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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
本条の家と、奪われた名

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第1章 第02話『本条の家』

第一章 第二話 本条の家


 本条猛が二つの命を抱えて帰ってきた時、本条家の門は半ば凍りついていた。


 夜だった。


 村を出た時、空にはまだ灰混じりの雪が舞っていた。だが本条家へ着く頃には、それも止んでいた。


 雪は止んでいたが、空気は冷え切っている。道場の屋根には薄く白いものが積もり、軒先から垂れた氷が、月明かりを受けて鈍く光っていた。


 猛の外套は灰と煤で汚れていた。


 肩には魔獣の血が乾き、袖口には従魔人の刃を受けた裂け目がある。顔にも浅い傷が走っていたが、猛自身はそれを気にしていなかった。


 気にしている余裕がなかった。


 両腕の中に、赤子が二人いたからだ。


 一人は黒髪の男の子。


 もう一人は、銀白に近い髪を持つ女の子。


 二人とも冷えきっていた。息はある。鼓動もある。だが、あまりにも小さく、あまりにも軽い。猛が少し腕に力を込めれば、そのまま折れてしまいそうだった。


「先生!」


 門番代わりに残っていた若い門下生が、猛に気づいて駆け寄った。


「お戻りでしたか。負傷者は――」


 そこまで言って、門下生は目を見開いた。


 猛の腕の中にいる二人を見たからだ。


「……子供、ですか」


「湯を沸かせ」


 猛は短く言った。


「はい?」


「湯だ。あと布。できるだけ柔らかいものを持ってこい。すぐにだ」


「は、はい!」


 若い門下生が慌てて走っていく。


 猛はその背を見送らず、母屋へ向かった。


 本条家は道場を構える家である。


 表から見れば、剣の家だった。


 朝には木刀の音が響き、昼には門下生が汗を流し、夜には静かな呼吸と踏み込みだけが残る。実戦剣術としての本条流を継ぐ家。荒ぶるものを鎮めるための剣、本条鎮剣を祖に持つ家。


