帰り一緒で嬉しい」
春斗が私を見る。
「それくらいなら?」
「……いい」
「本当?」
「何度も確認するな」
「分かった」
春斗は視線を逸らした。
でも、口元が少しだけ緩んでいる。
私もそれ以上は言わなかった。
◇
午前七時二十三分。
教室へ入ると、いつもより騒がしかった。
黒板の前では小野寺くんたちがサッカー部の試合予定について話しており、窓際では数人の女子が週末の映画について盛り上がっている。昨日の朝よりも空気は落ち着いているはずなのに、私が入った瞬間、何人かがこちらを見た。
「久保さん、おはよう」
竹下くんがすぐに声をかけてくる。
「おはよう」
「今日、早いね」
「いつもと同じくらいだよ」
「俺より早いかと思った」
「竹下くんが遅かった?」
「朝練の連絡確認してた」
竹下くんは私の席の近くまで来る。
昨日より自然に距離が近い。
「来週の日曜」
「うん」
「午前は空きそう」
胸が高鳴る。
「本当?」
「まだ顧問の確認待ちだけど、午後から練習の予定」
「じゃあ偕楽園行ける?」
「行けると思う」
周囲へ聞こえたらしい。
小野寺くんがすぐに振り返った。
「次、偕楽園?」
「聞くな」
竹下くんが少し眉を寄せる。
「映画の次に偕楽園って、竹下意外と落ち着いてるな」
「悪いか」
「悪くない。むしろ本気感ある」
「何の」
「散歩しながら話すんだろ?」
小野寺くんがにやりと笑う。
周囲の女子たちもこちらを見る。
「二回目のデート?」
「梅の時期じゃないよね」
「でも人少ない方が話せそう」
「手繋ぐにはちょうどいいんじゃない?」
最後の言葉へ、教室の空気が一気に騒がしくなる。
「繋がない!」
私が反射的に言う。
声が大きすぎた。
竹下くんも耳を赤くしている。
「まだ決まってないから」
竹下くんが周囲へ言う。
「予定が?」
「全部」
「全部って何だよ」
小野寺くんが笑う。
愛ちゃんが私のところへ来て、机の横へ立った。
「朝から大変だね」
「助けて」
「無理」
「愛ちゃん」
「真理、顔真っ赤」
「言わないで」
私は鞄を机へ置き、椅子へ座る。
竹下くんも自分の席へ戻ろうとしたが、その前に少し身体を屈め、私へ小さな声で言った。
「手繋ぐかは、そのとき決めよう」
胸が跳ねる。
「え」
「周りに決められることじゃないから」
竹下くんはそれだけ言い、今度こそ席へ戻った。
私は何も返せなかった。
心臓が速い。
次の日曜日。
手を繋ぐかもしれない。
昨日は指先が少し触れただけ。
今度は、本当に。
「真理」
愛ちゃんが顔を覗き込む。
「何」
「嬉しい?」
「……少し」
「春くんのこと考えた?」
すぐには答えられない。
でも。
竹下くんが「そのとき決めよう」と言った瞬間、春斗の言葉が浮かんだ。
『俺を選んだら、そのときは繋ぐ』
胸の奥がざわつく。
「考えた」
「そっか」
愛ちゃんは私の前の席へ座った。
「比べた?」
「少し」
「どうだった?」
「分からない」
「手を繋ぎたいのは?」
「竹下くんとは、繋いでみたい」
「春くんは?」
「気になる」
「違うね」
「何が?」
「言い方」
愛ちゃんは静かに言う。
「竹下くんとは、これからしたいこと。春くんとは、したら何が変わるか気になること」
胸へ落ちる。
確かに違う。
竹下くんと手を繋ぐ場面は、恋が進む想像として浮かぶ。
春斗と手を繋ぐ場面は、今までの関係が壊れる境目のように感じる。
「どっちが恋なの?」
「どっちも恋かもしれない」
「また難しくなった」
「簡単にはならないよ」
「愛ちゃん、助けて」
「答えは真理が出すの」
分かっている。
でも、難しい。
◇
一時間目と二時間目の間。
担任が教室を出ると同時に、生徒たちは一斉に立ち上がった。
廊下へ出る者。
友人の席へ集まる者。
窓を開ける者。
空気が一気に緩む。
私は次の授業の教科書を出そうとした。
そのとき、前の席の女子が振り返る。
「久保さん」
「何?」
「偕楽園、本当に行くの?」
「まだ仮だけど」
「いいなあ」
「行ったことない?」
