第1章 第05話『ノーザス家』
第一章 第五話 ノーザス家
ノーザス家の屋敷は、王都の北東区にあった。
本条家とは、匂いが違った。
最初に那種がそう思ったのは、馬車を降りた時だった。
本条家には、木の匂いがある。
道場の床。
乾いた木刀。
薪。
台所で火にかけられた鍋。
雨の日の濡れた縁側。
母様が使っていた薬草。
そういうものが混じって、本条家の匂いになっていた。
だが、ノーザス家の屋敷にあるのは、石と香料と、乾いた紙の匂いだった。
高い塀。
広い門。
整えられすぎた庭木。
掃き清められた石畳。
窓には細かな魔術式が刻まれ、外壁の縁にも薄い防護術式が走っている。火災防止、防音、魔力漏出の抑制。屋敷そのものが、魔術師の家であることを示していた。
那種は馬車の中で抱えていた荷物を胸に寄せた。
大きな荷物ではない。
着替え。
筆記具。
母様が使っていた小さな布袋。
猛が持たせてくれた護身用の短刀。
紀良が入れてくれた小さな布人形。
それだけだった。
迎えに出た使用人たちは、静かに礼をした。
声を荒げる者はいない。
乱暴に腕を掴む者もいない。
那種が思っていたより、ずっと丁寧だった。
「ようこそ、那種殿」
玄関広間で待っていた男が言った。
ノーザス家の当主だった。
年は四十を少し過ぎた頃だろうか。
長身で、痩せている。髪はきちんと撫でつけられ、目元には笑みがある。だが、その笑みは本条猛のものとも、本条澄乃のものとも違った。
柔らかい。
けれど、温かくはない。
「本日より、当家で炎魔術の基礎と制御を学んでいただきます。ここは魔術師の家です。恐れることはありません」
那種は両手で荷物を抱えたまま、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「礼儀もよろしい」
当主は満足そうに頷いた。
「本条家で大切に育てられたのですね」
那種の胸が、少しだけ温かくなった。
「はい」
そう答えると、当主は笑みを深めた。
「ならば、その期待に応えなくてはなりません。あなたには才があります。炎の才です」
あなたには才があります。
そう言われると、嬉しいはずだった。
ユルゲンにも似たようなことを言われた。
火は壊すだけではない。
守る火にもなる。
そう教えてもらった。
けれど、ノーザス当主の声は少し違った。
那種自身を見ているというより、那種の中にある火を見ている声だった。
那種はその違いを、まだ言葉にできなかった。
「まずは荷物を確認しましょう」
当主が言った。
「魔術教育の場には、危険物を持ち込めません。これはあなたを守るためでもあります」
「はい」
那種は頷いた。
使用人が低い机を用意し、那種の荷物を一つずつ広げていく。
着替え。
筆記具。
古い布袋。
布人形。
短刀。
短刀が出た瞬間、周囲の空気が少しだけ変わった。
当主は眉を上げた。
「これは」
「お父さんが、持たせてくれました」
那種は慌てて言った。
「護身用です。使うつもりはありません。でも、お守りみたいなものなので」
「お父さん」
当主がゆっくり繰り返す。
「本条猛殿ですね」
「はい」
「なるほど」
当主は短刀を手に取った。
鞘に収まった小さな短刀。
子供が扱うにはまだ重いが、持てないほどではない。刃はよく手入れされている。猛が出立の前夜に研ぎ直したものだった。
当主はそれをしばらく眺めた。
そして、静かに言った。
「これは、こちらで預かります」
那種は顔を上げた。
「預かる?」
「ええ。魔術訓練の場に刃物は不要です。炎の制御が乱れた時、思わぬ事故にもなりかねません」
「でも」
「あなたを疑っているわけではありません」
当主の声は穏やかだった。
穏やかなまま、拒否を許さなかった。
「本条家のご厚意で持たされたものなのでしょう。ですから、当家の保管庫で責任をもって預かります。必要な時が来れば返します」
那種は短刀を見た。
猛が持たせてくれたもの。
出立の朝、頭に手を置いてくれた父の手の重さ。
嫌になったら帰ってこい。
何かあれば、すぐ帰れ。
その言葉まで、一緒に預けるような気がした。
「……はい」
それでも、那種は頷いた。
ここは魔術を学ぶ場所だ。
決まりがある。
