第二章 過去からの依頼人
高田美咲は、濡れたトレンチコートを脱ごうともせず、相談室の椅子に座った。両手で抱えた鞄から、逮捕を報じる夕刊と、折り目だらけの名刺を取り出す。名刺には「村上健太 東浜運輸臨時作業員」とあった。
「健太は、広岡さんを殺していません」
声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。
村上健太は二十八歳。寿町の簡易宿泊所を転々としながら、港の倉庫や工場で日雇いの仕事をしていた。半年前、配送の手伝いで広岡と知り合い、資料運びや取材先への案内を頼まれるようになった。事件当夜、広岡に呼ばれて第十七倉庫へ行き、遺体のそばで警察に確保された。
凶器は倉庫にあった折り畳み式の作業用ナイフ。柄から健太の指紋が検出され、作業手袋には広岡の血が付着していた。広岡の財布から現金が消え、健太には消費者金融の借金があった。さらに、逮捕後二日目の取調べで、健太は刺したことを認めていた。
美咲は新聞のコピーを机へ滑らせた。見出しの下に、警察関係者の話として「金銭トラブルから衝動的に犯行に及んだとみられる」と書かれている。
「昨日、接見した国選の先生から、自白しているから難しいと言われました。健太も、もう自分がやったことにしていいって。でも、あの人は、そんなことをする人じゃない」
神崎は記事を一度見ただけで返した。
「人は、周囲が考えているより多くのことをする。優しい人間も嘘をつくし、追い詰められれば暴力を振るう」
「それでも、健太は殺していません」
「根拠は」
美咲の喉が詰まった。結衣は、神崎が依頼人を試すときの沈黙を知っていた。助け船を出したくなったが、待った。
「事件の夜、九時半ごろ、健太から電話がありました。『広岡さんが来ない。帰ろうかな』って。普通でした。人を殺す前の声じゃありませんでした」
「通話記録は残っているか」
「はい。でも警察は、殺す前だから普通に話せたんだろうって」
「現場へ行った理由は」
「広岡さんに頼まれたからです。資料を運ぶと聞きました」
「何の資料か、あなたは知っていたか」
美咲は首を振った。その一瞬、鞄を押さえる指に力が入った。結衣は気づいたが、意味を決めなかった。
神崎はさらに、健太の借金、広岡との関係、事件当日の行動を細かく尋ねた。美咲の答えには抜けがあった。借金の正確な額を知らない。広岡から報酬を受け取っていたかも分からない。事件の前週、健太が急に二十万円を用意すると言い出した理由も聞いていない。
それでも彼女は、健太の無実だけは疑わなかった。
神崎は名刺を机へ置いた。
「お引き受けできません」
美咲の顔から血の気が引いた。
「なぜですか」
「現時点で、被疑者の言葉と客観的な証拠が食い違っている。本人が自白し、凶器に指紋があり、血の付いた手袋をして現場にいた。勝ち目がない」
「先生なら、不可能な事件でも真実を見つけると聞きました」
「昔の話です」
神崎の声音は平らだった。しかし結衣には、その右手が机の下で強く握られているのが見えた。勝ち目がないから断ったのではない。事件の名に反応しながら、近づくことを拒んでいる。
美咲は深く頭を下げた。
「お願いします。健太には、頼れる家族も、お金もありません。私まで諦めたら、本当に誰もいなくなるんです」
結衣の胸に、離婚相談で覚えた警告がよみがえった。感情は入口であって、出口ではない。それでも、入口を閉ざす理由にはならない。
「私が担当します」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
神崎が顔を上げた。
「記録も見ずに決めるのか」
「受任して記録を見ます。無実だと決めつけるつもりはありません。ただ、自白したという理由だけで、調べる前に見捨てたくない」
