第1章 第02話『本条の家』
第一章 第二話 本条の家
本条猛が二つの命を抱えて帰ってきた時、本条家の門は半ば凍りついていた。
夜だった。
村を出た時、空にはまだ灰混じりの雪が舞っていた。だが本条家へ着く頃には、それも止んでいた。
雪は止んでいたが、空気は冷え切っている。道場の屋根には薄く白いものが積もり、軒先から垂れた氷が、月明かりを受けて鈍く光っていた。
猛の外套は灰と煤で汚れていた。
肩には魔獣の血が乾き、袖口には従魔人の刃を受けた裂け目がある。顔にも浅い傷が走っていたが、猛自身はそれを気にしていなかった。
気にしている余裕がなかった。
両腕の中に、赤子が二人いたからだ。
一人は黒髪の男の子。
もう一人は、銀白に近い髪を持つ女の子。
二人とも冷えきっていた。息はある。鼓動もある。だが、あまりにも小さく、あまりにも軽い。猛が少し腕に力を込めれば、そのまま折れてしまいそうだった。
「先生!」
門番代わりに残っていた若い門下生が、猛に気づいて駆け寄った。
「お戻りでしたか。負傷者は――」
そこまで言って、門下生は目を見開いた。
猛の腕の中にいる二人を見たからだ。
「……子供、ですか」
「湯を沸かせ」
猛は短く言った。
「はい?」
「湯だ。あと布。できるだけ柔らかいものを持ってこい。すぐにだ」
「は、はい!」
若い門下生が慌てて走っていく。
猛はその背を見送らず、母屋へ向かった。
本条家は道場を構える家である。
表から見れば、剣の家だった。
朝には木刀の音が響き、昼には門下生が汗を流し、夜には静かな呼吸と踏み込みだけが残る。実戦剣術としての本条流を継ぐ家。荒ぶるものを鎮めるための剣、本条鎮剣を祖に持つ家。
だが、その奥には普通の家があった。
火鉢があり、台所があり、布団があり、冬の夜には薬草を煮る匂いがする。
その家の障子が、静かに開いた。
「あなた」
灯を持って出てきた女性がいた。
本条澄乃。
猛の妻である。
年は猛より少し若い。細い肩をしていたが、弱々しい印象はなかった。声は穏やかで、目元も柔らかい。だが、その奥には簡単には折れない芯があった。
澄乃は猛の姿を見て、まず傷を見た。
次に、外套の汚れを見た。
最後に、腕の中の二人を見た。
「……その子たちは?」
「生きてた」
猛はそれだけ言った。
澄乃はしばらく黙った。
普通なら、問いただすところだった。
どこの子か。
親はどうしたのか。
なぜ連れてきたのか。
この家で育てるつもりなのか。
聞くべきことはいくらでもあった。
だが、澄乃は何も聞かなかった。
赤子の唇が紫がかっていることに気づいたからだ。
「中へ」
澄乃は障子を大きく開けた。
「湯を用意します。あなたは先に火のそばへ。いいですか、濡れた外套のまま抱いていてはいけません」
「わかった」
「怪我は?」
「浅い」
「後で見ます」
「子供が先だ」
「もちろんです」
澄乃は静かに答えた。
その声に、猛はほんの少しだけ息を吐いた。
戦場から帰ってきた時、猛はいつも、この声で現実に戻される。
剣を振っていた場所から、家へ戻される。
その夜、本条家は眠らなかった。
門下生たちは湯を沸かし、布を運び、薬草を探し、台所と座敷を何度も往復した。澄乃は赤子たちの身体を温め、煤と血の匂いを拭い、冷えた手足を何度も包んだ。
黒髪の男の子は、途中で力なく泣いた。
泣けるならまだいい、と澄乃は言った。
銀白の髪の女の子は、ほとんど泣かなかった。
ただ、黒髪の子の布を握っていた。
「離れませんね」
澄乃が言った。
「ああ」
「この子の方が、少し大きいでしょうか」
「たぶんな」
「兄妹ではないかもしれません」
「だろうな」
「でも、離したら泣きそうです」
「泣いてないが」
「泣く前の顔です」
澄乃はそう言って、銀白の髪の子の頬をそっと撫でた。
その子は、ぼんやりと澄乃を見た。
焦点が合っているのかどうかもわからない。けれど、その小さな指は、まだ黒髪の男の子の布を握っている。
「大丈夫ですよ」
澄乃は小さく囁いた。
「ここは寒くありません。怖いものも、今は来ません。だから、少し眠りなさい」
