第1章 第03話『母の手』
第一章 第三話 母の手
本条家に三人目の子が来たのは、那種が五つ、戎が四つになる頃だった。
その日は、雨だった。
冬ではない。
けれど、空は低く、道場の屋根を叩く雨音は冷たかった。庭の土は黒く濡れ、軒下には細い水筋がいくつも落ちている。門下生たちは稽古を終えた後も、どこか落ち着かない顔で母屋の方を見ていた。
猛が帰ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
濡れた外套を肩にかけ、腕に小さな包みを抱いている。
その姿を見た瞬間、澄乃は台所の手を止めた。
那種と戎も、縁側から顔を出した。
那種は澄乃の袖を掴んでいた。
戎はその少し後ろに立っている。
「あなた」
澄乃が声をかける。
猛は軒下で足を止めた。
雨に濡れた髪から、水が一筋落ちる。
「入るぞ」
「もちろんです」
澄乃は障子を開けた。
猛が母屋に入ると、腕の中の包みが小さく動いた。
赤子だった。
まだ一歳になるかならないか。
黒に近い柔らかな髪。
丸い頬。
大きな目。
不安なのか、寒いのか、赤子は顔をくしゃりと歪めて、細い声で泣き始めた。
那種が目を瞬かせる。
戎は一歩だけ前に出た。
「赤ちゃん」
那種が言った。
「ああ」
猛は短く答えた。
「棗紀良という」
澄乃の表情が、ほんの少しだけ変わった。
驚きではない。
何かを察した顔だった。
「棗家の子ですね」
「そうだ」
「ご両親は」
猛は答えなかった。
答えないことで、十分だった。
澄乃は一度目を伏せた。
それから、すぐに顔を上げた。
「お湯を用意します」
「悪い」
「謝ることではありません」
澄乃はそう言って、赤子へ手を伸ばした。
猛は少しだけ迷った。
だが、すぐに紀良を澄乃に預けた。
紀良は澄乃に抱かれると、いっそう大きな声で泣いた。知らない場所、知らない匂い、知らない腕。すべてが怖いのだろう。
澄乃は慌てなかった。
ゆっくりと背を撫で、耳元で小さく囁く。
「大丈夫ですよ。ここは本条の家です。怖いものは、今は来ません」
その言葉は、かつて那種と戎にも向けられたものだった。
那種はそれを覚えていたわけではない。
けれど、どこかで聞いたことがある気がして、じっと澄乃を見た。
紀良はまだ泣いている。
澄乃は根気よく揺らした。
猛はその様子を見て、濡れた外套を脱ぐことも忘れていた。
「あなた」
「何だ」
「外套」
「……ああ」
「また濡れたまま家の中を歩くつもりですか」
「今脱ぐ」
「今すぐです」
「わかった」
猛が言われた通りに外套を脱ぐ。
門下生が慌てて受け取りに来た。
その様子を見て、那種が小さく首を傾げた。
「お父さん」
「何だ」
「その子、うちの子?」
猛は答えに詰まった。
澄乃が先に答えた。
「そうですね」
那種は澄乃を見た。
澄乃は紀良を抱いたまま、穏やかに微笑む。
「今日から、この子もこの家の子です」
「妹?」
「そうです。那種の妹ですね」
那種の目が、ゆっくりと大きくなった。
「妹」
「はい」
那種は戎を振り返った。
「戎」
「何だ」
「妹だって」
戎は紀良を見た。
まだ泣いている赤子。
小さく、弱く、何もできない命。
戎は少し黙った。
それから、短く言った。
「守る」
猛が目を向けた。
澄乃も見る。
戎は自分が何か特別なことを言ったとは思っていないらしい。いつもと同じ顔で、ただ紀良を見ていた。
那種は嬉しそうに頷いた。
「うん。守る」
澄乃は、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「守るのはよいことです。でも、まずは怖がらせないことからですね」
その時、紀良がまた大きく泣いた。
那種はびくりと肩を揺らした。
戎は一歩下がった。
猛は何をすればいいかわからない顔をした。
澄乃だけが落ち着いていた。
「ほら。三人とも、まず静かにしましょう」
「俺もか」
「あなたもです」
猛は黙った。
那種は口を閉じた。