神崎の瞳に、一瞬だけ複雑な色が浮かんだ。満足ではなかった。恐れに近かった。
「好きにしろ。ただし、俺の名前を使うな。十五年前の事件にも近づくな」
「それが条件ですか」
「忠告だ」
結衣は美咲と委任契約を結び、その日のうちに警察署へ向かった。
接見室のアクリル板の向こうに現れた健太は、写真より小さく見えた。髪は乱れ、頬には髭が伸びている。椅子に座ると、膝の間で手を組み、結衣の顔をまともに見ようとしなかった。
「弁護士の佐倉です。高田美咲さんから依頼を受けました」
美咲の名を聞いたとき、健太の肩がわずかに動いた。
「もう、いいです」
「何が、ですか」
「俺がやったことにすれば、終わるから」
「あなたは広岡さんを刺したんですか」
長い沈黙のあと、健太は頷いた。
「九時四十分ごろ、金のことで口論になった。広岡さんが馬鹿にしたから、机の上のナイフを取って、胸を一回刺した」
よどみのない説明だった。しかし、声に場面の手触りがなかった。文章を思い出しているというより、順番を間違えないよう唱えているように聞こえた。
結衣は質問の順序を変えた。
「ナイフは開いていましたか」
「開いていた」
「机のどちら側に」
「右です」
「広岡さんは立っていましたか」
「立っていた」
「刺したあと、どうしました」
「倒れた。俺は怖くなって、財布から金を取った」
「いくらですか」
健太の視線が初めて揺れた。
「五万円」
「そのお金はどこに」
「捨てた」
「どこへ」
「覚えてない」
結衣は追及を止めた。健太の恐怖は本物だった。ただし、それが殺人の記憶によるものか、別の秘密によるものかは分からない。
「美咲さんは、あなたを信じています」
「会わせないでください」
「なぜですか」
「俺は、あの人が思ってるような人間じゃない」
その言葉だけに、自白の文章にはなかった生々しい感情が宿っていた。
接見後、結衣は刑事記録の閲覧と証拠の開示を求めた。担当検事の黒田は三十代後半で、言葉遣いは丁寧だったが、結衣の請求書を読む目は冷たかった。
「捜査段階です。必要な範囲で対応します」
「取調べの録音録画、現場周辺の防犯映像、通話記録、鑑定の基礎資料を求めます」
「公判請求も決まっていません」
「だからこそ、勾留中に確認する必要があります」
黒田は書類を揃え、結衣へ返した。
「佐倉先生。被疑者は、犯人しか知り得ないことを供述しています。凶器の位置、刺した回数、財布から消えた金額。取調べも録音録画されています。人質司法という物語を先に作って記録を見ると、見たいものしか見えなくなりますよ」
その言葉は挑発的だったが、離婚相談での失敗と同じ警告でもあった。結衣は反論を飲み込んだ。
警察署を出た足で、第十七倉庫へ向かった。立入規制の黄色いテープは残っていたが、倉庫の外周道路と隣接する駐車場は通行できた。建物は海側に細長く、北側の搬入口から事務室までは、早足でも一分近くかかる。市営カメラは交差点に一台だけあり、倉庫の入口ではなく、そこへ続く歩道を斜めに映していた。
結衣は自白調書の要約を手に、健太の動きを辿った。午後九時三十六分に交差点を通過し、搬入口から入る。事務室で広岡と言い争い、九時四十分ごろ刺す。財布から金を抜き、九時五十八分に倉庫を出る。近くの公衆電話まで走ったが通報できず、現場へ戻る。
記録の上では繋がっている。しかし実際に歩くと、十八分という空白が妙に長く感じられた。事務室は外から見えず、別の出入口が海側に二つある。犯人が健太より先に入り、あとから出た可能性を、市営カメラだけでは否定できない。
隣の月極駐車場には、小型の防犯カメラが設置されていた。管理会社のプレートを控えようと近づくと、精算機に保守点検のシールが貼られているのが見えた。点検日は事件の翌日。作業内容には「時刻設定 再調整」とある。
十一分。
