第1章 第06話『那種=ノーザス』
第五話『那種=ノーザス』
本条の家では、名前はいつも温かかった。
「那種」
母様が呼ぶ時、その声は柔らかかった。
「那種、こっちへおいで」
お父さんが呼ぶ時、その声は大きく、少し乱暴で、それでも必ず那種を待っていた。
「那種」
戎が呼ぶ時は短かった。
けれど、戎の声で呼ばれると、那種はいつも振り向けた。
自分の名だった。
呼ばれて、返事をして、そこへ行けばいい。
それだけのことが、当たり前だった。
けれど、ノーザス家で呼ばれる名は、同じ音をしているのに、同じものではなかった。
「那種=ノーザス」
初めてそう呼ばれた時、那種は返事ができなかった。
広い部屋だった。
壁は白く、床は磨かれていて、窓には薄い布がかかっている。
本条家よりずっと整っているはずなのに、どこにも座ってよい場所がないように感じた。
正面にいた男が、眉をひそめる。
「聞こえなかったのか、那種=ノーザス」
那種は小さく肩を震わせた。
「……はい」
「返事は一度でよい。これからは、その名に慣れなさい」
その名。
那種は胸の前で手を握った。
自分の名前は、那種だ。
けれど、今ここでは違うらしい。
那種=ノーザス。
その音には、母様の声も、お父さんの手も、戎の短い呼び方もなかった。
ただ、何かに結びつけられるような硬さがあった。
「お前はノーザス家の娘だ」
男は言った。
「本条での暮らしは、もう終わったものと思いなさい」
那種は顔を上げた。
「……終わった?」
「そうだ。あちらに未練を残す必要はない」
未練。
その言葉の意味はわかった。
帰りたいと思うこと。
母様に会いたいと思うこと。
お父さんの道場へ戻りたいと思うこと。
戎の隣に座りたいと思うこと。
それは、未練と呼ばれるものらしい。
「でも」
那種は思わず言った。
言ってから、すぐに口を閉じた。
男の目が細くなる。
「でも、何だ」
「……いえ」
「言いなさい」
那種は喉の奥が詰まるのを感じた。
言いたいことはあった。
帰りたい。
母様に会いたい。
お父さんに言っていないことがある。
戎に、また明日と言ったままだった。
けれど、そのどれも、ここでは言ってはいけない気がした。
「何でも、ありません」
那種がそう言うと、男は満足したように頷いた。
「よろしい。早く覚えなさい。お前は那種=ノーザスだ」
その日から、那種は何度もその名で呼ばれた。
朝、食事の前。
魔術の確認の時。
部屋を出る時。
廊下を歩く時。
誰かが紙を読み上げる時。
「那種=ノーザス」
そのたびに、返事をしなければならなかった。
返事をしないと、注意される。
遅れると、叱られる。
小さすぎると、もう一度言わされる。
「はい」
「はい、何だ」
「……はい、私は、那種=ノーザスです」
そう答えるたびに、胸の奥で何かが少しずつ擦れていくようだった。
◇
ノーザス家の暮らしは、整っていた。
整っている、という言葉は正しいのだと思う。
部屋は決められている。
食事の時間も決まっている。
服も用意されている。
魔術の確認をする時間も、勉強をする時間も、眠る時間も決められている。
本条家にも決まりはあった。
道場に入る時の礼。
木刀の扱い。
食事の前に手を合わせること。
母様の言うことを聞くこと。
お父さんが本気で怒った時は逃げないこと。
けれど、それは那種がそこで暮らすためのものだった。
ノーザス家の決まりは、少し違った。
那種を整えるためのものだった。
食べる量は決められた。
眠る時間も決められた。
火を出す時間も決められた。
誰と話してよいかも決められた。
どこへ行ってよいかも決められた。
勝手に庭へ出てはいけない。
勝手に手紙を書いてはいけない。
勝手に本条家の話をしてはいけない。
「感情の乱れは、魔術の制御に影響する」
そう言われた。
「本条家の記憶に引きずられるな。お前はノーザスの娘だ」
そうも言われた。
那種は最初、その言葉をよく理解できなかった。
記憶に引きずられる。
それは、母様の笑った顔を思い出すことだろうか。
お父さんの声を聞きたいと思うことだろうか。
戎が木刀を構える横顔を思い出すことだろうか。