戎も黙った。
紀良の泣き声だけが、雨音の中に残った。
その日、本条家には三人目の子が増えた。
◇
紀良は、よく泣く子だった。
当たり前だった。
知らない家に来たばかりで、母の匂いも、父の声も、昨日まで眠っていた場所も失っている。まだ言葉もわからない。なぜ自分がここにいるのかもわからない。
泣くしかなかった。
那種は最初、それを見ておろおろした。
戎が泣いている時は、袖を掴めば少し落ち着いた。そばに行けば、戎は呼吸を整えた。けれど紀良は違う。那種が近づいても泣く。袖を掴むには小さすぎる。話しかけても通じない。
那種は困った顔で澄乃を見た。
「母様」
「はい」
「紀良、泣く」
「そうですね」
「どうしたらいい?」
「そばにいてあげましょう」
「そばにいるだけ?」
「はい。泣き止ませようと急がなくていいのです」
那種は不思議そうにした。
「泣いてるのに?」
「泣いていても、ひとりではないとわかれば、それで少し楽になることもあります」
那種はしばらく考えた。
そして、紀良の布団のそばに座った。
何もしない。
ただ座る。
紀良は泣いている。
那種は困った顔をしている。
戎は部屋の入口に立っていた。
「戎」
那種が呼ぶ。
戎は入ってきた。
「座る?」
「ああ」
戎は那種の隣に座った。
二人は並んで、泣いている紀良を見た。
しばらくして、紀良の泣き声が少しだけ弱くなった。
泣き疲れただけかもしれない。
けれど那種は、小さく息を吐いた。
「少し、止まった」
「そうだな」
「私たち、いてもいい?」
「ああ」
「よかった」
那種は紀良の小さな手を見た。
触っていいのかわからず、指先を少しだけ近づける。
紀良の手が、偶然その指を握った。
那種は固まった。
目だけを大きくして、戎を見る。
「戎」
「何だ」
「握った」
「見てる」
「どうしよう」
「動くな」
「うん」
那種は真剣に動かなかった。
その様子を廊下から見ていた澄乃が、口元を押さえて笑った。
猛は少し離れた場所で腕を組んでいた。
「大丈夫なのか」
「大丈夫です」
「那種が固まっているぞ」
「大丈夫です」
「戎も固まっている」
「大丈夫です」
澄乃はそう言った。
紀良は那種の指を握ったまま、ようやく眠った。
その日から、那種は紀良のそばに座ることが増えた。
戎も、少し離れた位置に座る。
那種は話しかける。
戎は黙って見る。
紀良は泣く。
泣き疲れて眠る。
起きて、また泣く。
それでも、少しずつ変わっていった。
紀良は澄乃の腕を覚えた。
那種の声を覚えた。
戎が近くにいる時の静けさを覚えた。
猛の顔を見ると、最初は泣いた。
猛はそれなりに傷ついた顔をした。
澄乃は笑った。
「あなた、顔が怖いのです」
「普通だ」
「赤子には普通ではありません」
「どうしろと」
「笑ってください」
猛は紀良を見て、ぎこちなく笑った。
紀良は泣いた。
那種は慌てた。
戎は猛を見た。
「父さん」
「何だ」
「無理しなくていい」
「……そうか」
猛は深く傷ついた顔をした。
澄乃は台所で肩を震わせた。
◇
五人になった本条家は、二人の頃よりずっと騒がしかった。
那種は姉になろうとした。
だが、まだ幼い。
紀良を抱きたがるが、腕の支え方が危なっかしい。澄乃に教わりながら、膝の上に座らせる。少しでも紀良が動くと、那種の方が泣きそうになる。
「落ちる」
「落ちませんよ。私が支えています」
「でも、動いた」
「赤ちゃんは動きます」
「怖い」
「なら、今は撫でるだけにしましょう」
那種はうなずき、紀良の頭をそっと撫でた。
紀良は何もわからない顔で那種を見上げている。
その目が丸くて、那種は少し笑った。
「紀良、かわいい」
澄乃は微笑んだ。
「そうですね」
「戎も見て」
戎は少し離れていた。
呼ばれて近づく。
紀良が手を伸ばした。
戎は動かない。
紀良の指が、戎の袖を掴んだ。
那種が嬉しそうに言った。
「戎も握られた」
「ああ」
「妹だね」
「ああ」
戎は短く答えた。
