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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
本条の家と、奪われた名

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第1章 第04話『炎の子』

第一章 第四話 炎の子


 澄乃が亡くなってから、四度目の春が過ぎた。


 本条家の朝は、相変わらず早い。


 まだ空が白み始める前に、道場の床が拭かれる。門下生たちは眠気を噛み殺しながら並び、猛の号令で木刀を振る。踏み込みの音が床を鳴らし、息が揃い、庭の木々が薄明かりの中で揺れる。


 台所から聞こえる音は、以前より不揃いになった。


 包丁の音は澄乃ほど軽やかではない。


 火加減も、時々強すぎる。


 粥は焦げなくなったが、汁物の味は日によって濃かったり薄かったりする。


 それでも、本条家は続いていた。


 猛は不器用に父であり続けた。


 戎は九つになり、道場で木刀を握る時間が増えた。まだ子供の身体だが、動きの中に余計なものが少ない。門下生の真似ではなく、相手との距離を測り、届かせるために動く。猛はそれを見て、以前より叱る回数を増やした。


 才能がある子ほど、叱らなければならない。


 それが猛の考えだった。


 紀良は六つになった。


 澄乃のことは、ほとんど覚えていない。


 ただ、台所の隅に置かれた古い湯呑や、澄乃が使っていた櫛を見ると、何となく静かになることがあった。那種が髪を梳いてやると、時々、紀良は不思議そうに言う。


「姉様の手、少しだけお母さんみたい」


 那種はそのたびに、笑っていいのか泣いていいのかわからない顔をした。


 那種は十になった。


 背は伸びたが、まだ細い。銀白の髪は肩より下まで伸び、光に当たると淡く輝くように見えた。表情は昔より豊かになったが、何かを抱え込む時だけ、澄乃によく似た静けさを見せる。