それが、魔術に悪いことなのだろうか。
那種には、わからなかった。
でも、わからないと言うと、眉をひそめられる。
だから、那種は頷いた。
「はい」
頷くと、その場は終わる。
それを、少しずつ覚えていった。
◇
ノーザス家の者たちは、那種の炎をよく見た。
最初の日、那種は広い石造りの部屋へ連れて行かれた。
床には術式の線が刻まれている。
壁には防火の魔術具が並んでいた。
何人かの大人が、紙と計測器を持って立っている。
「火を出しなさい」
言われて、那種は右手を上げた。
小さな炎を灯す。
本条家で母様に見せた時は、綺麗ね、と言ってくれた。
戎は目を輝かせて、もっと見たいと言った。
お父さんは、火事にするなよと笑った。
けれど、ここでは誰も笑わなかった。
「出力は悪くない」
「年齢を考えれば上等だ」
「魔力の器も大きい」
「炎系統への適性は高い。系譜上の価値は十分にある」
価値。
その言葉が、那種の耳に残った。
炎は、那種のものだった。
手のひらに灯すと温かい。
暗いところで小さく揺れる。
怖いものを遠ざけることもできる。
でも、ここで見られている火は、那種の火ではないようだった。
出力。
適性。
器。
価値。
そういう言葉に囲まれて、火だけが那種から離れていく。
「もう少し大きく」
那種は炎を大きくした。
「維持」
炎を保つ。
「形を変えなさい」
那種は言われた通り、丸い火を細く伸ばした。
「揺らすな」
「はい」
「集中しなさい」
「はい」
「手元を見るな。術式を感じろ」
「はい」
何度も返事をした。
そのうち、手が熱くなった。
額に汗が滲む。
炎が少し揺れる。
「乱れた」
「すみません」
「謝罪ではなく、制御しなさい」
「……はい」
那種は炎を直した。
直せた。
すると、紙に何かを書かれた。
「悪くない」
誰かが言った。
褒められたのかもしれない。
けれど、那種は嬉しくなかった。
悪くない。
それは、那種が悪くないという意味ではなく、炎が使えるという意味に聞こえた。
◇
手紙を書きたい、と言ったのは三日目だった。
那種は食事の後、付き添いの女に小さく聞いた。
「あの、本条の家に、手紙を」
女は少し困った顔をした。
「確認いたします」
その返事が来たのは、次の日だった。
「今は控えなさい」
「どうしてですか」
「環境に慣れることが先です」
「でも、母様が心配していると思います」
女は一瞬、何かを言いかけて、やめた。
代わりに、後ろにいた男が言った。
「本条家には必要な連絡を入れてある」
「必要な連絡?」
「お前がノーザス家で過ごしていることだ」
「それだけですか」
「十分だ」
十分。
那種は唇を結んだ。
十分ではない。
母様に、元気だと伝えたい。
お父さんに、稽古を休んでごめんなさいと言いたい。
戎に、火の練習をしていると伝えたい。
でも、男の顔を見ていると、それ以上言えなかった。
「……わかりました」
「よろしい」
わかってはいなかった。
でも、頷くと終わる。
那種はそれも覚えた。
◇
戎が来たのは、それから少し経った日のことだった。
那種は窓の外に、黒い髪を見た。
その瞬間、胸が跳ねた。
「戎」
思わず窓に駆け寄る。
庭の向こう、門の近くに戎がいた。
まだ子供なのに、背筋をまっすぐ伸ばして立っている。
何かを言っている。
門番が首を横に振った。
戎は動かなかった。
もう一度、何かを言う。
門番は取り合わない。
那種は窓に手をついた。
「戎」
声は届かない。
窓は開かないようにされていた。
那種は扉へ向かった。
けれど、部屋の外にいた女が立ちはだかる。
「どちらへ」
「戎が来ています」
「確認いたします」
「会わせてください」
「確認いたします」
「お願いします」
女は困ったように目を伏せた。
その後、男が来た。
「会う必要はない」
「でも」
「あちらは子供だ。感情的に来ただけだろう」
「戎は、私に」
「那種=ノーザス」
名を呼ばれて、那種の言葉が止まった。
「お前は今、ノーザス家にいる。勝手に本条家の者と会うことは許されない」
「……戎は、本条家の者です」
「だからだ」
男は言った。
「お前はもう、あちらの子ではない」
那種は息ができなくなった。
