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日常②


 ミヤビがみのりを連れて部屋を出て行った後、たからは廊下の曲がり角で立ち止まった。

 指先が微かに震えている。抱えたリストの端を指に食い込ませ、すぐさま小脇に抱え直した。右へ行こうとして足を止め、左へ踏み出し、また立ち止まる。行き先も定まらないまま、視線だけが彷徨っていた。

 三階へ上がる階段を避け、逃げるように中庭に面した長い廊下へ足を進めた。

 

 その廊下の端に、雪羽が一人で座っていた。

 壁に背を預け、膝を抱えて、ただ虚空を見つめている。たからは迷わずその隣に腰を下ろした。

 しばらくの間、二人を繋ぐのは沈黙だけだった。

 雪羽は前を向いたまま。たからもまた、同じように中庭を眺める。

 やがて雪羽の視線が、たからの手元のリストに落ちた。枯れた声でポツリと零す。

 

「……傲慢」

 

 たからの身体が、一瞬だけ硬直した。

 

「……そうだな」

 

 否定はできなかった。雪羽はそれ以上、言葉を重ねようとはしなかった。たからも、言い返す言葉を持たなかった。

 ただ、二人分の重い沈黙が廊下に並んで、しばらくそこに留まっていた。

 

「……何故、わかったんだ?」

 

 雪羽は何も答えず、細い指で窓の外を指さした。

 開かれた窓の向こうから、子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてくる。たからは思わず肩をすくめ、眩しすぎる光景から視線を逸らした。

 ――その時、柔らかな音が耳を掠めた。

 温かみのある、アコースティックギターの音色だ。一本一本の弦が丁寧に紡ぎ出す、祈りのようなメロディー。

 

「……行きなよ」

 

 雪羽の呟きに背中を押されるように、たからは中庭へと続く襖を開けた。

 翡翠色のリボンを胸元に揺らした青年、大誉がそこにいた。膝の上にギターを抱え、切り株のような椅子に座っている。

 その周囲には、吸い寄せられるように集まった五、六人の少年少女が、静かに聞き入っていた。色とりどりのリボンが、陽の光を受けて反射する。

 

「……大誉くん」

 

 声をかけると、青年は顔を上げ、陽だまりのような笑みを浮かべた。

 

「たからさん。こんにちは」

 

 大誉は穏やかに会釈をすると、再び指を動かし始めた。

 ゆったりとした旋律に乗せて、聞いたことのない、けれどどこか懐かしい子守唄を口ずさむ。

 その隣、ポニーテールを揺らした少年、雅祈が、音もなくたからの隣に腰掛けた。

 

「なんか……すごい、焦ってますか?」

 

 直球の問いに、たからは言葉に詰まった。手持ち無沙汰に膝の上で指を組み、すぐにほどく。

 

「……何故そう思った?」

「いや、さっきから……足音が、急いてるなぁって。俺、そういうの敏感なんです。ずっと早足だったから、気になっちゃって」

「よく聞いているんだな」

 

 たからは自嘲気味に口角を上げた。

 ギターの弦を震わせていた大誉の手が、ふと止まる。

 

「気負わなくてもいいんじゃないかな」

 

 不意に投げられたその言葉が、硬く閉ざしていた胸の奥を突いた。

 

「……逆に、そう言われるとな」

 

 たからは苦笑を漏らしながら、抱え込んでいた思いを吐き出した。

 

「余計に焦ってしまうんだ。みんな深く傷ついている。それなのに、残された時間はあと三日……。私は、まだ何もできていない。全員と、ちゃんと向き合いたいのに、手が届かないんだ」

 

 大誉は一瞬きょとんとした後、小さく吹き出した。

 目を細めて、困った子供を見るような、慈しみに満ちた笑みを浮かべる。

 

「……笑うな」

「ごめんなさい。でも、なんだか可愛いなと思ってしまって」

 

 大誉はギターのボディを愛おしそうに撫でながら、穏やかに続けた。

 

「僕たち、そんなに子どもじゃないですよ。大人に全部背負ってもらわなきゃいけないほど、弱くはありませんから」

 

 たからは絶句した。

 青年の瞳は、静かな湖面のように澄んでいて、けれど確固たる意志の光を宿していた。

 ただ静かに、たからを見返している。

 

「……そうか。そうだったな」

 

 たからは溜め込んでいた息を、ゆっくりと吐き出した。

 強張っていた肩から、少しずつ重みが抜けていく。焦燥が消えたわけではない。

 

「ありがとう。……少し、救われたよ」

「いえ。僕のギター、聞いてくれてありがとうございました」

 

 大誉は再び弦を弾き始めた。今度はさっきよりも、少しだけ軽やかで明るい調べ。

 たからは中庭を後にし、廊下を歩きながら、自分に言い聞かせるように呟いた。


「……みんな、自分たちの力で生き始めているんだな」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がチリリと痛んだ。

 それは先ほどまでの自己嫌悪とは違う。置いていかれるような寂しさと、誇らしさが混ざった、複雑な痛みだった。

 

「うぃ〜、やっと見つけたぜぇ、たからさんよぉ」

 

 背後から響く、緊張感の欠片もない声。振り向くと、そこには肩をすくめたミヤビが立っていた。連れていたはずのみのりの姿はない。

 

「……みのりはどうした」

「あの元神様なら、子供たちのところっすよ。なんだか知りやせんが、急に保護欲に目覚めちまって。聖母か守護者気取りかで、部屋に居座って遊んでますよ」

「……君から子供たちを守りに行ったわけか」

「はぁ!? それじゃあまるで私が、性格地獄の性悪女みたいじゃないですか!」

「概ね、事実だ」

 

 たからはミヤビの抗議を軽くあしらい、再び歩き出す。

 ミヤビは「ひどいっすよ〜」と軽口を叩きながら、当然のような顔をしてその横に並んだ。

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