 そして、那種の魔術は以前よりはっきりと姿を持つようになっていた。


 最初は、灯が揺れるだけだった。


 火鉢の炭が小さく鳴るだけだった。


 霜が指先の近くで薄く溶けるだけだった。


 だが十歳の那種が感情を揺らすと、火は明らかに彼女へ反応した。


 台所の灯が、風もないのに那種の方へ傾く。


 火鉢の火が、彼女の呼吸に合わせるように赤く強まる。


 雨の日でも、那種の手元に置いた濡れた薪だけが、他より早く乾く。


 それは治癒ではなかった。


 病を癒すことも、傷を塞ぐこともできない。


 澄乃を連れて行ったものを、退けることもできなかった。


 那種の魔術は、炎だった。


 温める火。


 照らす火。


 燃やす火。


 そして、扱いを誤ればすべてを焼く火。


 そのことを、那種自身も少しずつ理解し始めていた。


     ◇


 ある朝、紀良が道場裏で転んだ。


 大きな怪我ではなかった。


 雨上がりのぬかるみに足を取られ、尻餅をついただけである。だが、服は泥だらけになり、手のひらには小さな擦り傷ができた。


 紀良は泣いた。


 那種は慌てて駆け寄った。


「紀良、大丈夫?」


「姉様、痛い」


「見せて」


 那種は紀良の手を取った。


 赤く擦れた小さな傷。


 血はにじんでいるが、深くはない。


 昔の那種なら、そこで何かをしようとした。


 魔力を込めれば治るかもしれない。


 手を握れば痛みが消えるかもしれない。


 そう思ったことがあった。


 けれど今は、違う。


 那種は紀良の手を見た後、すぐに懐から布を取り出した。


「洗ってから手当てしよう。泥が入るとよくないから」


「魔術で治せないの?」


 紀良が泣きながら聞いた。


 那種の手が、一瞬だけ止まった。


 少し離れたところで、戎も足を止めた。


 紀良は悪気なく言っただけだった。


 姉様には魔術がある。


 なら治せるのではないか。


 子供らしい、単純な考えだった。


 那種は小さく首を横に振った。


「私は、治す魔術はできないの」


「できない?」


「うん。私の魔術は、火なの」


「火?」


「温めたり、灯したり、燃やしたりする魔術」


「じゃあ、痛いのは?」


「ちゃんと洗って、薬を塗る」


 那種はできるだけ優しく言った。


「それが一番いいの」


 紀良は少し不満そうだった。


 けれど、那種が真剣な顔をしているので、それ以上は言わなかった。


 戎が近づいてくる。


「俺が水を持ってくる」


「ありがとう」


 戎は短く頷き、井戸の方へ向かった。


 那種は紀良の手を支えながら、息を整えた。


 すると、手元の空気がわずかに熱を帯びた。


 泥で冷えた紀良の指先が、少しだけ温まる。


 紀良は涙を浮かべたまま、目を瞬かせた。


「あったかい」


「うん」


「姉様の火?」


「そう」


「痛いのは治らないけど、あったかい」


 紀良はそう言って、少しだけ泣き止んだ。


 那種は胸の奥がきゅっと痛くなった。


 治せない。


 でも、温めることはできる。


 何もできないわけではない。


 澄乃の言葉が、胸の奥で静かに灯る。


 できることをしなさい。


 できないことを、できると言ってはいけません。


 那種は紀良の手をそっと包んだ。


「怖かったね」


「うん」


「でも、もう大丈夫。戎が水を持ってくるから」


「兄様、怒る?」


「怒らないよ」


「転んだから」


「転んでも怒らない」


「じゃあ、父様は?」


 那種は少し考えた。


「泥をつけたまま家に入ったら怒るかも」


 紀良は泣きながら真剣に頷いた。


「洗う」


「うん。洗おう」


 井戸から戻ってきた戎が、水桶を置いた。


 紀良は戎を見上げる。


「兄様」


「何だ」


「怒らない?」


「ああ」


「転んだ」


「見てた」


「泥ついた」


「洗えばいい」


 紀良はほっとした顔をした。


 那種はその様子を見て、少しだけ笑った。


 その時、道場の縁側に立っていた猛が、黙って三人を見ていた。


 那種の手元には、まだ小さな熱が残っている。


 風は冷たい。


 だが、那種の周囲だけが、春の日溜まりのように柔らかかった。


 猛はその光景を見て、深く息を吐いた。


 守るだけならできる。


 あの夜に、そう思った。


 だが、伸ばせるかは別だ。


 その問題は、もう先送りにできないところまで来ていた。


     ◇