 だが、その奥には普通の家があった。


 火鉢があり、台所があり、布団があり、冬の夜には薬草を煮る匂いがする。


 その家の障子が、静かに開いた。


「あなた」


 灯を持って出てきた女性がいた。


 本条澄乃。


 猛の妻である。


 年は猛より少し若い。細い肩をしていたが、弱々しい印象はなかった。声は穏やかで、目元も柔らかい。だが、その奥には簡単には折れない芯があった。


 澄乃は猛の姿を見て、まず傷を見た。


 次に、外套の汚れを見た。


 最後に、腕の中の二人を見た。


「……その子たちは?」


「生きてた」


 猛はそれだけ言った。


 澄乃はしばらく黙った。


 普通なら、問いただすところだった。


 どこの子か。


 親はどうしたのか。


 なぜ連れてきたのか。


 この家で育てるつもりなのか。


 聞くべきことはいくらでもあった。


 だが、澄乃は何も聞かなかった。


 赤子の唇が紫がかっていることに気づいたからだ。


「中へ」


 澄乃は障子を大きく開けた。


「湯を用意します。あなたは先に火のそばへ。いいですか、濡れた外套のまま抱いていてはいけません」


「わかった」


「怪我は?」


「浅い」


「後で見ます」


「子供が先だ」


「もちろんです」


 澄乃は静かに答えた。


 その声に、猛はほんの少しだけ息を吐いた。


 戦場から帰ってきた時、猛はいつも、この声で現実に戻される。


 剣を振っていた場所から、家へ戻される。


 その夜、本条家は眠らなかった。


 門下生たちは湯を沸かし、布を運び、薬草を探し、台所と座敷を何度も往復した。澄乃は赤子たちの身体を温め、煤と血の匂いを拭い、冷えた手足を何度も包んだ。


 黒髪の男の子は、途中で力なく泣いた。


 泣けるならまだいい、と澄乃は言った。


 銀白の髪の女の子は、ほとんど泣かなかった。


 ただ、黒髪の子の布を握っていた。


「離れませんね」


 澄乃が言った。


「ああ」


「この子の方が、少し大きいでしょうか」


「たぶんな」


「兄妹ではないかもしれません」


「だろうな」


「でも、離したら泣きそうです」


「泣いてないが」


「泣く前の顔です」


 澄乃はそう言って、銀白の髪の子の頬をそっと撫でた。


 その子は、ぼんやりと澄乃を見た。


 焦点が合っているのかどうかもわからない。けれど、その小さな指は、まだ黒髪の男の子の布を握っている。


「大丈夫ですよ」


 澄乃は小さく囁いた。


「ここは寒くありません。怖いものも、今は来ません。だから、少し眠りなさい」


 言葉の意味は伝わっていないはずだった。


 それでも、銀白の髪の子は、ほんのわずかにまぶたを落とした。


 黒髪の子が泣き止む。


 二人は、同じ布の上で眠った。


 猛はその様子を見て、黙っていた。


 澄乃は二人に布団をかけ、火鉢の位置を調整した。


「あなた」


「何だ」


「名前は?」


「まだない」


「そうですか」


「村の記録を調べる。残っているものがあれば、そこから拾う」


「はい」


「なければ、俺がつける」


「はい」


「……育てるぞ」


 猛は、ようやくそれを口にした。


 澄乃は少しだけ目を細めた。


「そう言うと思いました」


「反対しないのか」


「反対したら、あなたはこの子たちを捨てに戻るのですか?」


「戻らん」


「なら、反対するだけ無駄です」


 猛は言葉に詰まった。


 澄乃は静かに笑った。


「生きていたのでしょう」


「ああ」


「あなたが見つけたのでしょう」


「ああ」


「なら、ここまで来た時点で、もううちの子です」


 その言葉は、軽くなかった。


 澄乃は命を預かる重さを知っている。


 子を育てることが、ただ可愛がることではないと知っている。食わせ、洗い、寝かせ、叱り、守り、時には嫌われることも含めて引き受けることだと知っている。


 それでも彼女は言った。


 うちの子です、と。


 猛は顔を伏せた。


「……悪いな」


「謝ることではありません」


「苦労をかける」


「それは、もう慣れています」


「おい」


「本当のことです」


 澄乃は穏やかに言った。


 その声があまりにも柔らかいので、猛は何も言い返せなかった。


 火鉢の炭が小さく爆ぜる。


 外では、門下生たちがまだ落ち着かない足音を立てていた。


 座敷の中央では、二つの命が眠っている。


 その夜から、本条家には子供が二人増えた。


     ◇


 数日後、黒髪の男の子は、戎と名づけられた。


 本条戎。


 荒ぶるものに向き合い、災いの刃を受け止める名。


 銀白の髪の女の子は、那種と名づけられた。


 失われた村の記録と、包まれていた布に残っていた古い刺繍から、猛と澄乃が拾い上げた名だった。


 那種は、戎より少しだけ年上だった。


 年上といっても、まだ一歳にも満たない。けれど、二人を並べると、那種の方が少しだけ先に周囲を見る。先に手を伸ばす。先に戎の泣き声に気づく。


 戎は、夜によく泣いた。


 声は大きくない。


 むしろ小さく、細く、喉の奥から絞るような泣き方だった。


 それが澄乃にはかえって痛々しかった。


 澄乃が抱くと、少し落ち着く。


 猛が抱くと、最初はさらに泣く。


 門下生が抱くと、泣き疲れて眠る。


 だが、一番早く泣き止むのは、那種のそばに置いた時だった。


 那種はまだ歩けない。


 それでも、戎の泣き声が聞こえると、布団の中で小さく身じろぎする。手を伸ばし、戎の服の端を掴む。指に力などほとんどない。だが、その手が触れると、戎の呼吸が少しだけ整う。


