迎合②
二人が長い廊下を駆け抜ける中、荒い物音は一段と激しさを増していく。悲鳴と笑い声。相反する二つの音が、全く同じトーンで、壊れたレコードのように繰り返されていた。
次第に、全力疾走のたからからミヤビの距離が引き離されていく。
「へへ、たからさん……早すぎ……!」
「君の体力が無さすぎるんだ」
たからは足手まといになりかけたミヤビを背中で突き放し、食堂の前で急停止する。
中の様子を伺おうとした、その時だった。
――カラン。
どこかで、鈴の音がした。
食堂を満たす喧騒の中では、あまりにも小さく、あまりにも場違いなほど澄んだ音。
だが、たからは即座に顔を上げた。
「……鈴の音?」
カラン、カラン。
二度、三度。音は食堂の奥、古い飾り棚の方角から響いている。
誰も触れていない。風もない。それなのに、棚の上に置かれた小さな鈴が、見えない指に弾かれたように激しく揺れていた。
呼応するように、子どもたちの笑い声が、ひとつ、またひとつと重なっていく。
最後の一音が空気に溶けた瞬間、食堂の熱気が、一気に凍りついた。
まるで見えない膜が張られたように、全員の動きが止まる。
視界がわずかに歪み、全員の視線が入口へと吸い寄せられた。
そこに立っていたのは、黒縁メガネに赤い髪を乱し、瑠璃色のリボンを胸元につけた青年だ。
普段ならきっちりと着こなしているであろう衣服が乱れていて、奥の瞳はもはや光を反射していない。
「っ……う、そ……博喜兄様……!」
誰かが信じられないと言いたげに、呻いた。
たからは歯噛みし、低く吐き捨てる。
「……何だ、何が起きている?」
「なになに、どうしたんです? ……って、うわぁ何あれぇ!?」
遅れて追いついたミヤビが、場違いなほど素っ頓狂な声をあげた。
「マジで何あれ!? あんなん書いた覚えありませんよ!?」
「君には最初から期待してないが……不味いな」
たからが眉を顰めた瞬間、博喜と呼ばれた青年の口が、緩慢に開いた。
「……あ」
ゆっくりと持ち上がった顔。その白目は真っ赤に充血し、血管が浮き出ている。
一目で正気ではないと知れるその口元が、皮膚を引き裂くような角度で歪んだ。
「……あ、は……はは……」
不自然な笑い声が、死んだように静まり返った食堂に落ちる。
既に暴れた後なのだろう。彼の両腕からは鮮血が滴り、ひっくり返ったテーブルには、べっとりと赤い手形が残されていた。
「やだ……ねえ、やめて……? やめてよ、博喜……!」
「飲まれるなっ! 帰ってこい博喜!」
少女が、自分より小さな少女を抱きかかえて震えている。
痣を作り、返り血を浴びた青年たちが数人、盾になるように彼女たちの前に立ち塞がった。
「危ない!」
絶叫と同時に、博喜の肘がありえない角度で振り下ろされ、頑丈なテーブルを真っ二つに叩き割った。
白木が弾け、皿が宙を舞い、冷めたスープが床を汚す。
博喜はぎこちない、操り人形のような足取りで一歩、また一歩と前進する。
その視線の先には、お揃いのリボンをつけた少女たちがいた。
「……選ばれ、た……楽に、……供物……」
その声は、青年の喉を借りた「別の何か」の響きだった。
粘りつくような、複数の声が重なったような不快な残響。
「や……やだよ……!」
「食べられたくない! あっちいって!」
少女たちは互いの服を掴み合い、ガタガタと震える。
血を流しながらも踏みとどまっていた青年が、博喜の腕を必死に掴んで叫んだ。
「誰か舞妃を呼んできてくれ!」
「舞妃姉様!? でも……」
「いい! こうなったらもう戻れない! なら忘れてしまう前に死なせてやろう……!」
「そんな……」
「莉騎、敦稀、抑え込むのを手伝ってくれ!」
色違いのリボンをつけた少年二人が、博喜の体に縋り付き、その前進を必死に食い止める。
それでも博喜は止まらない。うわ言のように「供物」と繰り返しながら、泥濘を歩くような足取りで少女たちへ迫る。
走り去る少女と入れ替わるように、ミヤビがたからの隣で肩をすくめた。
「ヤバくないっすか? どうするんです?」
ミヤビの軽口には答えず、たからは迷いなく食堂へと踏み込んだ。
「――そこまでだ」
彼女の声は低く、しかしその場にいる全員の鼓膜に突き刺さるような重みを帯びていた。
「殺す必要はない」
場の空気が、軋む音を立てて静止した。
