迎合④
扉を一歩出た瞬間、それまで失われていた音が、堰を切ったように戻ってきた。
足音、衣擦れ、呼吸音――あまりにも当たり前のそれらが、逆に異様に感じられる。
その時、たからとミヤビの前に二つの小さな影が飛び出してきた。
軽やかな足音が響き、まるで遊び心たっぷりの悪戯のように、少女のような姿をした二人が揃って声を上げた。
「どこのだ〜れだ!」
右側の女の子は肩までロングヘアを揺らした。照明の明かりを受けて時折赤く光っている。服のフリルに結ばれた赤と瑠璃色のリボンが不自然に光を反射し、彼女の無邪気な笑顔を不気味に照らしていた。
左側の女の子はツインテールに翡翠色と山吹色のリボンを巻き、右の子と同様にフリルを着飾った可愛らしい服に身を包んでいる。
二人はくるりと一周した。その瞬間、影が一瞬だけ不自然に伸び、壁に奇妙な模様を描いた。まるで幻のような異様さを帯びる。
たからは一瞬、視線を鋭く細め、異常を察知しようとしたが、ミヤビは肩をすくめて軽く笑った。
「白藍の茅与ちゃんと琥介『くん』だ」
ミヤビの言葉が余裕たっぷりに響いた瞬間、二人はぴたりと動きを止めた。
まるで時間が止まったかのように、微動だにしない。
そして二人は互いに顔を見合わせ、大きな瞳を輝かせた。
「お姉さん、すっごーい!!」
二人は嬉しそうにミヤビに近づき、周りで飛び跳ねている。
たからは静かに観察を続け、白いスーツの袖を軽く払った。
「……ふむ、君は男の子なのか?」
「そうだよ〜! かわいいでしょお!」
「かわいいでしょう! まさか見抜かれるなんて思ってもみなかったけど!」
茅与が少し拗ねたように口を尖らせ、琥介は愛らしい洋服を見せつけるかのように、スカートの裾を持ち上げた。
ミヤビはくすくすと笑い、黒と紫の和風コートを翻す。
「ねえ、茅与ちゃん、琥介くん。お遊びはここまで。お姉さんたちは忙しいんすよ。まだまだ手当が必要なんだから」
「手当?」
ミヤビがそう告げると、二人は顔を見合わせた。
「何かあったの?」
「僕たちここにずっと居たけど、何の音もしなかったよ?」
「あらまぁ、ほんと? 中は結構大変なことになってるよ」
ミヤビが食堂の中を指し示すと、2人は素っ頓狂な声を上げた。本当に中で何があったのか、知らなかったようだ。
「ねえ、茅与。さっき、|舞妃姉様が走っていったあとから、ずっと静かだったよね?」
「うん。ずーっとだよ」
「まさか大暴れがあったなんて」
「中に突撃しなくて正解だったね」
「入ってたら選ばれてたかも」
「ね〜、危なかった〜」
安心したように言う2人に対し、たからとミヤビは視線を交わし、軽く微笑むだけに留めた。
すると、廊下の奥からふらりと別の男性が現れた。ゆったりとした歩みで、影のように静かに近づいてくる。
彼の姿は屋敷の空気に溶け込むように控えめだが、存在感は確かだ。茅与と琥介の目が輝き、二人は一斉に駆け寄った。
「蒔時兄様!」
茅与の無邪気な声と、琥介の愛らしい笑顔が重なり、二人は青年の腕に飛びつくように寄り添う。
蒔時と呼ばれた青年は微笑みながら、二人の頭を優しく撫でた。
そばかすの目立つ顔を少し俯かせ、控えめな瞳で二人を見つめる。地味な服の襟元に白藍色のリボンがピンで留められ、薄暗い廊下の光に鈍く映る。
彼は小さく息を吐き、穏やかだがどこか遠慮がちな声で言った。
「あまりお客様を困らせてはいけないよ、茅与、琥介」
その言葉に、茅与と琥介は少し拗ねたように頬を膨らませた。
赤と青、緑のリボンが二人の動きに合わせて揺れ、変装の遊び心がまだ残っているようだった。
たからは一歩下がり、蒔時の登場を静かに観察していた。
彼女の視線は、蒔時の控えめながらも、茅与と琥介を庇おうかとするのように自身の背後に隠そうとする仕草と、茅与と琥介の無邪気な反応の裏に潜む微妙な緊張感を捉えていた。
ミヤビは茶色フレームの眼鏡の奥で目を細める。
「白藍の蒔時くん、だね?」
ミヤビの軽やかな声に、蒔時は一瞬顔を上げ、そばかすの目立つ頬がわずかに強張る。だがすぐに視線を落とし、自信なさげに口元を緩めた。
「はい。そうです。うちの茅与と琥介がご迷惑をおかけしてすいません……」
その言葉は、どこか自分を守るように控えめで、屋敷の空気に溶け込むような弱々しさがあった。
茅与と琥介が蒔時の腕を軽く引っ張り、無邪気に笑う。
「絶対わかんないと思ったから、イタズラしたの!」
