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探索①


 「さてさて! さてさてさて! たからさんもいなくなったことだし、『推し活』と洒落こみますかな!」


 朝食を食べ終えたミヤビは、ゆっくりと伸びをする。包帯の巻かれた両手は重く、指先はまだ自分の所有物ではないような違和感があるが、それすらも今の彼女には心地よい刺激だった。


「……おやぁ?」

 

 西回廊へ差し掛かった時、ミヤビの耳に届いたのは、乾いた空気の中で震えるトランペットの旋律だった。


「……この旋律……さては和竢(かずま)くんだな!? そういや楽器の音は全くしなかったなぁ。平和になって、再開したくなっちゃったのかな?」

 

 ミヤビが角を曲がる寸前、その旋律が、ヒステリックな声によって叩き折られた。


「――いい加減にして! 何のために、あんなに怖い思いをして生き延びたと思っているの!? そんな、音を出すだけの無駄なことに一秒でも費やす余裕なんて、私たちにはないのよ!」

 

 翡翠のリボンを激しく揺らし、心麗(みらい)が叫んでいた。和竢は楽器を抱きかかえ、凍りついた瞳で彼女を見返す。

 

「……無駄、か。やっぱりそう思ってたんだな、お前も。……俺がこれに縋って、ようやく正気を保ってるって分かってて言ってるのか?」

「正気? 正気でいたいなら、手を動かしなさい! 未来を作りなさい!」

 

 心麗の声が、鋭く廊下に反響する。

 彼女は耐えきれないといった様子で、廊下の窓際に飾られていたガラスの花瓶を掴み、和竢の足元へ投げつけた。

 ――ガシャァァン! と、静寂を切り裂く暴力的な破砕音が響く。

 

「姉様は……! 姉様は、描きたかった漫画を未完成のまま残して死んだのよ! 完成させられなかった時間を、あんたがここで殺してるのが、私には我慢ならないの!」

「……お前の姉さんの未練なんて、俺には関係ない」

 

 和竢は砕け散った破片に、視線を落とすことすらしない。ただ、ひんやりとした真鍮の楽器を、壊れ物を扱うように強く抱きしめた。

 

「俺にとっては、これを吹けない時間の方が死んでるのと同じなんだ」


 壁際で、ミヤビは包帯の巻かれた手を口元に当て、クスクスと震えるような声を漏らした。

 二人の間に飛び散った破片と、修復不可能な言葉の数々に、彼女の双眸は熱に浮かされたように潤んでいる。

 

「あらぁ、あらあら、まあまあまあ。姉の死に急かされ『未来』へ逃げる女の子と、安らぎを求めて『過去』の音色に逃げる男の子。痛いね、苦しいね、ああ、えっちだなぁ……」

 

 ミヤビのぼそぼそとした悦楽の呟きは、再び始まった二人の言い争いにかき消されていく。彼女はその「地獄」の続きを一文字も漏らさぬよう、暗がりに身を沈めていた。

 飛び散ったガラスの破片とともに、行き場を失った水が血のように床へ広がり、和竢の靴を濡らす。

 

「だからって、時間を無駄にしていいわけないでしょ!? 誰かが選ばれてた時はあんなに怯えて、今までやらなかったのに……! なんで今更、こんな音を出すだけのガラクタに縋り始めるのよ!?」


 心麗の叫びは、震える和竢の肩を容赦なく打ち据えた。濡れた床に、割れたばかりの無慈悲な静寂が広がる。

 

「……今更、か。そうだよな。お前にとっちゃ、俺は何かを成し遂げてなきゃ『役立たず』なんだもんな」

 

 和竢は低く笑った。その笑い声には自嘲すらなく、ただ深い断絶だけがあった。

 その時、廊下の向こうから撫子色のリボンを纏った男女が近づいてきた。

 ミヤビは咄嗟に口を噤み、さらに影の奥へと身を潜める。

 青年があくびを噛み殺しながら、散らばった花瓶の残骸と、立ち尽くす二人を一瞥した。だが、彼は面倒事に巻き込まれるのを嫌う野良犬のように、すぐに視線を逸らす。

 

「……おーおー、見てみろ、牧庭(まり)さんや。朝から元気なこった。こりゃあ翡翠は遅刻だな」

「そうだねぇ霜汰(そうた)くん。あの子たち、放っておけないもんね」

 

 少女はのんびりとした声を出しながらも、二人の悲痛な表情には一切触れず、ただスカートの裾が濡れないように軽やかに水溜まりを避けて歩く。

 二人の足音は、ミヤビが潜むすぐ横を通り過ぎ、反対側の角へと消えていった。

 残されたのは、さらに冷え切った空気と、無視されたことでいっそう惨めさを増した和竢と心麗の二人だけだった。


「襲撃のときは吹かなかった。……吹けなかったんだよ。死ぬのが怖くて、正気じゃいられなくて、ただの『ガラクタ』になってた。でもな、心麗。やっと屋敷が静かになって、俺は、ようやく、トランペットが吹けると思ったんだ」

「なんで!? 私たちは一秒だって無駄にできないの! 次の襲撃が来たら、また誰かが欠けるかもしれないのよ!?」

「…… 知ったことか。未来のために今を殺してるお前と、何が違うんだよ」

「なんですって……!?」

 

