第2章 第08話『大樹の森』
第二部 大樹の魔女とその娘
第八話 大樹の森
大樹の森は、眠らない。
夜であろうと、雨であろうと、風が止まっていようと、森は常に何かを聞いている。
根は土の下を這い、古い水脈に触れ、獣の足音を伝える。枝は空の流れを読み、葉は遠くの匂いを拾う。苔は踏まれた圧を覚え、花は知らぬ血の気配を嫌う。
そこは、人のために開かれた場所ではない。
神崇皇国の中に在りながら、皇国の領土ではない森。
初代皇王グレイヴン・レイスフィアと、大樹の魔女の誓約によって不可侵と定められた場所。
皇国の地図に、大樹の森は描かれている。
だが、その輪郭に国境線は引かれない。
それは地図を作る者が怠ったからではない。皇国が誤っているからでもない。そう定められているからだ。
大樹の森は、皇国に在る。
だが、皇国のものではない。
そこに届くのは人の法ではなく、森の理だった。
そして、その森には主がいる。
大樹の魔女。
皇国の民の多くは、彼女を古い伝承の中の存在として知っている。森へ入ってはならない。森で声を聞いても返事をしてはならない。森の奥に灯りを見ても追ってはならない。そうした戒めと共に語られる、恐ろしくも遠い魔女。
だが、彼女はおとぎ話ではない。
古より大樹の森に生きる、大魔族である。
ただし、魔王の配下ではなかった。
他の魔族社会とも、ほとんど関わりを持たない。魔族でありながら魔族と関わらず、大樹の森の主として独立して在る変わり者。
人間から見れば、魔族。
魔族から見れば、扱いにくい森の古き主。
皇国から見れば、初代皇王の時代より誓約を結ぶ不可侵の相手。
彼女は人類の味方ではない。
魔族の味方でもない。
皇国の臣下ではなく、魔王軍の一員でもない。
ただ、大樹の森の主だった。
ゆえに、人は森へ入らない。
入ってはならない。
それを破った者がどうなるか、この国の古い者たちは知っている。
だから、大樹の森の縁に何かが捨てられても、人は近づかない。
ましてそれが、夜の底に落ちた、小さな子供であったとしても。
◇
大樹の魔女が目を開いたのは、夜半だった。
庵の中には、灯りが一つだけあった。
炎ではない。
木の実の殻に溜めた淡い光だ。月光を編み、葉脈へ通し、夜の間だけ柔らかく光るようにしたものだった。
その光の下で、魔女は古い書を開いていた。
読んでいたわけではない。
書に目を落としながら、森を聞いていた。
いつものことだった。
森は時々、魔女へ声を届ける。
獣が傷ついた。
人が森の縁で迷った。
古い結界の端が軋んだ。
東の水脈が濁った。
そういう小さな声を、魔女は聞き逃さない。
その夜、森が伝えてきたのは、匂いだった。
薬。
血。
焦げた魔力。
人の恐怖。
そして、ひどく弱った命の気配。
魔女は書を閉じた。
「……人か」
声は低かった。
不快ではない。
警戒だった。
大樹の森に人の気配が近づくこと自体は、稀にある。道を誤った旅人。追われた獣を追って来た狩人。あるいは、何かを捨てに来る愚か者。
だが、この気配は違った。
森の縁に、置かれている。
落とされたのではない。
迷い込んだのでもない。
置かれた。
捨てられた。
魔女は立ち上がった。
長い髪が背に流れる。人の年齢で測ることはできない。老いているとも、若いとも言い難い。けれど、その目だけは森と同じくらい古かった。
庵の扉を開ける。
夜の森が、魔女を迎えた。
風はない。
それなのに、木々の葉が道を示すようにわずかに揺れた。
「案内せい」
魔女が言うと、足元の苔が淡く光った。
森の奥へではない。
縁へ。
人の世界との境目へ。
魔女は歩き出した。
草は足を濡らさない。
枝は顔に触れない。
根は道を塞がない。
森は魔女を通す。
当然のように。
◇
少女は、森の縁に倒れていた。
最初に見えたのは、銀白の髪だった。
夜の中でも、そこだけ淡く光を残しているように見えた。泥に汚れ、汗で額に張り付き、ところどころ絡まっている。それでも、その髪の色は不思議なほど目を引いた。
次に、細い手が見えた。
土を掴むように曲がった指。
その手の中に、小さな布袋が握られていた。
魔女は足を止めた。
少女の息は、浅い。
脈は細い。
身体には無数の損耗がある。
外から見える傷より、内側の傷の方が深い。