言葉の意味は伝わっていないはずだった。
それでも、銀白の髪の子は、ほんのわずかにまぶたを落とした。
黒髪の子が泣き止む。
二人は、同じ布の上で眠った。
猛はその様子を見て、黙っていた。
澄乃は二人に布団をかけ、火鉢の位置を調整した。
「あなた」
「何だ」
「名前は?」
「まだない」
「そうですか」
「村の記録を調べる。残っているものがあれば、そこから拾う」
「はい」
「なければ、俺がつける」
「はい」
「……育てるぞ」
猛は、ようやくそれを口にした。
澄乃は少しだけ目を細めた。
「そう言うと思いました」
「反対しないのか」
「反対したら、あなたはこの子たちを捨てに戻るのですか?」
「戻らん」
「なら、反対するだけ無駄です」
猛は言葉に詰まった。
澄乃は静かに笑った。
「生きていたのでしょう」
「ああ」
「あなたが見つけたのでしょう」
「ああ」
「なら、ここまで来た時点で、もううちの子です」
その言葉は、軽くなかった。
澄乃は命を預かる重さを知っている。
子を育てることが、ただ可愛がることではないと知っている。食わせ、洗い、寝かせ、叱り、守り、時には嫌われることも含めて引き受けることだと知っている。
それでも彼女は言った。
うちの子です、と。
猛は顔を伏せた。
「……悪いな」
「謝ることではありません」
「苦労をかける」
「それは、もう慣れています」
「おい」
「本当のことです」
澄乃は穏やかに言った。
その声があまりにも柔らかいので、猛は何も言い返せなかった。
火鉢の炭が小さく爆ぜる。
外では、門下生たちがまだ落ち着かない足音を立てていた。
座敷の中央では、二つの命が眠っている。
その夜から、本条家には子供が二人増えた。
◇
数日後、黒髪の男の子は、戎と名づけられた。
本条戎。
荒ぶるものに向き合い、災いの刃を受け止める名。
銀白の髪の女の子は、那種と名づけられた。
失われた村の記録と、包まれていた布に残っていた古い刺繍から、猛と澄乃が拾い上げた名だった。
那種は、戎より少しだけ年上だった。
年上といっても、まだ一歳にも満たない。けれど、二人を並べると、那種の方が少しだけ先に周囲を見る。先に手を伸ばす。先に戎の泣き声に気づく。
戎は、夜によく泣いた。
声は大きくない。
むしろ小さく、細く、喉の奥から絞るような泣き方だった。
それが澄乃にはかえって痛々しかった。
澄乃が抱くと、少し落ち着く。
猛が抱くと、最初はさらに泣く。
門下生が抱くと、泣き疲れて眠る。
だが、一番早く泣き止むのは、那種のそばに置いた時だった。
那種はまだ歩けない。
それでも、戎の泣き声が聞こえると、布団の中で小さく身じろぎする。手を伸ばし、戎の服の端を掴む。指に力などほとんどない。だが、その手が触れると、戎の呼吸が少しだけ整う。
「不思議ですね」
澄乃は何度もそう言った。
猛は腕を組んで、難しい顔をした。
「最初からああだった」
「見つけた時から?」
「ああ。こいつは戎の布を離さなかった」
「守っていたのでしょうか」
「わからん」
「でも、離したくなかったのでしょうね」
澄乃は那種の頭を撫でた。
那種は目を閉じている。
戎も眠っている。
二人の手だけが、布団の中で触れ合っていた。
「この子たちにとっては、最初から互いが目印なのかもしれません」
「目印?」
「生きていることの」
澄乃はそう言った。
猛は黙った。
戦場で拾った二つの命。
焼けた村。
雪と灰。
亡くなった者たち。
それらを思い出すと、猛の胸には今でも硬いものが残る。
もっと早く着いていれば。
別の判断をしていれば。
誰かをもう一人でも救えたのではないか。
そういう思いは消えない。
けれど、目の前で眠る二人を見ていると、消えないままでもいいのだと思えた。
後悔があるから、次は遅れない。
守れなかった命があるから、今ここにある命を守る。
それだけのことだった。
◇
本条家の朝は早い。
まだ空が青黒いうちに、道場の床が乾拭きされる。