けれど、その日から紀良が布を蹴飛ばしていると、戎は黙って掛け直すようになった。
紀良が転がりそうになると、戎はすぐに手を出す。
紀良が泣いて澄乃が台所から離れられない時は、那種がそばに座り、戎が入口に立つ。
何もできない。
でも、離れない。
それが二人にできる最初の世話だった。
猛はそれを見て、ある日、低く言った。
「兄姉になったな」
那種は振り返った。
「兄姉?」
「姉と兄だ」
「私、姉?」
「ああ」
「戎は兄?」
「そうだ」
那種は戎を見た。
戎は少し考えた。
「兄様?」
「それはお前が言う言葉じゃない」
猛が言う。
那種は首を傾げた。
「紀良が言う?」
「大きくなればな」
「じゃあ、私は姉様?」
「たぶんな」
那種は少しだけ照れた顔をした。
戎は無表情に見えた。
だが、その日の稽古では、いつもより少し背筋が伸びていた。
猛は見逃さなかった。
「兄になると、木刀の握り方まで変わるのか」
戎は真剣な顔で言った。
「守るから」
「何を」
「妹」
「那種はどうする」
「守る」
「澄乃は」
「守る」
「俺は」
戎は少し黙った。
「父さんは強い」
「そうか」
「でも、危なかったら守る」
猛は何も言わなかった。
しばらくして、木刀で戎の頭を軽くこつんと叩いた。
「まず自分の足元を守れ。転ぶぞ」
「うん」
戎は素直にうなずいた。
その横で、那種が笑った。
紀良は澄乃の腕の中で眠っていた。
◇
澄乃は三人の母になった。
それは誰かが決めたことではない。
家の中で自然にそうなった。
那種が熱を出せば、澄乃が額を拭く。
戎が稽古で膝を擦りむけば、澄乃が手当てをする。
紀良が夜泣きをすれば、澄乃が抱いて歩く。
猛が無茶な稽古を組めば、澄乃が止める。
門下生たちはその光景を見て、本条家で一番逆らってはいけないのは師範ではなく奥方なのだと学んだ。
澄乃は穏やかだった。
だが、甘くはなかった。
那種が紀良を構いすぎて紀良を泣かせた時は、きちんと叱った。
「かわいいと思う気持ちで、相手を苦しくしてはいけません」
那種はしょんぼりした。
戎が稽古を優先して昼食を残した時も、澄乃は静かに言った。
「強くなりたいなら、食べなさい。空の身体では、大切な人の前に立てません」
戎は黙って椀を持った。
紀良が食べ物をこぼすと、澄乃は叱らない。
まだ赤子だからだ。
だが、那種と戎が面白がって真似をした時は叱った。
二人は正座した。
猛も同じ場にいて、なぜか一緒に正座させられた。
「俺もか」
「見て笑っていました」
「……そうか」
「そうです」
澄乃はそういう人だった。
家を柔らかくする。
だが、芯を緩ませない。
猛が剣で本条家を立てているなら、澄乃は日々の飯と声と手当てで本条家を立てていた。
那種は、そのことをまだ言葉にできなかった。
戎もできなかった。
紀良はもっとできなかった。
けれど三人は、澄乃のいる場所に自然と集まった。
台所。
縁側。
火鉢のそば。
薬草の匂いがする部屋。
澄乃の声が聞こえる場所。
そこが、三人にとって家の中心だった。
◇
澄乃の咳が増えたのは、紀良が少し歩けるようになった頃だった。
最初は、誰も深く考えなかった。
澄乃はもともと身体が強い方ではない。
季節の変わり目には咳き込むこともあったし、雨の日に少し寝込むこともあった。
だが、その年の咳は長かった。
朝、台所で水を汲む音が止まる。
澄乃が口元を押さえている。
那種が気づく。
「母様?」
「大丈夫ですよ」
澄乃はそう言う。
笑う。
けれど、那種は笑えなかった。
戎も気づいていた。
澄乃が咳をした日は、稽古の後すぐに台所へ行く。水桶を運ぶ。薪を持ってくる。何も言わない。必要なものだけを置いて、また戻る。
澄乃はそれに気づいていた。
「ありがとう、戎」
「うん」
「でも、あなたも休みなさい」
「平気」
「平気な人ほど、倒れるまで気づきません」
戎は少し黙った。
「父さんみたいに?」
澄乃は目を瞬かせた。
そして、小さく笑った。