窓の向こうで、戎がまだ立っている。
何かを言っている。
怒っているようにも見える。
でも、声は聞こえない。
那種は手を握った。
会いたい。
会って、大丈夫じゃないと言いたい。
帰りたいと言いたい。
けれど、それを言えばどうなるのだろう。
戎は怒る。
戎は門を壊そうとするかもしれない。
戎が傷つくかもしれない。
戎が悪いと言われるかもしれない。
本条家が責められるかもしれない。
那種は窓から少し離れた。
戎の姿が、遠くなる。
「……会いません」
小さく言うと、男は頷いた。
「賢明だ」
賢明。
その言葉も、嫌だった。
けれど、那種は何も言わなかった。
◇
その夜、那種は眠れなかった。
部屋は静かだった。
灯りも落とされている。
けれど、目を閉じると戎の姿が見えた。
門の前に立っていた戎。
声が聞こえない戎。
会えない戎。
那種は布団の中で膝を抱えた。
声を出すと誰かが来る。
泣くと、明日の火が乱れると言われる。
だから、泣かないようにした。
それでも、涙は出た。
「母様」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「お父さん」
やっぱり返事はない。
「戎」
その名前だけは、声にすると余計に痛かった。
那種は胸元を握った。
私は那種だ。
本条の家で呼ばれていた那種だ。
そう思おうとした。
でも、昼間に何度も呼ばれた名が耳に残っている。
那種=ノーザス。
その音が、布団の中まで追いかけてくる。
違う。
違うはずだ。
けれど、明日になればまたそう呼ばれる。
返事をしなければならない。
返事をしないと、叱られる。
返事をすれば、少し楽になる。
那種は両手で耳を塞いだ。
それでも、名前は消えなかった。
◇
数日後、もう一度、炎の確認があった。
那種は前より大きな火を出せるようになっていた。
前より長く保てるようになっていた。
言われた形にも変えられる。
紙を持った大人たちが頷く。
「伸びが早い」
「やはり炎系統としては優秀だ」
「本条で遊ばせていたのは惜しいな」
那種は炎を保ったまま、ほんの少し顔を上げた。
遊ばせていた。
本条家での日々を、そう言われた。
道場で戎と走ったこと。
母様と台所に立ったこと。
お父さんに叱られたこと。
紀良を抱っこしたこと。
全部が、遊ばせていた、なのだろうか。
炎が揺れた。
「乱れている」
「すみません」
「感情を入れるな」
「……はい」
那種は炎を直した。
直せてしまった。
すると、大人たちはまた頷いた。
「制御は悪くない」
「感情さえ抑えれば、使える」
使える。
那種は、炎を見た。
自分の手の上にある火。
それは綺麗だった。
綺麗なはずだった。
けれど、今は少し怖かった。
火が出せるほど、ここに置かれる理由が増える気がした。
火が上手くなるほど、那種ではなく、那種=ノーザスになっていく気がした。
◇
その日の夕方、那種は廊下で呼び止められた。
「那種=ノーザス」
返事をしなければならない。
那種は立ち止まった。
「はい」
言ってから、息が止まった。
早かった。
あまりにも自然に返事をしてしまった。
呼ばれて、返事をした。
その名に。
那種=ノーザスに。
呼んだ男は特に何も気にしていなかった。
「明日は朝から確認がある。早く休みなさい」
「……はい」
男は去っていった。
那種は廊下に立ったまま、自分の手を見た。
返事をした。
してしまった。
そのことが、ひどく怖かった。
那種は胸元を握る。
私は那種だ。
そう思った。
でも、すぐに声が重なる。
那種=ノーザス。
私は、誰なのだろう。
本条の家に帰りたい。
でも、ここではそう言ってはいけないらしい。
那種は廊下の端にある窓を見た。
外は夕方だった。
空の色が、昔、本条家の縁側で見た色に似ていた。
その色を見て、那種はようやく少しだけ泣いた。
声を出さないように。
誰にも見つからないように。
ただ、頬を伝った涙を、袖で拭った。
それから、部屋へ戻った。
明日も、呼ばれる。
那種=ノーザス。
その名に返事をする日が、また来る。
那種は扉を閉める。
本条の家の音は、もう聞こえなかった。




