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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
本条の家と、奪われた名

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第1章 第01話『白銀の天盾』

第一章 第一話 白銀の天盾


 神崇皇国(しんすうこうこく)の王都には、三ヶ月に一度、空が白銀に染まる日がある。


 その日だけは、夜明け前から王都全域の鐘が鳴った。


 城壁の上では第一騎士団が隊列を組み、王都外縁の街道には第二、第三、第四騎士団の混成警備隊が展開している。第五騎士団は魔導砲台と補助結界装置の点検に追われ、第六騎士団は避難経路、補給路、癒療院への搬送路を封鎖するように守っていた。


 神崇皇国軍は大きく二つに分かれる。


 国土全域を守る六騎士団と、皇王直属の四師団である。


 第一騎士団は王都防衛を主任務とする常備軍であり、第二騎士団は国境守備、第三騎士団は機動展開、第四騎士団は魔獣討伐と辺境支援を担う。第五騎士団は魔導技術と兵装運用を専門とし、第六騎士団は補給、輸送、避難誘導など後方支援を統括していた。


 そして、その上位に位置するのが皇王直属の四師団である。


 皇宮近衛師団は皇王と皇宮を守る最強の盾。王城や中央結界塔、勇者グレイヴンゆかりの聖域までを守護する精鋭集団であり、国家中枢防衛の要だった。


 聖征師団は対魔族戦を専門とする討伐軍である。高位魔族、魔神眷属、災害級魔獣への対応を主任務とし、皇国最強の攻撃戦力として知られていた。


 境界調査師団は魔界との境界線を監視する観測組織である。魔素流、瘴気濃度、結界基盤、古代遺構、魔界侵食の兆候を調査し、皇国の未来を守るための情報を集め続けている。


 黒印局は表向き師団に数えられることは少ないが、実質的には皇王直属の第四組織だった。諜報、潜入、暗殺、対内防諜を担う影の部隊であり、その存在を知らぬ者も多い。


 皇宮近衛師団は王都中枢の防衛線を固めている。聖征師団は、万一、結界貼り直しの隙を突いて高位魔族が侵入した場合に備え、王都内外の要所へ分散配置されていた。境界調査師団は魔力濃度、魔素流、古い結界基盤の歪みを観測し、黒印局は姿を見せぬまま人の流れの裏に潜んでいる。


 これは祭りではない。


 だが、王都の民にとっては、祭りに近い日でもあった。


 子供たちは親に手を引かれ、広場や屋上、橋の上へ集まる。商人は店先に小さな白銀の飾りを吊るし、老いた者たちは胸元で祈りの印を結ぶ。初めてこの日を迎える若い騎士は、緊張を隠しきれず、古参の騎士に肩を叩かれていた。


 王都広域防護結界《白銀の天盾(はくぎんのてんじゅん)》。


 それは神崇皇国の王都を覆う、巨大な守護の天蓋である。


 神崇皇国――対外的にはレイスフィア皇国と呼ばれるこの国は、人類圏の中でも最も魔界に近い城塞国家だった。かつてこの地は、九大魔族の一角、炎氷魔神ヴォルガルに支配されていた。勇者グレイヴンがその魔神を討ち、奪還した土地に国を築いた。それが神崇皇国の始まりである。


 この国は、豊かさだけで成り立っているのではない。


 この国は、常に魔族領と向き合っている。


 魔族、魔獣、従魔人、魔界由来の遺構、瘴気、境界線の歪み。大陸アスタリオンにおける人類圏の最前線として、神崇皇国は戦い続けてきた。城壁を築き、騎士団を鍛え、皇王直属の精鋭を置き、暗部を抱え、調査部隊を育て、魔導技術を磨き続けてきた。


 それでも、王都だけは落としてはならない。


 皇王がいるからではない。


 皇族がいるからでもない。


 中央記録院があり、癒療院(ゆりょういん)があり、工装院があり、軍の中枢があり、避難民を受け入れる施設があり、国の象徴たる聖域があるからだ。


 そして何より、王都が崩れれば、神崇皇国という防波堤そのものが崩れる。


 だから天盾(てんじゅん)が必要だった。


 王都全域を覆い、空からの侵入を拒み、魔素汚染を減衰させ、高位魔族の転移、呪詛、広域魔術を受け流す白銀の天蓋。それは神崇皇国の誇りであり、同時に、この国がどれほど危険な場所に立っているかを示す証でもあった。