門下生たちは眠そうな顔で集まり、寒い日には白い息を吐きながら素振りを始める。猛の号令が飛ぶ。木刀が空気を打つ。足が床を踏む。冬ならば、音は硬く響く。夏ならば、汗の匂いと土の匂いが混じる。
その家で、那種と戎は育った。
最初の数年は、剣よりも飯と寝床の記憶の方が多い。
澄乃が作る粥。
火鉢の近くに敷かれた布団。
門下生たちがこっそり見に来て、澄乃に叱られる声。
猛が不器用にあやそうとして、戎に泣かれる光景。
那種が戎の袖を掴み、戎が那種の方へ転がっていく様子。
本条家は騒がしくなった。
稽古中に赤子の泣き声が響けば、門下生たちの集中が乱れる。
猛は怒鳴る。
「泣き声で剣筋が乱れるようなら、戦場で何を聞いても死ぬぞ!」
そう言いながら、稽古が終わると真っ先に座敷を覗きに来る。
澄乃はそれを見て、何も言わずに笑った。
那種が歩けるようになると、家の中はさらに忙しくなった。
彼女は無口な子だった。
だが、動かない子ではない。
興味を持つと、じっと見る。長く見る。大人が忘れた頃に、ふらりと近づく。
火鉢に手を伸ばそうとしたこともある。
台所の水桶を覗き込んで落ちかけたこともある。
道場の木刀を持ち上げようとして、重さに負けて倒れたこともある。
そのたびに戎が後を追った。
戎は那種より少し遅れて歩き始めたが、追うことだけは早かった。
那種が廊下の角を曲がる。
戎が追う。
那種が庭に出る。
戎が追う。
那種が転ぶ。
戎も転ぶ。
二人で泣く。
澄乃が二人を抱き上げる。
猛が遠くから見て、どうしてそうなる、と呟く。
そういう日々が続いた。
ある日、那種が戎を呼んだ。
「かい」
舌足らずな声だった。
戎は振り返った。
澄乃は手を止めた。
台所で野菜を切っていた刃が、板の上で小さく鳴った。
「今、呼びましたね」
澄乃が言う。
猛は縁側で刀の手入れをしていた。
「何を」
「戎の名前です」
「偶然だろ」
「いいえ。呼びました」
澄乃はきっぱり言った。
那種はもう一度、戎を見た。
「かい」
戎が那種の方へ歩く。
途中で足をもつれさせ、ぺたんと座り込む。
那種は少し考え、自分から戎のそばへ行った。
二人は廊下の真ん中で向かい合う。
それから那種が、戎の袖を掴んだ。
戎は泣かなかった。
ただ、じっと那種を見ていた。
「ほら」
澄乃が言った。
「呼びました」
猛はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「……そうか」
「嬉しいのですね」
「普通だ」
「そうですか」
「何だ、その顔は」
「いえ。普通なのですね」
澄乃は笑った。
猛は刀の手入れに戻ったが、その日、いつもよりずっと時間をかけていた。
◇
那種の不思議な力に最初に気づいたのは、澄乃だった。
冬の夕方。
戎が庭先で転んだ。
大きな怪我ではなかった。膝を少し擦りむいただけで、血もわずかだった。
だが、戎は痛みよりも驚きで固まった。
那種がそれを見て、息を呑んだ。
次の瞬間、二人の周囲の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
火鉢を近づけたような暖かさではない。
湯気が立つほどでもない。
傷が塞がったわけでもない。
ただ、冬の冷たい空気の中で、そこだけ薄い膜を張ったように、風の刺す感じが弱まった。
澄乃は台所の戸口で立ち止まった。
「那種?」
那種は自分の手を見ていた。
何かをした自覚はないらしい。
戎の膝の傷は治っていない。
血はそのままだ。
それは治癒ではなかった。
熱を下げることも、傷を塞ぐこともできない。
ただ、幼い那種の内側にある魔力が、心の揺れに合わせて外へ漏れただけだった。
その後も、小さな出来事は何度かあった。
那種が泣きそうになると、部屋の灯がわずかに揺れる。
戎は、冷え込む夜に熱を出しやすい子だった。
身体が弱い、というほどではない。
日中は那種の後を追って転び、木刀を見れば手を伸ばし、庭へ出れば泥だらけになる。食べるものも食べるし、泣く時は泣く。
ただ、冬の夜だけは違った。
