迎合①
この作品には虐待・自殺・希死念慮の描写が含まれます。
屋敷の奥底から、地を這うような低い唸りが響いた。
たからの眉がわずかに跳ねる。隣のミヤビは退屈そうに大きく伸びをした。
それを合図にしたかのように重厚な扉が悲鳴を上げて開く。
「御足労いただきありがとうございます。ようこそ、奉日本家へ」
出迎えたのは、十五歳ほどの少女だ。
ショートカットの髪は整っており、茶髪に近い色が照明を受けてほんのり赤く光る。鋭く青い瞳、そしてどこか同じ型から抜き出したような整った顔立ち。
メイド服のようなエプロンには、撫子色のリボンがきちんと結ばれていた。
たからは、ほんの一瞥で異常を察する。この広大な屋敷に、出迎えが子どもひとり。
しかも靴音や生活の気配は、奥から微塵も伝わってこない。
屋敷の内部は、夕陽の光すら届かないほど薄暗く、重厚な扉の向こうから冷たい風が一陣吹き抜けた。
壁に飾られた古い肖像画の目が、まるでこちらを監視するようにじっと見つめている。
居燭は瞬きひとつせず、手を前で揃えて静かに礼をした。
「当家の案内役を務めます。撫子派の居燭と申します」
――撫子派。
耳慣れない響きに、たからは内心でその語を反芻する。
「……丁寧な出迎え感謝する。霊能探偵の朽木たからだ」
名乗りを返しながら、たからは少女を観察した。
動きに無駄がない。張り詰めた弦のように全身が緊張を帯び、休むという選択肢そのものが失われているようだった。
その整った表情の端には、ごく僅かに影が差している。
恐怖と責任感。その二つが、少女を辛うじて立たせている。
「こちらは呪物商の阿良々木ミヤビ」
「どもっす〜!」
「話には聞いております」
一歩踏み出すごとに床板がかすかに軋む。
だが居燭の歩調は乱れない。足音の間隔は寸分違わず、まるで廊下そのものに刻まれた拍子をなぞっているようだった。
エプロンの裾を整える指先に、無駄な動きはない。
振り返るたび、その視線はたからたちではなく、廊下の角や天井の梁、閉ざされた扉の隙間を素早くなぞっていく。
二度目にそれを見たとき、たからは眉をひそめた。
何かを確認している。そう思ったが、何を確かめているのかまでは分からない。
ただ一つ確かなのは、十五の少女が客人を案内するには、その目つきはあまりにも切迫していたということだけだった。
「……妙だな。使用人どころか、生活の気配すら感じられない」
「使用人なんかいませんよぉ。親だっていねぇのに」
「彼女は?」
「居燭ちゃんは『使用人』じゃなくて、『お嬢様』の一人っす」
「お嬢様が使用人のフリをしている?」
「そっすよね? 居燭ちゃん」
小さく呟くたからに、ミヤビは笑いながら居燭に問いかけた。
居燭の手が、ほんの一瞬だけエプロンのリボンを握り直した。まるでお嬢様という言葉が、彼女の心に刺さった杭を揺らしたかのように。
「はい。……かつては、おりました」
ほんのわずかに間を置いて、居燭は握ったリボンから指を離した。
「その役目を、今は私が預かっております」
「何故?」
「食われ、消えてしまいました。記憶からもこの場所からも。私たちはそれを『欠落』と呼んでいます」
「違う違う、そっちじゃなくて! なんでお嬢様が雑務担当なんすかって――あうちっ!」
たからはミヤビを叩いて諌めた。余計なことを聞くなと暗に伝える。
深堀がしたいのだろうが、それでは話が進まない。たからは続けて問いかける。
「食われ、消えた、欠落……変な言い回しだね?」
「そう表現するしかないのです。死ねば遺体が残る。それが前提でした。しかし今はそれが残らない」
「死んだ人間の遺体が消える……」