 その日の午後、軍属の魔術師が本条家を訪れた。


 年配の男だった。


 名をユルゲン・ヴァイスといった。


 神崇皇国軍の魔術顧問を務める人物で、境界地帯の魔術汚染調査や若年魔術師の適性判定にも関わっている。猛とは戦場で何度か顔を合わせたことがある。


 ユルゲンは道場の奥座敷で那種と向かい合った。


 猛は少し離れた位置に座っている。


 戎は襖の外にいた。


 紀良は那種の膝に乗りたがったが、猛に止められ、不満そうに台所へ連れて行かれている。


「怖がらなくてよい」


 ユルゲンは穏やかに言った。


「魔術を見るだけだ」


 那種は正座したまま頷いた。


「はい」


「火は怖いかね」


 那種は少し考えた。


「怖い時もあります」


「ほう」


「でも、見ていると落ち着く時もあります」


「火が?」


「はい。火は、動きます。けど、無茶苦茶じゃないです」


 ユルゲンの目が少し細くなった。


「どう動く?」


 那種は言葉を探した。


「息みたいに」


「息」


「強くなったり、弱くなったりします。でも、ちゃんと食べるものがあると続きます。風があると揺れます。濡れていると嫌がります。怒っているみたいな時もあります」


「怒っている火がわかるのかね」


「たぶん」


 那種は自信なさそうに言った。


 ユルゲンは猛を見た。


 猛は黙っている。


「では、これを」


 ユルゲンは小さな皿を取り出した。


 皿の上には、細い芯が置かれている。


 油はごくわずか。


 普通ならば、火を灯してもすぐに消える。


「火を灯せるかね」


 那種は芯を見た。


「手で?」


「できると思う方法でよい」


 那種は右手を膝の上に置いたまま、芯を見つめた。


 部屋の空気が少しだけ変わった。


 灯が揺れる。


 襖の外で、戎がわずかに身じろぎした。


 猛の視線が鋭くなる。


 那種の指先に、小さな赤い光が生まれた。


 火花ではない。


 炎だった。


 針の先ほどの小さな火。


 けれど、その火は風も油もない場所で、確かに那種の指先に揺れていた。


 那種はそれを芯へ移した。


 芯に火がつく。


 小さな炎が立つ。


 だが、すぐに消えなかった。


 油が少ないはずなのに、炎は細く、静かに燃え続けている。


 ユルゲンはその火を見つめた。


 そして、低く言った。


「炎の魔術師だ」


 猛の眉が動いた。


 那種は自分の指先を見ていた。


 怖いような、嬉しいような顔だった。


「炎……」


「そうだ。君の魔術の根は火にある」


 ユルゲンは穏やかに言った。


「熱、灯火、燃焼、護火。扱い方によっては、生活を支え、戦場を変え、人を守る力にもなる」


「守る火?」


「火は壊すだけではない。凍えた者を温める。暗がりを照らす。魔獣を遠ざける。穢れたものを焼く。火には、そういう役目もある」


 那種は小さな炎を見た。


 その火は赤かった。


 今はまだ、ただの赤い火だった。


 後に白銀へ至る火であることを、この時の那種は知らない。


 竜帝アギトとの契約によって、その炎の資質が白銀の魔素へ精錬され、王都を覆う天盾へ至ることなど、誰も知らない。


 ただ、ユルゲンだけはその火の強さを見て、顔を険しくした。


「本条殿」


「何だ」


「この子には、正規の魔術教育が必要です」


 猛はすぐには答えなかった。


 わかっていた。


 言われる前から、わかっていた。


 だが、他人の口から言われると、腹の奥に硬いものが沈む。


「この家で見られる範囲か」


「初歩の制御ならば、助言はできます。しかしこの火は、いずれ本条家の中だけでは収まりません」


「危険ということか」


「放置すれば」


 ユルゲンは正直に答えた。


「ただし、正しく学べば大きな才です。潰すべきものではありません」


「潰すつもりはない」


「存じています」


「なら、どうしろと」


 ユルゲンは少し黙った。


「魔術師の家、あるいは魔術教育を行える家に預けるべきです」


 那種が顔を上げた。


 襖の外で、戎の気配が変わった。


 猛は目を細めた。


「預ける?」


「本条家を捨てさせるという意味ではありません」


「同じようなものだ」


「違います」


 ユルゲンの声は静かだったが、譲らなかった。


「帰る場所を持ったまま、学びに出るのです」


 その言葉に、猛は息を止めた。


 澄乃の声が、遠くで重なった気がした。


 外に出る日が来るとしても、帰る場所があれば、子供は歩けます。