「不思議ですね」


 澄乃は何度もそう言った。


 猛は腕を組んで、難しい顔をした。


「最初からああだった」


「見つけた時から?」


「ああ。こいつは戎の布を離さなかった」


「守っていたのでしょうか」


「わからん」


「でも、離したくなかったのでしょうね」


 澄乃は那種の頭を撫でた。


 那種は目を閉じている。


 戎も眠っている。


 二人の手だけが、布団の中で触れ合っていた。


「この子たちにとっては、最初から互いが目印なのかもしれません」


「目印?」


「生きていることの」


 澄乃はそう言った。


 猛は黙った。


 戦場で拾った二つの命。


 焼けた村。


 雪と灰。


 亡くなった者たち。


 それらを思い出すと、猛の胸には今でも硬いものが残る。


 もっと早く着いていれば。


 別の判断をしていれば。


 誰かをもう一人でも救えたのではないか。


 そういう思いは消えない。


 けれど、目の前で眠る二人を見ていると、消えないままでもいいのだと思えた。


 後悔があるから、次は遅れない。


 守れなかった命があるから、今ここにある命を守る。


 それだけのことだった。


     ◇


 本条家の朝は早い。


 まだ空が青黒いうちに、道場の床が乾拭きされる。


 門下生たちは眠そうな顔で集まり、寒い日には白い息を吐きながら素振りを始める。猛の号令が飛ぶ。木刀が空気を打つ。足が床を踏む。冬ならば、音は硬く響く。夏ならば、汗の匂いと土の匂いが混じる。