神崎のメモが頭に浮かんだ。結衣はシールを撮影し、管理会社へ連絡した。受付担当者は、映像は警察へ提出済みで、弁護士へは回答できないと言った。時刻を再調整した理由を尋ねても、「点検記録を確認しなければ分からない」の一点張りだった。
倉庫の向かいには、夜間も営業する小さなガソリンスタンドがあった。店員は事件を覚えていた。
「パトカーが来る少し前、若い男が駆け込んできたよ。電話を貸してくれって。手が血だらけで、こっちも驚いた」
「何時ごろでしたか」
「十時前だったと思う。店のレシートを見れば分かるかもしれないけど、警察が持っていった」
「男は何と言っていましたか」
「人が倒れてる、救急車を呼んでくれって。それだけだ」
警察発表では、健太は現場から逃走したのち、証拠を取り繕うため戻ったとされていた。だが店員の話が正しければ、健太は通報しようとしている。結衣が名刺を渡すと、店員は周囲を見回し、声を落とした。
「刑事さんには話したよ。でも、あの男が刺したあとで怖くなっただけかもしれないって。そう言われると、俺にも分からない」
同じ行動が、見る人の前提によって逃走にも救助にも変わる。結衣は録音の許可を取り、店員の話をもう一度、時刻順に確認した。
帰り際、海側の門の前で一台の配送トラックが停まった。運転手は規制線を見て舌打ちし、切り返して去っていく。荷台には赤い鳥を描いた港南ベーカリーのロゴがあった。毎晩この道を通るのかもしれない。結衣はナンバーを手帳に書いた。
事務室の位置を最後に確かめようと、金網越しに倉庫を見た。割れた窓の内側で、壁時計だけが白く浮かんでいる。針は止められていた。九時五十三分。
偶然か、事件の衝撃で止まったのか。現場写真を拡大すれば分かるかもしれない。
結衣は、神崎の二つの時刻が死亡推定時刻ではなく、異なる時計が示した時刻なのではないかと考えた。だが、彼が現場へ来ていないなら、なぜそれを知っているのかという疑問は残った。
事務所へ戻ると、神崎は何も尋ねなかった。結衣が接見内容を報告しても、事件記録から目を上げない。
「自白は不自然です。でも、嘘もついています。財布の金について」
「なら、無実とは限らないな」
「殺人と窃盗は別です」
「別だ。だが、お前は今、本人が隠している事実を、自分に都合よく小さく見積もった」
結衣は言い返せなかった。
翌日、最初の開示資料が届いた。取調べ録画の一部、現場写真、凶器の鑑定結果、付近の市営カメラ映像。映像には、事件当日の午後九時三十六分、健太に似た男が第十七倉庫へ向かう姿が映っていた。九時五十八分には、同じ服装の男が倉庫から駆け出し、数分後に戻ってくる。警察官が到着したのは十時六分だった。
現場写真を一枚ずつ確認すると、壁時計は九時五十三分を指していた。秒針は二十七秒で止まっている。鑑識の撮影時刻は十時二十四分。時計が衝撃で止まったという記載はなく、電池の残量も調べられていなかった。
一方、市営カメラの画面には九時三十六分と表示されている。その時刻が正しいという前提で捜査報告書は作られていた。隣の駐車場カメラについては、押収したとの記載があるだけで、映像そのものは開示されていない。
結衣は追加開示を請求し、保守点検記録も証拠保全の対象とするよう申し入れた。黒田検事からの返答は短かった。
〈駐車場映像は被疑者に有利な内容を含まない〉
有利かどうかを決めるのは検察ではない。結衣は抗議書を作りながら、神崎の言葉を思い出した。ルールの中で戦うしかない。あるいは、ルールの外で。
ルールの外へ出るつもりはなかった。しかし、検察が作った記録の順序からは出なければならない。
取調べ録画の健太は、最初の六時間、刺していないと否認していた。自白へ転じた場面は、録画が再開された直後から始まる。停止理由の記録には「休憩」とだけあった。再開後、刑事は「さっき話したとおり、机の右側にあったナイフを取ったんだな」と尋ね、健太は頷いていた。
