登場①
大広間の重厚な扉が、蹴破るような勢いで開放された。
流れ込んだ冷気と共に、室内を支配していた異様な緊張感と、それに真っ向から相反する幼い甘い声が鼓膜を打つ。
「ちょーだい」
「……どこから、入ってきたんだい?」
「外はあんなに嵐なのに。濡れてもいないなんて、おかしいよ」
子供たちが遠巻きに円陣を組み、中心にいる「何か」を値踏みするように見つめている。
彼らの瞳には明らかな警戒の色があった。しかし同時に、その足元は磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、無意識に一歩、また一歩と中心へ歩み寄っていた。
中心にいたのは、五歳ほどの幼い少女だった。
「……あの幼子は、一体どこから」
たからが愕然と呟く。屋敷の門も窓も、嵐に備えて固く閉ざされているはずだ。
泥一つ付けず、乾いた衣服を纏ってそこに佇む子供など、怪異以外の何物でもない。
「あー。あれが多分、みのりちゃんっすね」
背後から、ひどく場違いな、熱を欠いたミヤビの声がした。
「みのり? ……先ほど君が言っていた、婚外子の……」
「そうそう。昨日か一昨日だかに鏡の中に映った子と一緒っす。今はみんな避難して大広間にいるから、ちょうどいいと思ったんじゃないっすかね?」
ミヤビの不吉な推測を裏付けるように、少女――みのりが、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
その瞬間、子供たちが築いていた理性の防壁が、音を立てて崩壊していくのが分かった。
「……かわいい、みのりちゃん」
「ねぇ、どこから来たの?」
「お菓子食べる?」
「寒くない?」
つい先刻まで疑いの眼差しを向けていた者たちが、まるで毒を飲まされたかのように、うっとりと頬を緩める。
みのりは、たどたどしい足取りで、最も近くにいた少年に歩み寄った。彼女は小さく、鈴の音を転がしたような声で囁く。
「……ちょーだい」
「な、何を……?」
「ちょ〜だい!」
「……うん、いいよ」
少年が半信半疑といったふうに、自分の手をみのりへと差し出した。
「やめなさい!」
たからの怒声が、甘く狂った空気を切り裂いた。
彼は迷わず子供たちの群れに割り込み、少年の手をひったくるようにして引き離す。
「何をしているんだ君たちは! 正体も分からない相手に、何を差し出そうとしている!」
たからは、みのりの前に立ちはだかり、背後の子供たちを庇うように両腕を広げた。
五歳の幼子に向けられたその峻厳な眼差しは、彼女を「守るべき子供」ではなく、「秩序を壊す侵入者」として捉えていた。
「……ちょーだい。ぜんぶ、ちょーだい」
みのりの声は、雨上がりの雫のように澄んでいた。そのあまりの無垢さに、何人かが息を呑む。
けれど恐怖より先に、「守ってあげなきゃ」という甘い衝動が胸を満たしていった。
その静寂を縫うようにして、一人の少年がふらふらと歩み出た。その瞳は焦点が合っておらず、まるで心地よい夢でも見ているかのようだ。
「いいわ、みのりちゃん。……アタシの全部、あげる」
少年が笑うと、髪に飾られた瑠璃色のリボンも同時に揺れた。腰まである長い髪を優雅にかきあげ、女性のような艶かしい口調で、陶酔の笑みを浮かべる。彼がみのりの頬に手を伸ばした、その刹那。
「いい加減にしろ!」
たからの怒声が大広間の静寂を粉砕した。少年の細い手首を砕かんばかりに掴み取り、同時にもう片方の手でみのりの小さな肩を掴み、二人を強引に引き剥がす。
「……なに?」
「正気に戻れ! 君が今やろうとしたことは、親切でも献身でもない。ただの自殺だ!」
「あーあ、たからさん。それ、無駄骨っすよ。死にたがってるヤツに何言ったってお説教になんてなりませんって」
ミヤビが階段に肘をついて、退屈そうに鼻を鳴らした。
「『死にたい』ってのは、どんな優しさも跳ね返す最強の盾なんすよ。死にてぇ人間は何言われたって死にてぇもん。あーあ、もったいにぇ〜な。ねぇ、鐘雨くん?」
その言葉に、たからに腕を掴まれたままの鐘雨の身体が、ビクリと跳ねた。虚ろだった瞳に、ようやく「死」への恐怖と、自分を強く繋ぎ止めるたからの体温が混ざり始める。
「……ミヤビ。君は黙ってろ」
たからは、鐘雨を離さなかった。むしろその腕の力を強め、少年の魂をこの現世に繋ぎ止める杭のように、厳かに告げた。
