登場③
静まり返った廊下の隅で、ミヤビは一人、重く淀んだ闇の深淵を凝視していた。その瞳には、形のない悪意が揺らめいている。
「みのりちゃんのエサ候補、結構いんだよなぁ。だって長男長女支えなさいって言われなかった年下は、基本邪魔者扱いでしたしぃ? 希死念慮の強い順なら、山吹の四つ子とか!? あっこはすごいですよぉ〜! たからさんがいねぇからまた悪さかまそっ!」
ミヤビは大広間を抜け、湿り気を帯びた空気の中を奥へと進む。大嵐の咆哮が建物を震わせ、大半の住人が大広間に固まる中、静寂を求めた「獲物」たちが別の部屋に潜んでいると踏んだのだ。
目的地は美術室。正確には、使い古された筆やキャンバスが乱雑に積み上げられた、埃と油絵具の匂いが立ち込める小部屋。その薄暗い一角に、二人の少年少女がいた。
「あらぁ、山吹の四つ子ちゃんたち、基本はここに全員集合じゃなかったの?」
「……残念、今日はハズレ〜!」
翡翠色のリボンを軽やかに弾ませ、少年が影を撥ね退けるような屈託のない笑みを浮かべる。その細い指先には、扇状に広げられたトランプが握られていた。
その隣では、山吹色のリボンを髪にくくりつけた少女が、花の咲くような、けれどどこか温度を欠いた笑みを湛えてこちらを見つめていた。
「今日は一人だけ。こんばんは、私は……」
「ああ、知ってる知ってる。翡翠の皇治くんと山吹四つ子の一人、理歌ちゃんでしょ? ちなみに敦稀くんとは会いました」
「ええ〜! すご〜い! 私たちのこと、そんなに詳しく知ってくれてるなんて感激だなぁ!」
理歌はわざとらしく、芝居がかった動作で両手を頬に当てた。感嘆の声が狭い室内に響く。
見開かれた大きな瞳は濡れたように輝いているが、その奥にある焦点はどこにも結ばれていない。虚ろな熱だけが、揺らめいていた。
「そうっすよぉ、理歌ちゃん。君が元十つ子の三番目なのも、上二人の優秀さに追いつけなくて、せめて『明るく元気なムードメーカー』っていう役割を必死に演じて、どうにか居場所を確保しようとしてることも、全部、ぜーんぶお見通しっす」
ミヤビはにちゃりと、湿り気を帯びた卑屈な笑みを口元に張り付かせ、獲物の喉元へ迫るように距離を詰めた。
理歌の表情が一瞬、精巧な仮面が剥がれ落ちるように硬直する。
だが、その凍りついた空気を切り裂くように、皇治がトランプを鮮やかに回転させた。
「あはは! ミヤビさん、初対面でいきなりエグいところ突くねぇ! さすが呪物商人のお客様だ、目が肥えてるっていうか、性格が悪いっていうか!」
皇治はなおも笑顔を崩さず、まるで長年の友人に軽口を叩くような調子で言った。
ピエロのような道化の空気を纏う彼は、この屋敷の底知れない重苦しさを、軽薄なジョークという布で器用に覆い隠している。
「ま、オレも人のこと言えないけどさ。理歌ちゃんをあんまり苛めないでよ。今、大事な『勝負』の最中なんだから」
「勝負? 嵐の夜に二人きりでトランプなんて、いいご身分っすねぇ。山吹の他の兄弟はどうしたんです?」
「……勇虎と文蘭なら彩弓姉様のお手伝い。 敦稀は他の子と一緒だと思うよ」
理歌が、再び完璧な微笑みを作り直して答える。ミヤビはその微笑みの裏側に透けて見える、今にも崩れそうな危うさを、じっくりと観察するように目を細めた。
「ふぅん。……ねぇ、二人とも。聞きましたよね? あの『みのりちゃん』って子のこと」
ミヤビの問いに、皇治がトランプを一枚、床に落とす。
「触れたら存在を奪われる」「絶対に意識を向けるな」と厳命された、あの異質な幼女の影。
「知ってるよ。触れたらサヨナラ、関わったら終わり。お屋敷の新しい『タブー』でしょ?」
「そうそう! やっぱ情報共有早いんだよなぁ。優秀っ!」
ミヤビは床に落ちたトランプを拾う。
「そこで質問っす。あの子のこと、どう思う? ……ぶっちゃけ、自分を『あげちゃう』のって、そんなに悪いことっすかねぇ?」
ミヤビの言葉は、美術室の冷えた空気の中に毒のように溶けていった。
「だって、あの子に全部あげちゃえば、もうムードメーカーを演じて必死に居場所を守る必要もなくなるし。道化を演じて笑いを取る必要もなくなる。全部あの子が『なかったこと』にしてくれる。……これって、最高の救済だと思いません?」
理歌の瞳が、ミヤビの拾ったカードを追った。
皇治はトランプを弄ぶ手を止め、ミヤビと同じ種類の、影のある笑みを浮かべる。
「あはは、分かるかも。全部終わればラクだよね」
「演じなくてよくなるなら、それが一番かも」
理歌の唇から、無意識に本音がこぼれ落ちる。
ミヤビはそれを見て、心の中で喝采を上げた。たからが「責任」や「倫理」で繋ぎ止めようとしている子供たちが、自ら「無」への誘惑に手を伸ばそうとしている。
