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第一夜


 夜。

 屋敷の奥深く、客用として用意された寝室は、昼間の喧騒とは別次元の静寂に包まれていた。分厚いカーテンの隙間から差し込む月明かりは淡く、蝋燭の炎が壁に長く揺れる影を刻んでいる。

 空気は重く、しかし奇妙に乾いていて、まるでこの屋敷そのものが息を潜めているかのようだった。


 ミヤビはベッドの端に腰掛け、脱いだ靴をぶらぶらと揺らしながら、眼鏡のレンズを布で拭いていた。こめかみを押さえ、深く息を吐く。


「……正直」


 彼女は眼鏡を外したまま、ぼんやりと蝋燭の火を見つめた。


「神格さんがあそこまで臨機応変に動けるとは、想定外っす。つか、対応早すぎません? まるでこちらの動きを読んで、先回りでもしているみたいじゃないですか」


 たからは窓際に立ち、カーテンの隙間から外の闇を眺めていた。中庭はかなり丁寧に手入れがされており、美しかった。

 月光に照らされた金髪が、冷たい白さを帯びている。


「ああ、私も予想以上だった」


 振り返らずに、低く落ち着いた声で返す。

 ただし、その眉間には深い皺が刻まれている。


「博喜くんや蒔時くんの襲撃は、不測の事態に対する場当たり的な反応ではない。あれは計算され尽くした、至極全うな『嫌がらせ』だ」

「とりあえず怖がらせておけばいっか〜、みたいな?」

「というよりは、『この程度の不条理を捌けなくてどうする』という挑発だろうな」


 ミヤビは苦笑を浮かべ、眼鏡をベッドの上に置いた。


「で、その試練に合格したから、わざわざ交渉のテーブルについてくれた、と」

「事態は思っていたより深刻だ」


 たからはようやく振り返り、ベッドの背もたれに体重を預けるように腰を下ろした。


「神格という未知数に加え、泥棒の確保という既知の不純物まで増えた。足し算ではなく、掛け算で状況が悪化している」

「ま、まぁ、神格さんがこちらのサイドに転がってきただけでも、前進と言えなくもないんじゃないっすか?」

「協力という甘い言葉で括れるほど、楽観的ではないな。あれはただ、一方的に約束を取り付けただけだ」

「ええ……あれは合意じゃあないんですか」

「善意を前提にするのは、無防備な背中を晒すのと同義だ」


 蝋燭の芯が、ぱちりと音を立てて弾けた。

 ミヤビは天井を仰ぎ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……でも、ひとつだけはっきりしたこともありますよ」

「子どもたちは、すぐには死なない」


 たからが、先に結論を口にした。

 ミヤビは小さく頷き、指を一本ずつ立てながら続ける。


「そうです。あいつらのやり方は即死を目的にしていない。選定し、猶予を与え、恐怖を演出し、段階を踏ませる……まるで儀式みたいに。自分より作者やってんじゃないかってくらい、丁寧に壊しにかかってきますよね」


 たからは顎に手をやり、静かに分析を重ねた。


「神格は血を渇望していた。暴走は、血を流させるための効率的なポンプとして機能している可能性がある」

「でも存在自体が消滅してしまうなら、収支が合わないですよね。使い捨ての消耗品じゃあ、いずれ在庫が尽きますよ」

「だからこその、協力要請だったのだろう。消失は、神格にとっても望まぬ結末というわけだ」

「それなら、自分で戦ったらいいんすよ! この雑魚っ!」

「今回の交渉で、神格という名の脅威は一時的に回避された。……だが」


 部屋の空気が、わずかに重くなった。一瞬、夜風の音さえも遠のいたように感じられた。

 ミヤビが、ふっと自嘲めいた笑みを浮かべた。


「……むしろ、自分たちが来たことで危険が増した可能性もありますよね?」


 たからは小さく息を吐き、静かに言った。


「……しかし、引くという選択肢は無い」

「もちろん」


 ミヤビは即答し、珍しく声を柔らかくした。


「全員生還が第一目標だって、最初に言いましたからね。たとえこの物語が、クソほどつまらなくなったとしても……全員を生きて、この屋敷から連れ出す。それがたからさんの望みでしょう?」

「その言葉に二言はないな?」

「ありませんよ。たとえ未完の設定が、めちゃくちゃに塗り替えられようとも」


 たからは立ち上がり、蝋燭の火を一息で吹き消した。

 月明かりだけが残る部屋に、深い影が落ちる。


「……ならいい。子どもたちが不幸な目に遭うことは、絶対にあってはならない」


 闇の中で、たからの声だけが力強く響いた。


「幸せに、笑っていること。それが本来、彼らの仕事であり、役目であり、生きる意味だ」


 ミヤビは何も答えなかった。

 ただ暗闇の中で、ほんの僅かに口元を歪めた。

 それが、たからの信念を嘲笑ったものなのか、それとも別の感情によるものなのか——消えかけた蝋燭の残り香だけが、静かにその答えを知っているようだった。

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