「そうですね。お父さんみたいに」
猛はその場にいなかった。
いたら、きっと渋い顔をした。
紀良はまだ、澄乃の咳の意味をわかっていない。
ただ、澄乃が座っていると膝に乗りたがる。澄乃が横になると、布団の端を掴む。
那種は何かをしようとした。
澄乃のそばに座り、手を握る。
すると、部屋の灯がわずかに揺れた。
第二話の頃から時折あった、未制御の魔力の揺らぎだった。
那種はそれを見て、目を見開いた。
「母様」
「はい」
「これで、よくなる?」
澄乃は少しだけ黙った。
その沈黙で、那種は答えを知った。
灯は揺れている。
空気も少しだけ緩む。
けれど、澄乃の咳は止まらない。
顔色も戻らない。
痛みを消すことも、病を追い払うこともできない。
那種の力は、まだ小さく、何より治す力ではなかった。
「那種」
澄乃は手を伸ばした。
那種の頬に触れる。
「ありがとう」
「でも」
「でも?」
「治らない」
「そうですね」
澄乃は誤魔化さなかった。
「治りません」
那種の目に涙が溜まった。
「私、魔術あるのに」
「魔術で何でもできるわけではありません」
「でも」
「できないことを知るのも、大切です」
那種は唇を噛んだ。
戎が部屋の入口に立っていた。
何も言わない。
ただ、拳を握っている。
澄乃は戎にも目を向けた。
「戎」
「……何」
「剣でも、何でも斬れるわけではありません」
戎の肩がわずかに揺れた。
「でも、だから何もしなくていいということではありません」
澄乃は静かに言った。
「できることをしなさい。できないことを、できると言ってはいけません」
那種は涙をこぼした。
戎は下を向いた。
紀良は澄乃の布団の端を掴んでいた。
澄乃は三人を見て、少し困ったように笑った。
「そんな顔をしないでください。私は、怒っているわけではありませんよ」
けれど、その声は前より細くなっていた。
◇
猛は、澄乃の前ではあまり崩れなかった。
薬師を呼んだ。
癒療院の者にも診せた。
軍の伝手を使い、できる限りの薬を集めた。
だが、澄乃の身体は少しずつ弱っていった。
大きな傷なら塞げる。
毒なら薄められる。
軽い病なら癒せる。
けれど、長く身体の奥に根を張った病を、完全に取り除く術はなかった。
神崇皇国の回復術は万能ではない。
命には、届かない場所がある。
猛はそれを知っていた。
知っていても、納得はできなかった。
夜、子供たちが眠った後。
猛は澄乃の布団のそばに座っていた。
澄乃は目を開けていた。
「あなた」
「何だ」
「そんな顔をしないでください」
「普通だ」
「嘘です」
「……そうか」
「はい」
澄乃は小さく息をついた。
「子供たちの前では、その顔をしないでくださいね」
「していない」
「しています」
「……そうか」
「はい」
猛は黙った。
澄乃は天井を見た。
「那種は、優しい子です」
「ああ」
「でも、きっと抱え込みます」
「ああ」
「戎は、強くなります」
「ああ」
「でも、きっと何でも斬ろうとします」
「ああ」
「紀良は、まだ小さいですね」
「ああ」
「私のことは、あまり覚えていないかもしれません」
猛は何も言わなかった。
澄乃は、ゆっくりと瞬きをした。
「それでも、抱いたことは残りますか」
「残る」
猛は低く言った。
「俺が覚えている」
澄乃は微笑んだ。
「なら、いいです」
「よくない」
「あなた」
「よくない」
猛の声は低く、硬かった。
澄乃はしばらく黙った。
それから、そっと手を伸ばした。
猛はその手を取った。
澄乃の手は熱を持っているのに、どこか冷たかった。
「あなたなら、叱りながらでも育てられます」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「なら」
「でも、できます」
澄乃は言った。
「あなたは不器用です。でも、捨てません」
猛の手に力が入った。
「当たり前だ」
「だから、できます」
澄乃は少しだけ笑った。
「ただ、粥はもう少し練習してください」
