第三章 二つの事件
結衣は、書庫の前でしばらく動けなかった。
扉を開けたのが神崎なのか、閉め忘れたのか、それとも自分に見せるためなのか。紺色のファイルは、背表紙を揃えて並んでいる。一番端の一本だけが、指一本分ほど前へ出ていた。
手を伸ばしかけ、止めた。神崎からは触れるなと言われている。しかし今は、健太の弁護に十五年前の事件が入り込んでいる。見る理由はある。そう考えた瞬間、理由を作って約束を破ろうとしている自分にも気づいた。
結衣は棚を閉じた。鍵はかけず、神崎の机にメモを残した。
〈必要な資料なら、先生自身の判断で出してください。私は盗み見ません〉
翌朝、紺色のファイルは結衣の机に置かれていた。神崎は窓辺で珈琲を飲みながら言った。
「三日だけ貸す。持ち出すな。複写する資料は俺に示せ」
「最初から見せるつもりだったんですか」
「昨夜までは違った」
ファイルは十二冊あった。被告人は、横浜市都市整備局の課長補佐だった相原雅夫。堂島系建設会社から三百万円を受け取り、再開発用地の選定で便宜を図ったとして起訴されている。現金は相原の自宅から見つかり、受渡し場所にいたという目撃証人もいた。
相原は、現金を入れた人物として堂島側の社員を名指しした。しかし社員は事情聴取後に自殺し、相原の主張は責任転嫁と受け取られた。無実を裏付けるはずだった証人、曽根達也は、公判直前に失踪している。
曽根は港湾荷役会社の経理担当で、第十七倉庫に保管されていた裏帳簿を管理していた。裏帳簿には、土地取得のため堂島側から地元の斡旋業者や行政関係者へ流れた金が記録されている、と供述する予定だった。だが供述調書は作られていない。神崎との打合せメモだけが残っていた。
〈原本は危険。写しをK17へ。鍵は後日〉
「K17は、第十七倉庫のロッカーですね」
神崎は否定しなかった。
「曽根さんから鍵を受け取ったんですか」
「受け取る前に消えた」
「先生の鍵束には、十七と書かれた鍵がありました」
神崎の視線が止まった。
「よく見ているな」
「いつ手に入れたんですか」
「相原の判決後だ。差出人のない封筒で届いた。手紙と一緒に」
「なぜ法廷へ出さなかったんです」
「届いたときには、控訴審の弁論も終わっていた。手紙には、鍵を使うなと書かれていた」
「それで十五年も?」
「曽根の家族の住所が書かれていた。公表すれば、家族に危害が及ぶと」
神崎はそれ以上説明しなかった。手紙そのものはファイルに入っていない。結衣が求めても、「今は出せない」と答えた。
証拠を守ったのか、隠したのか。神崎の沈黙は、どちらの解釈も許した。
結衣はまず、現在の事件だけで検察の構図を崩すことにした。駐車場の管理会社へ弁護士会照会を申し立て、保守会社には点検報告書の任意開示を求めた。港南ベーカリーには事件当夜の配送担当者を尋ね、倉庫周辺の事業者へ防犯映像の保存を依頼した。
同時に、健太の勤務先と広岡の取材先を歩いた。
東浜運輸の現場責任者は、健太を「使いやすいが、信用はできない」と評した。
「頼めば夜中でも来る。文句も言わない。でも、金がないときは同僚に嘘をついて借りる。先月も母親が入院したと言って三万円借りた。母親は十年前に亡くなってるのに」
「暴力を振るったことは」
「見たことない。ただ、追い詰められた人間が何をするかなんて、俺には分からない」
同僚の一人は、事件当日の午後、健太が広岡と倉庫で作業していたと証言した。古い木箱の結束バンドを切るため、広岡が折り畳みナイフを渡したという。凶器から健太の指紋が出た理由になり得る。
「警察にも話しましたか」
「話した。でも、ナイフを前から使っていたなら、犯行にも使いやすいって言われた」
事実は、置かれた物語によって向きを変える。