空気が深く冷え、道場の戸が風で鳴る夜になると、戎の身体は急に熱を持つことがあった。小さな額が火のように熱くなり、呼吸が浅くなり、眠りながら何かを探すように手を動かす。
そんな時、那種は必ず起きた。
まだ看病という言葉も知らない。
薬も、水も、布を替えることもできない。
それでも那種は、戎のそばへ寄っていった。布団の端を掴み、眠そうな目をこすりながら、戎の袖に手を伸ばす。
戎は、その手に触れると少しだけ落ち着いた。
熱が下がるわけではない。
傷が治るわけでもない。
それでも、荒かった呼吸がわずかに整い、握りしめていた小さな手が緩む。
澄乃はそれを見て、何度も不思議そうに目を細めた。
治癒ではない。
那種に、そんな力があるわけではなかった。
ただ、幼い那種の内側にある魔力が、心の揺れに合わせて外へ漏れ、戎の周囲に薄い膜のようなものを作っていた。
冬の冷たい空気の中で、そこだけ風の刺す感じが弱まる。
火鉢の火が、小さく鳴る。
戎が少しだけ眠る。
それだけのことだった。
庭の隅に張っていた霜が、那種の指先の近くだけ薄く溶ける。
奇跡ではない。
治癒でもない。
けれど、明らかに普通ではなかった。
猛はその話を聞いて、眉間に皺を寄せた。
「魔術か」
「たぶん」
澄乃は答えた。
「私には詳しいことはわかりません。でも、この子には何かがあります」
「本条の血じゃない」
「血の話ではありません」
「わかってる」
猛は腕を組んだ。
本条家は剣の家だ。
魔術を知らないわけではない。戦場で魔術師と連携することもある。魔獣や魔族の術を相手にしたこともある。
だが、魔術を育てる家ではない。
魔術の才は、扱いを誤れば本人を傷つける。
特に幼い子供の無意識の魔力は、周囲に影響を与えることがある。暴走すれば、本人だけでなく近くにいる者も危うい。
猛は那種を見た。
那種は戎の横で眠っている。
片手は戎の袖を掴んだままだ。
「守るだけならできる」
猛は低く言った。
「だが、伸ばせるかは別だな」
澄乃は何も言わなかった。
何も言わないことで、同じことを考えていると示していた。
その夜、猛は長く眠らなかった。
◇
戎の才に気づいたのは、猛だった。
戎が三つになる頃である。
その頃の戎は、あまり喋らない子だった。
必要なことは言う。
嫌なことは嫌な顔をする。
那種に呼ばれれば行く。
猛に叱られれば黙って聞く。
だが、同じ年頃の子供のように、思いついたことを次々と口にすることは少なかった。
代わりに、よく見ていた。
道場の隅。
縁側。
柱の陰。
どこかに座って、猛や門下生の稽古を見ている。
子供が剣に憧れるのは珍しくない。
門下生たちも最初はそう思っていた。
だが、戎は木刀を振る格好を真似するのではなかった。
足を見ていた。
間合いを見ていた。
相手の肩が動く前に、どちらへ踏み込むかを見ていた。
ある朝、猛は戎に小さな木刀を持たせた。
もちろん、子供用の軽いものだ。
戎は両手でそれを握った。
重そうだった。
姿勢も崩れている。
腕の力もない。
刃筋など、あるはずもない。
「振ってみろ」
猛が言った。
戎は木刀を振った。
当然、めちゃくちゃだった。
門下生の一人が微笑ましそうに笑いかけた。
だが、猛は笑わなかった。
振り終わった後の戎の足が、半歩だけ前に出ていたからだ。
ただ振ったのではない。
届かせようとしていた。
相手がいる位置を、子供なりに想定していた。
「もう一回」
戎はもう一度振った。
今度は少しよろけた。
だが、倒れない。
重心を戻した。
猛は目を細めた。
「誰に教わった」
戎は首を傾げた。
答えられない。
教わっていないからだ。
見ていただけ。
見て、覚えた。
猛は木刀を受け取った。
「今日は終わりだ」
「もう一回」
戎が言った。
珍しく、自分から求めた。
猛はその顔を見た。
幼い子供の顔だった。
けれど、その目には奇妙な静けさがあった。
恐れではない。
焦りでもない。
ただ、届かせたいという意思。
猛は息を吐いた。
「明日だ」
「明日?」
「ああ。明日、もう一回だ」
戎は少し考え、うなずいた。