 心麗が再び、近くの卓にある書物を掴もうと手を伸ばす。その指先が震えているのは、怒りのせいか、それとも拒絶された恐怖のせいか。

 廊下の先から、正確なリズムを刻む足音が近づいてくる。


「やめたまえ二人とも!」


 その凛烈な声に、心麗の動きが止まった。

 翡翠派のリーダー、海聖(みなと)が鋭い眼差しで現場を射抜き、その隣では海兎(かいと)が困ったように眼鏡の位置を直している。

 

「こらこら、喧嘩しないの。大きな声を出さなくても、ちゃんとお話はできるでしょう?」

「……九時五十七分三十六秒。和竢、心麗、この惨状は何だ。説明しなさい」

 

 海聖は床に散らばった花瓶の破片と、和竢の靴を濡らしている水、そして彼が必死に抱きかかえているトランペットを一瞥した。そして壁際の影へと一瞬だけ滑らせる。

 和竢がトランペットを更に強く抱き抱えた。


「……俺がトランペットを吹いていたら、心麗が突っかかってきた。花瓶を投げたのはこいつだ」

「和竢くんが時間を無駄にしてる! こんなことしてたら、また選ばれたり、透けたり無くなったりしたときに困るから、やめるように言ったの!」

「……だそうだ。どう思う、海兎」


 海聖の問いかけに、海兎は心麗の手についた小さな傷を確認している。

 心麗は痛みに顔を顰める余裕もなく、ただ海聖の冷徹な瞳を恐れるように肩を震わせている。

 

「そうだね。心麗ちゃんが『時間』を惜しむのは、みんなを想ってのことだ。それはとても尊いことだよ」

「……でも」

「うん。でも、花瓶を投げたのはいけないね。怪我をしたら大変なことになる。それはダメだ」


 海兎は心麗の手に小さな絆創膏を貼る。


「和竢くん。君も、自分の呼吸を整えるために、誰かの不安を逆撫でしていいわけじゃないよ。怖い思いをしてるのはみんな一緒だ。怖かったね」

 

 海兎の言葉は、まるで真綿で首を絞めるような、逃げ場のない優しさに満ちていた。

 和竢は唇を噛み、抱えていたトランペットの指掛けを強く握りしめる。

 

「心麗ちゃん、時間は有限だ。だが、その時間を争いで消費するのは本末転倒だよ。もっと有効に使わないとね?」

「……ごめんなさい」

「謝る相手は僕ではないよ」


 海兎の静かな促しに、心麗は震える視線を、床に広がる水と和竢の靴へと向けた。

 和竢は謝罪を待っている風でもなく、ただ自分の世界を守るようにトランペットを抱え直す。この沈黙そのものが、心麗にとってはどんな罵倒よりも重い罰だった。


「……和竢くん、ごめんなさい。ひどいこと言ったわ。……花瓶、片付けるから」

「いいよ。俺がやる」

 

 和竢の返答は短く、壁のように冷たかった。海兎は満足げに微笑むと、膝の埃を払って立ち上がる。

 

「よし、いい子だね。心麗ちゃん、和竢くん。二人とも『有意義に』時間を使いなさい。……行こうか、海聖ちゃん。みんなを待たせすぎてる」

「――八分三秒。そうだな」

 

 海聖は懐中時計をパチンと閉じた。その視線は、ずっと二人の足元の破片に注がれたままだ。

 彼女は一言も発さず踵を返したが、廊下の角――ミヤビが潜んでいる影の数歩手前で、足を止めた。

 

「……十時五分六秒。盗み見とは随分趣味が悪いな、お客人」


 海聖は背中を向けたまま、氷のような声で告げた。ミヤビが息を呑む気配が、暗がりに小さく弾ける。


「ひぇ!? バレてら!」

 

 ミヤビがくねくねと影から這い出してくる。その顔には驚きの表情が張り付いているが、瞳の奥だけは愉悦の熱が冷めていない。

 

「盗み見なんて人聞きが悪いっすよー! ちょっと入るタイミングを見逃しちゃっただけっす! いやぁ、さすがは海聖ちゃん。いつから気づいてたんです?」

「最初からだ」

 

 海聖はようやく一度だけ首を巡らせた。しかし、その視線はミヤビを捉えることなく、ただ虚空を断ち切るように鋭い。

 

「ごゆっくり。……海兎、行くぞ」

「はいはい。……失礼します、ミヤビさん。次、喧嘩を見かけたら……誰かを呼んでくださいね? できれば、すぐに」

 

 海兎の、眼鏡の奥の瞳が笑っていない。ミヤビは「了解ですっ!」と両手を上げて降参のポーズを取ってみせた。

 二人の足音が遠ざかり、角を曲がって完全に消えるまで、廊下には刺すような冷気が立ち込めていた。

 

「ひぇええ……怖ぇえ……背負ってる責任感の重さがちげぇぜ」

 

 ミヤビは包帯の巻かれた指先で、自分の唇をなぞった。

 視線を戻せば、そこには重苦しい沈黙の中で、花瓶の破片を拾い集め始めた、和竢と心麗の姿がある。

 二人の指先が冷たい水に濡れ、ガラスの触れ合う乾いた音だけが廊下に響く。

 

「……ま、どっちも間違ってないっすけど、正しくもない。だからこそ、グロテスクなんだ」


 ミヤビは二人に声をかけることすらなく、和竢が吹いていた旋律を皮肉に歪めた鼻歌を歌いながら、逆方向の廊下へと消えていった。

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