 猛は奥歯を噛んだ。


 澄乃は、こういう時に正しいことを言う。


 死んだ後でも、正しいことを言う。


 だから、余計に腹が立つ。


「候補は」


 猛は低く聞いた。


「いくつかあります。その中で、現実的なのはノーザス家です」


 那種はその名を知らなかった。


 戎も知らない。


 だが猛は知っていた。


 王都に近い魔術名家。


 炎、結界、術式補助に強い家系を持ち、女児の魔術教育実績もある。軍や貴族家との関わりもあり、少なくとも表向きの評判は悪くない。


 理屈の上では、悪い選択ではなかった。


 理屈の上では。


「ノーザスか」


「はい」


「信用できるのか」


「表向きは」


 ユルゲンはそこで言葉を切った。


 猛の目が鋭くなる。


「表向きは、とは何だ」


「魔術師の家には、どこも独特の閉鎖性があります。完全に不安のない預け先などありません」


「なら預けない」


「本条殿」


「俺が見る」


「剣は教えられるでしょう」


「守ることもできる」


「しかし、炎を抱えたまま成長するこの子自身を、誰が教えるのですか」


 猛は黙った。


 ユルゲンは続けた。


「火は、押さえつければ歪みます。恐れさせれば暴れます。才を持って生まれたことまで、この子の不幸にしてはなりません」


 猛の拳が畳の上で握られた。


 澄乃と同じことを言うな。


 そう言いたかった。


 だが言えなかった。


 正しいからだ。


 那種は二人の大人の顔を見比べていた。


 何となく、わかった。


 自分の話をしている。


 どこかへ行く話をしている。


 あの夜、襖越しに聞いた言葉が、何年も経って形になっている。


 魔術。


 才。


 学ばせる場所。


 あの時、わからなかった言葉が、今になって那種の前に立っていた。


     ◇


 ノーザス家の使者が本条家を訪れたのは、それから半月後だった。


 使者は丁寧な男だった。


 年は四十前後。


 身なりは整っており、言葉遣いも柔らかい。魔術師らしい長衣を着ていたが、過度な装飾はなく、礼を失するような態度もなかった。


 彼は那種を見ると、微笑んだ。


「この子が、那種殿ですか」


 その言い方に、戎は少しだけ眉を動かした。


 丁寧だ。


 だが、どこか目が違う。


 人を見る目ではなく、珍しい刀や鉱石を見る時の目に似ていた。


 猛も気づいていた。


 だが、目だけで拒むには弱かった。


「炎の適性が強いと伺っております」


 使者は言った。


「当家には火系統の教育記録が多くございます。基礎制御、術式分解、燃焼制限、防火結界、いずれも幼年期から段階的に教えることができます」


 理路整然としていた。


 間違ってはいない。


「本条家の御息女としての扱いは保証いたします。籍を奪うものではありません。教育期間中、当家でお預かりする形となります」


 猛は言った。


「面会は」


「定期的に」


「手紙は」


「もちろん」


「本人の意思は」


 使者は一瞬だけ目を瞬かせた。


「ご本人が望まれない場合、無理にとは申しません。ただ、才を伸ばす機会は逃さぬ方がよろしいかと」


 言葉は正しい。


 言葉だけは。


 那種は座敷の隅に座っていた。


 戎はその横。


 紀良は那種の袖を握っている。


 話の意味をすべて理解しているわけではないが、那種がどこかへ行くかもしれないことだけはわかったらしい。


 紀良の指に力が入っていた。


「姉様」


 紀良が小さく呼んだ。


 那種は紀良の手に自分の手を重ねた。


「大丈夫」


「どこか行くの?」


「まだ、決まってないよ」


「行かない?」


 那種は答えられなかった。


 戎は使者を見ていた。


 じっと、瞬きも少なく見ている。


 使者はその視線に気づき、柔らかく笑った。


「本条家の若君は、妹君思いでいらっしゃる」


 戎は何も答えなかった。


 その言葉に、少しだけ嫌なものを感じたからだ。


 妹君。


 間違っていない。


 那種は戎の姉でもあり、紀良の姉でもある。


 だが使者の声には、家族を呼ぶ温度がなかった。


 戎はまだ九つだった。


 だから、その違和感を言葉にできなかった。


 ただ、嫌だった。


 それだけだった。


     ◇


 その夜、本条家は静かだった。


 紀良は泣き疲れて眠っている。


 那種は自分の布団に入っているが、目を閉じているだけで眠っていない。


 戎も眠っていなかった。