 その天盾の中心に、一人の女性が立っている。


 中央結界塔の最上層。


 白い石床に刻まれた幾重もの術式環の中央で、樹 那種(いつき なぐさ)は静かに目を閉じていた。


 公務上の名は、樹 那種。


 本名は、本条 那種。


 年齢は二十七。


 皇王直属、皇宮近衛師団長。


 白銀の長い髪は、魔素の流れを受けて水中の絹のように浮き上がっていた。金色の瞳は閉ざされているが、そのまぶたの裏で膨大な術式が組み替えられていることを、近くにいる者たちは知っている。


 樹那種の黒華装が、淡い白銀の光を帯びていた。


 黒を基調とした師団長装束《黒華装(こっかそう)》。その内側には、彼女のために工装院が組み上げた魔導補助機構――《竜骸装》が組み込まれている。


 竜骸装(りゅうがいそう)


 その名だけを聞けば、竜の骸をそのまま身に纏う異形の装備を想像する者もいる。だが、実際のそれは違う。竜の骸そのものを移植した人工器官ではなく、竜由来素材、落鱗鉱(らくりんこう)、魔導工学、そして工装院の技術を組み合わせて作られた、密着型の補助装備である。


 落鱗鉱とは、竜帝アギトに由来する鱗片や魔素が鉱化した希少素材であり、白銀魔素との親和性が極めて高い。通常の金属のようにただ硬いだけではなく、魔素を受け止め、流し、安定させる性質を持つ。


 樹那種の力は、普通の魔術師のそれとは仕組みが異なる。


 魔力とは、術者個人の内側に宿る力である。


 魔素とは、世界や土地、身体、術式の間を巡る魔術的な流れであり、魔術を現象として成立させるための媒質に近い。


 多くの魔術師は、自身の魔力を術式へ流し、周囲の魔素に干渉して魔術を発動する。


 だが樹那種の場合、その過程が根本から異なっていた。


 彼女の魔力は、竜帝アギトとの契約によって刻まれた《竜帝刻》を経由し、白銀の魔素へと変換される。その白銀魔素を安定して巡らせ、放出し、術式へ渡すために、黒華装には竜骸装の基幹部が組み込まれていた。


 それは、那種の身体に生えた器官ではない。


 外界の魔素を勝手に取り込み、体内で精製する装置でもない。


 彼女自身の魔力を竜帝刻が白銀魔素へ変え、その白銀魔素を、装備が受け止め、整え、逃がし、必要な術式へ流す。竜骸装とは、そのための補助機構だった。


 今、その竜骸装が高出力状態へ移行していた。


 黒華装の背部に組み込まれた落鱗鉱製の導路が、衣装越しにも淡い白銀光を滲ませている。背中の意匠として設けられた開口部からは、内部を走る魔導補助機構の光がわずかに覗き、その輝きが呼吸に合わせるように明滅していた。


 白銀魔素は那種の体内から生み出される。


 竜骸装はそれを受け止め、過負荷なく循環させ、術式へ送り出すための制御装置だ。出力が上がれば上がるほど導路を流れる魔素量も増え、その結果として光が外へ漏れ出す。


 美しい、という言葉だけでは足りなかった。


 あまりにも静かで、あまりにも強く、そしてあまりにも危うい。


 人々は彼女を、銀華(ぎんか)と呼ぶ。


 白銀の魔術を咲かせ、皇国を守る花。


 だが、その花が三ヶ月に一度、己の魔力と魔素循環を削りながら王都全域を覆う天盾を貼り直していることを、すべての民が正しく知っているわけではない。


 知っている者たちは、黙っていた。


 黙って、守っていた。


 結界塔の外周では、皇宮近衛師団の冠位騎士たちが立っている。さらにその外側に聖征師団の精鋭が配され、境界調査師団の術師たちが観測器を睨み、黒印局の者たちは影に紛れていた。