絶望に染まった子供たちの視線が、一斉にたからに注がれる。
「……外の人間が、何を分かったようなことを」
博喜を押さえつけている青年が、たからを強く睨みつける。
「分かっているつもりはない」
たからは一歩踏み出す。視線は博喜から逸らさない。
「言葉が混線している。自我が完全に消えていない証拠だ。完全に喰われたなら、もっと静かになる。あるいはもっと雄弁になる。……そうだろう?」
博喜の喉から漏れる、支離滅裂な断片。
慣れない器を無理やり動かしているような、筋肉の動きと言葉の不気味なズレ。
「……いいか。あれはまだ『選定』の段階だ。本番の処理には入っていない。今この瞬間に彼を殺せば、どうなるか分かるか?」
「……何が言いたい」
「生贄の席が、一つ空くだけだ。すると次が選ばれる」
ざわり、と空気が揺れる。誰かが息を飲む。
「しかも今は選定の途中。条件も優先順位も、まだ敵の気まぐれに委ねられている不安定な状態だ」
たからの声が、一段と低く落ちる。
「つまり、割り込める」
「割り、込める……?」
「おっ、いいっすね。要するに、無理やり引き剥がそうとして博喜くんを壊すより、選定のルールをバグらせて、神格さんに慌てていただきましょっかね!」
ミヤビがひょいと前に出た。その手は既に、袖の中に隠した何かを弄っている。
「今はまだ、こっちのターンっすよ〜!」
「ふざけるな! そうやって抵抗しようとして、何人死んだと思ってる!」
青年の怒声に、たからは冷徹な一瞥を投げた。
「……だからこそ、中途半端に止めるなと言っているんだ」
「は?」
「止めきれもしない力で抑え込むのは、ただの無駄な消耗だ。やるなら、あちらがルールを確定させる、この瞬間に割り込め」
たからの鋭い視線がミヤビを射抜く。
「行け、ミヤビ」
「りょっす〜! 全く……」
一瞬、ミヤビの瞳から温度が消えた。
そこにあるのは、底知れない怒り。自分が愛した残酷な物語を、知らない何かに汚された創作者の「憤怒」だ。
「『作者』の許可は取ろうか? ねぇ、神格さんよ」
博喜の身体が、びくりと跳ねた。
青年の制止を振り払い、ありえない方向へ曲がった腕が振り上げられる。
それと同時に、ミヤビは懐から細長い布包みを取り出した。
黒地に紫の糸で禍々しい文様が縫い込まれたそれを、手慣れた動作で解く。
中から現れたのは、一対の古びた円鏡。縁に刻まれた梵字が、鈍い光を放っている。
「ごめんね博喜くん。ちーっと焼けるけど我慢してくれぃ」
ミヤビはそう言って、鏡を二枚、打ち合わせるように軽く鳴らした。
澄んだ金属音が、空気を裂いた瞬間。彼の動きが、ぴたりと止まる。
「……ぁ……?」
「鏡は『写し』っすからね。どれが本物か、迷ってもらいますよ」
血走っていた目が、焦点を失い、揺れる。
まるで強烈な光を見た直後のように、瞳孔が震えた。
「中に入って悪さかましてんだろ! おらっ、こっち来いやっ!」
ミヤビがもう一度鏡を打ち合わせると、博喜の口からどろりと黒い物体が吐き出される。たちまちヘドロにも似た腐臭が辺り一面に撒き散らされる。
彼が床に手をついた瞬間、ミヤビは間髪入れず、鏡を前に出す。黒いものは鏡と鏡の間で揺れ、どちらへも進めずにいた。
しかしそれが数秒続いた後、消えた。
「うわっ。逃げやがった、くっそ」
「……っ、あ……は……」
歪んだ笑みは消え、博喜は激しく咳き込みながら床に崩れ落ちた。その顔には、一人の人間に戻った恐怖と混乱だけが張り付いている。
ミヤビは不機嫌そうに鼻を鳴らし、鏡を畳んだ。焦げ臭い指先を服で拭い、嫌な痛みに顔を歪める。
「きっしょ。処理落ちで逃げるなんてサイテー」
「大丈夫か?」
たからは博喜の背に手を添える。手のひら越しに伝わる心音は、壊れた時計のように激しく乱れていた。
博喜は灼熱の悪夢から醒めたばかりのような顔で、弱々しく頷いた。
「……助かっ……た、んですか……?」
「多分ね」
ミヤビは肩をすくめる。その指先が、微かに震えているのをたからは見逃さなかった。
「……大丈夫か?」
「多分。でも、次がわからんから安心はできないかも……っすね」
食堂の空気が、再び重く沈む。
完全に消えたはずの場所から、粘りつくような残響を伴って、もう一度だけ音がする。
チリン。
鼓膜を逆撫でするような鈴の音が、ひび割れた食堂に不吉に響き渡った。




