登場②
「さて、ミヤビ。……言い残したいことはあるか?」
たからの声は、低く、逃げ場のない怒りに満ちていた。薄暗い廊下へ連れ出され、壁に押し付けられたミヤビは、所在なげに視線を泳がせる。
「いやぁ、たからさん。そんな怖い顔しないでくださいよ。私、別に悪気があるわけじゃないんです。ただ、ちょっとだけ『刺激』を与えて、彼らの反応を楽しんでただけで……」
「刺激だと? 彼らの触れられたくない傷を、わざわざ言語化して無造作に荒らすことが、刺激だとでも言いたいのか?」
たからの声は、低く地を這うような怒りに満ちていた。
壁に突いた手からは、みしりと不穏な音が鳴り、彼女の全身から立ち昇る「殺気」に近い圧力が、狭い廊下の空気を物理的に重く変えていく。
ミヤビは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。たからの怒りが沸点を超え、いよいよ言葉よりも先に「鉄拳」が飛んできそうな気配を察し、その背中には嫌な汗が伝う。
「そうっすよ! だって、普段は必死に隠してる、自分を苦しめるだけのきったねぇ膿んだトラウマが、言葉一つで外部にさらけ出せるんすよ!? リアルに見える! 私は作者だからなんでも知ってるし、ピンポイントで狙える! こんな楽しいこと他にありますか!?」
「黙れ。前にも言ったが、ここにいるのは等身大の人間なんだぞ。まだ未熟な高校生ほどの年齢の子供たちだ」
たからの拳が、ミヤビの耳元の壁を強く叩いた。乾いた音が廊下に反響する。
「君が、この世界の理を創った『作者』ならば、君が彼らを生み出したのなら、その痛みを弄ぶ資格ではなく、背負う責任があるはずだ」
「厳しいなぁ。私が作ったキャラクターなんだから、別に良くね? 前にも言ったじゃないですか。いえす創作、のっと現実。私の頭の中にしかいねぇ人間に、人権なんか要りませんって」
ミヤビは、たからの剣幕に気圧されながらも、どこか他人事のように飄々と語る。
たからは、何もかもを拒絶するかのような冷たい視線をミヤビに突き立てる。
「……君は、泣いている顔を見て、何も感じないのか」
「感じてますよぉ! もちろんっ! 苦しんでる姿が最高に価値があるよって、お前のこと見てるぞって。誰の目にも入らないカスの人生よりも、お前を見てる方が面白いぞ〜って!」
一瞬、静寂が廊下を支配した。そこにあったのは悪意ですらなかった。
たからは一度視線を落とし、重く苦い沈黙を飲み込んでから、再び顔を上げた。
「……だが、彼らを誰より知っているなら、その痛みも分かるはずだ。分かっていて、傷つけるなッ!」
たからの怒りが頂点に達し、なおも言葉を叩きつけようとした、その時だった。
「……あ。あの、たからさん……」
廊下の曲がり角から、ひょこりと小さな影が顔を出した。
一人の少女が、不安げに山吹色のリボンをいじりながら、激昂するたからと、情けなく壁に押し付けられたミヤビを交互に見つめている。
「お、お取り込み中のところごめんなさい……」
「最高のタイミングっすよ! 光先ちゃあん! 神様仏様光先様ぁ!」
ミヤビは一目散にたからの腕の下をすり抜け、光先の背後へ逃げ込んだ。
「これでもう正論パンチはできねぇな、たからさんよぉ!」
「……子供を盾にするな」
たからは深く、頭痛を堪えるように眉間を押さえた。
拳を固めていた怒りは、ミヤビのあまりの浅ましさによって、急速に「呆れ」という名の虚脱感へと塗り替えられていく。
彼女はふぅと長い吐息をつくと、威圧感を消して光先へと向き直った。
「どうした?」
「……慧衣兄様が、お二人を呼んでこいと」
「お? 今度はちゃんと呼ばれてら! 招かれざる客卒業っす!」
「……分かった。すぐに向かおう」
たからの返答に安心したのか、光先は小さく微笑み、先導するように歩き出した。
その足取りに合わせて、光先の唇から小さな音が漏れ始める。
「んん〜、んんん……♪」
それは、雨音に紛れるほど微かな鼻歌だった。無意識のうちに口を突いて出たような、母が子をあやすような幼い旋律。
だがその瞬間、ミヤビの背筋にゾクリと冷たいものが走る。
ミヤビは知っている。その無邪気な鼻歌に触れた瞬間、光先の表情がどう変わるかを。
ミヤビは必死に祈るような視線をたからの後頭部へ送った。
――たからさん、あんた子どもの味方だろ! 気づけ! その歌に触れろ! いい歌だなって言え! 言うんだ!