 そのすべての輪の、一番内側。


 那種のすぐ後ろに、本条 戎(ほんじょう かい)がいた。


 二十六歳。


 皇王直属、聖征師団長。


 異名は黒刃(こくじん)


 黒髪を短く整え、腰には刀を佩いている。鎧は過度な装飾を持たず、ただ必要な強度と可動性を備えていた。立っているだけで、そこに抜き身の刃が置かれているような男だった。


 戎は何も言わない。


 天盾の貼り直しに、彼の刀は必要ない。


 術式の構築にも、魔素流の制御にも、彼は手を出せない。


 だが、もしこの瞬間に何かが那種へ届こうとするなら、彼は必ず斬る。


 魔族であろうと、呪詛であろうと、術式の暴走であろうと、視認できるものも、できないものも、斬れる形にして斬る。


 戎がそこにいる意味は、それだけで十分だった。


「術式第一層、安定」


 境界調査師団の術師が低く告げた。


「第二層、旧天盾から新天盾へ転写開始」


「王都外縁、異常なし」


「魔素濃度、許容範囲」


「皇宮区、全門封鎖完了」


 報告が次々に重なる。


 那種は目を開いた。


 金色の瞳が、白銀の光を映す。


「始めます」


 声は大きくない。


 だが、その一言で、結界塔の空気が変わった。


 白い石床に刻まれた術式が、外縁から順に灯っていく。ひとつ、ふたつ、十、百、千。幾何学の線が花弁のように開き、塔の外へ、皇宮の上へ、王都全域へと伸びていく。


 空に、白銀の亀裂が入った。


 いや、亀裂ではない。


 古い天盾が剥がれ、新しい天盾がその下から展開しているのだ。


 王都中の人々が息を呑んだ。


 青空の奥に、薄い白銀の膜が広がっていく。朝の光を受けたそれは、ただの結界ではなく、巨大な翼の内側のようにも、竜の鱗を敷き詰めた天蓋のようにも見えた。


 子供が歓声を上げる。


 誰かが祈る。


 老騎士が兜を脱ぎ、深く頭を垂れる。


 王都は、白銀に包まれていく。


 那種の足元で、術式が一段深く沈んだ。


 彼女の背から、白銀の魔素が噴き上がる。髪が舞い上がり、黒い装束の裾が揺れた。身体の奥にある魔力が、竜帝刻を通じて魔素へ変換され、王都全域へ送られていく。


 それは本来、人一人で背負う規模ではない。


 王都という巨大な都市、その空、その壁、その地下、その聖域、その民、その軍。そのすべてを覆う結界を、ただ一人の女性を基点として貼り直している。


 だからこそ皇王アルヴィスは、これを国家の課題として見ていた。


 属人的すぎる。


 樹那種に頼りすぎている。


 だが、現時点で、彼女ほど白銀の天盾を扱える者はいない。


 それが現実だった。


「那種」


 戎が、短く呼んだ。


 那種は振り返らない。


「大丈夫」


 返る声は、いつも通りだった。


 いつも通り、だから戎は少しだけ眉を動かした。


 いつも通りの声を出せる時ほど、この妻は無理をしている。


「まだ、いける」


「知ってる」


 戎は静かに言った。


「だから、倒れる前に終わらせろ」


「うん」


 ほんのわずかに、那種の口元が緩んだ。


 結界塔の内側で、それに気づいた者は少ない。だが戎だけは見ていた。彼女が任務中にほとんど表情を動かさないことも、家族の前では無意識に柔らかくなることも、彼は誰より知っている。