「絶対わかんないと思ったのに、すぐバレた!」
茅与が口を挟み、琥介が興奮気味に言葉を投げかける。
「一瞬で見抜かれたんだよ!」
「茅与ちゃんと琥介『くん』って言われた!」
「……えっ!?」
四つの言葉が次々に飛び出し、蒔時の表情が一変する。彼は目を見開き、おもむろに顔を上げた。
しばらくその顔を見つめ、声がわずかに震える。
「いやはや……おみそれしました……」
その言葉には、純粋な驚嘆があった。蒔時は二人を改めて見つめ、戸惑いと尊敬が入り交じった視線を向けた。
ドヤ顔しているミヤビの横で、たからは静かにため息をついた。
「さて、蒔時くん。すまないが医務室に案内してくれないか? 絶対安静の患者がいてね」
たからが半身を避けると、そこには一葵に背負われた博喜の姿があった。
蒔時は少しだけ目を見開き、事情を理解したように頷いた。
「はい。こちらです」
蒔時は一歩踏み出す。茅与と琥介がその後ろを無邪気に、しかしどこか緊張を帯びた足取りで続く。
ミヤビとたからはその後を追うように歩き出した。
「君は驚かないんだな?」
蒔時は答えない。茅与と琥介が不安そうに見上げるが、その歩みを止めることはない。
「選定は、必要なことですから。全員が生き残るためには、誰かが死ななくてはならない」
「なるほど。だが今回は誰も死んでないぞ」
蒔時の動きが一瞬止まる。それも束の間、またゆっくりと歩き出した。
「運が良かったのですね」
「違う」
たからはキッパリと言い放つ。
「これからは誰も死なない。死なせない。そのために私たちがいる」
「……そうですか。それは、とても優しい考えですね」
蒔時は小さく頷き、歩みを止めない。
「ですが、この屋敷では、その言葉は何度も聞きました」
「結果は?」
「……皆、いなくなりました」
蒔時はそれ以上何も言わなかった。
廊下には、子どもたちの小さな足音だけが響いている。
しばらく歩くと、木製の扉が見えてきた。蒔時が静かに押し開ける。
途端に鼻を突くのは、薬品のツンとした刺激臭と、わずかに混じる古い鉄錆のような匂い。
医務室というにはあまりに広く、並べられたベッドの数は、この屋敷でいかに「不測の事態」が日常茶飯事であるかを物語っていた。窓は分厚いカーテンで固く閉ざされ、照明は頼りなく瞬いている。
「ここが、医務室です」
蒔時が部屋の隅にある棚を指し示す。そこには乱雑に、しかし大量に包帯や消毒液の瓶が詰め込まれていた。
博喜は奥のベッドに寝かしつけられた。一葵が不安そうに手を握る。その様子を見て博喜が苦笑いする。
「ここの補充は誰が?」
「分かりません。ですが足りなくなることはありません」
「いつでも満タンだよ」
「使っても使っても減らないんだぁ」
茅与と琥介がたくさんの包帯を持ってきてくれる。ミヤビは沢山ある消毒液の瓶を一つ、手に取る。
ラベルの印字が、まるで生き物のように何度も何度も書き変わっていた。
「見てくださいよたからさん。これ、製造年月日が今日になってますよ。しかも一分刻みで新しくなってる」
「何だと?」
「世界が設定側に合わせてくれる感じっすかね。不気味〜」
「言ってる場合か」
たからが包帯をバッグに詰めている間に、蒔時が茅与と琥介の背中に触れ、外に出るように促した。
二人は嫌がるように蒔時の裾を掴んでいたが、何度か促されるうちに、諦めたように離れた。
「借りたリボンを返してきなさい。他の人たちを困らせてはいけないよ」
「はあい。一葵兄様〜、ちよねぇ、あの赤くてまぁるいのが食べた〜い!」
「僕は緑のまぁるいのがいい!」
蒔時に離された二人は、揃って一葵の袖を引っ張る。
一葵は暗い顔をしたまま、二人の手元を一瞬だけ見てから、小さく首を横に振る。
「……クッキーか? ……今はそんな……」
「兄さん、俺は大丈夫だ。二人の希望を叶えてやってくれ」
「だけど……」
「一葵兄様、博喜兄様は大丈夫って言ったら聞かないよ?」
「腕が折れてたってお勉強するでしょ?」
二人の当たり前でしょう? と言わんばかりの物言いに、博喜は小さく笑っては痛みに呻く。
「ああ。俺にはそれしかないからな。だから居られたら邪魔だ」
「だって一葵兄様。早く行ってあげた方がいいよ」
「お姉さんたちだっているし〜」
「……分かった」
渋々といった様子で一葵は、茅与と琥介の手を取って外へ出た。