那種が縁側からそれを見ていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、戎が戻ってくると、小さな手で戎の袖を掴んだ。
「かい」
「なぐ」
戎はそう返した。
名前になりきらない、幼い呼び方。
それでも、那種は満足そうにした。
猛は二人を見ていた。
片方には魔術の芽がある。
片方には剣の芽がある。
違う道だ。
けれど、二人の目が向いているものは同じだった。
守りたい。
近くにあるものを、失いたくない。
まだ言葉にもならないその感情が、二人の中で少しずつ形を持ち始めていた。
◇
澄乃は、二人を甘やかすだけの母ではなかった。
那種が戎を庇って嘘をついた時、最初に叱ったのは澄乃だった。
庭の水瓶を倒したのは戎だった。
那種はそれを見ていた。
猛が誰がやったと聞いた時、那種は自分の服の裾を握りしめて、小さく言った。
「なぐ」
自分がやった、と。
戎は横で固まっていた。
澄乃は那種の前に座った。
「那種」
声は穏やかだった。
けれど、いつもより少し低い。
「本当に、あなたがやったのですか」
那種は黙った。
戎が口を開きかける。
那種は戎の袖を掴んだ。
言うな、というように。
澄乃はその手を見た。
「庇うことと、嘘をつくことは違います」
那種は顔を上げた。
言葉の意味をすべて理解できたわけではない。
けれど、澄乃が大事なことを言っているのはわかった。
「大切な人を守りたいと思うのは、悪いことではありません」
澄乃は続けた。
「でも、嘘で守ると、その人も一緒に弱くなります」
那種は戎を見た。
戎は下を向いていた。
「戎」
澄乃が呼ぶ。
戎の肩が小さく揺れた。
「あなたが倒したのですね」
戎は少し黙ってから、うなずいた。
「うん」
「どうして言わなかったのですか」
「なぐが」
「那種が言うなと言いましたか」
戎は首を横に振った。
「なぐ、怒られる」
「だから黙っていたのですね」
「うん」
澄乃は二人を見た。
それから、深く息を吐いた。
「二人とも、こちらへ」
二人は並んで座った。
澄乃は二人の頭に軽く手を置いた。
叩きはしなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、しっかりと目を見た。
「悪いことをしたら、言いなさい。間違えたら、謝りなさい。誰かを守りたいなら、まず自分が正しく立ちなさい」
那種は澄乃を見つめた。
戎も見ていた。
「それができないまま強くなっても、きっと大切な人を傷つけます」
幼い二人には難しい言葉だった。
けれど、澄乃の声は残った。
後に二人がどれほど強くなっても、どれほど大きな力を持っても、この時の声はどこかに残り続ける。
守りたいなら、正しく立ちなさい。
それは、剣の家に生きる母の言葉だった。
◇
季節は何度か巡った。
那種は少しずつ背が伸び、戎も木刀を握る時間が増えた。
那種は戎の稽古を見るのが好きだった。
戎は那種が台所で澄乃の手伝いをしている間、庭に木刀で線を引いていた。
二人はいつも一緒だった。
だが、同じことをしているわけではない。
那種は物事を広く見る。
鳥の声、草の揺れ、火の明るさ、人の表情。小さな変化に気づき、それをじっと見つめる。
戎は一点を見る。
相手の足、手の位置、呼吸、距離。幼いながら、必要なものへ目を絞る。
猛は戎に基本の足運びを教え始めた。
まだ稽古と呼ぶほどのものではない。
遊びに近い。
だが、戎は真面目にやった。
何度転んでも立った。
那種はそれを見ていた。
そして時々、自分も同じ足運びを真似した。
当然、うまくいかない。
戎よりさらに小柄な那種は、すぐに転ぶ。
戎が手を伸ばす。
那種はその手を取る。
「那種は、剣じゃないかもな」
ある日、猛が言った。
那種は首を傾げた。
「剣、だめ?」
「だめじゃない」
猛は答えた。
「ただ、お前には別のものがある」
「別のもの?」
「ああ」
那種は自分の手を見た。
そこに何かが見えるわけではない。
けれど、猛の言葉は彼女の中に小さく残った。