 白銀の光が、一気に王都の端まで走った。


 古い天盾が砕ける。


 新しい天盾が閉じる。


 その瞬間、空全体が一度だけ輝いた。


 王都が、昼より明るくなった。


 誰もが空を見上げていた。


 そして次の瞬間、音が戻った。


 鐘。


 歓声。


 祈り。


 騎士たちの号令。


 術師たちの安堵の息。


 王都全域を覆う白銀の天盾は、再び完成した。


 だが、その白銀の膜は長く空に残らない。


 完成を示すように数秒だけ空を覆った後、天盾はゆっくりと透明化していく。


 白銀の鱗にも似た光は薄れ、巨大な翼のような輪郭も消え、やがて青空だけが残った。


 結界そのものが消えたわけではない。


 むしろ逆だ。


 完全に安定したことで、外から視認できない状態へ移行したのである。


 王都を守る天蓋は今もそこにある。


 だが普段、人々の目には見えない。


 三ヶ月に一度の貼り直しの日だけが、その存在を直接見ることのできる特別な瞬間だった。


「貼り直し、完了」


 境界調査師団の長が告げる。


「王都広域防護結界《白銀の天盾》、全層安定。異常なし」


 その報告が響いた時、那種の膝がわずかに折れた。


 倒れる前に、戎の腕が彼女を支えた。


 誰も騒がない。


 この場にいる者たちは知っている。


 貼り直し直後の那種は、魔力も、魔素循環も、気力も、ほとんど空になる。完全に戻るまでには数日を要する。王命により、貼り直し後の一週間は休養期間とされ、戎は専属随行としてそばにつく。


 それは甘やかしではない。


 皇国中枢の安全管理であり、結界維持者の保護であり、国家防衛の一部だった。


 もっとも、那種本人は少しだけ不満そうにすることが多い。


 仕事が残っている、と言う。


 まだ動ける、と言う。


 そして戎に静かに見られて、最終的に黙る。


 今日も同じだった。


「戎」


「何だ」


「少しだけ、立てる」


「立たなくていい」


「師団長として」


「休め」


「……まだ何も言ってない」


「顔に書いてある」


 那種は、ほんのわずかに目を細めた。


「私、そんなに顔に出る?」


「俺にはな」


 その言葉に、那種は黙った。


 少しだけ悔しそうで、少しだけ嬉しそうだった。


 皇王アルヴィスが歩み寄る。まだ若い皇王でありながら、その顔には国を背負う者の疲労と覚悟が刻まれていた。後ろには宰相エヴァートン・ゲイルが控えている。老宰相はいつもの柔らかな目をしていたが、その奥には鋭い観察の光があった。


