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迎合⑤


 医務室へ戻る途中から、違和感はあった。足音が、揃わない。

 たからの靴音と、ミヤビの軽い足取り。その二つ以外の足音が聞こえてくる気がして、たからは一度だけ後ろを振り返った。

 誰もいない廊下が、静かに続いているだけだった。


「……どうかしました?」


 ミヤビが首を傾げる。


「いや」


 たからは短く答え、歩みを速めた。胸の奥に引っかかるものを、言葉にするにはまだ早いと判断した。

 廊下を進むたびに、違和感は霧が晴れるようにその輪郭を露わにしていった。

 一定の規則で刻まれていたはずの二人の足音が、ふとした瞬間に、心臓の鼓動を跳ねさせるような「ズレ」を生じさせる。

 たからは無言で足を止めた。


「――誰だ?」


 たからは暗闇に向かって声をかける。

 数秒もしないうちに、背の低い少女が姿を表した。

 ボーイッシュな短髪と、幼さの残る瞳が不安そうにこちらを見る。しかしその瞳の奥ではこちらをじっと観察しているような強かさがある。

 どこか場違いな探偵を模した茶色のポンチョに、瑠璃色のリボンが括り付けられていた。


「瑠璃の雫桜(なお)ちゃんだ。さては探偵の名に釣られたな〜?」


 ミヤビが閃いたと言わんばかりに指を鳴らす。

 少女は少しだけ頬を赤らめ、消え入りそうな声で頷く。


「お二人が話してたのを聞いてて。どうしてもお話したくて」

「探偵に憧れるなんて、正気の沙汰じゃないぞ」


 たからは半ば呆れたように腕を組む。


「でも、でも! 事件を解決するなんてかっこいいじゃないですか!」

「解決出来ればな。何事も、全てが上手くいくとは限らないさ」

「でもでも、博喜兄さんの時とか、蒔時兄さんの時はバッて解決してくれたじゃないですか!」

「見てたのか?」


 たからは目を細め、少女の影を盗み見た。

 彼女の足元にある影は、まるで水に溶け出す絵具のように淡く、頼りなく引き延ばされている。

 たからの背筋に、生理的な嫌悪感が這い上がった。


「……はい。何も出来なくてごめんなさい。蒔時兄さんが、入ってくるなって……多分、選ばれたのが分かってたんだと思うんです」

「選ばれるのは事前に察知可能なのか……」

「でもでも大丈夫でしたよ! ちょっと薄くなってたけど、ちょっとだけでした! あんだけちょっとだけしか薄くならないの、初めて見たからびっくりしちゃって!」


 少女は自分の透けかかった指先を見つめ、それを隠すようにぎゅっと握りしめた。

 期待に満ちたその瞳は、暗い水底から光を見上げたかのように、ひどく純粋で、それでいて危うい熱を帯びている。


「……何とか、なるのかなって。生きててもいいのかなって……思って」


 ふいに、食堂の照明がチリ、と音を立てて爆ぜた。一瞬の闇。たからの耳に、先ほどの三つ目の足音が、今度は彼女のすぐ真後ろで鳴ったような気がして、肌が粟立つ。

 だが少女は動じない。闇に沈んだ廊下の中で、それでも少女の瞳だけは、強くたからを見据えていた。


「協力させてください! みんな、戦うのが得意ですから。私も、お二人を守ることならできます!」

「ですって、たからさん! 仲間が増えるのはいいこと過ぎますよ!」

「……子どもを危険な目に合わせるのはなぁ……」


 たからの後ろ向きな言葉に、雫桜がポンチョの下から、子供には不釣り合いな武器を取り出す。

 瑠璃色に光る短刀。今は鞘に収められているが、その下は確かに人に傷をつけられる真剣だった。

 

「私たちが戦うのは、かっこいいからじゃない。自分を、みんなを守るためです。選ばれたら、もう戻っては来れないから。最期に、尊厳を守るために」


 たからは、少女の瞳の奥に宿る光に、確かな狂気を見た。

 それは、死を恐れる者の怯えではなく、死を当たり前の隣人として受け入れ、なおかつそこから手を伸ばそうとする、この屋敷の住人特有の強欲な光だ。

――「生きていてもいい」という言葉は、ここでは祈りではなく、呪いに近い。


「……分かった。君の力を借りよう。何かあったら頼むよ、雫桜くん」

「はい!」


 雫桜が嬉しそうに、大きく頷いて返事をした。

 足音が、また鳴る。今度は、はっきりと、たからの耳元でその音が鳴ったのだ。

 反射的に振り返る。だが、そこには誰もいない。


「……どうしました?」


 雫桜が首を傾げた。たからは、ゆっくりと前を向き直る。

 少女は、さっきと同じ場所に立っている。距離も、姿勢も、何一つ変わっていない。


「……来てるな」

「来てる?」

「ああ、雫桜ちゃ〜ん! お客様たちも、ちょうどいい所にぃ」


 雫桜の後ろから、背の高い少女が息を切らしてこちらに来た。腰まで伸びたロングヘアの先に、引っかかるように翡翠色のリボンが括り付けられていた。

 間延びした口調がどうにも緊張感に欠けるが、事態は深刻そうだった。


夢追(ゆい)ちゃん? どうしたの?」

奏楽(かなた)くんがねぇ、選ばれちゃったんだけど〜……なんか様子がおかしくて」

「様子がおかしい?」

「うん〜……とにかく客人を呼んで来いって」

「向こうからの招待か。行こう、ミヤビ」

「あいっ」


 夢追と呼ばれた少女に連れられ、ミヤビとたからは屋敷の奥、拝殿と呼ばれる部屋へ招かれた。

 和の土台に、洋の装飾が寄生するように這い回っている。その奥底で正座する奏楽は、もはや人間というよりは、精巧に作られた死体のように見えた。

 その瞳に光はない。焦点は虚空を彷徨い、何も映していないはずだった。それでいて、二人は射抜かれたような錯覚に陥る。網膜ではなく、魂の所在を直接覗き込まれているような不快な視線。

