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登場⑤


 子どもたちが集まっている一室。外の嵐を遮るように明るく灯されたその部屋に、「違和感」は前触れもなく訪れる。

 

「……ねぇ、なんか寒くない?」

 

 理歌がトランプを配る手を止め、首をすくめた。

 扉の隙間から、粘り気のある冷気が這い出してきている。美術室の喧騒が嘘のように静まり返り、パチパチと爆ぜる暖炉の音さえ、どこか遠い世界の出来事のように聞こえ始めた。

 

 ――トントン。

 

 乾いた音が、扉の低い位置で響く。

 大人がノックするには低すぎる場所。扉の向こうにいる「何か」が、ゆっくりとノブを回した。

 ギィ、と耳障りな音を立てて開いた隙間から、真っ黒な瞳が覗く。

 それは、少女だった。五歳にも満たないであろう、幼子。輪郭が絶えず陽炎のように揺らめき、背景の闇に溶け込んでは、また不自然な立体感を持って現れる。

 みのり――屋敷に巣食う、産まれ損ねた空虚。

 

「……あ」

 

 最初に声を上げたのは、歩惟だった。彼女は恐怖に肩を震わせながらも、眼鏡を押し上げ、じっとその「穴」を見つめた。

 廊下にいた時のたからの言葉が、彼女の胸の中で盾となって響く。

 

「……おいで、みのりちゃん。中、あったかいよ」

 

 その言葉に、理歌と皇治が息を呑む。

 みのりは戸惑うように首を傾げた。その動作一つで、周囲の空間がぐにゃりと歪む。彼女は音もなく部屋に滑り込み、部屋の中央に座り込んだ。

 みのりは無言のまま、震える指先を理歌の方へと向けた。

 

「……ちょーだい」

 

 掠れた、けれど耳の裏に直接響くような幼い声。彼女が欲しているのは、子どもたちの「存在そのもの」。

 みのりの指先が理歌の影に触れようとした瞬間、理歌は逃げる代わりに、手元にあった七色のトランプをバサリと広げて見せた。

 

「だーめ! みのりちゃん、それは私の大事なものだから、あげられないの」

 

 理歌は、これ以上ないほど完璧な笑顔を作った。

 だがその瞳は、演技ではない確かな意志で、みのりの虚無を真っ直ぐに射抜いている。

 

「その代わりに、もっといいものをあげる。……ほら、これ」


 理歌が指し示したのは、血液だ。テーブルの中央にある大きな血溜まりだった。

 やがてその血は中央に集まり、形をなす。

 

「君が欲しいのは、オレたちじゃないんでしょ? 本当は、消えない『自分』が欲しいんじゃないの?」

 

 皇治がニヤリと笑い、トランプをピエロのように鮮やかに舞わせる。

 

「取引しようよ、みのりちゃん。オレたちの『存在』を削って分けるのはもうおしまい。その代わり……この『神様』を全部あげる」


 春虹が少しずつ後退りする神格を、掴んで手前に出す。

 

「これなら、あんたもお腹いっぱいになる。あたしたちを食べるより、よっぽど強くて濃くなるってさ」

 

 春虹の言葉に、みのりの動きが止まった。

 彼女の視線が、テーブルで蠢く神格へと向く。

 

「おなか、いっぱい……?」

「そ。みのり、あんたは神様になるの。そしたら消えなくて済む。一生ここにいられんの」

 

 みのりは、じりじりと神格の方へ這い寄った。空虚な少女はゆっくりと、けれど確かな意志を持って手を伸ばす。

 神格もまた逃げようとするのをやめ、ゆっくりと少女に近づく。まるでその存在を確かめるように、その手に触れる。

 

 その瞬間、美術室の空気が一変した。

 

 嵐の激しい雨音も、窓を打つ風の叫びも、すべてが真空に吸い込まれたかのように消え去る。無音。ただ、二つの「欠落」が触れ合った接点から、溢れ出したのは禍々しいほど眩い光だった。

 それは、夜の海を溶かしたような深い紺碧と、神格が宿していた黄金の燐光が混ざり合う、見たこともない色彩の渦だ。

 みのりの「空虚」が、神格という「欲望」を呑み込み、神格の「力」が、みのりの「輪郭」を内側から焼き固めていく。

 

「……きれい」

 

 歩惟が思わず呟いた。

 陽炎のように揺らめき、背景に透けていたみのりの身体が、急速に質量を持ち始める。薄暗い闇の中で、光の糸が編み上げられるように、骨が、肉が、そして温かな拍動が組み上げられていく。

 

 相互に混ざり合い、溶け合う二つの影。

 やがて、光の渦がゆっくりと収束し、美術室の中央に一人の少女が形作られた。

 

 そこにいたのは、もう背景に溶け込む「穴」ではない。

 はっきりとした存在感を持った、五歳ほどの幼い少女だった。

 

 髪は夜の闇を閉じ込めたような黒、その瞳には神格の名残である黄金の星が微かに瞬いている。

 少女は、自分の小さな手のひらを不思議そうに見つめ、それから一歩、しっかりと床を踏みしめた。

 その動作一つで、周囲に漂っていた死の気配が霧散し、屋敷の歪みが凪いでいく。

 

「……あったかい」

 

 少女の唇から零れたのは、幽霊のような掠れ声ではなく、柔らかで瑞々しい、本当の子供の声だった。

 

「わたし、ここに、いる」

 

 少女は顔を上げ、周りを取り囲む子供たちを、一人の「人間」として見つめ返した。

 神の不滅と、人間の生への渇望が混ざり合い、ついに確立された一つの命。

 

「……大成功っすね」

 

 ミヤビが扉の外で、満足げに喉を鳴らす。

 たからは、その新しく産まれた小さな存在を見つめ、静かに、そして深く息を吐き出した。

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