「初めは、それだけで良かったのに」
その問いに、居燭の目がほんのわずかに和らいだ。安堵に似た色が浮かびかけ、すぐに濁る。
そのまま視線を落とし、そして何もなかったように瞬きをした。
ふと、たからの視界に、やたらと汚れた窓枠が映る。埃のほの字すらなかったような今までの窓枠と違い、そこの一枠だけが完全に放置されていた。
たからの手が窓枠に届く直前、居燭が短く息を呑む音が聞こえた。
「――触れないで、ください」
彼女は止めようとして手を伸ばしかけ、けれどそのまま力なく指を丸めて下ろした。眉間に深い皺を刻み、唇を噛みしめている。
「そこは、お姉様のお気に入りの場所だったんです」
その瞳は涙で濡れ、光を反射していた。
居燭は少し荒らげた呼吸を誤魔化すように、小さく咳払いをした。
「そこには触れないでください」
「……分かった。悪かったね」
「いいえ、すみません」
居燭は袖口を静かに引き、ずれひとつない位置へ整えた。
そうしているうちに、感情を押し殺した彼女の瞳は、再び鋭く無機質な奉日本家の使用人のそれへと戻っていく。
「……失礼いたしました。書庫はこの先です」
居燭は何事もなかったかのように踵を返した。
先ほどまでの動揺が嘘だったかのように、その歩調は再び寸分違わぬ規則正しさを取り戻していた。
二人は居燭の案内で、かつての当主が使っていたという書斎へと案内される。
人の息遣いはない。家具の軋みも、暖炉の爆ぜる音さえ聞こえない。
扉が閉まる。その瞬間、たからは眉をひそめた。
「……静かすぎる」
たからは机の前に立ち、視線を巡らせた。
棚の隙間や机の引き出しのわずかな歪みからも、屋敷全体の異常な整頓ぶりが伝わってくる。
使われていないはずの椅子が、つい先ほどまで誰かが腰掛けていたようにわずかに引かれている。
「……ここも、何か監視されている気配があるな」
たからは低くつぶやいた。ゾワゾワと背筋を這うような不気味な雰囲気が、より確信めいたものを抱かせる。
居燭は書斎の扉際で、背筋を伸ばして立っていた。
「必要があれば、すぐ呼んでください」
居燭は端的に言い、部屋を出ていった。
たからは机の書類に目をやり、ページの折れやインクのかすれを確認する。
インク壺の蓋が半開きのまま乾いている。書きかけの原稿も、主を失ったまま放置されていた。だが奇妙なことに、埃はない。
棚の本が一冊も傾いていない。何十冊も並んでいるのに、背表紙の高さが定規で揃えたように完璧だ。人の手が触れた形跡がない整然さは、もはや生活の気配ではなく、標本の陳列に近い。
「……ねぇ、たからさん」
ミヤビが、軽薄なトーンを潜めた低い声で囁いた。
「自分、この物語の作者なんですが」
「ああ」
「千文字くらい書いて放置した小説の中に、呪物商人として入ってきたって認識であってます?」
「……ああ、相違ない」
「マジっすか! マジで入ってきたんだ!」
ミヤビは目を輝かせた。そして待ってましたと言わんばかりの勢いで語り始める。
「見ました? 居燭ちゃんのあのピシッとした姿勢。感情を殺して、無機質に完璧を装ってるあの感じっ! ずっとずーっと長い間『お前は優秀な姉や兄の世話係』って刷り込まれてる成果が、表情の端々にバッチリ出ててぇ……。
あんな年端もいかない十五歳の女の子が、使用人のフリしながら必死に屋敷を守ってるのとか、作者たまんないっす!」
ミヤビは恍惚とした表情で自分の両肩を抱き、ぶるりと身震いした。
その視線は目の前のたからを通り越し、頭の中で組み上がっていく残酷で美しい物語のプロットを追っている。
「……君はそういう奴だったな」
たからは冷めた目で彼女を見下ろした。
