救済⑤
窓の外で咆哮する風が、巨大な獣の爪のように屋敷の骨組みをきしませる。
書庫へと続く廊下は、外周に近づくにつれ無惨な姿を晒していた。壁には稲妻のようなひびが走り、天井からは絶え間なく塵が舞い落ちて、視界を白く濁らせる。
「……『風の神』の伝承、ですか」
先頭を行く叶馬が、消え入りそうな声で呟いた。その背中は、まるで見えない重圧に押し潰されまいと強張っている。
「書庫にある資料は、本家の歴史と実務に特化しています。神話や伝承の類は『不確かなノイズ』として、大部分が破棄、あるいは閲覧制限をかけられていて……。僕と悟留も、数ページほど目を通したことしかありません」
「一秒でも早く思い出せ。たからさんの期待に応えられないのは、黄金派の恥だぞ」
悟留が焦燥を隠しきれず、眼鏡の縁を苛ついたように叩く。指先が微かに震えている。
「……いい。数ページでも、君たちが覚えているならそれが最良の手がかりだ」
たからの静かな声が、二人の過呼吸寸前の思考を辛うじて繋ぎ止める。
たからは、背後で黙々と歩を進める大柄な少年に目を向けた。莉騎だ。彼は他の二人とは異なり、感情の死滅したような静寂を纏っていた。
倒れかかった置物や剥落した壁材を、まるで作動中の機械のように最小限の動きで避けていく。
「莉騎くん。君は、書庫の管理には関わっていなかったのか?」
「……はい」
莉騎は短く答え、一瞬だけ、節くれ立った自分の大きな掌を見つめた。
「私は、二人とは違います。……文字を綴り、情報を整理するのは、彼らに割り振られた役割だ」
「莉騎は、黄金派の『盾』であり『矛』なんです」
悟留が義務的に補足する。その言葉には、仲間への敬意ではなく、単なる「仕様書」を読み上げるような冷徹な響きがあった。
「計算や論理では排除できない物理的な不確定要素……。それを『最短』で片付けるのが彼の役割でした。だから、莉騎の『再教育』はより特別なものでした」
莉騎の足が一瞬止まる。彼の声が、空洞のように響いた。
「私は力が強すぎた。……思考は、許可されませんでした」
たからは、彼の纏う圧倒的な威圧感が、内側の震えを隠すための分厚く、そしてあまりに冷たい装甲であると悟った。
前方の天井が轟音を立てて崩落し、瓦礫の山が廊下を塞ぐ。
「たからさん、さっさと済ませないと屋敷ごと風にさらわれちゃいますよぉ!」
ミヤビの場違いなほど軽い声に急かされ、一行は半壊した書庫の重い扉をこじ開けた。
内部は風に蹂躙され、数多の記録が死んだ鳥の羽のように舞い、埃が渦を巻いている。その瓦礫の底から、叶馬と悟留が必死に繋ぎ合わせた古い記録。
それは、彼らがこれまで信奉してきた複雑な理論とは対極にある、拍子抜けするほど素朴な言葉だった。
『風の神は子どもを愛し、笑い声を聞くことを何より喜ぶ。
ただ、子どもが健やかであることを、ただ願うのみ』
荒れ狂う外の世界が嘘のように、書庫に沈黙が落ちた。
「あら〜、意外と善良な神様ですこと」
ミヤビが唇を歪めて呟く。しかし、その言葉に子どもたちが救われることはなかった。
「……僕たちが、風の神を怒らせた……」
叶馬の震える声は、疑問形ですらなかった。
たからは、その絶望に染まった瞳を正面から射貫くように言い放つ。
「違う、怒らせたのはミヤビだ」
「そうっすよ〜! マジで短気っすよねぇ」
叶馬は、自分の両腕を皮膚が白くなるほど強く抱きしめている。
莉騎が目に見えない「折檻」を待つように身をすくませていた。
「……すいません。僕たちが、もっと早く……正確に、情報を精査できていれば、こんなことにはならなかった」
悟留が眼鏡の奥で、焦点の定まらない瞳を揺らして呟く。彼の唇は、次に答えるべき正解を探すようにかすかに震えていた。
たからはゆっくりと、重い息を吐き出した。
「……聞け、三人とも」
たからの声に合わせ、三人はほぼ同時に顔を上げた。
一部の狂いもなく、まるで訓練された兵のような精密さだった。
「……自分を責めるなとは言わない。それだけ一生懸命やってきた証拠だからだ。……だが、そんな顔をされては、神様だって困るだろう」
ミヤビが、氷点下の空気を切り裂くように、悟留の胸をひょいと指で突いた。
「つぅか、神様怒らせたのは私なんですけどぉ。勝手に私の罪を横取りするの、やめてもらっていいっすか? せっかくの悪役株が下がるじゃないっすか〜」
莉騎が、喘ぐような、苦しげな声を絞り出す。
「……笑い方など、教わっていません」
「今は、笑わなくていい」
たからは莉騎の肩に手を置いた。岩のように硬い肉体。その奥にある震えを、強く、けれど確かな温度を伝えるように掴む。
「君たちの役割は、もう終わりだ。莉騎くん、君はこれからゆっくり、温かいご飯を食べたらいい。叶馬くん、悟留くん。君たちもだ。神様はそれを望んでいる。……それだけでいいんだ」
「まぁ、子どもってぇのは、たぁくさん食って寝てナンボっすからねぇ。それすらできてなかったのが大問題ってわけ」
三人は黙ったままだった。
重い沈黙が数秒続く。その間に、莉騎の胃が小さく鳴った。
「……っ、失礼し――」
言いかけて、莉騎は口をつぐんだ。
「お、いい音鳴らすじゃん。腹の虫さんだけは正直っすねぇ」
ミヤビが、意地の悪い笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振った。
悟留は眼鏡の位置を直そうとしたが、途中で力が抜け、指先がフレームをかすめた。
叶馬の唇から、ようやく噛み締める力が少し抜ける。
そして莉騎は、握りしめていた拳をわずかに緩めた。だが指先には、まだ力が残っていた。
万物を引き裂かんとしていた咆哮はいつしか凪ぎ、風はただ静かに窓を鳴らしていた。
ミヤビが、わざとらしく小さく舌打ちした。
「……ほら、聞き耳立ててきた。子供好きの、寂しがり屋め」
たからは、ようやく顔を上げた三人に向かって静かに顎をしゃくった。
「戻るぞ。今は腹を満たせ。それが今、君たちにしかできない仕事だ」
三人の足取りは、まだ重く、ぎこちない。
だが、光に照らされた莉騎の無骨な背中は、その瞬間だけ、盾でも矛でもなく、ただの腹を空かせた少年のものだった。
「……腹が、減った」
莉騎の呟きに、叶馬と悟留が小さく頷いた。