自分が我儘を言ってはいけない。
そう思った。
短刀は使用人の手で小さな箱に入れられた。
那種はそれを見送った。
胸の奥に、ぽっかり小さな穴が空いたようだった。
次に、布人形が手に取られた。
紀良がくれたものだ。
縫い目は粗い。
形も少し歪んでいる。
母様の真似をして那種が作り、失敗したものを、紀良が気に入っていた。
紀良はそれを、寂しくないようにと言って荷物に入れた。
当主は布人形を見て、ほんの少しだけ笑った。
「これは、玩具ですね」
那種は頷いた。
「妹がくれました」
「妹」
「はい。紀良です」
「そうですか」
当主は使用人へ目を向けた。
「子供の情緒安定には、馴染みの品が役立つこともある。しばらくは持たせておきなさい」
那種はほっとした。
「ありがとうございます」
「ただし、訓練場へは持ち込まないように」
「はい」
最後に、布袋が残った。
小さな布袋だった。
古く、柔らかい。
何度も手で触れられたせいで、端は少し擦り切れている。口紐も新しいものではない。
母様が使っていたものだった。
中には、欠けた櫛飾りの小片と、薬草の香りがかすかに残る小さな布片が入っている。
形見。
那種にとって、それは荷物ではなかった。
家の欠片だった。
当主は布袋を見た。
「これは?」
「母様のものです」
「本条家の奥方の?」
「はい」
「中を見ても?」
那種は布袋を両手で握った。
ほんの少しだけ、指に力が入る。
当主の目が、その指先を見た。
那種は息を吸った。
拒んではいけない。
でも、これは。
これは、どうしても。
「……大切なものです」
小さな声だった。
「危ないものは、入っていません」
当主は那種を見た。
しばらく沈黙があった。
那種は布袋を握ったまま、俯かなかった。
怖かった。
けれど、ここだけは譲れなかった。
不思議だった。
短刀は預けた。
布人形も、言われれば預けたかもしれない。
でも、この布袋だけは、どうしても手から離せなかった。
当主はやがて微笑んだ。
「よろしい」
那種は目を瞬かせた。
「中身は確認しません。故人の形見を粗末に扱うつもりはありませんから」
「……ありがとうございます」
「ただし、魔術式に干渉する品ではないか、後日改めて確認することがあります」
「はい」
「それまでは、あなたが持っていなさい」
那種は胸の前で布袋を抱えた。
ほっとしたせいか、目の奥が少し熱くなった。
当主は優しい。
そう思おうとした。
短刀を預けたのも、きっと決まりだからだ。
布人形を残してくれた。
布袋も持たせてくれた。
だから、大丈夫。
那種は自分にそう言い聞かせた。
◇
那種の部屋は、屋敷の二階にあった。
広くはない。
だが、清潔だった。
寝台。
小さな机。
本棚。
衣装棚。
窓には細い鉄格子のような魔術具がはめ込まれている。外からの侵入を防ぐためだと、案内の使用人は説明した。
那種は窓へ近づいた。
庭が見える。
整えられた芝。
幾何学的に刈り込まれた植え込み。
その向こうに、訓練棟らしき建物。
本条家の庭とは違う。
土の匂いが薄い。
木々が、どこか息を潜めているように見えた。
「お食事は鐘の音でお知らせします」
使用人が言った。
「起床は朝六時。午前は基礎座学、午後は魔術制御訓練。夕刻に復習時間がございます。夜は九時までに就寝してください」
「はい」
「ご家族への手紙は、週に一度、指定日に提出してください。外部へ送るものはすべて一度、管理役が確認いたします」
那種は顔を上げた。
「手紙を、見るんですか?」
「はい。未成年の教育生ですから、当然の管理です」
「でも」
「ご安心ください。内容を不当に変えることはありません。ただ、魔術情報や家の機密が外へ出ないよう確認するだけです」
使用人の声は事務的だった。
悪意はないように聞こえた。
けれど、那種は少しだけ不安になった。
戎に書く手紙。
猛に書く手紙。
紀良に書く手紙。
そこに、自分だけの言葉を入れてはいけないのだろうか。
そう思ってしまったからだ。
「手紙は、出せるんですよね」
「もちろんです」
使用人は微笑んだ。
「当家は約束を守ります」
那種は頷いた。
「はい」
使用人が去ると、部屋は静かになった。
静かすぎるくらいだった。