たからはもくもくと物資をバックに詰める。その擦れる音が少しずつ小さくなっていく。
「また音が消え始めたな」
「え!? たからさんが、こそこそとこそ泥してるだけじゃないんすか!?」
「なわけあるか」
わざとらしいミヤビの大声も、半分ほどの声量となってたからに届く。気にすべきかしないべきか、ただ静かに佇んでいる蒔時に変化はなく、博喜のように不穏な兆候もない。
「……違います」
蒔時が、ぽつりと呟いた。
声はかすれているのに、不思議と二人の耳にははっきり届いた。
「これは、『消えている』んじゃない」
ミヤビが眉をひそめる。
蒔時はゆっくりと視線を上げた。
「『選ばれている』んです。最初は建物の音――次に、人の動き、物と物が合わさる音……そして、人の声」
「人の声が消えたら囚われる、と?」
「はい。だから大丈夫です」
蒔時はゆっくりと微笑んだ。
「まだ、誰の声も完全には消えていないか、ら……」
蒔時がごぷりと音を立て、どす黒い液体を吐き出した。激しく咳き込みながら、膝から崩れるように倒れ込む。途端に鉄臭い血液のような嫌な匂いが鼻を突く。
「ミヤビ!」
「わーってますってば!」
ミヤビは鏡を取り出して打ち鳴らす。しかしその音は響かず、蒔時が更に液体を吐き出した。口が動いているのに、声が聞こえない。
「音が無効化されてるんだ! その鏡じゃ意味がない!」
たからの叫び声もほぼ掠れた音となり、医務室から一切の音が剥奪していく。正気を失った蒔時が、たからに掴みかかる。
ミヤビは苦肉の策と言わんばかりに小袋を取り出した。
「効くんかなぁこういうの、とりあえずえいやっ!」
ミヤビは小袋の中の塩を蒔時に向かって投げつける。蒔時はそれを手で払い除けるが、当たった部分から白煙が上がる。
「効いてるかも!? ならばこうじゃ!」
最早脳内でしか聞こえない独り言で奮い立たせ、ミヤビは同じような袋を取り出して、もう一度投げつける。先程よりも多くの量の塩が、蒔時に降りかかる。彼は嫌がるように顔を擦る。
同時、たからも何かを察したのか、薬瓶を手に取る。生理食塩水だ。確信めいた表情でそれを浴びせていた。
白煙が立ち昇り、蒔時がふらついて壁にもたれかかる。大きく咳き込む動作と共に、また液体を吐き出した。
勝手に取り憑いてんじゃないよ! この神格! あほ!と、更に塩を取り出して投げつけた。ミヤビは自身の心音がうるさく響く無音の中、神格らしきヘドロに掴みかかる。
しかしその効果も虚しく、ヘドロは白煙だけを残して跡形もなくなった。じゅーという音と、蒔時の荒い呼吸だけが返ってくる。
「ちっくしょう、また取り逃した……」
「蒔時くん、大丈夫か!?」
たからが駆け寄ると、蒔時は弱々しく頷いた。その顔は真っ青だ。博喜の時と同じく、額に脂汗が滲んでいる。白煙が上がっていた部分は焼けただれ、嫌な匂いが漂っていた。
「ミヤビ、輸血だ! 急げ!」
「いえっさー!」
急いで用意した輸血パックを繋ぐ。本来なら医者の指示が必要だが、四の五の言っていられる状況ではない。
ミヤビは皮膚の手当をしながら、彼の口の中を覗きみる。
「やっぱ血か? 声の代償かなぁ。あのきもいヘドロ? 吐く度に血が無くなってくなら、選ばれた子は死ぬしかないっすよね」
「悪趣味にも程がある。君にはがっかりだ」
「そんな! こればかりは冤罪っすよ! 私じゃないんですから!」
「すまないな、蒔時くん、少し立てるか? ベッドで横になろう」
蒔時は頷いてから、壁を支えに立ち上がる。それから数歩歩いて移動し、ベッドへ横になった。
背中を支えているたからの耳元で、蒔時が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「や、……はり、運、が……いい……」
「運じゃない。全員殺さず、必ず救うと言っただろう」
「も……ひと、……」
蒔時は何かを言いかけ、言葉に出来ぬまま、気を失うように眠りについた。
たからは大きく息をついた。そして振り返り、ミヤビへ向き直る。
「食堂に戻ろう。あそこにはまだ人の手が必要だ」
「いえっさっさー!」
ミヤビは蒔時の火傷の痕をじっと眺めた後、バックを抱え、早足で医務室を出た。
たからは蒔時を頭を一つ撫で、それから部屋を出た。ほんのわずかに手応えが軽かった。
まるで、彼の一部がどこかへ抜け落ちているかのように。だが今は、その違和感を見逃した。




