第二夜
与えられた寝室の空気は、まるで古い書庫の奥底のように乾ききっていた。湿り気など微塵もなく、ただ無慈悲に喉の粘膜を削り取るような乾燥。池のほとりの冷たい湿気とは、対極に位置する人工的な不快さだった。
たからはベッドの端に腰を下ろし、月明かりだけを頼りに手帳を広げている。その横では、ミヤビが両手に包帯をぐるぐる巻かれた死体のような格好で、仰向けに横たわっていた。
「……はー、散々っすよ今回は。本当に。神格さんはべっちょりねっちょりホラーだったのに、みのりちゃんはアクションつよつよホラーだし、指の感覚は家出中だし、労災申請は満額で通してくださいね? 慰謝料も別途請求しますから」
ミヤビは包帯だらけの手を天井にかざし、力なく笑う。昼間の軽薄さとは少し違う、湿ったような声音だった。
「……指の件は、後でちゃんとした医者を手配する」
「絶対っすよ!? ……でも、僕はもう疲れたよ、たからっしゅ。元凶っぽかったみのりちゃんも、綺麗に霧散したことですし……」
ミヤビは寝返りを打ち、薄暗い瞳でたからの背中をじっと見つめた。
「明日になったら、あの情けなさの塊みたいな神格をさっさとシバき上げて、帰りましょうよ。あいつを排除すれば、この屋敷の異常の蛇口は締まるはずです。スピード解決、完結、ハッピーエンド。めでたしめでたし」
「……いや。まだ帰るわけにはいかない」
たからは手帳を静かに閉じ、低く、しかしはっきりと断定した。
「まだ、子供たちへの心のケアが残っている」
「……は?」
ミヤビが、心底呆れたように目を見開いた。
「ケア? 何を言ってるんですか、たからさん。私たちは霊能探偵と呪物商の、ちょー無敵の仲良しバディであって、カウンセラーでも心療内科医でもなければ、教育者でもないんですよ? 物理的な脅威が去れば、あとは時間が解決してくれるって相場が決まってるでしょうに」
「時間が解決しないから、問題なんだ」
たからはゆっくりと立ち上がり、窓の外の静まり返った中庭を見やった。
「博喜くんは他人の言葉に縋らなければ自分を保てなくなっていた。慧衣くんは自分を削ってまで立とうとしていた。あの歪んだ構図を当然として受け入れている空気……あれが、私はどうしても不愉快で仕方がない」
たからは睨みつけるように、瞳を細くする。
「子供が子供を命懸けで守る。守らなければいけない状況に追い込まれている。そんな、根本的にねじくれた家族の形を、ただ『時間が解決してくれる』と放り出して帰れるほど、私は鈍感でも無責任でもない」
たからはそこで、わずかに言葉を止めた。
窓硝子に映る自分の顔を、月明かりの下でじっと見つめていた。
「だからこそ、放っておけない」
数拍の沈黙が落ちた。窓硝子を叩く夜風の音だけが、やけに大きく響く。
「……それに、異変が本当に全て解決したとも限らない。あの神格も、あの少女も、完全に無力化できたとは言い切れない」
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ」
ミヤビが、まるで小石を投げ込むように言葉を挟んだ。
「これは私の書いた小説なんですけど? いえす創作、のっと現実。いや、正確には設定資料だけ作って本編書いてないから、小説未満の未完品なんですけど」
「……だから何だ?」
たからは振り返らずに言った。
「全員をこの屋敷から生還させて、初めて完結とすればいい」
ミヤビはしばらく呆然とたからの背中を見つめていたが、やがて喉の奥で「く、ふふ……」と、震えるような笑い声を漏らした。
「やっぱりたからさん、最高に趣味が悪いですね。 化け物と殴り合うより、壊れた子供たちの心の奥底に首を突っ込んで、ぐちゃぐちゃにかき回す方を選ぶなんて。泥沼にもほどがありますよ」
部屋の乾燥した空気が、喉の奥をちりちりと焼く。
ミヤビはわざとらしく喉を鳴らし、乾いた唇を舌先でゆっくりと舐めた。
「……未完のうちについた傷は、二度と綺麗に治りません。ぐずぐずに膿んで、性格にまで癒着して、生き方そのものを歪めてしまう」
「……だからなんだ」
「家庭なんて所詮、社会最小単位の地獄であるべきなんですよ。愛情だの絆だのという、高度すぎる理性が完全に枯渇した状況こそが、子供にとって最も健全で自然な環境なんです! 昔みたいに、労働力として叩いて働かせて、余計な期待をかけない時代の方がよっぽどあったけぇっすよ!」
「黙って寝ろ。明日は早いぞ」
たからは冷たく遮った。
ミヤビは包帯の巻かれた手で不器用に髪を払いのけ、満足げに目を閉じた。
正義という名の劇薬が、この未完の地獄をどのように塗り替えていくのか——その先の展開を、彼女は心の底から、楽しみにしていた。