本条家なら、どこかで木刀の音がする。
紀良が廊下を走って、猛に叱られる声がする。
戎が稽古をしている音がする。
門下生が水を運ぶ音がする。
鍋の音。
戸の音。
誰かの笑い声。
ここには、それがなかった。
那種は机の上に布人形を置いた。
それから、布袋を胸元にしまう。
中にある小さな櫛飾りの欠片が、布越しに指に触れた。
「母様」
小さく呼んでみた。
返事はない。
それでも、少しだけ息がしやすくなった。
那種は窓の外を見た。
夕暮れの光が、石造りの庭を赤く染めている。
その色は、火に似ていた。
「ちゃんと勉強して、帰る」
那種は呟いた。
「怖くない火にする」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
本条家に。
猛に。
戎に。
紀良に。
それとも、布袋の中に残る母様の記憶に。
那種は小さく息を吸い、机へ向かった。
まずは、手紙を書こうと思った。
◇
本条家へ。
無事に着きました。
ノーザス家のお屋敷は、とても大きいです。
魔術のための部屋がたくさんあります。
私の部屋もあります。
短刀は、魔術訓練の時に危ないから預かると言われました。
でも、大切に保管してくれるそうです。
紀良の布人形は、持っていていいと言われました。
母様の布袋も、持っています。
明日から、炎魔術の勉強が始まります。
ちゃんと頑張ります。
紀良、ちゃんとご飯を食べてね。
戎、稽古で無理しないでね。
お父さん、私は大丈夫です。
那種。
書き終えた後、那種はしばらく手紙を見つめた。
本当は、もっと書きたいことがあった。
石の匂いがすること。
部屋が静かすぎること。
短刀を預けた時、胸が痛かったこと。
手紙を確認されると聞いて、少し嫌だったこと。
戎に、待つと言ってくれたことが嬉しかったと書きたいこと。
紀良に、布人形を見て泣きそうになったと書きたいこと。
猛に、やっぱり少し怖いと書きたいこと。
けれど、それらは書かなかった。
手紙は見られる。
この家の人が読む。
なら、心配させることは書かない方がいい。
那種はそう思った。
封をする前に、最後の一行を足した。
私は大丈夫です。
それを書いた瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
嘘ではない。
まだ大丈夫だった。
そう思った。
◇
翌朝から、教育は始まった。
最初の教師は、灰色の髪をした女性だった。
ミレーヌ・ノーザス。
当主の従妹にあたる人物だという。
背筋がまっすぐで、声は冷静だった。無駄な言葉を使わない。那種が質問すると答えてくれるが、雑談はしない。
「炎魔術とは、火を出す術ではありません」
最初に、ミレーヌはそう言った。
「火を理解し、熱を制御し、燃焼の条件を整え、必要な形へ導く術です」
那種は真剣に聞いた。
「火は命令では動きません。条件で動きます。酸素、燃料、温度、魔力、術式による指向性。それらを理解しないまま火を強めれば、術者自身が焼かれます」
那種は頷いた。
火は息みたいに動く。
昔、ユルゲンに言ったことを思い出した。
ここでは、それを言葉として学べる。
そのことは、少し嬉しかった。
午前は座学だった。
燃焼の基礎。
火炎術式の初歩。
熱の移動。
防火結界。
制御用の印。
那種は必死に書き取った。
知らない言葉が多い。
だが、火の話になると不思議と意味が頭に入りやすかった。
炎は、ただ赤く揺れているだけではない。
そこには流れがある。
条件がある。
制御できる理由がある。
それを知るたびに、那種の胸は少しだけ明るくなった。
午後、訓練室で実技が行われた。
石床の中央に、防火円が描かれている。
壁には消火用の水符と、魔力遮断布が掛けられていた。
「では、火を灯しなさい」
ミレーヌが言った。
那種は小さな芯を見た。
昨日のユルゲンの試験と似ている。
けれど、今日は教師がいる。
火を学ぶ場所がある。
那種は手を伸ばした。
指先に、小さな赤い光が生まれる。
火花ではなく、炎。
それは芯へ移り、静かに燃えた。
ミレーヌの眉がわずかに動いた。
「維持しなさい」
「はい」
那種は火を見た。
火は揺れている。
だが、消えない。