 その家で、那種と戎は育った。


 最初の数年は、剣よりも飯と寝床の記憶の方が多い。


 澄乃が作る粥。


 火鉢の近くに敷かれた布団。


 門下生たちがこっそり見に来て、澄乃に叱られる声。


 猛が不器用にあやそうとして、戎に泣かれる光景。


 那種が戎の袖を掴み、戎が那種の方へ転がっていく様子。


 本条家は騒がしくなった。


 稽古中に赤子の泣き声が響けば、門下生たちの集中が乱れる。


 猛は怒鳴る。


「泣き声で剣筋が乱れるようなら、戦場で何を聞いても死ぬぞ!」


 そう言いながら、稽古が終わると真っ先に座敷を覗きに来る。


 澄乃はそれを見て、何も言わずに笑った。


 那種が歩けるようになると、家の中はさらに忙しくなった。


 彼女は無口な子だった。


 だが、動かない子ではない。


 興味を持つと、じっと見る。長く見る。大人が忘れた頃に、ふらりと近づく。


 火鉢に手を伸ばそうとしたこともある。


 台所の水桶を覗き込んで落ちかけたこともある。


 道場の木刀を持ち上げようとして、重さに負けて倒れたこともある。


 そのたびに戎が後を追った。


 戎は那種より少し遅れて歩き始めたが、追うことだけは早かった。


 那種が廊下の角を曲がる。


 戎が追う。


 那種が庭に出る。


 戎が追う。


 那種が転ぶ。


 戎も転ぶ。


 二人で泣く。


 澄乃が二人を抱き上げる。


 猛が遠くから見て、どうしてそうなる、と呟く。


 そういう日々が続いた。


 ある日、那種が戎を呼んだ。


「かい」


 舌足らずな声だった。


 戎は振り返った。


 澄乃は手を止めた。


 台所で野菜を切っていた刃が、板の上で小さく鳴った。


「今、呼びましたね」


 澄乃が言う。


 猛は縁側で刀の手入れをしていた。


「何を」


「戎の名前です」


「偶然だろ」


「いいえ。呼びました」


 澄乃はきっぱり言った。


 那種はもう一度、戎を見た。


「かい」


 戎が那種の方へ歩く。


 途中で足をもつれさせ、ぺたんと座り込む。


 那種は少し考え、自分から戎のそばへ行った。


 二人は廊下の真ん中で向かい合う。


 それから那種が、戎の袖を掴んだ。


 戎は泣かなかった。


 ただ、じっと那種を見ていた。


「ほら」


 澄乃が言った。


「呼びました」


 猛はしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ口元を緩めた。


「……そうか」


「嬉しいのですね」


「普通だ」


「そうですか」


「何だ、その顔は」


「いえ。普通なのですね」


 澄乃は笑った。


 猛は刀の手入れに戻ったが、その日、いつもよりずっと時間をかけていた。


     ◇


 那種の不思議な力に最初に気づいたのは、澄乃だった。


 冬の夕方。


 戎が庭先で転んだ。


 大きな怪我ではなかった。膝を少し擦りむいただけで、血もわずかだった。


 だが、戎は痛みよりも驚きで固まった。


 那種がそれを見て、息を呑んだ。


 次の瞬間、二人の周囲の空気が、ほんの少しだけ揺れた。


 火鉢を近づけたような暖かさではない。


 湯気が立つほどでもない。


 傷が塞がったわけでもない。


 ただ、冬の冷たい空気の中で、そこだけ薄い膜を張ったように、風の刺す感じが弱まった。


 澄乃は台所の戸口で立ち止まった。


「那種?」


 那種は自分の手を見ていた。


 何かをした自覚はないらしい。


 戎の膝の傷は治っていない。


 血はそのままだ。


 それは治癒ではなかった。


 熱を下げることも、傷を塞ぐこともできない。


 ただ、幼い那種の内側にある魔力が、心の揺れに合わせて外へ漏れただけだった。


 その後も、小さな出来事は何度かあった。


 那種が泣きそうになると、部屋の灯がわずかに揺れる。


 戎は、冷え込む夜に熱を出しやすい子だった。


 身体が弱い、というほどではない。


 日中は那種の後を追って転び、木刀を見れば手を伸ばし、庭へ出れば泥だらけになる。食べるものも食べるし、泣く時は泣く。


 ただ、冬の夜だけは違った。


 空気が深く冷え、道場の戸が風で鳴る夜になると、戎の身体は急に熱を持つことがあった。小さな額が火のように熱くなり、呼吸が浅くなり、眠りながら何かを探すように手を動かす。