「樹師団長」


 アルヴィスが言った。


「見事だった。王都は、また三ヶ月を得た」


 那種は戎の腕の中で姿勢を正そうとした。


 戎が支えたまま、少しだけ力を込める。


 立礼は許す。倒れるほどの無理は許さない。


 那種はそれを理解し、最低限の姿勢だけ整えた。


「陛下の御前で、失礼いたします」


「構わない。むしろそのままでいろ」


 アルヴィスは少しだけ苦く笑った。


「命令だ。今日から一週間、樹師団長は休養。本条師団長は随行。これはすでに王命として発令済みだ」


「承知しております」


「ならいい」


 そこで皇王は、戎へ目を向けた。


「本条」


「はい」


「連れて帰れ。今回は、二日目に執務室へ戻ろうとしたら止めろ」


「止めます」


「三日目でも止めろ」


「止めます」


「五日目なら?」


「内容次第で止めます」


 アルヴィスは満足そうにうなずいた。


「よし」


 那種は不服そうに戎を見た。


「戎」


「何だ」


「五日目は少し相談して」


「内容次第だ」


「……厳しい」


「いつも通りだ」


 そのやり取りを聞いて、エヴァートンが小さく笑った。


「本条夫妻がいつも通りで、何よりですな」


 近くにいた若い文官が、どう反応すればいいのかわからず目を泳がせている。古参の騎士たちは見ないふりをした。見ないふりをしながら、明らかに安心していた。


 本条夫妻だから。


 それで済むことが、皇宮にはいくつもある。


 那種は戎に支えられながら、結界塔の外へ目を向けた。


 先ほどまで空を覆っていた白銀の光は、すでに消えている。


 だが、その見えない天盾の存在を知るように、人々はまだ空を見上げていた。


 民が見上げている。


 子供が笑っている。


 兵が胸を張っている。


 その光景を見た瞬間、那種の表情がほんの少しだけ変わった。


 誇りではない。


 安堵だった。


 守れた。


 今日も、守れた。


 戎はその横顔を見ていた。


 そして、ふと思う。


 この女は、昔からそうだった。


 自分のことより、誰かを守ることを先に考える。


 何も持っていなかった頃から。


 名前も、家も、未来も、何ひとつ確かではなかった頃から。


 白銀の天盾が王都を覆う。


 その光の下で、戎の記憶は遠い日に沈んでいった。


 まだ二人が、銀華でも黒刃でもなかった頃。


 樹那種でも、本条戎でもなかった頃。


 戦火の跡に残された、ただの小さな命だった頃へ。


     ◇


 最初にあったのは、音だった。


 剣戟ではない。


 勝鬨でもない。


 泣き声だった。


 燃え落ちた村の端で、赤子が泣いていた。


 空は灰色で、雪とも灰ともつかないものが降っていた。家屋は半ば焼け、井戸の周囲には崩れた荷車が倒れている。遠くではまだ燻る火の匂いがし、魔獣の爪痕が地面に残っていた。


 そこは、神崇皇国の辺境にある小さな集落だった。


 魔族の大軍が攻めたわけではない。


 歴史に残る戦役でもない。


 ただ、境界線近くでは珍しくもない、小規模な襲撃だった。


 魔獣が流れ込み、従魔人が紛れ、村が焼かれ、守備隊が間に合わなかった。


 従魔人(じゅうまじん)


 それは魔族そのものではない。


 魔族に従属し、その力や瘴気の影響を受けて変質した人間や亜人の総称である。自ら魔族へ忠誠を誓った者もいれば、力を求めて堕ちた者、呪いや契約によって縛られた者もいる。高位魔族の軍勢に比べれば脅威は小さいが、人の社会や集落へ紛れ込みやすく、境界地帯では古くから厄介な存在として恐れられていた。


 この襲撃もまた、そうした従魔人たちが魔獣を誘導し、小さな集落を襲った事件の一つに過ぎない。


 記録には、そう残る。


 だが、記録に残らないものがある。


 誰が最後まで扉を押さえていたのか。


 誰が子供を隠したのか。


 誰が逃げられずに名前を呼んだのか。


 誰が最後に、赤子を抱いて祈ったのか。


 そういうものは、記録に残らない。


 残らないまま、灰の下へ沈む。


 本条 猛(ほんじょう たける)がその村に着いた時、生きている者はほとんどいなかった。


 当時の猛は三十代半ば。神崇皇国軍聖征師団所属の冠位騎士であり、本条流宗家当主として辺境防衛任務にも従事していた。後年、聖征師団長へ昇進し、「鬼神」とまで称される男だが、この頃はまだ一介の現場指揮官に過ぎない。


 それでも、その名はすでに軍内で知られていた。


 本条流――古の葦の国(あしのくに)に伝わる本条鎮剣を源流とする実戦剣術。その正統継承者として、猛は若くして数々の魔獣討伐と境界戦を生き抜いていた。荒ぶるものを鎮めるための剣。その理念を誰より愚直に貫く男だった。


 だが、その日、彼が背負っていたのは名誉でも武名でもない。


 遅れた、という苦い事実だった。


 本来ならば、この集落を巡回する予定だった。


 境界線付近で魔獣の動きが活発化しているという報告も受けていた。


 だからこそ増援要請を出し、自らも向かっていた。


 しかし別地点で発生した従魔人討伐任務への対応が重なり、到着は半日以上遅れた。


 その結果が、この有様だった。


 焼け落ちた家々。


 倒れた柵。


 雪と灰に埋もれた亡骸。


 守れなかった命。


 猛は奥歯を噛み締めた。


 戦場では珍しくない光景だ。


 辺境では日常の延長ですらある。


 それでも慣れることなどできなかった。


 彼は生存者を探して歩いた。


 崩れた家屋をどかし、焼け残った納屋を開け、雪と灰に埋もれた道を進む。


 そして、泣き声を聞いた。


 一人ではなかった。


 焼けた家の裏、石垣の陰。


 布に包まれた赤子が二人いた。


 一人は、黒い髪の男の子だった。まだ生まれて間もない。泣き疲れたのか、声はかすれ、手足は冷えきっている。それでも、小さな拳を握っていた。


 もう一人は、銀白に近い薄い髪を持つ女の子だった。こちらは男の子より少しだけ大きい。歳にすれば一つにも満たない。泣いてはいなかった。ただ、男の子の布を、小さな手で握っていた。