強すぎてもいけない。
弱すぎてもいけない。
息のように。
紀良の手を温めた時のように。
怖くない火に。
守る火に。
炎は小さく、丸い形を保った。
ミレーヌはしばらく黙っていた。
「……初回にしては、上出来です」
那種の胸が跳ねた。
「ありがとうございます」
「ただし、出力に対して制御が感覚に寄りすぎています。理論を覚えなさい。感覚だけの術者は、いずれ必ず事故を起こします」
「はい」
「もう一度」
「はい」
那種は何度も火を灯した。
消した。
また灯した。
小さくした。
大きくした。
揺らした。
止めた。
汗が額ににじむ。
けれど、楽しかった。
初めて、火が自分だけの怖いものではなく、学べるものに見えた。
訓練が終わる頃、那種の火は最初よりずっと安定していた。
ミレーヌは記録板に何かを書いた。
「炎適性、極めて高。反応速度良好。出力制御は未成熟。感覚処理過多。理論補強必須」
那種はその言葉をよくわからないまま聞いていた。
極めて高。
良好。
そう言われたことが嬉しかった。
だが、ミレーヌの目は那種を見ていなかった。
火を見ている。
記録を見ている。
結果を見ている。
那種はそのことに、ほんの少しだけ気づいた。
◇
日々は、規則正しく進んだ。
朝、起床。
食事。
座学。
昼食。
実技。
復習。
夕食。
手紙を書く時間。
就寝。
ノーザス家は、本条家よりずっと静かだった。
誰も走らない。
誰も大声で笑わない。
失敗しても怒鳴られない。
ただ、記録される。
火が乱れれば、乱れた理由を聞かれる。
術式を書き損じれば、どこで間違えたかを指摘される。
食事を残せば、体調欄に記される。
夜に眠れなかったと申告すれば、翌日の魔力反応と関連づけられる。
それは、叱責ではなかった。
乱暴でもなかった。
けれど、那種は少しずつ、自分が日々、紙の上に写し取られているような気持ちになった。
何ができたか。
何ができないか。
どの程度燃やせるか。
どれだけ保てるか。
どこで乱れるか。
何に反応するか。
そういうことが、毎日書かれていく。
那種が嬉しかったこと。
寂しかったこと。
紀良の布人形を抱いて寝たこと。
手紙の返事を待って、廊下の足音に耳を澄ませていたこと。
そういうものは、記録には載らない。
ある日、那種はミレーヌに聞いた。
「あの」
「何ですか」
「私、少しは魔術師に近づいていますか?」
ミレーヌは記録板から顔を上げた。
「炎魔術師としての素養は、想定以上です」
「素養」
「はい。現時点で、同年代の教育生とは比較になりません」
那種は少しだけ笑った。
「じゃあ、帰ったら、みんなに見せられますか」
ミレーヌの筆が止まった。
「帰る?」
「はい。本条家に」
「……ああ」
ミレーヌは一瞬、何かを考えるような顔をした。
そして、事務的に答えた。
「基礎教育が一段落すれば、一時帰宅の機会もあるでしょう」
「本当ですか?」
「あなたの習熟次第です」
那種の顔が明るくなった。
「頑張ります」
「ただし、焦りは禁物です。早く帰りたいという感情で制御を乱せば、かえって遠のきます」
その言葉に、那種の肩が少しだけ縮こまった。
「はい」
「感情を火へ乗せすぎないように」
「はい」
ミレーヌは記録板へ視線を戻した。
那種は防火円の中で、小さく拳を握った。
頑張れば帰れる。
習熟すれば帰れる。
なら、頑張ろう。
那種はそう思った。
◇
本条家から最初の返事が来たのは、那種がノーザス家に入って十日目のことだった。
那種は手紙を受け取る時、思わず両手を伸ばした。
管理役の女性が少し笑った。
「落ち着いてください」
「すみません」
「ご家族からです」
那種は手紙を受け取り、自室に戻るまで開けなかった。
廊下で開けたら、泣いてしまうかもしれないと思ったからだ。
部屋に入り、扉を閉める。
机の前に座る。
布人形を横に置く。
布袋を胸元から出して、机の上に置く。
それから、封を開いた。
最初は猛の字だった。
無事ならいい。
飯は残すな。
短刀は預けたと聞いた。
預けただけならいい。
返してもらえ。
無理はするな。
嫌なら帰ってこい。
次に紀良の字があった。
まだ拙い。
大きく、ところどころ曲がっている。
姉様へ。
ごはんたべてる?