魔術的な干渉の痕跡。
薬で魔力循環を鈍らせた跡。
炎の魔力を無理に抑え込んだ焦げつき。
子供に施してよいものではない。
人に施してよいものでもない。
魔女の目が細くなった。
「……何をした」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、森がざわりと揺れた。
木々も怒っている。
根も怒っている。
土も怒っている。
森は、人の善悪を裁くためにあるわけではない。だが、森は知っている。必要以上に傷つけられた命の匂いを。捨てられたものの悲しみを。
魔女は膝をついた。
少女の顔を覗き込む。
年は、十二ほどだろうか。
幼い。
あまりにも幼い。
頬は痩せ、唇は乾き、まぶたには熱がある。
だが、死んではいない。
「生きておるな」
魔女はそっと少女の首筋に触れた。
少女の身体が、わずかに震えた。
意識はほとんどない。
それでも、触れられたことに怯えている。
魔女は手を止めた。
「取って食いはせん」
少女は答えない。
ただ、布袋を握る指に力が入った。
魔女はその布袋を見た。
古いものだ。
上等ではない。
魔術具でもない。
防護の力もほとんどない。
けれど、何度も手で触れられた布だった。誰かが大切に使い、誰かがそれを大切に受け継いだもの。
少女は、それだけを離さずにいる。
命が消えかけているのに。
薬で身体が動かないはずなのに。
森の縁に捨てられてなお、それだけは握っている。
魔女は息を吐いた。
「それは、お前のものか」
少女の唇が、かすかに動いた。
声にはならない。
だが、魔女には聞こえた気がした。
母様。
そう呼ぶ気配があった。
魔女は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
聞くのは、あとでいい。
今は、命を繋ぐ方が先だった。
魔女は少女の身体の下へ手を入れた。
軽かった。
軽すぎた。
まるで、木の葉を抱き上げるようだった。
少女が苦しげに息を漏らす。
魔女は、できるだけ揺らさないように抱いた。
「森」
魔女が呼ぶ。
「道を閉じよ。人の匂いを追わせるな。獣を遠ざけよ。水を温めよ」
森が応えた。
葉が揺れる。
遠くで獣の気配が退く。
土の下を走る根が、静かに道を塞いでいく。
人の世界から、少女の跡が消えていく。
魔女は少女を抱え、庵へ戻った。
◇
庵は、森の奥にある。
人の目には見えない。
正確には、見えても辿り着けない。
道が曲がる。
木が動く。
霧が深くなる。
同じ場所を何度も回る。
人の足は、魔女が許さぬ限り庵へ届かない。
その庵の中へ、魔女は少女を運び込んだ。
寝台ではなく、低い木の台へ寝かせる。
人間の子供には硬いかもしれない。そう思い、魔女はすぐに厚い布を敷いた。柔らかい苔を乾かして編んだ布だ。体温を逃がしにくい。
少女を横たえると、魔女はまず薬を見た。
血の中に混じっている。
魔力を鈍らせる薬。
身体を動かなくする薬。
炎を抑えるための薬。
いくつも重なっている。
「雑なことを」
魔女の声が冷えた。
薬は悪ではない。
使い方次第で命を救う。
だが、これは違う。
抑えるためだけのものだ。
制御ではない。
理解でもない。
ただ、邪魔だから押さえ込んだ。
そういう使い方だった。
魔女は水を用意した。
普通の水ではない。
森の奥を流れる細い水脈から汲み、月光を通して毒を緩めたものだ。強い薬を急に抜けば身体が壊れる。だから、少しずつほどく。
少女の唇に水を含ませる。
ほとんど飲めない。
それでも、喉がわずかに動いた。
「よし」
魔女は次に、少女の魔力循環を探った。
炎。
根にあるのは炎だった。
まだ赤い。
荒く、傷つき、怯えている。
けれど、確かに強い。
この子は炎の魔術師だ。
それも、ただ火を出すだけの子ではない。
火の流れを知り、形へ変える資質がある。まだ幼いのに、無理に抑えられながら、それでも消えていない。
魔女は眉を寄せた。
消えなかったのではない。
消さなかったのだ。
この子は、おそらく何度も火を抑えた。
誰かを焼かないために。
何かを守るために。
自分が壊れそうになっても、火を出さないようにした。
そんな痕跡があった。
「愚か者どもめ」
魔女は低く呟いた。