「家族とはあるけど、男の子と二人はない」
近くにいた別の女子も会話へ入る。
「竹下くん、結構本気じゃない?」
「何が?」
「久保さんのこと」
顔が熱くなる。
「分からない」
「映画行って、次も誘って、昼も二人で食べてるんでしょ」
「昨日だけ」
「今日も食べるんじゃないの?」
「決めてない」
その会話を聞いていた竹下くんが、少し離れた席からこちらへ視線を向けた。
周囲の男子たちも笑っている。
「竹下、今日も誘えよ」
「毎日だと重いだろ」
「でも幼馴染に負けるぞ」
その言葉で、空気が少し変わる。
竹下くんの表情が僅かに硬くなった。
私はすぐに口を開く。
「勝ち負けじゃないよ」
「でも三角関係なんでしょ?」
女子の一人が悪気なく聞く。
「違う」
反射的に否定する。
でも。
完全には違わない。
春斗は私を好き。
竹下くんも私へ好意を持っている。
私は二人の間で迷っている。
周囲から見れば、三角関係だ。
「違わないかも」
小さく言い直す。
周囲の生徒たちが少し驚いた顔をする。
「認めるんだ」
「久保さん、正直」
「どっちが好きなの?」
一番答えられない質問。
私は黙った。
竹下くんが席を立つ。
「そこまで聞くなよ」
少し強い声だった。
教室の空気が静まる。
「久保さんが困ってるだろ」
「ごめん。軽く聞いただけ」
質問した女子が申し訳なさそうに引く。
「俺も、まだ答えを急かしてないから」
竹下くんは私を見ず、周囲へ向かって言った。
「周りが面白がって決めることじゃない」
真っ直ぐな言葉。
教室の空気が少し落ち着く。
小野寺くんも、今回は笑わなかった。
「悪かった」
短く謝る。
竹下くんは頷き、自分の席へ戻った。
私はその背中を見つめる。
守ってもらった。
嬉しい。
でも。
竹下くんも、周囲から春斗と比べられることへ傷ついている。
私は二人を比べたくない。
それでも、選ぶということは、最後にはどちらかを選ばないことでもある。
胸が重くなった。
◇
昼休み。
私は愛ちゃんと食堂へ向かうつもりで、教室の入口へ立っていた。
竹下くんは友人たちと部活の打ち合わせをしている。
今日は誘われないらしい。
少しだけ残念。
でも、毎日二人で食べるわけではない。
「何、待ってるの?」
愛ちゃんが聞く。
「待ってない」
「竹下くん?」
「違う」
「顔がそっち見てる」
「打ち合わせ中だから」
「声かけられたかった?」
「少し」
愛ちゃんが笑う。
「昨日も二人で食べたもんね」
「うん」
「でも今日は私と」
「嫌じゃないよ」
「知ってる」
二人で廊下へ出る。
階段へ向かう途中、別のクラスの女子が二人、廊下の窓際へ立って話していた。
その一人が春斗と同じクラスの女子だった。
名前はよく知らない。
でも、以前。
春斗と廊下で話しているところを見たことがある。
春斗はその女子にノートを見せ、何か説明していた。
私はあのとき、少し嫌だと思った。
「真理?」
愛ちゃんが足を止める。
「何?」
「また顔」
「何でもない」
「春くんのクラスの子?」
「たぶん」
「話したことある?」
「ない」
「春くんと仲良い?」
「知らない」
声が少し硬くなった。
愛ちゃんが私の横顔を見る。
「気になる?」
「少し」
「竹下くんに誘われなかった直後に?」
「それは別」
「便利な言葉」
春斗にも言われた。
「でも本当に別だよ」
「うん。別なんだと思う」
「何でそんな言い方」
「真理の中ではね」
愛ちゃんは歩き始める。
私も隣へ並ぶ。
「春くんが、あの子と昼食食べたら嫌?」
「嫌」
すぐに答える。
「二人で出かけたら?」
「もっと嫌」
「告白されたら?」
「嫌」
「春くんがその子を好きになったら?」
「絶対嫌」
答えるたび、胸が苦しくなる。
愛ちゃんは黙って聞いている。
「竹下くんが、別の女の子と同じことしたら?」
「嫌」
「どっちも?」
「うん」
「じゃあ、やっぱり二人とも好きなんだろうね」
「……」
「今は」
愛ちゃんが付け加える。