広岡が通っていたバー「錨」は、馬車道の裏通りにあった。店主の柴田は、最初は取材の秘密を理由に口を閉ざした。結衣が広岡の死を利用するつもりはないと説明し、分からないことを分からないまま話してほしいと頼むと、ようやくグラスを拭く手を止めた。
「広岡は、堂島の土地の話をしていた。戦後のどさくさで名義を移された土地が、今の再開発区域と重なるってね。だが、記事にするには金の流れが足りないと言ってた」
「第十七倉庫の帳簿ですか」
柴田は結衣を見た。
「その言葉をどこで」
「広岡さんが健太さんに話していました」
「なら、あんたも深いところまで来てる」
事件の一週間前、広岡はこの店で堂島ホールディングスの男と会っていた。五十代、体格がよく、左耳の後ろに火傷の痕がある。男は広岡に封筒を渡し、声を荒らげずに「記事を止めろ」と言った。柴田は名前を知らなかったが、堂島の記者会見映像で、会長の後ろに立つ警備責任者を見たことがあった。
結衣が会社の役員一覧を調べると、総務・危機管理部長の成瀬隆が該当した。元県警刑事。左耳の後ろには、若い頃の火災事故による傷があると業界誌に書かれていた。
しかし柴田は、法廷で証言することを拒んだ。
「俺が見たのは、男が封筒を渡したところだけだ。中身も知らない。広岡が死んだ今、次に店を潰されるのは俺かもしれない」
結衣は説得を重ねなかった。恐怖を正義の言葉で押し切れば、取調官と同じになる。
数日後、駐車場の保守会社から回答が届いた。事件当時、カメラの内蔵時計は実時刻より十一分進んでいた。翌日の定期点検で修正されている。警察へ提出した映像にも、誤差について記した送付状を添えたという。
結衣は報告書を握り締めた。駐車場映像の表示が午後九時五十三分なら、実時刻は九時四十二分。神崎が新聞の余白に書いていた二つの時刻と一致する。
開示された映像では、九時五十三分と表示された画面の奥を、健太に似た男が走っていた。検察はこれを、犯行後に逃げた姿と評価している。だが実時刻が九時四十二分なら、市営カメラの九時三十六分から六分後にすぎない。健太が倉庫へ着き、事務室まで移動して口論し、刺し、財布を探ったという自白の経過は、時間的に苦しくなる。
さらに映像の手前には、海側の門から出る黒い車が映っていた。ナンバーは光で読めない。運転席の人物も見えない。それでも、別の者が現場にいた可能性を示す。
結衣は黒田検事へ送付状の不開示を抗議した。黒田は、時刻の誤差を含めても被疑者の犯行は可能だと答えた。
「映像では、村上さんが九時四十二分に倉庫から出ています。犯行時刻を九時四十分と限定する証拠はない」
「自白では九時四十分です」
「時計を見た記憶が曖昧だったのでしょう」
「犯人しか知り得ない正確な供述ではなかったということですね」
黒田の眉がわずかに動いた。
「細部の誤りが、体験供述全体を否定するわけではありません」
結衣は、検察も一つの事実に複数の意味を与えられることを思い知った。十一分のずれは突破口だが、無罪を決める証拠ではない。
港南ベーカリーからは、期待した回答が来なかった。事件当夜の担当者、江藤修は退職し、連絡先を教えられないという。配送記録によれば、トラックは午後九時四十分ごろ第十七倉庫前を通る予定だったが、位置情報は保存期間を過ぎて消去されていた。
結衣は登録住所を調べ、江藤の自宅を訪ねた。妻と別居し、住所には高齢の母だけが暮らしていた。母は息子の居場所を知らないと言ったが、玄関の靴箱には港南ベーカリーの作業靴が残っていた。
「事件のことを聞きたいだけです。責任を追及するつもりはありません」
「修は何も見ていません」
答えが早すぎた。母の指が、ドアの縁を強く掴んでいる。結衣は、江藤が何かを見たと確信しかけた。
「黒い車を見たんですね。誰が乗っていたか、息子さんは知っているんじゃありませんか」
母の顔がこわばった。
「帰ってください」
「無実の人が起訴されるかもしれないんです」
「帰って!」
ドアが閉まった。
