第1章 第07話『届かない火』
第七話『届かない火』
戎は、那種が笑わなくなったことに気づいていた。
最初に会えたのは、ノーザス家へ入ってから随分経った後だった。
面会、と大人たちは言った。
広い部屋。
向かい合う椅子。
少し離れたところに立つノーザス家の者。
自由に話してよいとは言われた。
けれど、自由ではないことくらい、戎にもわかった。
那種は椅子に座っていた。
背筋を伸ばしている。
服も整っている。
髪も綺麗に梳かれている。
怪我をしているわけではない。
食べていないようにも見えない。
けれど、違った。
戎の知っている那種ではなかった。
「那種」
呼ぶと、那種は少し遅れて顔を上げた。
「戎」
声が小さい。
それだけで、戎の胸の奥が冷えた。
「大丈夫か」
那種はすぐに頷いた。
「大丈夫」
早すぎた。
戎は眉を寄せる。
「本当に?」
「うん」
「帰りたいか」
那種の指が、膝の上で小さく震えた。
けれど、那種は笑った。
笑おうとした。
「大丈夫」
「聞いたことに答えてない」
那種の目が揺れる。
その瞬間、部屋の隅に立っていた男が一歩動いた。
「本条家のご子息」
穏やかな声だった。
だが、その声は会話を止めるためのものだった。
「那種=ノーザスは、現在こちらの環境に慣れるため努めております。不必要に心を乱す問いは控えていただきたい」
戎は男を見た。
「那種は那種だ」
「もちろんです」
「その呼び方をやめろ」
男は薄く笑った。
「正式な名です」
戎の手が膝の上で握られた。
那種がそれに気づいた。
「戎」
小さな声。
止める声だった。
怒らないで。
動かないで。
そう言っているようだった。
戎は那種へ視線を戻した。
那種は首を横に振る。
本当に小さく。
誰にも見えないくらい小さく。
でも、戎には見えた。
戎は息を吸った。
言いたいことは山ほどあった。
今すぐ立ち上がって、那種の手を掴んで、ここから連れて帰りたい。
でも、那種がそれを望んでいるのに、望めない顔をしている。
戎が動けば、那種がもっと怖がる。
それがわかった。
わかってしまった。
「……また来る」
戎が言うと、那種は目を伏せた。
「うん」
「手紙を書く」
「うん」
「読むか」
那種は答えようとして、男を見た。
それだけで十分だった。
戎は立ち上がる。
「読めないんだな」
「戎」
「わかった」
何もわかっていなかった。
ただ、ここにいても届かないことだけはわかった。
◇
それから、戎は何度もノーザス家へ行った。
門前で止められた。
使いを通せと言われた。
事前の許可がないと言われた。
那種=ノーザスは訓練中だと言われた。
体調管理中だと言われた。
面会は控えるようにと言われた。
そのたびに、戎は立っていた。
門番は困った。
ノーザス家の者は苛立った。
それでも戎は帰らなかった。
ある日、猛が迎えに来た。
「戎」
「父さん」
「帰るぞ」
「まだ会ってない」
「わかってる」
「なら帰らない」
猛はしばらく戎を見た。
門の向こうでは、ノーザス家の者がこちらを見ている。
無理に踏み込めば、問題になる。
それは戎にもわかっていた。
わかっているから、余計に腹が立つ。
「父さん」
「何だ」
「那種は帰れるのか」
猛はすぐには答えなかった。
その沈黙で、戎は答えを知った。
「制度の話になる」
猛は低く言った。
「家の権利、保護権、血筋、手続き。向こうはそれを盾にしている」
「そんなの」
「ああ。そんなもんだ」
猛の声には怒りがあった。
戎は初めて、父の怒りが自分と同じ場所にあることを知った。
けれど、その怒りでも門は開かない。
「殴れば開く」
「開かねぇ」
「壊せば」
「壊しても、その後に那種を守りきれなきゃ意味がない」
戎は黙った。
拳が震える。
「強くなれ」
猛が言った。
「今ここで暴れて終わるな。届きたいなら、届けるだけの力をつけろ」
「今、届かない」
「ああ」
「那種が、あそこにいる」
「ああ」
「なのに」
戎は言葉を飲み込んだ。
猛は戎の肩に手を置く。
「忘れるな」
その手は重かった。