「ずっとそのままでいいって意味じゃないよ」
「分かってる」
「真理が二人とも失いたくないと思っても、二人には二人の選ぶ権利があるから」
春斗は境界線を示した。
竹下くんも、待つだけではないと言った。
二人とも、私の答えが出るまで同じ場所に留まり続けるとは限らない。
「怖い」
小さく言う。
「何が?」
「考えてる間に、どっちかが離れるの」
「それはあるかもしれない」
「愛ちゃん、そこは大丈夫って言ってよ」
「嘘になるから」
「厳しい」
「でも、焦って決める方がもっと危ない」
「じゃあどうすればいいの」
「迷ってる間も誠実にする」
「どうやって?」
「二人に同じことを言わない。二人の反応を比べて楽しみすぎない。自分が何を求めてるのか考える」
私は廊下の床を見る。
「自分が選ばれることじゃなくて、自分が誰を選びたいか」
「昨日のノート?」
「うん」
「良い言葉だね」
「自分で書いた」
「なら守らないと」
「難しい」
「知ってる」
愛ちゃんが少しだけ笑った。
◇
昼食を終え、教室へ戻る途中。
階段の踊り場で春斗と会った。
春斗は一人ではない。
さっき見た女子と、同じクラスらしい男子の三人で歩いている。
女子は春斗の手にあるプリントを指し、何かを聞いていた。
「ここ、先生が飛ばしたところ」
「次の授業でやるって言ってた」
「でも課題に入ってるよ」
「自分で読めってことじゃない」
「久保くん、分かる?」
「少しなら」
春斗はいつものように淡々と答えている。
距離は近くない。
特別に楽しそうでもない。
ただ、同じクラスの友達として話している。
それだけ。
なのに、胸がざわつく。
「春斗」
私は思わず呼んだ。
春斗が顔を上げる。
「真理」
一緒にいた二人もこちらを見る。
「何?」
呼んだのに、用事がない。
「……帰り」
「一緒だろ」
「確認」
「朝した」
「そうだけど」
春斗は少し眉を寄せる。
女子が私と春斗を交互に見る。
「幼馴染の子?」
春斗へ聞く。
「うん」
「いつも一緒に来てる人だよね」
「そう」
女子が私へ軽く頭を下げる。
「同じクラスの石井です」
「久保真理です」
苗字が同じ。
石井さんが少し笑う。
「久保くん二人になるね」
「昔からよく言われます」
「親戚?」
「違います」
「家近い幼馴染なんだ」
「はい」
ただの自己紹介。
何もおかしくない。
石井さんも嫌な人ではない。
それでも、春斗の隣で自然に話す姿が気になる。
「じゃあ、またあとで」
春斗が言う。
「うん」
私は愛ちゃんと階段を上がる。
数段進んだところで、振り返った。
春斗もこちらを見ていた。
目が合う。
すぐに逸らされる。
「真理」
愛ちゃんが小さく呼ぶ。
「何?」
「すごい顔」
「どんな?」
「取られそうで嫌な顔」
「取られないよ」
「何で?」
「春斗、私が好きだから」
言ってから、自分でも驚いた。
春斗の気持ちを、安心のために使った。
愛ちゃんの表情が少し曇る。
「真理」
「分かってる」
「本当に?」
「今の、良くなかった」
春斗が私を好き。
だから、ほかの女子へ行かない。
そう考えれば安心できる。
でも、それは春斗の気持ちへ甘えている。
「春くんが好きだから、ずっと真理のものってわけじゃないよ」
「うん」
「真理が答えを出さないままなら、春くんが諦めることもある」
「嫌」
「だから、嫌だけで止めない」
「うん」
胸が痛い。
私は石井さんを嫌いになる理由がない。
春斗がほかの女子と話すことを止める権利もない。
竹下くんと次のデートを約束している私が、春斗だけを縛ることはできない。
◇
放課後。
竹下くんはサッカー部へ向かう前に、私の席へ来た。
「日曜、確定した」
「本当?」
「午前九時半に水戸駅でどう?」
「早いね」
「午後一時から練習だから、十二時過ぎには出ないと」
「大丈夫」
「短くなるけど」
「会えるならいい」
竹下くんが少し笑う。
「ありがとう」
「偕楽園で何する?」
「歩く」
「それだけ?」
「話す」