 守っていたのか。


 縋っていたのか。


 そんなことは、わからない。


 だが猛には、その手をほどく気になれなかった。


「……生きてるな」


 猛は膝をついた。


 周囲を確認する。魔獣の気配は遠い。従魔人の残滓も薄い。だが、ここに長く留まるのは危険だった。


 黒髪の赤子が、か細く泣いた。


 銀白の髪の子が、そちらを見た。


 その目は、不思議な色をしていた。


 まだ幼すぎて焦点も定まらないはずなのに、彼女は泣いている赤子を見て、それから猛を見た。


 まるで、問いかけるように。


 この子を、連れていくのか。


 この子を、置いていかないか。


 猛は喉の奥で息を吐いた。


「置いていくわけがあるか」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


 彼は二人を抱き上げた。


 片腕に黒髪の赤子。


 もう片腕に銀白の髪の子。


 どちらも軽かった。


 軽すぎた。


 命というものは、こんなに軽くていいのかと思うほどだった。


「よく生きてた」


 猛は低く言った。


「なら、生きろ。ここから先は、俺が連れていく」


 銀白の髪の子は、まだ男の子の布を握っていた。


 猛はその手を見て、少しだけ笑った。


「離したくないか」


 当然、返事はない。


 だが、その小さな手は離れなかった。


「わかった。なら、一緒だ」


 その日、二つの命は本条猛に拾われた。


 後に、黒髪の男の子は本条戎と名づけられる。


 戎。


 荒ぶるものに向き合い、災いの刃を受け止める名。


 銀白の髪の女の子は、那種と名づけられる。


 名の由来を猛は多く語らなかった。ただ、失われた村の記録と、彼女を包んでいた布に残されたわずかな手がかりから、その響きを拾ったのだという。


 まだ樹ではない。


 まだ銀華ではない。


 まだ竜帝契約者でも、皇宮近衛師団長でもない。


 ただの那種。


 そして、ただの戎。


 二人は本条の家へ連れてこられた。


     ◇


 本条家は、剣の家だった。


 だが、華やかな武門ではない。


 古の葦の国に由来する、本条鎮剣ほんじょう・しずめのつるぎ


 神を鎮めるために舞い、荒神を鎮めるために斬る古流。時代とともに神は遠くなり、儀礼の意味は薄れ、実戦剣術としての本条流が残った。間合い、呼吸、重心、歩法、抜刀、受け流し、崩し、残心。無駄を削ぎ、恐れを呑み、斬るべきものを斬るための剣。


 その家に、赤子が二人増えた。


 当然、道場は騒がしくなった。


 猛は厳格な男だったが、情の薄い男ではなかった。子を甘やかすだけの父ではない。だが、見るべきところはよく見ていた。泣けば抱き、熱が出れば眠らず看病し、腹が減れば不器用な手つきで粥を作った。