 

「……キタ」

 

 声は、空気を震わせてはいなかった。

 鼓膜の内側を、濡れた指先で直接なぞられるような悍ましい残響。ミヤビが嫌悪感を露わにし、低く呻く。

 

「うわ、これ最悪っすね。頭の中に直接泥を流し込まれてるみたいで不愉快っす」

 

 たからは無言のまま、奏楽という形をした器を見据えた。

 たからの長年の経験が、この中にいるモノが神格であることを察知していた。

 

「呼ばれたから来たぞ。随分な悪さをしてくれたようだが……要件はなんだ」

 

 問いかけは、無音の空間に吸い込まれ、わずかな停滞ののちに返ってきた。

 

「――チガウ」

 

 拒絶は即座だった。だが、その声はもはや奏楽の喉が鳴らしたものではない。幾十もの老若男女の溜息を混ぜ合わせたような、実体のない残響。

 

「ホシイ、ダケ」

 

 言葉が、腐り落ちた果実のように床へこぼれる。 

 一瞬、視界が歪んだ。奏楽の足元に落ちた影が、重油のような粘り気を持って広がり、床の木目を黒く塗り潰していく。

 菖蒲色のリボンがついた手首に、目を背けたくなるような深い切り傷があった。そこからじんわりとヘドロのような液体が溢れ出る。奏楽はそれを大事そうにすくい上げた。

 

「ヘル」

「コボレル」

「キエテ、イク」

 

 断片的な単語が重なり合い、意味を成さない不協和音となって空間を侵食する。ミヤビが短く舌打ちした。

 

「……たからさん、これ会話できるんです? ギリ無理そうじゃないですか?」

「ああ、分かっている。元より話が通じる相手ではない」

 

 たからは一歩、逃げ場のない静寂の中へ踏み出した。

 

「血が、欲しいのか」


 ぴたり、と。世界の脈動が止まった。

 次の瞬間、奏楽の顔面が内側から裏返るような衝撃に波打つ。

 骨格が軋む不快な音を立てて口角が吊り上がり、人体の構造を無視した角度でその貌が歪んだ。

 

「ソウ」

 

 響いたのは、複数の性別と年代が混濁したような、重なり合う異音。

  彼の肉体という薄い皮一枚を突き破り、深淵に潜む底なしの飢えが、泥濘となって溢れ出していく。


「――コワレル、コワレル」

 

 視神経に突き刺さるような崩壊の様を、たからは一歩も引かず、凍てついた眼差しで冷徹に観察していた。

 奏楽の指先から赤黒い液体が滴り落ちた。だが、それは床に触れて飛沫を上げる前に、空間そのものに吸い込まれるように消失する。


「制御できていないな。注ぎ込まれる『供給』に対して、喪失の速度が速すぎる」

「穴の空いたバケツで必死に水汲んでるってわけっすか。燃費が悪すぎて笑えないっすね」


 ミヤビが嘲笑うように笑みを浮かべ、指を指す。


「――チガウ!」


 その一喝は、食堂の空気を物理的な質量で押し潰した。

 余裕に満ちていたはずのその貌には、剥き出しの「否定」が、子供のような癇癪となって張り付いていた。

 

「コボシテ、ナイ」

「キエル」

「――トラレ、テル!」


 重なる声が、今度は鋭い悲鳴のような高音を帯びた。

 その瞬間だった。たからの背後、絶対的な無音の中に異物が混じる。

 幼子がかけ出すような、とと、と駆け寄るような小さな足音。

 たからは振り返らない。ただ、眼前の奏楽――その影のさらに深淵を見据え、低く吐き捨てた。


「……『それ』が、横から掠め取っているのか」

「盗み食いされてんだ。だっせ〜!」

 

 奏楽の瞳が、狂おしく揺れる。

 神格は怒り狂っていた。自身の復活のための供物を、正体不明の「ナニカ」に邪魔されている。異常の根源が、より深い異常に怯えているのだ。

 

「ドウ、ニカ……シロ。オマエガ、オマエタチガッ!」

 

 たからは静かに、獲物を定める目をした。

 敵である人間に縋るその姿は、醜悪で、何より救いがなかった。

 

「随分と情けない神格だな。だが、取引は成立だ。今生きている少年少女を守れ。そうすれば、その『泥棒』ごと君を切り離してやる」

 

 奏楽の喉が、くつくつと震える。やがてヘドロと共に体から抜け、奏楽の体が力無く前に倒れた。

 その湿った音だけが、崩れゆく拝殿の中で唯一の確かな現実として、いつまでも耳の奥で響き続けていた。

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