「でしょでしょ? 無理して笑ったり明るくしたり、しんどいだけでしょ? やめたらいいんすよ〜! そんなこと〜!」
ミヤビはわざとらしく肩をすくめ、愉快でたまらないといった風に喉を鳴らした。
この脆くて美しい破滅の予感を、もっと近くで、もっと鮮明に眺めていたい。自分の描いた悪意が、子供たちの柔らかな絶望に深く食い込んでいく感触に、ミヤビはぞくぞくとするような優越感に浸っていた。
だが、その愉悦は、皇治が放った一言で唐突に霧散する。
「でもさ、それミヤビさんも同じじゃん」
「は?」
ミヤビの笑みが、一瞬だけ止まった。
「なんつーか……さっきからさ、ミヤビさん。オレらがどういう顔するか、ずっと見てるよね。ほんとに面白がってる人って、そんな必死に説明しなくない?」
皇治が、トランプを弄ぶ手を止めた。
ミヤビの眉がぴくりと跳ねる。自分の表情筋が、意志に反して歪んだのを自覚した。肺の中の空気が急激に冷え、吐き出し方が分からなくなる。
「オレらもさ、笑って誤魔化すから分かるんだよ。必死になって誰かを笑わせようとする時の、あの、内側が焦げるみたいな感じ」
「……笑ってると、みんなが笑ってくれるから」
理歌が足元の影に言葉を零した。笑顔を貼り付けたままのか細い声が、ミヤビの胸を貫く。
皇治がゆっくりと顔を上げた。
「……明るくしてないと、壊れそうになるから。オレらが道化やムードメーカーを演じるみたいに、ミヤビさんは『面白がってる人』を演じてる」
皇治はなおも、ふざけた調子のまま笑っている。
「ショーにしないと、人の傷を見てられないんでしょ?」
ミヤビの喉が、返事を飲み込んだまま動かなかった。
隣で、理歌がそっと伏せ目がちに、祈るような低さで呟いた。
「茶化さないと、怖いんだよね」
「…………っ」
ミヤビの口角が、引き攣ったまま動かなくなった。喉の奥が焼けるように熱く、反論しようと絞り出した言葉は砂のように崩れて消える。
ミヤビの指先が、自分の意志に反して、不自然な痙攣を見せ始めた。
「……はは、『エグいとこ』つきますね……二人とも」
ミヤビの唇から漏れたのは、力ない、掠れた肯定だった。自分でも驚くほど脆い声が、静寂に沈む。
心の中の自分が、これ以上ないほど冷たく自分を笑っている。
だが、その声さえも今は、少年少女が放つ純粋なまでの真実の光に、無惨に焼き払われていた。
「……嫌いっ! 二人のことなんて嫌いだぁっ!」
ミヤビは唐突に、子供のように両手で顔を覆い、大袈裟な動作で泣き真似を始めた。
それを見た皇治が、ふっと肩の力を抜き、慈しむような、あるいは呆れたような乾いた笑いを漏らす。
「ほら、そういうとこ」
「そういうとこも、全部まとめて大っ嫌いだっ! 子どもの分際で偉そうにっ!」
顔を上げ、叫ぶ。その瞳には、先ほどまでの濁った愉悦ではなく、剥き出しの感情と、敗北を認めた者のひたむきな拒絶が混じり合っていた。
「理歌ちゃん、どうしよう。嫌われちゃった」
「……じゃあ、もっと仲良くならなきゃね」
「嫌だぁ! 君らの出番はここで終わりっ!!」
悲鳴じみたその叫びに、美術室の空気が少しだけ和らぐ。
ミヤビは頬を膨らませたまま、二人を睨みつけるしかなかった。
しかし、その直後。
「……っ、」
理歌の瞳が大きく見開かれる。理歌の喉がひくりと震えた。
溢れ出したのは吐瀉物ではない。どろりとした漆黒のヘドロ――絶望を煮詰めたような、悪臭を放つ泥だ。それは少女の小さな身体から際限なく溢れ出す。
「理歌ちゃん!? い、今かよ……っ!」
「……タイミングをな、考えろっての」
皇治が勢いをつけて椅子を引く。ミヤビは大きくため息を吐いた。
泥は止まり、中央へと集まり始める。それらはやがて机の上で握り拳程度の大きさになる。
ふらりと傾いた体をミヤビが受け止める。理歌は真っ青な顔で、荒く息をついていたが、意識は失っていないようだった。
「おうおう、何しに来やがった神格さんよ。今はお呼びじゃねぇんすわ」
神格は近くにあるトランプの上に覆い被さる。そしてずるりと退く。そこには「ソナエモノ」と書かれていた。
ミヤビは顔を歪めながら、理歌を皇治に預ける。
「うるせぇな。一日ぐらい我慢しろって。外見てみろや。えらいことになってんのが見えんのか」
神格は否定するようにその身を震わせる。
更にカードの上に乗り、言葉を這わせていく。
「ケツエキ」「センド」「イヤ」
「文句言ってんじゃねぇぞ!? 輸血パックで我慢しやがれ!」
ミヤビは神格に向かって拳を振るうものの、いとも簡単に避けられる。
拳を戦慄かせていたミヤビの瞳に、不意に光が宿る。
「あ、良いこと思いついた」




