調査⑤
渡り廊下を駆け抜ける砂月の先、一人の黄金色のリボンをつけた青年が力なく壁に手をついていた。
同じく黄金色のリボンをつけた少女が彼を支えようとしているが、その異様さに足が止まる。
「……け、慧衣兄様……?」
砂月の声が震える。そこにいた青年――慧衣の足元には、廊下の闇をすべて吸い取ったような、どす黒く肥大化した「影」がべったりと張り付いていた。
対照的に、慧衣を必死に支えようとする少女の影は、今にも消え入りそうなほど淡く、白っぽく透けている。実体としての重みを失った彼女の指先は、慧衣の服を掴むことさえできず、空を滑るように震えている。
「慧衣! 心誇! 何をしているのですか!?」
遊梨が叫ぶと、心誇と呼ばれた少女だけが反応してこちらを見る。能面のような表情だが、唇が微かに震えている。
「慧衣兄様が、池に行くと仰られたので」
「わーあ、これは酷いっすね。心誇ちゃん、それ以上慧衣くんにくっついてると全部吸われて消えちゃいますよぉ!」
ミヤビの軽薄な声が響く。慧衣の足元にある泥濘のような影が、意思を持って膨れ上がり、心誇の細い足を飲み込もうと蛇のように這い上がる。
飲み込まれた部分から、彼女の存在がさらにパサパサとした灰のように崩れ、空間に溶けていく。
「……構いません。兄様が、立っていられるなら」
「うっひゃあ! 完璧で完全な陶酔と献身だぁ! たまんねぇ!」
ミヤビは冷や汗を流しながらも、ひどく楽しそうに笑った。
慧衣の足元にある泥濘のような影が、意思を持って膨れ上がり、心誇の細い足を飲み込もうと這い上がる。
「……ミヤビ。あれ以上薄くなったらもう戻れないぞ」
「分かってますって! ったく、もう限界なんすよこっちは! 痛いのは嫌いなんですっ!」
ミヤビが、真っ赤に腫れ上がり、ところどころ皮膚が裂けて血の滲んだ手で、鏡を高く掲げた。
その指先はすでに自身の重みに耐えかねて震えているが、彼女はそれを無視して、残ったすべての呪力を鏡面に叩きつける。
「はいはい、全品返品クレーム処理ですよぉ!」
ミヤビが鏡の背を拳で打ち鳴らした。
焼けるような白光が廊下を埋め尽くし、慧衣の中に詰まっていた他人の「存在」を強引に逆流させる。
――パリンッ!
硬質な、しかし悲鳴のような音が響いた。
光が収まったあと、ミヤビの手の中にあった鏡には、中心から四方に走る巨大な亀裂が刻まれていた。鏡面は曇り、先ほどまでの神秘的な輝きは完全に失われている。
「……う〜ん、流石に終わりましたねぇ」
ミヤビが力なく鏡を落とす。カラン、と虚しい音が響く。
彼の指は完全に感覚を失ったのか、幽霊のように白く、そして不自然な方向に曲がっていた。
「まだいけるだろ」
「むちゃくちゃ言うじゃないですか。こんなに頑張ってるのに! こんなに! こ〜んなにっ!」
「……代用品は?」
「いやありますけどね。もちろん。でも元凶仕留めた方が早いっす」
ミヤビは力なく壁にもたれかかったが、その瞳だけは、影の呪縛から解き放たれて崩れ落ちた慧衣と心誇の姿を、満足げに捉えていた。
その時、廊下の突き当たり、中庭の方向から「ドォン!!」と、先ほどよりさらに激しい地団駄の音が響いた。
「うるせぇ! イライラしてんのはこっちもっすわ!」
「静かにしろ。慧衣くんは大丈夫か?」
濃くなっていた体が元に戻った慧衣は、薄らと目を開く。心誇はそんな彼を膝枕して、その汗を拭いている。
「……ああ。なんとか……」
「兄様、動くのはまだ……」
「……黙ってろ。僕の行動に口を出すな」
慧衣は震える腕で強引に心誇を押し退け、壁を支えに立ち上がろうとする。だが、その足元はまだおぼつかず、無理やり動かそうとした膝がカクカクと震えている。
心誇は突き放されてもなお、崩れそうな兄の体を支えようと、細い腕を伸ばし続けている。
たからはその間に割って入るようにして、慧衣の肩を、有無を言わせぬ力で壁へと押し戻す。慧衣の体はずるずると、壁を背に沈み込むように崩れ落ちた。
「無理に動く必要はない。……心誇、と言ったか。君もだ、その腕を下げろ」
冷徹な声に、二人の動きが止まる。
たからは昏い廊下の先を睨んだまま、二人の前に立つ。
「君が君自身を――」
「分かっている。だが、僕が倒れたら、誰が指示を出す」
「では、なぜ自分で動こうとする?」
たからの声は、物理的な重圧となって慧衣の細い肩にのしかかる。
「代わりはいくらでもいる、と言いたいのか。それとも、自分以外には誰も信じられないと言いたいのか?」
「……違う」
たからの突き放すような問いかけに、慧衣は苛立ちを隠そうともせず顔を背けた。心誇もまた、伸ばしかけた腕を力なく下ろし、すがるように遊梨の顔を盗み見る。
そこには、先ほど同じように叱られた遊梨が、なんとも言えない表情でこちらを見ていた。
「慧衣、その探偵さんは非常に弁が立ちます。自己犠牲を叱るタイプの御方です」
「ああ、面倒臭い人間か」