翌日、結衣のもとへ江藤本人から電話があった。
「母に何を言った」
低く押し殺した声だった。
「申し訳ありません。事件当夜に見たことを伺いたくて」
「俺は現場を通ってない。配送を飛ばして、別の場所にいた。会社に知られたくなくて、予定どおり走ったことにしただけだ」
江藤は、勤務中に交際相手と会っていたと認めた。母が怯えたのは、息子の家庭問題が露見することを恐れたからだった。黒い車を見たのだという結衣の読みは外れていた。
「あんた、弁護士だろ。人の家に来て、勝手に犯罪者みたいな話をするな」
電話が切れたあと、結衣はしばらく受話器を置けなかった。無実の人を救いたいという思いが、別の人の秘密を、自分に都合のいい証言へ変えかけた。
神崎に報告すると、彼は責めなかった。
「謝ったか」
「はい」
「なら、次は推測と質問を分けろ。答えを口に入れてやれば、人は否定するか、合わせるかのどちらかになる」
「先生も、十五年前に同じことをしたんですか」
神崎の表情が硬くなった。
「した。相原は無実だと信じていた。だから、曽根の曖昧な話を、俺の欲しい証言へ整えようとした。結果、あいつは怖くなった」
初めて聞く告白だった。
「失踪は、先生のせいだと?」
「少なくとも、俺は追い詰めた」
その夜から、結衣は聞き込みの記録を変えた。事実、推測、相手の言葉、自分の印象を別々の欄に書いた。「怯えている」ではなく、「質問後にドアノブを握り、三秒沈黙した」と記す。感情に名前をつける前に、見たものを残すためだった。
次に結衣は、広岡が追っていた土地の流れを確かめた。県立図書館の地域資料室には、戦後の換地図、接収解除図、港湾企業の社史、古い住宅地図が保管されていた。現在の第十七倉庫が建つ区画は、終戦直後には複数の小さな宅地と共同倉庫に分かれている。昭和二十八年から三十年にかけて、それらの名義は同じ不動産会社へ集中していた。
会社名は東洋土地興業。現在は清算済みだが、取締役の一人に堂島重光の父の名があった。
登記の原因は売買となっている。しかし当時の新聞には、元の所有者の一部が行方不明で、残された家族が権利を争っていたという小さな記事があった。立退きを仲介したのは、港湾荷役会社「浜栄組」。曽根が経理を担当していた会社である。
結衣は、広岡の記事にあった「不自然な名義移転」が何を指すのか、ようやく理解した。堂島家の事業は、戦後の混乱の中で安く集めた土地を土台に成長した。その取得過程を示す帳簿が残っているなら、堂島ホールディングスの正当性そのものを揺るがす。
ただし、歴史上の不正が広岡殺害を証明するわけではない。十五年前の贈収賄事件とも、自動的には繋がらない。結衣はノートの「推測」欄に、堂島側には広岡の記事を止める動機がある、と書いた。事実の欄には、柴田が成瀬らしい男を見たこと、成瀬の本人確認が未了であること、封筒の内容は不明であることだけを記した。
資料室の職員が、閲覧申込書の束を持ってきた。
「同じ資料を最近調べた方がいます。公開情報ですから、お名前はお伝えできませんが、資料番号なら参考になるかもしれません」
申込番号の一覧には、結衣がまだ見ていない資料が一つあった。「港湾施設保守委託契約書 平成二十一年度」。閲覧すると、第十七倉庫の警備と設備管理を、堂島系の会社が受託していた。契約上、非常時に使う海側通用門の合鍵は、受託会社の危機管理責任者が保管することになっている。
当時の責任者は、成瀬隆だった。
現在の倉庫は市の所有だが、再開発までの暫定管理を同じ会社が続けている。成瀬には、事件当夜、正面カメラに映らず出入りする手段があったことになる。
結衣は市へ入退館記録の保全を申し入れた。返答は、海側通用門の電子錠が事件二日前から故障し、機械記録が残っていないというものだった。故障報告をしたのは管理会社。修理業者の訪問予定は事件翌日だった。