「今の届かなさを、忘れるな」
戎は門を見た。
白い壁。
閉じた門。
その向こうに那種がいる。
声も届かない。
手も届かない。
怒りも届かない。
戎は歯を食いしばった。
「忘れない」
◇
那種は、戎が門の外に来ていることを知っていた。
いつもではない。
教えてもらえない日の方が多かった。
けれど、屋敷の中の空気でわかることがあった。
使用人たちの足音が変わる。
誰かが門の方を気にする。
ノーザス家の者が不機嫌になる。
そういう日は、戎が来ている。
那種は窓辺へ行きたかった。
でも、行けなかった。
行けば、戎を見てしまう。
戎を見れば、帰りたいと思ってしまう。
帰りたいと思えば、声に出てしまうかもしれない。
声に出れば、戎が動く。
戎が傷つく。
戎が罰せられる。
本条家が責められる。
だから、那種は机の前に座っていた。
ペンを握る。
魔術式を書く。
炎の形を描く。
手が震える。
線が歪む。
「集中しなさい」
後ろから声が飛ぶ。
「……はい」
「那種=ノーザス」
「はい」
「火を扱う者が、感情に振り回されてどうする」
「すみません」
「謝罪ではなく、制御」
「はい」
那種は火を灯した。
小さな炎。
それを丸くする。
細くする。
薄く伸ばす。
長く保つ。
火は言うことを聞いた。
那種の手の上で、望まれた形になる。
でも、そのたびに胸が苦しかった。
火は嫌いではなかった。
昔は好きだった。
暗い夜に、小さく灯すと安心した。
戎に見せると、じっと見てくれた。
母様は綺麗だと言ってくれた。
お父さんは火事にするなと笑った。
だから、火は嫌いではない。
嫌いではないのに。
火を出すたびに、大人たちは那種ではなく、価値を見た。
この火は使えるか。
この火は高いか。
この火は家の役に立つか。
那種が怖いかどうかは、誰も聞かなかった。
「今日はここまで」
そう言われた時、那種は手を下ろした。
指先が少し痺れている。
疲れていた。
でも、疲れたと言ってはいけない気がした。
「休みたい時は、申告しなさい」
そう言われたことはある。
でも、申告すると顔をしかめられる。
火の安定性に問題があると紙に書かれる。
精神面の成熟が足りないと言われる。
だから、那種は言わなくなった。
「大丈夫です」
誰に聞かれる前に、そう言うようになった。
◇
次に戎と会えた時、那種は右手に薄い布を巻いていた。
火傷ではない。
ただ、魔力を通しすぎると指先が震えるので、隠すためだった。
戎はすぐに見た。
「手」
「何でもない」
「見せろ」
那種は手を引いた。
「大丈夫」
「見せろ」
「戎」
那種の声が少し強くなった。
戎が止まる。
那種は息を整えた。
怒っているわけではない。
でも、戎が動きそうで怖かった。
「本当に、大丈夫だから」
「嘘だ」
戎の声は低かった。
那種は目を伏せる。
「嘘じゃない」
「嘘だ」
「戎」
「那種」
名前を呼ばれて、那種の胸が痛んだ。
ここで、その声を聞きたくなかった。
聞けば、帰りたくなる。
泣きたくなる。
助けてと言いたくなる。
だから那種は、笑った。
笑えたかどうかはわからない。
「私、ちゃんとやってるよ」
「何を」
「魔術」
「それでいいのか」
「いいの」
「本当に?」
那種は答えられなかった。
隅に立つノーザス家の男が、こちらを見ている。
その視線が背中に刺さる。
戎の手が震えている。
怒っている。
このままでは、戎はまた何かを言う。
何かをする。
那種は、戎を守らなければと思った。
自分のために戎が傷つくのは嫌だった。
「本当」
那種は言った。
「戎、来てくれてありがとう。でも、あまり来ない方がいい」
戎の顔が止まった。
「何で」
「怒られるから」
「誰が」
「……戎が」
戎は黙った。
那種は続ける。
「戎が怒ると、危ない。戎が罰せられるのは嫌。お父さんや母様が困るのも嫌。だから」
声が震えそうになる。
那種は必死で抑えた。
「私は大丈夫だから」
戎はしばらく那種を見ていた。
その目が、痛かった。
信じていない目だった。
でも、那種を責める目ではなかった。