「本当に落ち着いてる」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
胸が高鳴る。
竹下くんとの二回目のデート。
今度は正式に予定が決まった。
「竹下くん」
「何?」
「楽しみ」
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「俺も」
「今度は遅刻しないように」
「昨日早すぎたの久保さんだろ」
「竹下くんも早かった」
「待たせたくなかったから」
昨日と同じ言葉。
嬉しい。
「日曜」
竹下くんが声を少し落とす。
「手、繋いでもいい?」
胸が跳ねる。
教室にはまだ数人の生徒が残っている。
でも、周囲の声が遠くなった。
「今聞くの?」
「そのとき急に聞くよりいいかと思って」
「分からない」
正直に答える。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「なら」
「でも、今決めるのも違う」
春斗の言葉が浮かんでいる。
竹下の次に試されるのは嫌。
俺を選んだら、そのときは繋ぐ。
でも、竹下くんと手を繋ぐことは、春斗を試すためではない。
竹下くんと私の関係を進めること。
「そのとき決めたい」
私は言った。
「分かった」
竹下くんは急かさなかった。
「でも、聞いたら考えてくれる?」
「うん」
「良かった」
竹下くんはそれ以上言わず、部活へ向かった。
私は自分の手を見る。
日曜日。
本当に繋ぐかもしれない。
胸は高鳴っている。
嫌ではない。
むしろ、楽しみに近い。
それなのに、同じくらい怖かった。
その一歩を踏み出したら、春斗との関係がまた少し変わる。
◇
いつもの合流場所へ向かう。
春斗はまだ来ていなかった。
私は壁際へ立ち、スマートフォンを確認する。
竹下くんから、待ち合わせの詳細が届いている。
『日曜九時半、水戸駅北口』
『偕楽園までバスでもいいけど、歩けそうなら歩こう』
『十二時頃には戻る』
私は『了解』と返す。
数分後。
春斗が廊下の向こうから歩いてきた。
一人。
石井さんはいない。
それだけで安心する。
でも、その安心を自覚した瞬間、昼の愛ちゃんの言葉を思い出す。
春斗が私を好きだからといって、ずっと私のものではない。
「遅い」
私は言った。
「二分」
「二分は二分」
「真似するな」
「今日は私が先」
「そう」
春斗が隣へ来る。
二人で駅へ向かって歩き始めた。
「石井さん」
すぐに聞いてしまう。
「何」
「よく話すの?」
「同じクラスだから」
「それだけ?」
「何で」
「気になった」
「お前には竹下がいるだろ」
朝と同じ。
「でも嫌」
「何が」
「春斗が石井さんと仲良くなるの」
春斗は少し黙った。
「昼、呼んだのそれ?」
「少し」
「用事なかっただろ」
「帰りの確認」
「朝した」
「でも、話してたから」
「プリント聞かれただけ」
「うん」
「それで?」
「嫌だった」
私は正直に言う。
春斗の歩みが少し止まる。
「真理」
「何」
「俺を縛るな」
胸が痛む。
「分かってる」
「お前は竹下と次の約束する」
「うん」
「手も繋ぐかもしれない」
「……うん」
「その状態で、俺が女子と話すのは嫌って言うのは違うだろ」
「分かってるけど、嫌なことは言っていいって」
「言うのはいい」
春斗は歩き始める。
「でも、やめろって言われてもやめない」
「石井さんと話すの?」
「必要なら」
「二人で出かける?」
「今はない」
「今は?」
「先のことは分からない」
胸の奥が冷たくなる。
「春斗は私が好きなんでしょ」
口から出た。
春斗の表情が硬くなる。
「それを使うな」
「……」
「俺がお前を好きだから、何しても離れないと思うな」
昼に自分で考えたことを、春斗から言われる。
「ごめん」
「その謝り方は分かってる顔じゃない」
「分かってる」
「なら」
「でも怖い」
声が震える。
春斗が黙る。
「私が考えてる間に、春斗が諦めるのが怖い」
「うん」
「石井さんを好きになるかもしれないって言われるのも嫌」