偶然が一つなら、意味はない。二つ重なっても、まだ証明ではない。しかし、駐車場カメラの時刻修正、通用門の故障、翌日の修理という並びは、誰かが記録の空白を利用した可能性を示していた。
法医学鑑定書については、大学時代の恩師を通じて法医の森島准教授に意見を求めた。森島は写真と解剖記録を見比べ、断定は避けながら説明した。
「刺創は左上から右下へ入っています。被害者と正対して右手で刺すなら、やや作りにくい角度です。左利きの者が一歩踏み込んだ場合には自然ですが、被害者の姿勢や二人の位置で変わります」
健太は右利きだった。成瀬は会見映像で資料を左手に持ち、ペンも左手で使っている。
「これで、別人が刺したと言えますか」
「言えません。可能性を比較する材料にはなる。でも、傷の角度だけで犯人を決めれば、あなたは検察と同じことをする」
結衣は頷いた。欲しい答えを先に置かない。森島の留保ごと、意見書にしてもらうことにした。
広岡の通話記録には、事件前一か月で神崎の番号が七回あった。最後の通話は事件当日の午後八時十二分。三分四十六秒。神崎は自分からは説明しなかった。
「広岡さんは、鍵を受け取るはずだったと言っています」
「健太がそう言ったのか」
「質問に答えてください」
「渡さなかった」
「なぜ」
「手紙の約束があったからだ」
「広岡さんは、そのせいで一人で倉庫へ?」
神崎は黙った。
結衣は通話記録を机に置いた。
「先生は午後八時十二分に話しています。広岡さんが殺されたのは、その一時間半後です。十一分のずれを知っていた。記事が出る前から現場の時計も知っていた。先生は、あの夜、倉庫へ行ったんですか」
「行っていない」
「証明できますか」
「できない」
神崎の答えは静かだった。
その態度が、結衣には何より不気味だった。
数日後、弁護士会照会への回答として、広岡の銀行口座明細が届いた。事件の三日前、広岡は二十万円を現金で引き出している。そのうち十八万円が健太の部屋で見つかった可能性は高い。
同じ明細には、毎月一回、五万円の振込みがあった。振込人名は「カンザキリュウノスケ」。一年以上続いている。
報酬なのか、情報提供の対価なのか。あるいは口止め料か。
明細の別の頁には、事件前日に「シンコウキカク」から百万円が振り込まれ、同日中に組み戻された記録もあった。法人登記を調べると、新港企画は堂島ホールディングスの取引先と同じ住所に置かれた実体のない会社だった。広岡が金を拒んだのか、口座を一時的に使われただけなのかは分からない。
黒田検事に照会すると、捜査済みとの回答だけが返った。堂島側は、取材協力費を誤って振り込んだため組み戻したと説明しているという。
一方、神崎からの毎月五万円については、捜査記録に触れられていなかった。検察が重要と考えなかったのか、別の意図で伏せているのか。
結衣は明細を持って事務所へ戻った。神崎の姿はなかった。机の引き出しは施錠され、紺色のファイルは十二冊のうち一冊が消えていた。
書庫の床に、コピー機の利用記録が落ちていた。事件当日の午後八時三十分、神崎のカードで百二十七枚が複写されている。文書名は表示されない。
その時刻は、広岡との最後の電話の直後だった。
結衣は、誰かに見られているような感覚に襲われ、窓を振り返った。向かいのビルの屋上に、人影があった。黒い服の男が一瞬こちらを見て、給水塔の陰へ消えた。男が身を翻した拍子に、肩の黒い鞄が揺れ、左耳の後ろに白い筋が一瞬見えた。
机の上の電話が鳴った。
出ると、声を低く変えた男が言った。
「第十七倉庫から手を引け。次は、資料だけでは済まない」
通話は切れた。
結衣は窓へ駆け寄ったが、屋上にはもう誰もいなかった。ガラスに映った自分の顔の向こうで、横浜の夜景が無数の光を放っていた。その一つ一つの下に、見えない影がある。
そして今、その影の中心に神崎がいるように思えた。