 そんな時、那種は必ず起きた。


 まだ看病という言葉も知らない。


 薬も、水も、布を替えることもできない。


 それでも那種は、戎のそばへ寄っていった。布団の端を掴み、眠そうな目をこすりながら、戎の袖に手を伸ばす。


 戎は、その手に触れると少しだけ落ち着いた。


 熱が下がるわけではない。


 傷が治るわけでもない。


 それでも、荒かった呼吸がわずかに整い、握りしめていた小さな手が緩む。


 澄乃はそれを見て、何度も不思議そうに目を細めた。


 治癒ではない。


 那種に、そんな力があるわけではなかった。


 ただ、幼い那種の内側にある魔力が、心の揺れに合わせて外へ漏れ、戎の周囲に薄い膜のようなものを作っていた。


 冬の冷たい空気の中で、そこだけ風の刺す感じが弱まる。


 火鉢の火が、小さく鳴る。


 戎が少しだけ眠る。


 それだけのことだった。


 庭の隅に張っていた霜が、那種の指先の近くだけ薄く溶ける。


 奇跡ではない。


 治癒でもない。


 けれど、明らかに普通ではなかった。


 猛はその話を聞いて、眉間に皺を寄せた。


「魔術か」


「たぶん」


 澄乃は答えた。


「私には詳しいことはわかりません。でも、この子には何かがあります」


「本条の血じゃない」


「血の話ではありません」


「わかってる」


 猛は腕を組んだ。


 本条家は剣の家だ。


 魔術を知らないわけではない。戦場で魔術師と連携することもある。魔獣や魔族の術を相手にしたこともある。


 だが、魔術を育てる家ではない。


 魔術の才は、扱いを誤れば本人を傷つける。


 特に幼い子供の無意識の魔力は、周囲に影響を与えることがある。暴走すれば、本人だけでなく近くにいる者も危うい。


 猛は那種を見た。


 那種は戎の横で眠っている。


 片手は戎の袖を掴んだままだ。


「守るだけならできる」


 猛は低く言った。


「だが、伸ばせるかは別だな」


 澄乃は何も言わなかった。


 何も言わないことで、同じことを考えていると示していた。


 その夜、猛は長く眠らなかった。


     ◇


 戎の才に気づいたのは、猛だった。


 戎が三つになる頃である。


 その頃の戎は、あまり喋らない子だった。


 必要なことは言う。


 嫌なことは嫌な顔をする。


 那種に呼ばれれば行く。


 猛に叱られれば黙って聞く。


 だが、同じ年頃の子供のように、思いついたことを次々と口にすることは少なかった。


 代わりに、よく見ていた。


 道場の隅。


 縁側。


 柱の陰。


 どこかに座って、猛や門下生の稽古を見ている。


 子供が剣に憧れるのは珍しくない。


 門下生たちも最初はそう思っていた。


 だが、戎は木刀を振る格好を真似するのではなかった。


 足を見ていた。


 間合いを見ていた。


 相手の肩が動く前に、どちらへ踏み込むかを見ていた。


 ある朝、猛は戎に小さな木刀を持たせた。


 もちろん、子供用の軽いものだ。


 戎は両手でそれを握った。


 重そうだった。


 姿勢も崩れている。


 腕の力もない。


 刃筋など、あるはずもない。


「振ってみろ」


 猛が言った。


 戎は木刀を振った。


 当然、めちゃくちゃだった。


 門下生の一人が微笑ましそうに笑いかけた。


 だが、猛は笑わなかった。


 振り終わった後の戎の足が、半歩だけ前に出ていたからだ。


 ただ振ったのではない。


 届かせようとしていた。


 相手がいる位置を、子供なりに想定していた。


「もう一回」


 戎はもう一度振った。


 今度は少しよろけた。


 だが、倒れない。


 重心を戻した。


 猛は目を細めた。


「誰に教わった」


 戎は首を傾げた。


 答えられない。


 教わっていないからだ。


 見ていただけ。


 見て、覚えた。


 猛は木刀を受け取った。


「今日は終わりだ」


「もう一回」


 戎が言った。


 珍しく、自分から求めた。


 猛はその顔を見た。


 幼い子供の顔だった。


 けれど、その目には奇妙な静けさがあった。


 恐れではない。


 焦りでもない。


 ただ、届かせたいという意思。


 猛は息を吐いた。


「明日だ」


「明日?」


「ああ。明日、もう一回だ」


 戎は少し考え、うなずいた。


 那種が縁側からそれを見ていた。


 彼女は何も言わなかった。


