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調査②


 たからは、白いスーツの皺を一つ、丁寧に伸ばしてから医務室の扉を叩いた。

 横には、まだ眠たげに大きなあくびを噛み潰しているミヤビがいる。

 

「……失礼するよ」

 

 静かに扉を開けると、そこには既に目覚め、ベッドの上で小さな机を広げている博喜の姿があった。

 包帯に巻かれた腕を不自由そうに動かしながら、彼は一冊の古いノートにペンを走らせている。

 

「おはようございます」

「おはよう、博喜くん。……感心だね、そんな体でまだ勉強かい?」

 

 たからが歩み寄ると、博喜は照れくさそうに口角を上げた。

 

「これしか、俺の存在価値を証明できるものが無いですから」

「……君は昨日もそう言ったな。そんなわけないだろう」

「誰に言われたんすか〜?」


 ミヤビが嬉々として割り込む横で、たからは不満そうに眉をひそめた。

 博喜は悲しそうに微笑む。


「……父さんが……認めてくれたものですから」

「もういないが?」

「い……や。……そう、ですね」


 博喜は震える指先で、テーブルの上に置かれた使い古されたノートの端をなぞった。その指は、まるで何かの数式をなぞり直しているかのように、せわしなく動いている。

 

「……でも、不思議なんです。昨日まで解けていたはずの方程式が、今朝はどうしても思い出せなくて。頭の芯が、真っ白に漂白されてしまったみたいで」


 博喜は力なく笑ったが、その瞳にはひどい怯えが張り付いている。

 ミヤビがその言葉に、ピクリと眼鏡の奥の目を動かした。

 

「物忘れっすか? 疲れが溜まってるんじゃないっすかね?」

「そうかもしれません。……でも、ノートの余白に書いたはずの名前も、なぜか掠れて読めなくなっていて」

 

 博喜が指し示したノートの端には、確かに何かを書き込んだ跡があった。

 しかし、そこだけが水に濡れて滲んだように、あるいは消しゴムで執拗に擦られたように、真っ白な空白へと変わっている。

 たからはペンを持つと、博喜が読み上げられなかった方程式の続きを、一瞥もせずにスラスラとノートに書き残す。

 

「……ミヤビ。次だ」

 

 たからはそれ以上追求せず、隣のベッドへと視線を移した。

 そこには、昨夜ヘドロを吐き出して倒れた蒔時と奏楽が、力なく横たわっていた。

 

「蒔時くん、奏楽くん、気分はどうかな?」

 

 声をかけると、彼らはゆっくりと、緩慢な動きでこちらを向いた。

 

「……たから、さん……。お見舞い、ありがとうございます……」

「奏楽くん、昨夜のことは覚えているかい?」

「はい。朧気ながら。……私の中に、誰かが手を突っ込んで、かき回していったような感覚だけが残っています」


 奏楽は掠れた声で答えながら、胸元を抑えた。昨日よりその存在感が薄れ、焦点は虚空を彷徨い、何も映していない。

 その隣の蒔時は、そばかすの散る頬は昨日よりもさらに削げ、生気が失われている。輪郭がぼやけ、更に影を薄めていた。


「蒔時くん、君は?」

「僕は……平気です。……でも」

 

 蒔時は、震える手で自分のリボンが置かれたサイドテーブルを指し示した。

 白藍色の、端正なリボン。だが、その色が、昨夜よりも明らかに淡くなっている。

 

「声が……出しにくいんです。まるで、喉の奥にあるはずの言葉を、誰かに半分くらい持っていかれたみたいで」

 

 ミヤビが蒔時の背後に回り、その影をじっと見つめる。

 朝日がこれほど強く差し込んでいるというのに、彼の影は輪郭がぼやけ、床の木目に溶けかかっている。

 

「……ねえ、蒔時くん。昨日、雫桜ちゃんが言ってたけど、『選ばれる』と少しずつ薄くなるってのは本当なんすか?」

「……ええ。最初は思い出、次に名前、そして最後は……自分がここにいたという事実そのものが削られて、誰の記憶にも残らなくなるんです。……僕も、もうすぐかもしれません」

「そうだな」


 たからは、否定しなかった。ただ一歩、蒔時に近づいて、その影を覗き込む。

 蒔時がわずかに目を見開く。


「だが問題ない。戻せる段階だ」

 

 たからは医務室の窓を大きく開け放った。

 入り込んできた風は、温かく、そしてどこか優しすぎるほどに穏やかだった。奏楽は自分の胸元を抑えたまま、たからが窓を開けた際に入ってきた光に、眩しそうに目を細める。

 

「……ああ。……また、吹いてる……」

「……また?」

「懐かしいな……優しい、風だ。昔はよく、慰めてもらっていました。僕は、運がいいばっかりに……」

 

 蒔時はそう言って、自嘲気味に目を細めた。

 その瞬間、開け放たれた窓から吹き込んだ風が彼の肩を撫でる。まるで彼の言葉を否定するように、見えない指先で撫でるように、その細い肩を優しく抱きしめた。

 

 ミヤビは窓際に立ち、誰もいない中庭を見下ろした。

 風に揺れる花々。その合間を足音が駆け抜け、生い茂る草むらが重さのない何かに踏まれたように沈んだ。

 

「たからさん。どうやらお見舞い品は、果物じゃなくて泥棒への手錠が必要みたいっすね」

「ああ。……君たちはゆっくり休んでいてくれ。私たちが、君たちの削られたものをすべて取り返しに行ってくる」

 

 たからが、一瞬だけ蒔時の淡いリボンに触れる。そして三人に背を向け、一歩踏み出した。

 廊下に響く足音は、昨夜より深く、硬かった。

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