嘘をつかせているものを、全部斬りたいと思っている目だった。
「那種」
「何?」
「俺は、届く」
那種は息を止めた。
「今は無理でも、届く」
「戎」
「届くようになる」
那種の胸が崩れそうになった。
嬉しかった。
でも、怖かった。
戎がそのために壊れるのが怖かった。
「壊れないで」
思わず、そう言っていた。
戎は少しだけ目を見開いた。
「壊れない」
「本当に?」
「ああ」
「約束して」
戎は頷いた。
「約束する」
那種はようやく少し笑えた。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
面会の時間は終わった。
戎は連れて帰られた。
那種はまた、ノーザス家の奥へ戻された。
届く。
戎はそう言った。
でも今は、届かない。
その事実が、那種の胸に重く沈んだ。
◇
季節が少し変わる頃、ノーザス家の空気も変わり始めた。
那種には、詳しいことはわからない。
けれど、大人たちの声が低くなった。
紙が増えた。
知らない名前が会話に混ざるようになった。
「隣国」
「買い手」
「研究院」
「婚姻」
「移送」
「値」
単語だけが、廊下の隙間から聞こえた。
那種は立ち止まった。
自分の話だと、なぜかすぐにわかった。
全部は理解できない。
でも、自分がどこかへ動かされる話だということはわかった。
「炎の才はある」
「だが、扱いにくい」
「本条への未練が消えていない」
「従順ではあるが、心までは折れていない」
「年齢を考えれば、今のうちに」
「価値が下がる前に」
那種は、壁に手をついた。
息が浅くなる。
価値。
また、その言葉。
火も、名前も、身体も、全部、価値として見られている。
那種はその場から離れようとした。
けれど、足がうまく動かなかった。
「どうしました」
後ろから声をかけられた。
那種は振り向く。
使用人の女だった。
那種は首を横に振る。
「何でもありません」
「顔色が悪いようですが」
「大丈夫です」
その言葉だけは、すぐに出た。
大丈夫。
大丈夫ではない時ほど、先に出るようになっていた。
◇
その夜、那種は火を出せなかった。
手をかざしても、小さな火がすぐに消える。
もう一度。
消える。
もう一度。
揺れて、消える。
「集中しなさい」
「はい」
火を出す。
消える。
「何を考えている」
「何も」
「嘘をつくな」
那種は黙った。
何を考えているのか、自分でもわからなかった。
隣国。
買い手。
移送。
値。
戎。
大丈夫。
壊れないで。
届く。
その言葉が頭の中で混ざって、火が形にならない。
「本条のことか」
那種は肩を震わせた。
「違います」
「未練があるから乱れる」
「違います」
「那種=ノーザス」
名を呼ばれる。
返事をしなければ。
でも、声が出ない。
「返事は」
「……はい」
「お前は誰だ」
那種は顔を上げた。
質問の意味はわかっている。
答えも、わかっている。
言わなければならない言葉も。
「私は」
本当は、那種と言いたかった。
本条の家に帰りたい那種。
母様に呼ばれた那種。
戎が届くと言ってくれた那種。
でも、ここでそれを言えば、また何かが悪くなる。
戎が傷つくかもしれない。
本条家が責められるかもしれない。
だから、那種は言った。
「那種=ノーザス、です」
口にした瞬間、何かが少し折れた気がした。
大きな音はしなかった。
誰にも聞こえなかった。
でも、那種にはわかった。
自分の中のどこかに、小さなひびが入った。
「よろしい」
男は頷いた。
「明日は移動がある。早く休みなさい」
移動。
那種は聞き返せなかった。
◇
次の日、那種は馬車に乗せられた。
どこへ行くのかは、はっきり告げられなかった。
「しばらく環境を変える」
そう言われた。
「魔術のためだ」
そうも言われた。
荷物は少なかった。
大事なものは、ほとんど持たせてもらえなかった。
本条家から持ってきた小さな布も、古い木札も、途中で取り上げられた。
「不要なものだ」
不要。
那種は手を伸ばしかけて、やめた。