 ただ、戎が戻ってくると、小さな手で戎の袖を掴んだ。


「かい」


「なぐ」


 戎はそう返した。


 名前になりきらない、幼い呼び方。


 それでも、那種は満足そうにした。


 猛は二人を見ていた。


 片方には魔術の芽がある。


 片方には剣の芽がある。


 違う道だ。


 けれど、二人の目が向いているものは同じだった。


 守りたい。


 近くにあるものを、失いたくない。


 まだ言葉にもならないその感情が、二人の中で少しずつ形を持ち始めていた。


     ◇


 澄乃は、二人を甘やかすだけの母ではなかった。


 那種が戎を庇って嘘をついた時、最初に叱ったのは澄乃だった。


 庭の水瓶を倒したのは戎だった。


 那種はそれを見ていた。


 猛が誰がやったと聞いた時、那種は自分の服の裾を握りしめて、小さく言った。


「なぐ」


 自分がやった、と。


 戎は横で固まっていた。


 澄乃は那種の前に座った。


「那種」


 声は穏やかだった。


 けれど、いつもより少し低い。


「本当に、あなたがやったのですか」


 那種は黙った。


 戎が口を開きかける。


 那種は戎の袖を掴んだ。


 言うな、というように。


 澄乃はその手を見た。


「庇うことと、嘘をつくことは違います」


 那種は顔を上げた。


 言葉の意味をすべて理解できたわけではない。


 けれど、澄乃が大事なことを言っているのはわかった。


「大切な人を守りたいと思うのは、悪いことではありません」


 澄乃は続けた。


「でも、嘘で守ると、その人も一緒に弱くなります」


 那種は戎を見た。


 戎は下を向いていた。


「戎」


 澄乃が呼ぶ。


 戎の肩が小さく揺れた。


「あなたが倒したのですね」


 戎は少し黙ってから、うなずいた。


「うん」


「どうして言わなかったのですか」


「なぐが」


「那種が言うなと言いましたか」


 戎は首を横に振った。


「なぐ、怒られる」


「だから黙っていたのですね」


「うん」


 澄乃は二人を見た。


 それから、深く息を吐いた。


「二人とも、こちらへ」


 二人は並んで座った。


 澄乃は二人の頭に軽く手を置いた。


 叩きはしなかった。


 怒鳴りもしなかった。


 ただ、しっかりと目を見た。


「悪いことをしたら、言いなさい。間違えたら、謝りなさい。誰かを守りたいなら、まず自分が正しく立ちなさい」


 那種は澄乃を見つめた。


 戎も見ていた。


「それができないまま強くなっても、きっと大切な人を傷つけます」


 幼い二人には難しい言葉だった。


 けれど、澄乃の声は残った。


 後に二人がどれほど強くなっても、どれほど大きな力を持っても、この時の声はどこかに残り続ける。


 守りたいなら、正しく立ちなさい。


 それは、剣の家に生きる母の言葉だった。


     ◇


 季節は何度か巡った。


 那種は少しずつ背が伸び、戎も木刀を握る時間が増えた。


 那種は戎の稽古を見るのが好きだった。


 戎は那種が台所で澄乃の手伝いをしている間、庭に木刀で線を引いていた。


 二人はいつも一緒だった。


 だが、同じことをしているわけではない。


 那種は物事を広く見る。


 鳥の声、草の揺れ、火の明るさ、人の表情。小さな変化に気づき、それをじっと見つめる。


 戎は一点を見る。


 相手の足、手の位置、呼吸、距離。幼いながら、必要なものへ目を絞る。


 猛は戎に基本の足運びを教え始めた。


 まだ稽古と呼ぶほどのものではない。


 遊びに近い。


 だが、戎は真面目にやった。


 何度転んでも立った。


 那種はそれを見ていた。


 そして時々、自分も同じ足運びを真似した。


 当然、うまくいかない。


 戎よりさらに小柄な那種は、すぐに転ぶ。


 戎が手を伸ばす。


 那種はその手を取る。


「那種は、剣じゃないかもな」


 ある日、猛が言った。


 那種は首を傾げた。


「剣、だめ?」


「だめじゃない」


 猛は答えた。


「ただ、お前には別のものがある」


「別のもの?」


「ああ」


 那種は自分の手を見た。


 そこに何かが見えるわけではない。


 けれど、猛の言葉は彼女の中に小さく残った。


 別のもの。


 剣ではない何か。


 それが何なのか、まだ誰にもわからなかった。


 ただ澄乃だけは、那種が時折見せる未制御の魔力の揺らぎを、少し不安そうに見ていた。