ミヤビの視線は、もはや呪詛じみた圧を帯びていた。
たからは歩きながら、ふと足を止めることなく、わずかに視線を斜め後ろに流した。
光先の弾むような背中と、背後で必死に「何か」を訴えかけ、顔を歪めているミヤビの様子を、鋭い観察眼で一瞥する。
「……」
たからの足が、一瞬だけ光先との距離を詰めた。
ミヤビは身を乗り出す。だが、たからは光先の歌に触れることはなかった。
彼女はただ、そっと光先の肩に手を添えるでもなく、不自然なほど静かに、彼女の歩調に合わせて自身の靴音を少しだけ高く響かせただけだった。
「光先くん。……慧衣くんたちは、どちらの部屋に?」
「あ、ええと……大広間の、お隣の控え室です」
たからが敢えて日常的な問いを投げかけ、靴音で鼻歌をかき消すように歩く様子を見て、ミヤビは内心で舌打ちする。
察した上で、踏まない道を選んだらしい。
鼻歌は、たからの声に遮られるようにして自然に止まった。
やがて三人は、重厚な扉の前に辿り着く。
大広間の喧騒が壁一枚隔てて聞こえてくる、その隣の部屋。
光先が「こちらです」と扉に手をかけた時、たからは一瞬だけミヤビを振り返り、冷徹な釘を刺すような視線を向けた。
その無言の圧力が、ミヤビの軽口を完全に封じ込めていた。
部屋の中には、十四人の年長組が揃っていた。
山吹、瑠璃、撫子、菖蒲、黄金、白藍、翡翠。七つの派閥の長が集うその光景は、一見すると華やかだが、漂う空気はひどく澱んでいる。
「御足労感謝する」
黄金派の慧衣が低く、有無を言わせぬ声で場を仕切った。車椅子に乗った山吹派の遊梨が静かに頷き、たからへと席を促す。
慧衣の言葉を継ぐように、隣にいた晶貴が眉根を下げる。
「たからさん、ミヤビさん。……先ほど広間に現れた『みのり』について、対策を練りたいのです」
たからとミヤビは促されるままに着席する。
「あー、それなら私から補足しちゃっていいっすか?」
「構わない。そのために来てもらった」
慧衣が、有無を言わせぬ威厳を保ったまま頷く。
たからの横で、ミヤビは待ってましたと言わんばかりに、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべて身を乗り出した。
「みのりちゃんはね、ただの幼女じゃないっすよ。多分、広範囲の存在を奪えなくなった代わりに、触れたら触れた分だけ吸収する形に変わったんでしょうな。段階を踏まずとも、全部奪って、自分のモノにできる」
ミヤビが飄々と語る。
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気は一気に凍りついた。
撫子派の牧庭が絶望に染まった顔で自分の腕を抱きしめ、霜汰が寄り添うように距離を詰める。白藍派の里凪は瞳を恐怖に揺らして、隣の加織の袖を強く掴む。
「特に、自己犠牲こそが美徳だと思い込んでる子や、自分の存在に価値を見出せない子は要注意っす。みのりちゃんにとっては、そういう子の『全部』をもらうのが一番美味しい食事なんでしょうし?」
「……彼女の言う通りだ。みのりは、心の隙間に付け入る。確実に、魅了されていた子がいた。諸君、もしみのりが現れても、決して彼女の言葉に耳を貸してはならない。彼女が求める『何か』を差し出そうとした瞬間、君たちの存在そのものが食われる」
「……触れなければ問題はない、ってことですか?」
翡翠派の海兎が、不安そうに問いかけた。
たからは重々しく頷く。
「恐らくは。彼女に意識を向けないこと。……無視をするんだ。そこに何もいないかのように。それが、君たちの身を守る唯一の手段だ」
「無視……ですか。それはまた、残酷な解決策ですわね」
瑠璃派の萌生が指先でリボンを弄びながら、くすくすと底の知れない笑い声を漏らした。
「でもこれ、メタ的に言えば『観測者が存在を確定させる』って理屈なんですよ。誰も彼女を認識しなければ、彼女はこの世界のバグとして消えるしかない」
「だが彼女はあの幼い瞳でこちらに干渉してくるだろう。……弱体化したとはいえ、まだ危険だ」
「可愛いってタチ悪いっすよねぇ」
ミヤビはそう言うと、わざとらしく大きくため息をついた。
「……消えたいと言ったことのある奴、最近ふさぎ込んでいた奴は、一瞬たりとも目を離すな。いいな」
「……了解しました」
「各派、単独行動は禁止で。報告を徹底させましょう」
互いに頷き合い、彼らは闇に沈む廊下へと消えていった。
後に残されたのは、不気味なほど重苦しい沈黙だ。屋敷のどこかで、長く湿ったまま放置されていた感情が、雨を吸って膨らみ始めたようだった。
呼吸をするたび、湿った肺の奥に「終わらせてしまいたい」という甘やかな絶望が入り込んでくる。壁に染み付いた古い家鳴りさえも、生を諦めるよう促す囁きに聞こえた。
「……で、たからさんはどうするんすか?」
ミヤビが、影の中から問いかけた。その手には、これまで数々の異変を鎮めてきたはずの呪物が握られていたが、今はただの煤けた骨董品のように生気がない。
「多分これ、役に立たないっすよ。この屋敷そのものを欲しがってる『穴』みたいな存在っすから」
ミヤビはたからを見て目を細めた。
まるで面白い玩具を見つけたと言わんばかりに。
「もちろん、子どもは守るんすよね? 例外なく。それとも、誰かが食われるのを眺めてエンディングを待ちます?」
「……考えさせてくれ」
たからは、短くそう応えた。その視線は、ミヤビを見るでもなく、暗い廊下の先にあるはずの何かを見据えていた。
「一人にしてくれ。少し、考える」
ミヤビは肩をすくめ、闇に溶けるようにその場を去った。
たからは一人、ただ、立ちすくんだ。眉間を押さえていた指先が、ゆっくりと力を失う。
雨音だけが、彼女の思考を削り取るように鳴り続けていた。