 最初のうち、戎はよく泣いた。


 身体が弱いわけではない。ただ、環境が変わったことに敏感だったのか、夜になると火が消える寸前のような声で泣いた。


 そのたびに、那種が起きた。


 まだ言葉もわからない。立つこともおぼつかない。それでも彼女は、戎のそばへ寄っていく。布団の端を掴み、よろけながら近づき、小さな手で戎の服を握る。


 すると、戎は少しだけ泣き止んだ。


 完全に泣き止むわけではない。


 だが、呼吸が落ち着く。


 那種もまた、戎のそばにいると眠った。


 猛はそれを見て、何度も頭を掻いた。


「お前ら、最初からそうなのか」


 返事はない。


 二人は並んで眠っている。


 黒髪の赤子と、銀白の髪の幼子。


 灰の中から拾われた二人は、まるで互いの存在を確かめるように、同じ布団の中で小さな手を触れ合わせていた。


 やがて、那種が言葉を覚えた。


 最初に覚えた言葉が何だったのか、猛は長く悩んだ。


 父だったか。


 水だったか。


 戎だったか。


 記憶は曖昧だ。


 ただ、彼女が戎の名を呼ぶのは早かった。


「かい」


 舌足らずな声だった。


 戎はまだ返事がうまくできない。それでも、呼ばれると顔を向けた。


 那種はそれで満足そうにした。


 戎が歩けるようになると、那種はよく手を引いた。


 道場の廊下。


 庭先。


 井戸のそば。


 猛が少し目を離すと、二人は揃って何かをしていた。


 危ないことも多かった。


 戎が木刀に手を伸ばし、那種が止めようとして一緒に転ぶ。那種が庭の虫を見つけ、戎が覗き込んで泥だらけになる。二人で稽古場の隅に座り、門下生たちの足運びをじっと見る。


 猛は叱った。


 よく叱った。


 だが、叱った後には必ず飯を食わせた。


 この家では、叱られることと捨てられることは違う。


 それを二人に覚えさせるために、猛は何度でも叱り、何度でも抱き上げた。


 那種は、表情の出にくい子だった。


 笑わないわけではない。


 泣かないわけでもない。


 ただ、感情が顔に出るまで少し遅い。嬉しくても、まず目を瞬かせる。悲しくても、しばらく黙る。怖くても、声を上げるより先に戎の袖を掴む。


 戎は逆だった。


 口数は少ないが、反応は早い。


 那種の手が袖を掴めば、理由がわからなくてもそちらを見る。那種が転べば、まだ自分も幼いのに戻ろうとする。那種が泣きそうになれば、先に怒る。


 猛はそのたびに思った。


 この二人は、片方だけでは足りない何かを、最初から互いに補っている。


 守る、という言葉を覚える前から。


 守られる、という意味を知る前から。


 その形だけは、すでにそこにあった。


     ◇


 ある冬の朝。


 道場の庭に薄く霜が降りていた。


 猛が木刀を振っていると、縁側に小さな影が二つ並んだ。


 那種と戎だった。


 那種は布を肩にかけ、戎は眠そうに目をこすっている。二人ともまだ幼い。だが、猛の動きを見つめる目だけは妙に真剣だった。


「寒いぞ。中にいろ」


 猛が言うと、那種は首を横に振った。


「見る」


「何を」


「お父さんの、剣」


 その呼び方に、猛は一瞬だけ動きを止めた。


 お父さん。


 那種は、そう呼ぶようになっていた。


 戎は少し遅れて、父さん、と呼ぶようになる。


 血は繋がっていない。


 だが、そんなことはこの家では大きな意味を持たなかった。


 猛は木刀を肩に担ぎ、わざと厳しい顔をした。


「見て面白いもんじゃないぞ」


「見る」


 那種は同じ言葉を繰り返した。


 戎も、こくりとうなずいた。


 猛はしばらく二人を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「なら、そこから動くな。足を出したら叱る」