 襖の向こうで、猛が一人で座っている気配がした。


 那種は布団の中で手を握った。


 手の中に、小さな熱がこもる。


 慌てて力を抜く。


 近くに火はない。


 それでも、感情が揺れると熱が生まれる。


 自分の中に火がある。


 それは悪いものではないと、ユルゲンは言った。


 守る火にもなると、言った。


 でも、そのためには学ばなければならない。


 本条家では、学べない。


 那種はそれを理解していた。


 理解しているから、苦しかった。


 襖が少し開いた。


 戎が入ってきた。


「戎?」


「起きてたか」


「うん」


 戎は那種の布団の横に座った。


 昔と同じように。


 紀良が泣く時、二人でそばに座った時と同じように。


「行くのか」


 戎が聞いた。


 那種はすぐには答えなかった。


「わからない」


「行かなくていい」


 戎は短く言った。


 那種は胸が痛くなった。


「でも、私、火をちゃんと使えるようにならないと」


「ここでやればいい」


「お父さんは剣の人だよ」


「俺も手伝う」


「戎は剣の人になるでしょ」


「それでも」


 戎は拳を握った。


「俺が守る」


 那種は戎を見た。


 九つの戎は、まだ小さい。


 でも、その目だけはまっすぐだった。


 那種はその目を昔から知っている。


 自分が転んだ時。


 泣きそうになった時。


 紀良が泣いた時。


 澄乃が咳をした時。


 いつも戎は、何かを斬れる場所を探していた。


 でも、斬れないものもある。


 澄乃が言った。


 那種は小さく首を横に振った。


「戎」


「何だ」


「守ることと、閉じ込めることは違うって、お母さんが言ってた」


 戎の顔が歪んだ。


 ほんの少しだけ。


「知ってる」


「私も、行きたくない」


 那種は初めてそう言った。


 戎は息を止めた。


「でも、行かないといけない気がする」


「どうして」


「この火を、怖いものにしたくない」


 那種は自分の手を見た。


「紀良を温めることはできた。でも、お母さんは治せなかった。火は、できることとできないことがある。私、それをちゃんと知らないと、いつか誰かを傷つけるかもしれない」


「傷つけない」


「わからないよ」


「那種は傷つけない」


「戎は、そう言ってくれるけど」


 那種は少し笑った。


 泣きそうな笑みだった。


「私、自分のことはまだわからない」


 戎は黙った。


 言い返したかった。


 でも、言葉が見つからなかった。


 那種は戎の袖を掴んだ。


 幼い頃からの癖だった。


「帰ってくるよ」


 戎はその手を見た。


「いつ」


「わからない。でも、帰ってくる」


「本当に」


「うん」


 戎はしばらく黙っていた。


 そして、短く言った。


「待つ」


 那種の指に力が入った。


「うん」


「手紙を書け」


「書く」


「嫌なことがあったら」


「書く」


「無理するな」


 那種は少し黙った。


 戎がすぐに言った。


「そこは返事しろ」


 那種は小さく笑った。


「うん。無理しない」


 それは嘘ではなかった。


 この時の那種は、本当にそう思っていた。


 無理はしない。


 困ったら書く。


 嫌だったら帰る。


 家はここにある。


 帰る場所はある。


 だから歩ける。


 澄乃の言葉を、那種は信じていた。


     ◇


 出立の日は、よく晴れていた。


 雨でも雪でもなかった。


 空は高く、朝の光は道場の庭を明るく照らしている。門の前には小さな馬車が停まっていた。ノーザス家から迎えに来たものだ。


 荷物は多くない。


 着替え。


 筆記具。


 澄乃が使っていた小さな布袋。


 猛が持たせた護身用の短刀。


 そして、紀良がどうしてもと言って入れた小さな布人形。


「姉様、これ持っていって」


 紀良は泣きそうな顔で言った。


「いいの?」


「うん。寂しくないように」


 那種は布人形を受け取った。


 縫い目は粗い。


 澄乃の真似をして那種が以前作り、失敗して、紀良が気に入ったものだった。


「ありがとう、紀良」


「帰ってくる?」


「帰ってくるよ」


「いつ?」


「勉強が終わったら」


「明日?」


 那種は言葉に詰まった。


 紀良は本気だった。


 那種は膝をつき、紀良を抱きしめた。


「明日じゃないかもしれない」


「やだ」