「うん」
「でも、竹下くんとの日曜も楽しみ」
「うん」
「自分でもひどいと思う」
「少しな」
「春斗」
「何」
「待つって言ったよね」
「言った」
「どれくらい?」
「分からない」
「決めてない?」
「決められない」
春斗は前を向いたまま答える。
「来週までとか、一か月とか、そういう話じゃない」
「じゃあ」
「俺が無理だと思うまで」
胸が締めつけられる。
「無理って思ったら?」
「離れる」
「何も言わずに?」
「言う」
「絶対?」
「たぶん」
「絶対言って」
「何で」
「知らないうちに離れられるの嫌」
「真理」
「何」
「それも、俺を選ぶ理由にはするな」
「分かってる」
「本当に?」
「分からないけど、分かろうとしてる」
春斗は少しだけこちらを見る。
「なら、いい」
「いいの?」
「今は」
今は。
その言葉が怖い。
でも、春斗は嘘をつかない。
「日曜」
春斗が言う。
「決まった?」
「うん」
「偕楽園」
「うん」
「何時?」
「九時半に水戸駅」
「早いな」
「午後から部活だから」
「そう」
春斗は聞きたくないはずなのに、日付も時間も聞く。
「手」
春斗が続ける。
「繋ぐの?」
胸が跳ねる。
「竹下くんにも聞かれた」
「何て答えた」
「そのとき決める」
「そう」
「嫌?」
「嫌」
はっきりした答え。
「でも、止めない?」
「止められない」
「うん」
「ただ」
春斗が少しだけ声を低くする。
「繋いだら、俺には言うな」
「分かった」
「顔で分かっても、聞かない」
「本当に?」
「聞きたくない」
「うん」
「それと」
「何?」
「繋いだあとで、俺の手も気になるとか言うな」
昨日の電車で言ったこと。
胸が痛む。
「分かった」
「比べられたくない」
「うん」
「俺は竹下の次じゃない」
「分かってる」
「ならいい」
春斗の歩幅が少し速くなる。
私は隣へ追いつく。
「春斗」
「何」
「石井さんと出かけないでって言うのは駄目?」
「駄目」
「即答」
「お前が竹下と出かける間は」
「じゃあ、私が出かけなくなったら?」
春斗がこちらを見る。
「それ、俺を選んだってこと?」
「まだ分からない」
「なら駄目」
線がはっきりしている。
「厳しい」
「お前が欲張りすぎ」
「分かってる」
「分かってるなら考えろ」
「考えてる」
「もっと」
「難しい」
「知ってる」
春斗は少しだけ笑った。
私も、苦しいのに少し笑ってしまった。
◇
帰りの電車。
今日は座席が混んでおり、私と春斗は並んで吊り革につかまっていた。
電車が揺れるたび、肩が触れる。
昨日までは何も思わなかった距離。
今は、触れるたびに意識する。
春斗の手は吊り革を握っている。
私の手も、すぐ隣の吊り革。
指先の距離は近い。
でも、触れない。
「見すぎ」
春斗が前を向いたまま言う。
「何を」
「手」
「見てない」
「嘘」
「少し」
「日曜まで我慢しろ」
「竹下くんの手?」
「俺に聞くな」
「怒った?」
「少し」
私は窓の外を見る。
夕方の街が流れていく。
「春斗」
「何」
「石井さんのこと好きじゃない?」
「今は違う」
「本当?」
「何度聞くんだよ」
「安心したい」
「それを俺にさせるな」
胸が痛む。
「ごめん」
「でも」
春斗が小さく続ける。
「今は、お前以外を好きになる余裕ない」
顔が熱くなる。
嬉しいと言わない。
何度も言えば期待すると言われた。
私は黙った。
「何」
「言わない」
「顔に出てる」
「仕方ない」
「嬉しい?」
「……うん」
一回だけ。
小さく答える。
春斗は何も言わなかった。
でも、吊り革を握る指の力が少しだけ緩んだ。
◇
夜、午後九時四十八分。
私は昨日のノートを開いていた。
左に竹下くん。
右に春斗。
昨日書いた言葉の下へ、今日の出来事を追加する。
竹下くん。
日曜日の偕楽園が決まった。
手を繋いでもいいか聞かれた。
嫌ではない。
その場で決めたい。
教室で周囲から質問されたとき、守ってくれた。
もっと竹下くんを知りたい。