伸ばせば、奪われるところをもっと近くで見なければならない。
それが怖かった。
馬車の中は狭かった。
窓には布がかかっている。
外は見えない。
那種は膝の上で手を握った。
どこへ行くのだろう。
本条家ではない。
それだけはわかる。
戎は知らない。
お父さんも知らない。
母様も、きっと知らない。
知らせてもらえない。
那種は口を開きかけた。
帰りたい。
そう言いかけた。
でも、言えなかった。
言っても帰れない。
言えば、誰かが困る。
言えば、戎がまた届こうとしてしまう。
だから那種は、黙っていた。
馬車が揺れる。
長い時間が過ぎた。
途中で声が聞こえた。
「この先はまずい」
「追手があるかもしれない」
「本条の小僧が嗅ぎつけたら面倒だ」
「なら、予定を変える」
「森の方へ」
「大樹の森か」
「入らなければいい。境界近くに置くだけなら」
那種は、そこで初めて顔を上げた。
大樹の森。
その名だけは知っていた。
皇国の中にありながら、皇国のものではない森。
入ってはいけない森。
魔女がいる森。
なぜ、そこへ。
馬車が止まった。
扉が開く。
冷たい空気が入ってきた。
那種は外へ降ろされた。
空は暗かった。
雨が降っている。
細い雨だった。
土の匂いがした。
木々の匂いがした。
目の前に、深い森がある。
那種は震えた。
「ここでいい」
誰かが言った。
「おい、荷物は」
「不要だ」
「本当に置くのか」
「連れていけば面倒になる。死んだことにすればいい」
死んだこと。
その言葉は、雨より冷たかった。
那種は声を出せなかった。
「運がよければ、獣にでも喰われる」
「運が悪ければ?」
「森が処理する」
誰かが笑った。
那種は動けなかった。
腕を掴まれる。
押される。
足元がぬかるむ。
転びそうになる。
それでも、誰も支えなかった。
馬車の中に戻りたいとは思わなかった。
でも、ここに置いていかれるのも怖かった。
那種はようやく声を出した。
「待って」
小さな声だった。
雨に消えそうな声。
「私」
言葉が続かない。
帰りたい。
助けて。
置いていかないで。
どれも言えない。
誰に言えばいいのかもわからない。
男が那種を見下ろした。
「黙っていろ」
その声に、那種は口を閉じた。
馬車の扉が閉まる。
車輪が動き出す。
泥を跳ねて、遠ざかっていく。
那種は追いかけようとした。
一歩進んで、足がもつれた。
膝が泥に沈む。
手をつく。
冷たい。
雨が髪に落ちる。
服に染み込む。
馬車の音が小さくなる。
やがて、消えた。
森の前に、那種だけが残された。
那種はしばらく、何もできなかった。
寒い。
痛い。
怖い。
でも、言葉にできない。
言葉にしても、誰もいない。
那種は泥だらけの手を見た。
炎を出そうとした。
出なかった。
もう一度。
小さな火が灯りかけて、雨に消えた。
届かない。
火も。
声も。
戎も。
那種は森を見た。
黒い木々が、静かに立っている。
入ってはいけない森。
でも、後ろにはもう何もない。
那種は立ち上がろうとして、できなかった。
身体が重い。
雨が冷たい。
喉が痛い。
目の奥が熱い。
「戎」
声が漏れた。
返事はない。
「お父さん」
返事はない。
「母様」
返事はない。
最後に、那種は自分の名を呼ぼうとした。
那種。
けれど、口から出たのは別の音だった。
「……那種=ノーザス」
そう言ってしまって、那種は小さく首を振った。
違う。
違うはずだ。
でも、もうわからない。
雨の中で、那種は崩れるように座り込んだ。
森の奥で、何かがかすかに揺れた。
風かもしれない。
獣かもしれない。
それとも、森そのものかもしれない。
那種にはわからなかった。
ただ、暗い木々の向こうから、誰かがこちらを見ているような気がした。
そして、そこで意識が遠くなった。
最後に思ったのは、戎のことだった。
届くと言ってくれた声。
壊れないと約束してくれた声。
那種はその声を、雨の中で抱きしめるように思い出した。
それでも、今は届かなかった。
火も。
声も。
手も。
何も届かないまま、那種は大樹の森の境に倒れた。