別のもの。
剣ではない何か。
それが何なのか、まだ誰にもわからなかった。
ただ澄乃だけは、那種が時折見せる未制御の魔力の揺らぎを、少し不安そうに見ていた。
そして猛もまた、それに気づいていた。
◇
夜。
子供たちが眠った後、猛と澄乃は台所の隅で向かい合っていた。
火は小さく落としてある。
外では風が鳴っている。
道場の方からは、遅くまで残っていた門下生が片づけをする音が聞こえていた。
「那種のことだが」
猛が切り出した。
澄乃は湯呑を置いた。
「はい」
「この家で育てる。守る。それは変わらん」
「はい」
「だが、魔術は俺の専門じゃない」
「わかっています」
「下手に押さえ込めば、あいつを壊すかもしれん」
猛は低く言った。
「逆に放っておいても危ない」
「そうですね」
「いずれ、魔術師に見せる必要がある」
澄乃はすぐには答えなかった。
目を伏せ、指先で湯呑の縁をなぞる。
「手放す、ということですか」
「違う」
猛の声が少し強くなった。
「手放す気はない」
「なら、いいです」
「だが、学ばせる場所は必要かもしれん」
澄乃は那種と戎が眠る部屋の方を見た。
襖の向こうで、小さな寝息が二つ重なっている。
「那種は、戎から離れたがらないでしょうね」
「ああ」
「戎も、那種がいなければ落ち着かないでしょう」
「ああ」
「でも、あの子に才があるなら、才を持って生まれたことまで不幸にしてはいけません」
猛は黙った。
「守ることと、閉じ込めることは違います」
澄乃は穏やかに言った。
「あなたはきっと、守ろうとするあまり、全部この家の中に置きたくなる」
「悪いか」
「悪くはありません」
澄乃は少し笑った。
「でも、あなた一人で全部はできません」
猛は顔をしかめた。
言い返したかった。
だが、言い返せなかった。
事実だったからだ。
本条猛は強い。
剣士としても、父としても、決して弱い男ではない。
だが、強いことと、何でもできることは違う。
「急ぐ必要はありません」
澄乃は言った。
「まだ幼いです。今は、ここが家だと教えることが先です」
「家か」
「はい」
澄乃は柔らかく微笑んだ。
「外に出る日が来るとしても、帰る場所があれば、子供は歩けます」
猛は襖の方を見た。
那種と戎は眠っている。
那種の手は、戎の袖を掴んでいる。
戎の手は、その上に重なっている。
拾った時と、何も変わっていないように見えた。
だが、確かに変わっていた。
二人はもう、灰の中にいた子供ではない。
本条の家で飯を食べ、叱られ、眠り、名前を呼ばれて育つ子供になっていた。
「帰る場所、か」
猛は呟いた。
「そうです」
澄乃は頷いた。
「この家は、そのためにあります」
◇
その頃、襖の向こうで那種は目を覚ましていた。
大人たちの話の意味は、ほとんどわからない。
魔術。
才。
学ばせる場所。
難しい言葉ばかりだった。
ただ、ひとつだけわかった。
いつか、どこかへ行く話をしている。
那種は隣を見た。
戎が眠っている。
静かな寝息。
小さな手。
那種はその袖を握り直した。
行く、ということが何なのか、まだ知らない。
離れる、ということも知らない。
けれど、袖を握っていると少し安心した。
戎がいれば怖くない。
そう思った。
隣で、戎がわずかに身じろぎした。
眠ったまま、那種の手に触れる。
那種は目を閉じた。
母屋の外では、冬の風が道場の戸を揺らしている。
台所では、猛と澄乃が小さな声で話している。
火鉢の炭が、静かに赤く燃えている。
ここは、本条の家だった。
剣の家。
澄乃のいる家。
猛が帰ってくる家。
那種と戎が、初めて自分たちの場所として覚えた家。
この家には、まだ三人目の子はいない。
後に妹と呼ぶことになる少女も、まだこの戸をくぐってはいない。
別れも、喪失も、まだ少しだけ先にある。
だからこの夜だけは、ただ静かだった。
那種は戎の袖を握ったまま眠った。
戎は眠りながら、その手を離さなかった。
灰の中から始まった二つの命は、ようやくひとつの家に根を下ろし始めていた。