誘導の痕跡はある。しかし、決定的ではない。健太が凶器を扱ったことは指紋が示し、広岡の血は手袋だけでなく、健太の上着の袖にも付いていた。
さらに、押収品一覧には美咲が知らなかった物があった。健太の部屋から、広岡名義の封筒と現金十八万円が見つかっていた。封筒の表には、青いインクで「K17」と書かれていた。
結衣は美咲を呼び、現金について尋ねた。美咲は唇を噛み、しばらく黙った。
「事件の三日前、健太が見せてくれました。借金を返せるって。広岡さんから仕事の前金をもらったと言っていました」
「なぜ最初に話さなかったんですか」
「言ったら、先生まで健太を疑うと思ったから」
「隠せば、疑いはもっと強くなります」
結衣の声は、自分が思うより厳しかった。美咲の目に涙が浮かんだ。
「先生だって、最初は信じてくれたじゃないですか」
その一言で、結衣は自分が何を見せていたかに気づいた。調べる前に見捨てないと言いながら、態度では無実を約束していた。依頼人が期待する物語を、自分も必要としていた。
二度目の接見で、結衣は封筒の写真を示した。
「十八万円は、広岡さんから受け取ったんですね」
健太は首を振った。
「違う」
「では、誰から」
「言えない」
「あなたが話さなければ、検察は被害者から奪った金だと主張します」
「それでいい」
「よくありません」
結衣は語気を強めた。健太が身を縮める。その反応を見た瞬間、自分が取調官と同じ場所へ踏み込みかけていると感じた。
声を落とし、質問を変えた。
「広岡さんは、あなたに何を運ばせようとしていましたか」
「古い帳簿です」
「どこから」
「倉庫のロッカー。十七番」
「鍵は」
健太はアクリル板越しに結衣を見た。
「広岡さんが、神崎という弁護士から受け取るはずだった。でも、先生は来なかった」
結衣の背中に冷たいものが走った。
「広岡さんと神崎先生は、いつから連絡を」
「知らない。広岡さんは、十五年前に消えた人の手紙が鍵になるって言ってた。神崎先生は怖くなって逃げたんだとも」
健太の言葉には、初めて怒りがあった。
事務所へ戻ったのは夜十一時を過ぎていた。神崎の姿はなく、机の上に古い新聞記事のコピーが置かれていた。十五年前の贈収賄事件を報じる記事。その余白に、赤いペンで三つの名前が囲まれている。
被告人の元市職員、相原雅夫。
失踪した証人、曽根達也。
そして、当時まだ若手取締役だった堂島重光。
記事の裏には、第十七倉庫の見取り図がコピーされていた。ロッカーの列のうち、十七番だけに丸印がある。
結衣が紙を持ち上げると、その下から一枚のメモが落ちた。
〈二十一時四十二分ではない。時計を疑え〉
神崎の筆跡だった。
教えているのか、誘導しているのか。自分で法廷へ立つことを避けながら、結衣を十五年前の事件へ向かわせようとしているのか。
窓の外では、雨が上がっていた。濡れたビルの壁に、みなとみらいの光がぼんやり映っている。
結衣は新聞記事を机へ広げ、健太の供述、美咲の隠し事、映像の時刻、青い文字の封筒を並べた。どの事実も一つの方向を指してはいない。健太が殺人犯である可能性も、誰かに選ばれた身代わりである可能性も残っている。
その夜、結衣は初めて、依頼人を信じるという言葉の意味を考え直した。
無実だと信じ込むことではない。依頼人が嘘をつき、弱さを隠し、自分を裏切るように見えるときでも、国家の証明を疑い続けること。事実を一つずつ確かめ、最も不都合な答えから目を逸らさないこと。
結衣は新しいノートの最初の頁に、三つの問いを書いた。
健太は何を隠しているのか。
広岡は何を運ぼうとしていたのか。
神崎は、なぜ十一分の差を知っているのか。
最後の問いの下に線を引いたとき、書庫の奥で小さな金属音がした。振り返ると、紺色のファイルを収めた棚の扉が、わずかに開いていた。
鍵はかかっていなかった。