子供の火を恐れるなら、火を教えればいい。
火を理解させればいい。
火が何を照らし、何を温め、何を焼くのか、共に見ればいい。
それをせず、ただ閉じ込めた。
閉じ込めて、測った。
測って、削った。
魔女は少女の額に手を置いた。
熱が高い。
薬の影響と、疲労と、魔力循環の乱れ。
このままでは危うい。
魔女は指先で術式を編んだ。
大樹の魔術は、人の魔術とは違う。
根で繋ぎ、葉で呼吸し、水で冷やし、土で包む。
直接塞ぐのではなく、命が戻るための場所を整える。
少女の周囲に、淡い緑の光が満ちた。
外傷を洗う。
熱を逃がす。
薬を薄める。
魔力の焦げつきをほどく。
少女の身体が、何度か小さく震えた。
苦しげに眉が寄る。
魔女は手を止めない。
「死ぬな」
命令に近い声だった。
「ここまで来て、死ぬな」
少女の指が、布袋を握り直した。
魔女はそれを見た。
「そうだ」
静かに言う。
「離すな。お前が離したくないものなら、離すな」
少女は答えない。
ただ、布袋を握る手は、ほどけなかった。
◇
治療は夜明けまで続いた。
森の外が白み始める頃、少女の呼吸は少しだけ深くなった。
危機は去っていない。
だが、今すぐ命が消える状態ではない。
魔女はようやく手を離した。
椅子に座り、深く息を吐く。
疲れた。
久しく感じていなかった種類の疲労だった。
単に魔力を使った疲れではない。
怒りを抑えながら、壊れかけた命を扱う疲れだ。
少女は眠っている。
眠っているというより、意識を沈めている。
目元には涙の跡があった。
どれほど痛かったのか。
どれほど怖かったのか。
どれほど帰りたかったのか。
魔女は知らない。
だが、知る必要があると思った。
この子を拾ってしまった。
ならば、知らなければならない。
魔女は少女の枕元へ視線を落とした。
布袋は、まだ手の中にある。
治療の邪魔になるかと一度だけ外そうとしたが、少女の火がひどく揺れたため、諦めた。
魔女は手を伸ばし、布袋の外側だけをそっと撫でた。
古い布。
かすかな薬草の香り。
人の家の匂い。
この子は、どこかの家の子だった。
それは間違いない。
捨てられるために生まれた子ではない。
測られるために生まれた子でもない。
誰かに名前を呼ばれ、誰かに飯を食べさせられ、誰かに叱られ、誰かに抱かれていた子だ。
それを、誰かが奪った。
魔女の目が冷たくなる。
「森」
呼ぶと、窓の外の葉が揺れた。
「この子を運んだ者たちの匂いを覚えたか」
森が答える。
覚えた、と。
「よい」
魔女はそれだけ言った。
今すぐ追わせはしない。
今は、この子が先だ。
だが、忘れない。
森も忘れない。
人が忘れても、森は忘れない。
◇
少女が目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
最初に動いたのは、指だった。
布袋を握る指。
次に、まぶたが震えた。
ゆっくりと開く。
金色の瞳だった。
濁っている。
熱に浮かされ、恐怖に曇っている。
それでも、その奥に火があった。
少女は天井を見た。
知らない天井。
木で組まれ、葉の影が揺れている。
それを見て、身体を起こそうとした。
「動くな」
魔女が言う。
少女はびくりと震えた。
反射的に、布袋を胸に抱え込む。
魔女は椅子に座ったまま、手を上げた。
「取らん」
少女は答えない。
ただ、息が浅くなる。
「ここは大樹の森の中だ。お前は森の縁に捨てられていた。妾が拾った」
少女の目が揺れた。
拾った。
その言葉を理解したのかどうかはわからない。
だが、怯えは強くなった。
「名前は」
魔女が聞いた。
少女の唇が動く。
声は出ない。
魔女は水を差し出した。
「飲め」
少女は水を見た。
疑っている。
それは当然だった。
魔女は自分で先に一口飲んだ。
「毒ではない」
少女はしばらく見ていた。
それから、ほんの少しだけ口を開けた。
水を含ませる。
喉が動く。
痛そうだった。
「もう一度聞く。名は」
少女はかすれた声で答えた。
「……なぐさ」
「那種か」
少女の目がわずかに見開かれた。
自分の名を、確かめるように。
魔女は続けた。
「姓は」
那種の顔が強張った。
唇が震える。
声が出ない。
言いたくない。
あるいは、わからない。
