ボールの行方
翌日、宇宙物理学研究所では謎のボールがなくなっていることで話題が持ちきりになっていた。というのも、前日引き取りにきた愛莉たちに立ち会った菜穂子が午後から出勤になっており、研究所の責任者、野口教授以外には伝えられていなかったからだ。
それもそのはず、愛莉がボールのパスワードを思い出したのが研究所に来る前日の昼、それから電話で父龍一に話して、研究所に連絡を取って交渉してもらい了解を得たのが夕方遅くで、その時に話したのが菜穂子でそこから教授に話がいったのは夜遅くだった。
そして昨日、休日出勤の菜穂子以外知っているものはいなかった。野口教授も学会で不在であり、何も知らない他の者は謎のボールだけに消えたとか、何者かによって持ち出されたとか、およそ科学者らしからぬ非論理的に考えるものも少なからずいた。
そんな中、普段から人一倍ボールに関心のあった桑野はなんだか落ち着かない様子で皆から具合が悪いのかと心配されるほどであった。それは神経質な彼の性格ゆえであろう。菜穂子がおそらく事情を知っているとふんだ桑野は午後からの出勤を待ち切れず、携帯を手にして菜穂子のナンバーを押した。
長いコールのあと、やっと菜穂子が出た。
「もしもし、住吉くんかね?忙しいところすまないね。ボールがないんだが、何か知らないか?朝から研究所はそのことでパニックになっているんだ」
焦りのため自分の要件をたたみ掛ける桑野だが、彼が言うほど他の者はパニックになっておらず、むしろ自分だけが慌てているのが菜穂子にも悟られていることさえ分からない。
それを気づかすように菜穂子は言った。
「すいません。もうすぐ行きますから、その時に・・・」
電波状況が悪い振りをして電話を切った菜穂子であった。桑野も諦めて待つことにした。
桑野にとってなんとも長い半日だと感じたことであろう。実際はほんの三時間ほどであるにもかかわらず、彼にとってそれは眠れぬ夜ほどに思えた。
菜穂子が出勤して仕度をしていると、すぐ後ろに桑野が立待ちしていた。人の気配というのは何とも不思議なもので一瞬、背中がゾクっときたり、肩になにか重みを感じたり、視線が突き刺さるといった言葉では表現できない妙な感じで大抵、イヤな気がする。
まさに菜穂子はそう感じた。
「おはよう住吉くん。さっきの電話での話しだけど昨日、ボールを取りに来たのは誰だったのかな?」
まだ、菜穂子が用意も終わらない内に桑野は畳み掛けた。業務中もそうだが、彼は普段から自分優先のところがあり、目上の者などに指摘されてはじめて気がつくといったことが多々ある。一緒に働いている菜穂子たちはその辺のことは熟知しているとはいえ、こちらもやはり人間だ。虫の居所が悪い時は上司や部下など言っていられない。まさに今の菜穂子がそうだ。
強い口調で返した。
「桑野先生、悪いですけど少しぐらい待てないですか?着替えないと仕事もできないですし、ましてやお話もできないですよ!」
やっとわかったのか、桑野はすまないと一言謝ってコーヒーを入れにキッチンに行った。
周りのものはいつものことなので特に珍しくもなく、淡々と自分の仕事をこなしている。
菜穂子は白衣に着替えて桑野がいるキッチンに向かった。まずはコーヒーを飲みたかったからである。少し反省しているのか、桑野はシンクにもたれてコーヒーをすすっていた。
「ボールを取りにこられたのは柴田教授のご家族ですよ」
先ほどと全く違い静かに菜穂子は言った。
「もちろん鍵は開けたんだな?中身はなんだった?君も立ち会ったんだろ?」
そう、桑野が興味あるのは中身である。誰がいつ来ようがそれは彼にとってあまり意味はなく、知りたいのはただ中身だけ。もちろん菜穂子もそれは百も承知だ。
だからこそ、あえて桑野にとって興味のないことを答えた。本当は菜穂子も他の者も興味がないと言えば嘘になる。数ヶ月の間、本当の正体は現さなかったが研究室にあった。それに対して興味がないほうがおかしい。
だが、菜穂子を含む他の者は単純にボールが極めて特殊なつくりであること、それに天文学的な確率でしか開けられない鍵の存在。科学に関わる者が大勢いる職場ではごく当たり前の興味と探究心がある。
しかし、桑野の場合はそれよりもその中身にこだわっている。それを知ってどうするつもりであろう。
菜穂子はその執着心に違和感以上の何かをおぼえた。
「はい、開ける時にその場にいましたが、封筒がひとつだけみたいでしたよ」
「あんなに手が込んでいたのに封筒がひとつ?なんだそれは?柴田教授がつくったんだよな?よくナンバーがわかったな」
釈然としないのも当然である。おそらく誰が聞いてもそう思うだろう。実際、扉を開けた愛莉たちもそうだった。しかも菜穂子は桑野に封筒ひとつだけとしか言っていないのだ。
コーヒーを飲み終えた桑野はコップをシンクに置き、何度も首を捻りながら再度、菜穂子に確認した。
何度も「そうです」と言う菜穂子にしつこく食い下がる桑野、そこに助け舟が出た。
「住吉さん、お電話です」
同僚が呼びに来て、菜穂子にウインクした。まるで小学生のように走って自分の机へと向かった。
それを見送る桑野は舌打ちをした。菜穂子にとっての救世主は愛莉であった。昨日のお礼と今後、専門家としていろいろアドバイスをしてほしいとのことであった。
菜穂子は快諾して逆にいいタイミングで電話してくれたことを愛莉に伝えた。
「それでは失礼します。ありがとうございました」
そう電話を切ってポケットにしまい込んだ愛莉は手を大きく広げて空を仰いだ。天気のいい昼休みはいつも、ここ屋上で仲のいい友達と弁当を食べる。
愛莉は皆の輪に戻りナフキンを広げて、母里美が作った弁当のフタを開けた。
「菜穂子さんいた?」
紀子が口をモグモグさせながら言った。
「うん。大変だったみたい研究所。ボールが消えて、それを説明しているところに丁度私が電話して、しつこい先生だから助かったって菜穂子さん言ってた」
愛莉はそう言いながら卵焼きを食べた。
「でも菜穂子さん素敵よね?美人で頭もいいし。憧れるわ!」
弁当を片付けながら紀子が言うと、愛莉は口いっぱいに頬張っているので頷いた。紀子と同時に食べ始めたのに、弁当がまだ半分も残っているサッカー部マネージャーの咲がふたりの話に興味が湧いたのか、紀子に聞いた。
「菜穂子さんって誰?」
片付けが終わり紀子は咲に菜穂子のことを話した。
東都大学で天文学者であること、現役時代はミスキャンパスに選ばれながら決して賞を受け取らなかったことなど。
「へ~、すごいなぁ!私もそんな人に会いたいな。愛莉もその道に行くんでしょう?」
最後のリンゴを食べ終わった咲が言った。
「そうなればイイんだけど・・・まずは合格しないとね。でも私は菜穂子さんみたいに美人じゃないし」
後から食べたのに咲と同時に終わった愛莉が片付けながら言うと、紀子と咲は相槌をして笑った。
少し愛莉はムスっとした。
「今度の休みに買い物に行こう。そのあと恵夢山キャンプ場の打ち合わせもしたいし」
愛莉がそう言うと紀子と咲は、はしゃいだ。