「うん」


「うん」


 二人は並んで座った。


 猛は庭の中央へ戻る。


 霜を踏む音がする。


 息が白い。


 木刀が上がる。


 一拍。


 次の瞬間、空気が低く鳴った。


 子供には速すぎる一振りだった。


 だが、那種は瞬きもせずに見ていた。


 戎もまた、じっと見ていた。


 本条の剣は、派手ではない。


 光も出ない。


 炎も氷も呼ばない。


 だが、その一振りには、荒ぶるものの前に立つ者の覚悟があった。


 斬るためだけではない。


 鎮めるための剣。


 守るために、前へ出る剣。


 幼い二人が、その意味を理解したはずはない。


 それでも、何かは届いた。


 那種は小さな手を握った。


 戎は、息を止めるように見つめていた。


 猛は振り終え、二人へ目を向けた。


「怖かったか」


 那種は少し考えた。


 それから、首を横に振った。


「きれい」


 猛は目を丸くした。


「……剣がか」


「うん」


 那種は言った。


「守るみたいだった」


 戎が、その横でうなずいた。


「父さん、もう一回」


 猛はしばらく黙っていた。


 それから、豪快に笑った。


「まったく。妙な子らだ」


 冬の庭に、猛の笑い声が響いた。


 その声に、那種が少しだけ笑う。


 戎も、つられるように笑う。


 灰の中から拾われた二つの命は、少しずつ、この家の子になっていった。


 やがて二人は成長する。


 那種は、自分の内にあるものによって、やがてこの家の外へ歩いていくことになる。


 戎は剣を握り、本条の教えを誰よりも真っ直ぐに受け継いでいく。


 二人の道は同じではなかった。


 離れることもあった。


 思いもよらない場所へ流されることもあった。


 失うものがあり、得るものがあり、傷を負い、誰かに救われ、誰かを救う。


 それぞれが多くのものと出会い、多くのものを背負いながら、大人になっていく。


 けれど、どれほど遠くへ行っても、二人の間に結ばれたものだけは消えなかった。


 離れても途切れず、変わっても失われず、長い歳月を越えてなお残り続けるもの。


 それは約束だったのかもしれない。


 あるいは、帰る場所を知っているということだったのかもしれない。


 黒刃は、銀華のそばにいる。


 銀華は、黒刃のいる場所へ帰る。


     ◇


「戎?」


 那種の声で、戎は現在へ戻った。


 中央結界塔の白銀の光は、今は目に見えない状態となっていた。空の天盾は完全に安定し、王都はいつもの色を取り戻しつつあった。


「どうしたの?」


 那種は、見えない天盾が広がる空を見上げている。


 疲労で顔色は白い。魔力はほとんど空に近い。それでも、金色の瞳だけは澄んでいた。


「昔のことを思い出してた」


「昔?」


「ああ」


「どのあたり?」


「父さんに拾われた頃」


 那種は少し黙った。


 それから、戎の袖を軽く掴んだ。


 幼い頃と同じ仕草だった。


「覚えてるの?」


「断片だけだ」


「私は、あまり覚えてない」


「だろうな」


「でも」


 那種は、白銀の天盾が広がる空を見上げた。


「寒かった気がする」


「そうだな」


「それと、戎がいた気がする」


 戎は答えなかった。


 ただ、彼女を支える腕に少しだけ力を込めた。


 那種はそれで十分だったらしい。


 目を細め、ほとんど聞こえない声で言った。


「なら、怖くなかったかも」


 戎は、空を見た。


 そこには青空しかない。


 だが、その上には確かに白銀の天盾がある。


 人々を守る見えない守護。


 その中心にいる、守るためにすべてを削る妻。


 かつて灰の中で、彼女は戎の布を握っていた。


 今も、形は変わらない。


 彼女は守ろうとする。


 彼は、そのそばで斬る。


 ただ、それだけのことを、二人はずっと続けてきた。


「帰るぞ、那種」


「うん」


「歩けるか」


「少しなら」


「却下」


「聞いたのに?」


「確認しただけだ」


 那種は不満そうにした。


 だが、戎が抱き上げると、抵抗はしなかった。


 結界塔の内側にいた若い文官が目を見開く。近衛の古参がその肩を軽く叩き、何も言うなという顔をする。聖征師団の団員たちは、当然のように道を開けた。


 本条夫妻だから。


 それでいい。


 王都の空には、白銀の天盾がある。


 その下を、黒刃が銀華を抱いて歩いていく。


 誰もが見ているわけではない。


 誰もが知っているわけでもない。


 けれど、この国の中心には、確かに一つの物語があった。


 灰の中から始まり、剣と魔術に育てられ、別れと再会を越え、誓いと子供たちを得て、今もなお続いている物語。


 これは、樹那種と本条戎の物語。


 銀華と黒刃の物語である。

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