「いいか、鐘雨くん。あの子に君を殺させて、君は幸せなのか? 君の命を奪ったあの子に、その罪を一生背負わせて平気なのか! それは献身ではない。君の命を、誰かにくれてやるな」
「……でも、みのりちゃんが、欲しいって……。アタシが、いなくなれば、あの子は……」
「生きたいと叫ぶ勇気がないなら、せめて私の前で勝手に死ぬな。君を構成しているその血の一滴、息の一つまで、誰にも……たとえ、どんな幼子の前であっても、勝手に譲ることは私が許さない!」
鐘雨はたからの腕に縋り付き、ただ一粒涙を零す。その涙は、呪いでも役割でもなく、ただ「生きている」という事実だけで熱を持っていた。
ミヤビは呆れたように壁にもたれかかった。
「おぉう、許さない、ときたか。たからさんってやり方がセコいっすねぇ」
「ああ、許さない。君の命は私にとって、そんな安い命ではない。認めないぞ」
「いや、知らんて」
たからの怒声と鐘雨の慟哭が響き渡る中、みのりはただ、小首をかしげてその様子を眺めていた。
やがて、たからのガードが固く、誰も「くれない」のだと理解すると、その唇が不満げに尖る。
「……けち」
幼い呟きが落ちた瞬間、彼女の姿は霧が晴れるように、唐突に掻き消えた。足音も、扉が開く音もない。ただ、そこにあったはずの体温だけが、冷たい大気へと霧散した。
それと同時に、周囲を囲んでいた子供たちが、弾かれたように顔を上げた。
「……僕たち、今、何をしようと……」
「鐘雨くん、ごめん……止めなきゃいけなかったのに、僕、可愛いなって思っちゃって……」
青ざめた顔で互いを見合わせる子供たちの間に、じわじわと震えが広がる。魅了されていた間の記憶が、恐ろしい「心中」の誘いだったと気づいたのだ。
「たからさん、これ不味いっすね」
ミヤビが、初めて冗談めかさない真剣な顔で、消えた空間を指差した。
「あの子、物理的に入ってきたんじゃなくて、この屋敷の『隙間』を通って現れましたよ。戸締まりなんて意味ないっす。他の子たちが狙われる前に、今のことを全員に伝えないと。あの子には絶対に近寄るなって」
たからは静かに泣く鐘雨を抱き起し、大広間に集まった子供たちを見渡した。
「……ああ。嵐が収まるのを待っている余裕はなさそうだ。各自、自分の姉や兄たちに、今のことを伝えてくれ」
「は、はい!」
近くにいた少年少女が、たからの言葉に頷いて散り散りになる。
外を叩く雨音は、さらに激しさを増していた。
「……アタシ、みのりちゃんに全部あげようとしてたんだ。……いいのに、もう……」
「求められたら差し出しちゃうよねぇ。母親代わりの、女としてっ」
鐘雨は泣きながらも姿勢を正して髪をかきあげる。無意識の所作なのだろうが、それは自らを美しく、あるいは「女」として見せようとする執念に近い仕草だった。
その歪な反応に、ミヤビは満足げな、毒気を含んだ笑みを浮かべる。
その直後、たからはミヤビを射抜くように睨みつけ、低く、威圧的な声で言った。
「……まさか君、他の子にも同じようなこと言ってないだろうな」
「え、あ、いや……じ、実害は与えてませんっ!」
「与えているも同然だっ!」
たからの雷光のような一喝が飛ぶ。一瞬、大広間が凍りついたようになり、たからは一度、苦虫を噛み潰したように目を閉じた。
「……他には。誰にやった」
「……ちょ、ちょっとだけ?」
「何人だ」
「……えー……」
ミヤビはたからの視線から逃れるように、泳ぐ目を天井に向けた。
その傍らで、鐘雨は濡れた睫毛を伏せた。
たからに強く掴まれた手首の痛みを、まるで愛おしい装飾品であるかのように指先で確かめる。
「みんな知ってるわよ。 全部」
「あんれま、筒抜け?」
「……君な」
たからが、これ以上ないほど深い、重苦しいため息を吐く。
ミヤビは反射的に、来るべき衝撃に備えて頭を抑えた。
「叩かないで! ちょっと! ほんとにちょっとだけなんですぅ!」
「……尋都兄様の泥人形、奪ったくせに」
「ああっ! 言わないでっ!」
「……詳しく聞かせてもらおうか」
たからの手が、無駄なくミヤビの首根っこを掴んだ。
「わ、悪いことはしてませんっ! ほんとですっ! 研究の一環なんですっ! いやぁあああっ!」
「……自業自得、っていうのよね」
ミヤビは為す術なく引きずられていった。
その、あまりに情けなくもどこか日常的な光景を、鐘雨は泣きはらした目で見送り、小さく自嘲的な息を吐いた。