「……今言うことか」
「大事です」
「そうか」
「はい」
猛は顔を伏せた。
澄乃はその手を握り返した。
外では、雨が降り始めていた。
◇
澄乃が三人を呼んだのは、それから数日後だった。
朝ではない。
夕方だった。
窓の外に、薄い橙色の光が差していた。道場の稽古は早めに切り上げられ、門下生たちは静かに母屋から離れていた。
那種は六つ。
戎は五つ。
紀良は二つになっていた。
紀良はまだ、死というものを知らない。
那種も、完全には知らない。
戎も、わかっているようで、わかっていない。
ただ、いつもと違うことだけはわかっていた。
部屋の空気が、やけに静かだったからだ。
澄乃は布団の上で上体を少し起こしていた。
猛が支えている。
「那種」
澄乃が呼んだ。
那種は近づいた。
「はい」
「こちらへ」
那種は布団のそばに座った。
澄乃は那種の髪を撫でた。
銀白の髪。
拾われた時よりずっと伸びた髪。
「あなたは、守りたいと思う子です」
那種は澄乃を見た。
「でも、ひとりで全部を抱えてはいけません」
「ひとりで?」
「はい」
澄乃はゆっくり言った。
「誰かを守りたいなら、自分も誰かに支えてもらいなさい」
那種は眉を寄せた。
難しかった。
けれど、澄乃の声を忘れたくないと思った。
「戎に?」
澄乃は少し笑った。
「戎にも。お父さんにも。いつか出会う誰かにも」
「うん」
「約束できますか」
那種は、小さく頷いた。
「うん」
澄乃は次に、戎を呼んだ。
「戎」
「うん」
戎は那種の隣に座った。
背筋を伸ばしている。
子供なのに、どこか無理をしている。
澄乃はそれを見抜いていた。
「あなたは、強くなります」
戎は澄乃を見た。
「でも、強さだけで大切な人を守れると思ってはいけません」
戎は黙った。
「剣で斬れないものもあります。力で退けられないものもあります」
「じゃあ」
戎の声が少し震えた。
「どうするの」
澄乃は優しく答えた。
「そばにいなさい」
「そば?」
「はい。斬れない時は、そばにいるのです。何もできないと思う時ほど、離れないでいなさい」
戎は唇を結んだ。
「うん」
「那種が泣いたら?」
「そばにいる」
「紀良が困ったら?」
「そばにいる」
「お父さんが無茶をしたら?」
戎は少し考えた。
「止める」
澄乃は微笑んだ。
「お願いします」
猛が何か言いかけたが、澄乃に見られて黙った。
最後に、澄乃は紀良を見た。
紀良は猛の膝の横で、布の端を握っている。
まだ状況を理解していない。
「紀良」
澄乃が手を伸ばす。
猛が紀良を抱き上げ、澄乃のそばへ連れていった。
紀良は不思議そうな顔をしている。
「きい」
那種が小さく呼んだ。
紀良は那種を見て、それから澄乃を見た。
澄乃は紀良を抱いた。
長くは抱けなかった。
身体に力が入らないからだ。
それでも、澄乃は確かに紀良を抱いた。
頬に触れ、髪を撫で、小さな背をゆっくり撫でた。
「覚えていなくてもいいです」
澄乃は囁いた。
「でも、あなたはこの家の子です」
紀良は澄乃の胸元に顔を寄せた。
何もわかっていない。
けれど、安心したように目を細めた。
那種は泣いていた。
戎は泣いていなかった。
ただ、拳を握っていた。
猛は、澄乃の背を支えていた。
夕方の光が、部屋の中でゆっくり薄れていく。
その日、澄乃は三人の子供を抱いた。
そして夜が更ける前に、静かに息を引き取った。
◇
翌朝、本条家には台所の音がなかった。
那種は、それで目を覚ました。
いつもなら、澄乃が水を汲む音がする。
包丁が板を叩く音がする。
火を起こす音がする。
薬草か、粥か、汁物か、何かしらの匂いがする。
けれど、その朝は何もなかった。
静かだった。
静かすぎた。
那種は布団の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。
隣で戎も起きていた。
紀良はまだ眠っている。
小さな手を丸め、何も知らない顔で眠っている。
「戎」