「でも、帰ってくる」


「姉様」


「うん」


「忘れない?」


「忘れないよ」


「兄様も?」


「忘れない」


 紀良はとうとう泣いた。


 那種は抱きしめたまま、背を撫でた。


 昔、澄乃がそうしていたように。


 戎は少し離れて立っていた。


 腰には子供用の木刀を差している。


 稽古用だ。


 それでも、まるで刀のように見えた。


 猛は門の横に立っていた。


 顔は厳しい。


 だが、その目はいつもより深く沈んでいた。


「那種」


 猛が呼んだ。


 那種は紀良から離れ、猛の前へ行った。


「はい」


「嫌になったら帰ってこい」


 那種は目を瞬かせた。


 猛は続けた。


「学ぶために行く。売るためでも、捨てるためでもない。お前は本条の家の子だ。忘れるな」


 那種の目に涙が溜まった。


「はい」


「手紙を書け」


「はい」


「返事が遅ければ、俺が行く」


「はい」


「何かあれば、すぐ帰れ」


「はい」


「我慢しすぎるな」


 那種は少しだけ笑った。


「みんな、それ言う」


「言われるような顔をしている」


「そんなに?」


「ああ」


 猛は那種の頭に手を置いた。


 昔より少し力加減は上手くなっていた。


「行ってこい」


 那種は唇を噛んだ。


「行ってきます、お父さん」


 猛の手が、一瞬だけ止まった。


 それから、ゆっくり離れた。


 那種は戎の方を向いた。


 戎は黙っている。


 那種は歩み寄った。


「戎」


「ああ」


「行ってくる」


「ああ」


「待ってて」


「待つ」


「稽古、無理しないでね」


「する」


「無理するって言った」


「稽古はする。無理はしない」


 那種は少しだけ笑った。


 戎も、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 那種は戎の袖を掴んだ。


 いつものように。


 けれど、今日はすぐに離さなければならない。


「戎」


「何だ」


「私、ちゃんと火を覚えてくる」


「ああ」


「怖くない火にする」


「ああ」


「守る火にする」


 戎は那種を見た。


「那種の火は、怖くない」


「今は、まだわからないよ」


「俺は怖くない」


 那種は目を見開いた。


 その言葉だけで、胸の奥にあった不安の一部が溶けた。


 那種は泣きそうになった。


 でも泣かなかった。


 笑った。


「ありがとう」


「ああ」


 迎えの者が静かに頭を下げた。


「そろそろ」


 その声で、時間が動き出した。


 那種は馬車へ向かった。


 紀良が泣きながら追いかけようとして、猛に止められる。


「姉様!」


 那種は振り返った。


「紀良、ちゃんと食べてね!」


「姉様も!」


「うん!」


「兄様、姉様行っちゃう!」


 紀良が戎の袖を引いた。


 戎は動かなかった。


 動いたら、走ってしまうと思った。


 走って、馬車を止めてしまうと思った。


 だから動かなかった。


 ただ、那種を見ていた。


 那種も戎を見ていた。


 馬車の扉が閉じる。


 車輪が動き出す。


 門の前の土を踏み、ゆっくりと本条家から離れていく。


 那種は窓から顔を出した。


 銀白の髪が風に揺れた。


「戎!」


 戎は一歩だけ前に出た。


「那種!」


 その名を呼んだのは、ほとんど叫びに近かった。


 那種は泣きそうな顔で笑った。


「帰ってくる!」


 戎は答えた。


「ああ!」


 馬車は遠ざかる。


 紀良の泣き声が庭に残る。


 猛は黙っている。


 戎は道の先を見続けている。


 その日、那種は初めて本条の家を離れた。


 帰る場所はある。


 だから歩ける。


 そう教えた母の言葉を、那種は信じていた。


 手の中には、赤い火があった。


 まだ白銀ではない。


 まだ天を覆う盾にも、竜帝の魔素にも至らない、小さな炎。


 けれどその炎は、確かに那種の中で燃えていた。


 守るために。


 帰るために。


 いつか、家族のもとへ戻るために。


 だが、その先に待つ家が、帰る道を少しずつ遠ざける場所であることを、この時の那種はまだ知らなかった。


 戎も、猛も、紀良も知らなかった。


 ただ一台の馬車だけが、朝の光の中を、王都へ向かって進んでいった。


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