きいはたべてる。
人形ちゃんといる?
帰ってくる?
まってる。
最後に、戎の字があった。
短かった。
待っている。
手紙を書け。
無理するな。
それだけだった。
那種は、その三行を何度も読んだ。
待っている。
その文字が、胸の奥にまっすぐ届いた。
那種は泣かなかった。
泣きそうにはなった。
でも、涙はこぼさなかった。
代わりに、布袋を握った。
中の櫛飾りの欠片が、指先に触れる。
「私、頑張るね」
那種は小さく言った。
その夜、那種は返事を書いた。
お父さんへ。
ご飯は食べています。
短刀は、ちゃんと預かってもらっています。
嫌なことはありません。
紀良へ。
人形はここにいます。
机の上に置いています。
ちゃんと見ています。
ご飯を食べていて偉いです。
戎へ。
手紙を書きます。
無理はしていません。
火を小さく丸くできるようになりました。
帰ったら見せたいです。
那種。
書き終えてから、那種は少し迷った。
戎への一文を、もう一つ足した。
待っていてくれて、ありがとう。
それを書いた後、顔が熱くなった。
手紙は管理役が見る。
そう思い出し、那種は慌ててその一文を消そうとした。
筆先が止まる。
消したくなかった。
でも、見られる。
那種はしばらく迷い、結局、その一文を残した。
そのかわり、手紙を畳む時、少しだけ強く折り目をつけた。
戎だけが、気づいてくれればいい。
そんなことを思った。
◇
その手紙を読んだ管理役は、何も言わなかった。
ただ、最後の一文を見た時、ほんの少しだけ眉を動かした。
那種はそれに気づかなかった。
手紙は予定通り本条家へ送られた。
けれど、その写しはノーザス家の記録庫にも残された。
本条那種。
炎適性極めて高。
感情安定要素、本条家への帰属意識。
特に本条戎への反応強。
精神的支柱として機能。
分離時の制御影響、要観察。
その記録を、当主は夜に読んだ。
灯の下で、紙を一枚ずつめくる。
那種の火。
那種の習熟速度。
那種の感情反応。
那種が何を大切にしているか。
当主はそれらを読み、静かに笑った。
「なるほど」
独り言だった。
「本条家が、火を安定させているのか」
彼は机の上に置かれた別の資料を見た。
炎魔術高適性児童。
魔力量、想定以上。
感情連動型制御。
家族記憶による安定化。
当主は指先で紙を叩いた。
「安定要素は、残すべきか。切るべきか」
彼は少し考えた。
すぐには切らない。
急に奪えば、火が乱れる。
まずは伸ばす。
伸ばしてから、不要なものを削ればいい。
当主はそう判断した。
その夜、那種は自室で眠っていた。
机の上には紀良の布人形。
胸元には母様の布袋。
短刀は、地下の保管庫の中。
本条家からの手紙は、枕の下にあった。
那種はまだ、何も知らない。
自分の手紙が記録されていること。
自分の寂しさまでも、観察対象として扱われていること。
自分の火だけではなく、心の支えまで測られ始めていること。
何も知らない。
ただ、帰るために頑張ろうと思って眠っていた。
その寝息は、まだ穏やかだった。
ノーザス家の夜は静かだった。
静かすぎる屋敷の奥で、赤い火だけが、細く燃えていた。