春斗。
石井さんと話しているだけで嫌だった。
春斗が自分を好きだから離れない、と安心しようとした。
それは良くない。
春斗は、嫌なことをもっと言うと決めた。
毎朝も毎日の帰りも、永遠に同じではない。
私が竹下くんと付き合ったら、距離を変える。
春斗を縛る権利はない。
でも、ほかの女の子を好きになってほしくない。
書きながら、胸が重くなる。
今日、一番強く残ったこと。
竹下くんとの偕楽園が決まった嬉しさ。
それは大きい。
でも。
昼休み、春斗が石井さんと話しているのを見た瞬間。
次の日曜日のことが頭から消えた。
ただ、春斗が誰かと近づくのが嫌だった。
それは何を意味するのだろう。
竹下くんがほかの女の子と話していても、きっと嫌だ。
でも、春斗のときは、もっと身体の深い場所が冷たくなった。
昔から自分の隣にいた人を取られる怖さ。
それだけなのか。
好きな人を失う怖さなのか。
私はペンを止める。
スマートフォンが震えた。
竹下くん。
『日曜、晴れるといいね』
『うん』
『雨なら別のところ考える』
『どこ?』
『まだ秘密』
『気になる』
『晴れたら偕楽園だから』
『じゃあ晴れてほしいけど、秘密も気になる』
『欲張り』
竹下くんから言われる。
私は少し笑った。
『竹下くんに言われたくない』
『俺、欲張り?』
『私をもっと見てほしいって言った』
『それは欲張る』
胸が高鳴る。
『日曜楽しみ』
『俺も』
会話を終えたあと。
少しして、春斗からメッセージが届く。
『明日は普通』
私は画面を見つめる。
『五分早くない?』
『うん』
『何で?』
『今日は話したから』
少し寂しい。
五分早く会えることを、思ったより楽しみにしていた。
『そっか』
送る。
春斗から返事は来ない。
私はノートへ視線を戻す。
でも、文字が頭へ入らない。
『春斗』
送る。
『何』
『五分早いの、嬉しかった』
少し迷ったが、正直に言った。
既読。
返事は来ない。
『何度も言うなって言われたけど、これは違うよね』
『少し違う』
『じゃあ言っていい?』
『もう言っただろ』
『明日も五分早くしてほしい』
長い沈黙。
『何話す』
『何もなくてもいい』
『普通と同じだろ』
『五分長く一緒にいる』
送信した瞬間、自分の言葉に胸が鳴る。
竹下くんとの次の日曜日を楽しみにしている。
それでも、春斗と朝を五分長く過ごしたい。
これは、また欲張りなのだろうか。
既読がつく。
返事はなかなか来ない。
『期待する』
春斗から届く。
『分かってる』
『それでも?』
『うん』
今度は短い沈黙。
『じゃあ五分早い』
胸が温かくなる。
『ありがとう』
『寝坊するな』
『しない』
『日曜のこと考えて寝ろ』
『春斗のことも考える』
『言うな』
『ごめん』
『謝るな』
いつものやり取り。
私は少し笑った。
でも、その笑顔の奥には、今日一日の重さが残っていた。
竹下くんとの二回目のデートは決まった。
手を繋ぐかもしれない。
恋は確かに前へ進んでいる。
その一方で。
春斗が別の女の子と話すだけで、私は平静ではいられなかった。
春斗が私を好きだから安心する。
春斗が離れるかもしれないと思うと怖い。
その気持ちへ甘えたまま、竹下くんとの恋を進めることはできない。
私はノートの一番下へ、今日の言葉を書き足した。
『二人を失いたくない気持ちと、どちらかを恋人として選びたい気持ちは、同じではない』
文字を見つめる。
今は、まだ完全には分からない。
でも。
春斗が石井さんと話しているのを見たときの痛み。
竹下くんに日曜日の手を繋ぐ約束を聞かれたときの高鳴り。
その違いを、私は少しずつ覚え始めている。
明日の朝。
春斗はまた五分早く迎えに来る。
次の日曜日。
私は竹下くんと偕楽園を歩く。
どちらの時間も欲しい。
でも、両方を手放さないためだけに抱えるのではなく。
自分が本当に、誰の隣へ向かいたいのか。
私はまだ答えを出せないまま、それでも昨日より少しだけ重くなったノートを閉じた。