脂汗を拭う余裕すらなさそうな青い顔に、皮肉げな、それでいてどこか救われたような苦笑が浮かぶ。
「面倒な人間で結構だ。面倒を引き受けるのが大人の仕事だからな」
たからがそう言い捨てた直後、渡り廊下の奥から、再度「ゴォン!!」と心臓を直接揺さぶるような地響きが奔った。
その衝撃に呼応するように、戻ったはずの影が床に貼り付いたまま、じわじわと元の形を思い出すように蠢いていた。
「なら、現状を何とかしてくれ。探偵さん。……年長が狙われている。歳上がダメになれば、下の人間は支えを失う」
「言われるまでもない。ミヤビ、動けるか」
「動けるも何も、歩く以外はストライキ中っすよぉ……」
ミヤビは力なく笑い、幽霊のように白くなった指をぶらりと下げた。だがその瞳だけは、濁った中庭の闇をじっと見据え、獲物を待つ獣のような好奇心を失っていなかった。
「……行くぞ。砂月くん、これ以上は近づくな。ここで、遊梨くんたちを頼む」
「は、はい……! お気をつけて……!」
たからは一度だけ背後の子供たちを振り返り、それから迷いのない足取りで渡り廊下の突き当たりへと踏み出した。
廊下を抜けた先、そこは月明かりすら吸い込まれるような澱んだ庭園だった。
中央に鎮座する大きなため池。その水面は鏡のように静まり返っているが、色はどす黒く、底知れない深淵を感じさせる。
池の縁から、何かが這い出そうとする湿った音が響く。
たからの視界の端で、池の周囲に植えられた木々の「影」が、不自然なほど長く、そして太くうねりながら水面へと伸びていた。屋敷中の影が、目に見えない脈動となって、この池の底へと収束しているのだ。
「ど〜しますこれぇ? 神格さんの時みたく、話し合いで何とかなりませんか?」
「なると思うな。あれは例外中の例外だ」
たからの言葉を肯定するように、池の中央からドロリとした粘性を伴って、巨大な影の塊がせり上がった。それは顔も四肢も定まらない、ドス黒い泥の巨人のようだ。
主が身震いするたび、溜め込まれた「存在」が不快な腐敗臭を放ち、周囲の空気を凍りつかせる。
「……あーあ。これは鑑定して中身暴かないとダメっすわ」
ミヤビがふらりと、たからの前に出た。その手には、中心から四方に走る巨大な亀裂が刻まれた、あの曇った鏡が握られている。
「それは使えない。……何をするつもりだ」
「失礼っすねぇ。まだまだ現役っすよ。鏡ってぇのは、嘘を暴く『真実の口』にもなるんですよぉ」
ミヤビは感覚を失った指で、愛おしげに鏡の曇った面を撫でた。
ひび割れた鏡面には、のたうつ化け物の姿が、まるでスローモーションのように映り込んでいる。
「……最後の一回、お仕事ですよ」
ミヤビが、震える両手で鏡を強引に主へと向けた。
叫びも、閃光もなかった。ただ、パキリと小さな乾いた音が響いただけだ。
しかし、次の瞬間、池の主の動きが凍りついた。
鏡の奥底に映し出されたのは、醜い泥の巨人ではない。赤い色のリボンを固く結び、孤独に震えている、ひとりの小さな少女の姿だった。
「……あ」
主の口から、子供特有の高い声が漏れる。
鏡の中に「自分」を見つけた瞬間、肥大化した嘘が剥がれ落ちるように、黒い影の塊がボロボロと崩れ始めた。
ミヤビの手の中で、鏡が砂のように崩れ、指の隙間からこぼれ落ちた。それはまるで、役目を終えた死者の骨のようだった。
同時に、崩れた影の内側から、いくつもの小さな手が外へ掻き出すように伸びては、光に焼かれて消えた。
「……もしかして、みのりちゃん?」
虚空を見つめるミヤビの口から、緊張感の欠片もないマヌケな声が漏れた。
「……みのり?」
「ええっ!? 足音主張強めのガチファンタジーつよつよ怪異さん、まさかの未採用ヒロインってマジ!?」
瞬間、絶望的な重圧を撒き散らしていた怪異の格が、音を立てて崩壊した。
ミヤビの危機感を怒号混じりの困惑へと叩き落とす。
「プロットも本編もないと聞いていたが」
「いやぁ、一応ふわっと脳内にはあったんすよ? だから派閥とかあるじゃないですか!」
「なるほどな」
「幻の六十一人目!? みたいなノリで作って、すぐやめたんす。めんどくせぇって!」
「……恐らくあれが泥棒の正体だ。自身の存在を、ここの子どもたちから奪うことで補おうとしていたのだろう」
「今ので自分を自覚できたから無力化できたと?」
「……分からん。あくまで推測だ。そもそも無力化出来たかどうかすら不明だ」
たからは、主が消えた後の澄んだ水面を見つめたまま、低く呟いた。
ミヤビは幽霊のように白くなった指先を見つめながら、首を傾げる。
「つまり全然何も判明しない、スーパー未解決ってこと?」
「……ああ。そういうことだ」
奪われた指の感覚も、鏡の輝きも、そして暴かれた少女の行方も。何をかも分からぬまま、たからは半歩池に近づく。
水面に映る自分の顔が、一瞬だけ、見知らぬ少女の顔に変わった気がした。
何ひとつ確かな答えを得られぬまま、静寂だけが中庭を支配していた。