 そして猛もまた、それに気づいていた。


     ◇


 夜。


 子供たちが眠った後、猛と澄乃は台所の隅で向かい合っていた。


 火は小さく落としてある。


 外では風が鳴っている。


 道場の方からは、遅くまで残っていた門下生が片づけをする音が聞こえていた。


「那種のことだが」


 猛が切り出した。


 澄乃は湯呑を置いた。


「はい」


「この家で育てる。守る。それは変わらん」


「はい」


「だが、魔術は俺の専門じゃない」


「わかっています」


「下手に押さえ込めば、あいつを壊すかもしれん」


 猛は低く言った。


「逆に放っておいても危ない」


「そうですね」


「いずれ、魔術師に見せる必要がある」


 澄乃はすぐには答えなかった。


 目を伏せ、指先で湯呑の縁をなぞる。


「手放す、ということですか」


「違う」


 猛の声が少し強くなった。


「手放す気はない」


「なら、いいです」


「だが、学ばせる場所は必要かもしれん」


 澄乃は那種と戎が眠る部屋の方を見た。


 襖の向こうで、小さな寝息が二つ重なっている。


「那種は、戎から離れたがらないでしょうね」


「ああ」


「戎も、那種がいなければ落ち着かないでしょう」


「ああ」


「でも、あの子に才があるなら、才を持って生まれたことまで不幸にしてはいけません」


 猛は黙った。


「守ることと、閉じ込めることは違います」


 澄乃は穏やかに言った。


「あなたはきっと、守ろうとするあまり、全部この家の中に置きたくなる」


「悪いか」


「悪くはありません」


 澄乃は少し笑った。


「でも、あなた一人で全部はできません」


 猛は顔をしかめた。


 言い返したかった。


 だが、言い返せなかった。


 事実だったからだ。


 本条猛は強い。


 剣士としても、父としても、決して弱い男ではない。


 だが、強いことと、何でもできることは違う。


「急ぐ必要はありません」


 澄乃は言った。


「まだ幼いです。今は、ここが家だと教えることが先です」


「家か」


「はい」


 澄乃は柔らかく微笑んだ。


「外に出る日が来るとしても、帰る場所があれば、子供は歩けます」


 猛は襖の方を見た。


 那種と戎は眠っている。


 那種の手は、戎の袖を掴んでいる。


 戎の手は、その上に重なっている。


 拾った時と、何も変わっていないように見えた。


 だが、確かに変わっていた。


 二人はもう、灰の中にいた子供ではない。


 本条の家で飯を食べ、叱られ、眠り、名前を呼ばれて育つ子供になっていた。


「帰る場所、か」


 猛は呟いた。


「そうです」


 澄乃は頷いた。


「この家は、そのためにあります」


     ◇


 その頃、襖の向こうで那種は目を覚ましていた。


 大人たちの話の意味は、ほとんどわからない。


 魔術。


 才。


 学ばせる場所。


 難しい言葉ばかりだった。


 ただ、ひとつだけわかった。


 いつか、どこかへ行く話をしている。


 那種は隣を見た。


 戎が眠っている。


 静かな寝息。


 小さな手。


 那種はその袖を握り直した。


 行く、ということが何なのか、まだ知らない。


 離れる、ということも知らない。


 けれど、袖を握っていると少し安心した。


 戎がいれば怖くない。


 そう思った。


 隣で、戎がわずかに身じろぎした。


 眠ったまま、那種の手に触れる。


 那種は目を閉じた。


 母屋の外では、冬の風が道場の戸を揺らしている。


 台所では、猛と澄乃が小さな声で話している。


 火鉢の炭が、静かに赤く燃えている。


 ここは、本条の家だった。


 剣の家。


 澄乃のいる家。


 猛が帰ってくる家。


 那種と戎が、初めて自分たちの場所として覚えた家。


 この家には、まだ三人目の子はいない。


 後に妹と呼ぶことになる少女も、まだこの戸をくぐってはいない。


 別れも、喪失も、まだ少しだけ先にある。


 だからこの夜だけは、ただ静かだった。


 那種は戎の袖を握ったまま眠った。


 戎は眠りながら、その手を離さなかった。


 灰の中から始まった二つの命は、ようやくひとつの家に根を下ろし始めていた。

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