「……だが、それを本人の前で言ってみろ。しばくぞ」
「ひぇっ、メタ発言はたからさんの前だけにしますっ!」
ミヤビは慌てて口元を両手で押さえ、大仰な動作で首をすくめて見せた。しかし、隠しきれない興奮がその身を細かく震わせ、抑えきれない笑みが指の間からこぼれ出している。
言葉とは裏腹に、ミヤビは椅子にドカッと座り、足をぶらぶらさせながら続ける。
「でもこの屋敷の設定は作った通りっすね。豊穣神『はぐいさま』の加護と呪いで、子どもだけは無限に増えるっ! 感情を殺して、壊して、捨てて、それでも縋るように生きてる子どもたち! 心に深い傷負って、それでも頑張る、跡取り育成ヒューマンホラーミステリー!」
「……随分と悍ましい設定だ」
たからは呆れたようにミヤビを見る。
彼女は少しだけ声を落としたが、口元はまだ緩んだままだった。
「『神格』ってのが勝手に入り込んで、私の設定を食い散らかしてるのも知ってます。……でもぶっちゃけ、そこはどうでもいいんすよ。
うちの子がこんなにリアルにしっかり動いてる様をしっかりじっくりじっとり見れんのなら……もーアニメ化しなくてもいい!」
ミヤビの声に反応するように、書斎の空気がわずかに揺れる。微かな埃が光の中で舞い、床板が静かに軋む。
たからは机の上を指でなぞりながら続けた。
「その神格は外部の異物だ。君の物語に寄生して、勝手に暴走している」
「へー。そんなことより、居燭ちゃん、むちゃくちゃ可愛かったっすよね!? あの反応! マジリアルでしたよ!」
「君の倫理観を直すより、神格を回収する方がよほど現実的だな……」
「えへへ。褒め言葉あざーっす」
たからは、肺に溜まった淀んだ空気をすべて吐き出した。
「……今回、目的は二つ。ひとつは子どもたち全員の保護。そしてもうひとつは神格の回収だ。完全復活する前に、確実に捕らえる」
たからの声は低く、揺るがず冷静だった。
指先は机の端を軽く押さえ、微細な異常を見逃さぬように視線を巡らせている。
ミヤビは軽く肩をすくめ、両足を持ち上げながら微笑んだ。
「自分の性癖で生み出したとはいえ、こういうのは好きじゃないんですよね。自分、こう見えて勧善懲悪が好きなんで」
「君は物語を完結させることを第一に考えろ。その為の力を貸してやっただろう」
「呪物を扱う力ねぇ……ほんとに出来るんすか!?」
「出来ねば死ぬだけだ」
たからはわずかに眉を寄せ、短く息を吐いた。
「油断すれば一瞬で足元を掬われる。微妙な異常の積み重ねが、神格の正体や呪いのトリガーに直結している」
二人の間に、静かだが張り詰めた緊張感が流れる。書斎の静寂が、そのまま時間を引き延ばすかのように感じられた。
ミヤビが小さく笑みを引き締める。
「よし……順番に手掛かりを潰して行きましょうよ。この章ならまだ誰も死なないはずなんで!」
「序盤も序盤だしな」
たからは視線を机に戻し、資料や書棚を再び見渡す。
ミヤビは立ち上がり、机の周囲を軽く歩きながら視界を整える。
「……気を引き締めて行こう。屋敷の奥には、まだまだ観察すべき異常が待って……」
たからの言葉は、遠くから何かが落ちる重たい音にかき消された。
それから何かが崩れ、転がる金属音。少女の悲鳴と少年の叫び声。そしてまた大きくぶつかる音がして、今度は笑い声が混ざり、少しづつ増えていく。
「まだ人は死なないはずと言ったよな?」
「ええ、言いましたとも! だってまだ一章開始の段階っすよ!? こんな音鳴る場面書いた覚えない……ない、よな?」
「しっかりしてくれ! とりあえず行くぞ!」
たからは青ざめるミヤビの首根っこを掴む勢いで、音のする方へと駆け出した。