那種が小さく呼んだ。
「ああ」
「音、しない」
「ああ」
二人はそれ以上言わなかった。
言えなかった。
やがて、襖が開いた。
猛が立っていた。
いつもと同じように見えた。
だが、どこか違った。
顔つきではない。
声でもない。
立ち方が、少しだけ重かった。
「起きろ」
猛は言った。
「飯だ」
那種は起き上がった。
戎も起きた。
紀良はまだ眠っていたが、戎がそっと布を直した。
台所へ行くと、猛が粥を作っていた。
焦げていた。
鍋の底が少し黒い。
水の量もおかしい。
門下生の一人が手伝おうとしていたが、猛に睨まれて引っ込んでいる。
那種は鍋を見た。
戎も見た。
「父さん」
戎が言った。
「何だ」
「焦げてる」
「知ってる」
「食べるの?」
「食べる」
那種は鍋を見たまま、涙をこぼした。
猛は固まった。
戎も固まった。
紀良が目を覚まし、状況もわからずに泣き出した。
それで、那種はもっと泣いた。
戎は紀良のそばに行った。
どうしていいかわからないまま、布を握らせた。
紀良は泣いている。
那種も泣いている。
鍋は焦げている。
猛は、しばらく立っていた。
それから、深く息を吐いた。
「……すまん」
その一言で、那種はさらに泣いた。
猛は不器用に那種の頭に手を置いた。
力加減が少し強い。
けれど、那種は逃げなかった。
戎は紀良を抱こうとして失敗しかけ、慌てて座り直した。
紀良はまだ泣いている。
台所に、泣き声が重なった。
澄乃の声はない。
その事実だけが、朝の光の中にはっきりとあった。
けれど、本条家は壊れなかった。
猛は焦げた粥を作った。
那種は泣きながら食べた。
戎は黙って食べた。
紀良は澄乃の代わりに那種の膝に座らされ、少しこぼしながら食べた。
美味しくはなかった。
それでも、食べた。
澄乃が言ったからだ。
ちゃんと食べなさい。
強くなりたいなら、食べなさい。
生きるなら、食べなさい。
その声はもう聞こえない。
けれど、言葉は残っていた。
◇
澄乃のいない本条家は、しばらく不器用だった。
猛は朝食を何度も焦がした。
洗濯物の畳み方を間違えた。
紀良の髪を結ぼうとして、那種に止められた。
「お父さん、それ痛い」
「そうか」
「紀良、泣く」
「もう泣いてる」
「だからだめ」
「……わかった」
那種は澄乃の真似をして、紀良の髪を梳いた。
うまくはなかった。
けれど、猛よりはずっとましだった。
戎は何も言わずに水を運び、薪を割る真似をし、危ないからと門下生に止められた。
紀良は澄乃を探して泣くことがあった。
そのたびに、那種がそばに座った。
戎も少し離れて座った。
二人は第二話の頃と同じように、泣き止ませようと急がず、ただそばにいた。
那種は何度も思った。
自分には、治せなかった。
戎は何度も思った。
自分には、斬れなかった。
けれど、澄乃は言った。
できることをしなさい。
できないことを、できると言ってはいけません。
そばにいなさい。
その言葉だけが、三人の子供の中に残った。
那種は紀良の手を握る。
戎は二人の少し前に立つ。
紀良は泣き疲れて眠る。
猛は道場で木刀を振る。
以前より少しだけ、音が重くなった。
本条家には、母の声がなくなった。
けれど、母の言葉は残った。
母の手の温度も、粥の匂いも、叱る時の静かな声も、紀良を抱いた腕も、すべて消えたわけではなかった。
那種は少し覚えている。
戎も覚えている。
紀良は、いつかほとんど忘れてしまうかもしれない。
だが、猛が覚えている。
本条家が覚えている。
だから、澄乃はこの家からいなくなったわけではなかった。
ただ、声が聞こえなくなっただけだった。
その家で、三人の子供は育っていく。
守りたいと思う姉。
そばにいると決めた兄。
まだ何も知らない、小さな妹。
そして、不器用に三人を育てる父。
本条家の朝は、また始まった。
台所の音はまだ不揃いで、粥は少し焦げていた。
それでも三人は食べた。
生きるために。
澄乃の言葉を、忘れないために。