魔女はその反応だけで十分だった。
「言わんでよい」
那種の目から、涙が一筋こぼれた。
自分でも気づいていないようだった。
魔女は布を取り、少女の頬へ伸ばしかけた。
だが、途中で止めた。
この子は、触れられることをまだ怖がる。
魔女は布を枕元に置いた。
「自分で拭けるなら拭け。無理ならそのままでよい」
那種は布を見た。
手を伸ばそうとして、途中で力尽きた。
魔女は少しだけ眉を寄せた。
「今は動かんでもよい」
那種は、魔女を見た。
恐る恐る。
まるで、次に何を命じられるのか待っているようだった。
魔女はその目を見て、胸の奥に鈍い怒りを感じた。
命じられ慣れている目だ。
失敗を恐れる目だ。
痛みより、罰を先に恐れる目だ。
「ここでは、火を出せとは言わん」
魔女は言った。
那種の瞳が揺れた。
「測りもせん。記録もせん。名を変えろとも言わん」
那種の呼吸が止まる。
「今、お前がすることは一つだ」
魔女は水の器を置いた。
「生きることだ」
那種は何も言わなかった。
だが、金色の瞳から涙がこぼれた。
声はない。
泣く力もないのだろう。
ただ、涙だけが静かに落ちていく。
魔女は立ち上がった。
「粥を作る」
那種が小さく震えた。
粥。
その言葉に反応した。
魔女は気づいたが、何も聞かなかった。
「食べられなくてもよい。口に含めるだけでもよい。吐いても叱らん」
那種は、信じられないものを見る目をした。
吐いても叱られない。
食べられなくても叱られない。
火を出さなくても叱られない。
記録されない。
それらが、那種にはまだ理解できなかった。
魔女は背を向けた。
台所へ向かう。
その時、背後でかすかな声がした。
「……帰りたい」
魔女は足を止めた。
振り返る。
那種は布袋を握っていた。
目は開いている。
けれど、どこを見ているのかわからない。
「帰りたい」
もう一度、言った。
魔女は少し黙った。
「どこへ」
那種の唇が震える。
「本条の、家」
声になった瞬間、那種は泣いた。
今度は、声が少しだけ漏れた。
「帰りたい……お父さん……戎……紀良……母様……」
呼び名が、途切れ途切れにこぼれる。
魔女はその名を聞いた。
本条。
お父さん。
戎。
紀良。
母様。
この子には、帰る場所がある。
なら、捨てられて終わる子ではない。
魔女は静かに言った。
「今は戻れん」
那種の顔が歪んだ。
「だが」
魔女は続けた。
「生きておれば、戻る道は探せる」
那種は魔女を見た。
「生きろ、那種」
それは命令だった。
だが、ノーザス家で聞いた命令とは違った。
測るためではない。
使うためではない。
奪うためではない。
ただ、生きろと言っている。
那種は布袋を握ったまま、目を閉じた。
涙は止まらなかった。
それでも、呼吸は少しだけ深くなった。
◇
その日の夕方、那種は粥をひと匙だけ食べた。
ほんの少し。
それだけで、咳き込んだ。
魔女は叱らなかった。
「よい。今日はそれで十分だ」
那種は驚いた顔をした。
十分。
その言葉が、信じられないようだった。
魔女は器を下げる。
「明日、また食べればよい」
那種は小さく頷いた。
夜になると、熱がまた上がった。
うなされる。
小さな声で名前を呼ぶ。
かい。
お父さん。
紀良。
母様。
何度も。
何度も。
魔女はそのたびに、冷たい布を額へ置いた。
那種は触れられるたびに震えたが、少しずつ逃げなくなった。
深夜。
那種がまた、布袋を強く握った。
「取らない」
魔女は先に言った。
那種のまぶたが震える。
「誰も取らん。ここでは取らん」
那種は、熱に浮かされたまま、小さく息を吐いた。
それから、眠りに落ちた。
魔女はしばらく、その寝顔を見ていた。
少女。
炎の魔術師。
捨てられた子。
それでも、布袋を手放さなかった子。
帰りたいと泣いた子。
魔女は窓の外を見た。
森は静かだった。
だが、怒りは消えていない。
深い根の下で、ゆっくりと蓄えられている。
いつか、人がまたこの子へ手を伸ばすなら。
その時は、森が答える。
魔女は那種へ視線を戻した。
「まずは、生きよ」
小さく言う。
「話は、それからだ」
那種は眠っている。
その手には、母様の布袋がある。
森の夜は深かった。
だが、庵の中だけは、わずかに温かかった。




