第3章 第21話『母様の霊壇』
第二十一話 母様の霊壇
那種が目を覚ました時、部屋の中には朝の光が入っていた。
最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
木の匂い。
畳の感触。
遠くで聞こえる道場の音。
近くにある、誰かの気配。
それらを一つずつ確かめて、ようやく思い出す。
本条家だ。
帰ってきたのだ。
那種はゆっくり目を開けた。
隣には戎が座っていた。
壁にもたれたまま、目を閉じている。
眠っているように見える。
けれど、那種の左手はまだ戎の手に握られていた。
強くはない。
離れないくらいに。
痛くないくらいに。
那種はしばらく、その手を見ていた。
小さかった手ではない。
昔、那種の袖を掴んでいた手ではない。
障壁を叩いて傷ついた手。
木刀を握り続けた手。
森で那種を待っていた手。
那種はそっと指を動かした。
戎の目が開く。
「起きたか」
「うん」
「苦しくないか」
最初にそれを聞かれて、那種は少し笑った。
「大丈夫」
言ってから、少し止まる。
戎がじっと見る。
那種は言い直した。
「……背中は苦しくない。少し、身体は重い」
「なら、起きるな」
「でも、朝だよ」
「朝でも重いなら寝てろ」
「戎、昨日寝てないでしょ」
「少し寝た」
「座ったまま?」
「寝た」
「それ、寝たって言うの?」
戎は答えなかった。
那種は小さく息を吐いた。
「ありがとう」
「ああ」
その時、部屋の隅で小さな音がした。
紀良がいた。
那種の足元の方に座ったまま、こくりこくりと眠っていた。
膝には小さな布人形を抱えている。
那種が動くと、紀良の肩がぴくりと跳ねた。
「姉様?」
「おはよう、紀良」
紀良の目が大きく開いた。
次の瞬間、飛びつきかけて、途中で止まった。
那種の右腕と背中を見て、慌てて手を引っ込めたのだ。
「抱きついていい?」
紀良が聞いた。
その聞き方があまりにも真剣で、那種は胸が温かくなった。
「うん。右側は少し気をつけてくれる?」
「うん!」
紀良は那種の左側から抱きついた。
勢いはあったが、ちゃんと加減されていた。
那種は左腕で紀良を抱き返す。
小さな身体。
あたたかい。
昨日まで泣いていた妹が、今日は那種を壊さないように考えながら抱きついている。
それが嬉しくて、少しだけ寂しかった。
「姉様、よく寝てた」
「うん。寝てた」
「兄様の部屋で」
「そうだね」
「ずるい」
「ごめんね」
「でも、眠れたならいい」
紀良は那種の胸元に顔を押しつけた。
「でも、次は私もいる」
「うん」
戎が言った。
「毎回は駄目だ」
紀良が顔を上げる。
「どうして」
「那種が寝られない」
「静かにする」
「寝相」
「兄様だって寝相悪い時ある」
「ない」
「ある」
那種は思わず笑った。
笑うと、胸の奥が少し痛んだ。
でも、嫌な痛みではなかった。
笑えることに、身体がまだ驚いているだけだった。
◇
朝食の席で、那種は粥を食べた。
猛がよそった粥だった。
焦げていなかった。
那種は椀を受け取って、少しだけ目を丸くした。
「お父さん、粥、上手になったね」
猛の手が止まった。
戎が目を逸らした。
紀良が口元を押さえた。
「……そうか」
猛は低く言った。
「うん。前よりずっと」
「前というのは」
猛が言いかけて、やめた。
那種も途中で気づいた。
澄乃が亡くなった朝。
焦げた粥。
泣きながら食べた味。
あの朝のことだ。
部屋の空気が、少し静かになる。
けれど、重くはならなかった。
那種は椀を見た。
湯気が立っている。
焦げていない粥。
年月が過ぎた証。
その間、自分はここにいなかった。
でも、この家は続いていた。
お父さんは粥を作り続けた。
戎と紀良は食べ続けた。
本条家は、壊れずに続いていた。
「おいしいです」
那種は言った。
猛は少しだけ顔を逸らした。
「食え」
「はい」
紀良がにこにこしながら言った。
「お父さん、最近は焦がさないよ」
「最近は、は余計だ」
「でも本当だもん」
「紀良」
「はい」
紀良は口を閉じた。
那種は粥を一口ずつ食べた。
熱すぎない。
柔らかい。
胃に落ちても、重くない。
森の粥とは違う。
師匠の粥は薬草の匂いがした。
本条家の粥は、台所の匂いがする。
どちらも、自分を生かしてくれた味だった。
那種は椀を両手で持つ。
右手は白銀だ。
まだ少しぎこちない。
器を強く持ちすぎないように、意識する。
戎がそれを見ていた。
紀良も見ていた。
猛も、見ないふりをしながら見ていた。
でも、誰も何も言わない。
落とすなとも。
気をつけろとも。
変わったとも。
誰も言わない。
ただ、那種が食べるのを待っている。
那種は少しだけ息を吐いた。
「私、食べられてる」
ぽつりと言った。
紀良がすぐに頷く。
「うん」
戎も短く言う。
「ああ」
猛は椀を持ったまま、低く言った。
「それでいい」
それでいい。
その言葉が、粥よりもゆっくり胸に落ちた。
◇
朝食の後、那種は立ち上がろうとした。
「片づけ、私も」
「しなくていい」
猛が即答した。
那種は固まった。
「でも、椀くらい」
「しなくていい」
「台所の手伝いなら」
「しなくていい」
「道場の掃除」
「論外だ」
あまりにも早い返事だった。
那種は口を閉じた。
戎が横から言う。
「顔に書いてある」
「何が?」
「何かしないと落ち着かない」
那種はぎくりとした。
「そんなこと」
「ある」
紀良も頷いた。
「姉様、今、絶対に何かしようとしてた」
「紀良まで」
「だって、姉様、そういう顔してる」
那種は困ったように目を伏せた。
何かをしていた方が楽だった。
帰ってきた。
受け入れてもらえた。
眠れた。
食べられた。
それは確かなのに、何もしないでいると、胸の奥にいろいろなものが戻ってくる。
森のこと。
あの家のこと。
竜帝契約の痛み。
右腕の冷たさ。
背の竜帝刻の違和感。
変わってしまった自分。
戻ってきた自分。
その全部が、静かにしていると見えてしまう。
だから、何かをしたかった。
役に立ちたかった。
この家にいていい理由を、自分でも確かめたかった。
猛はそれを見抜いたように、低く言った。
「那種」
「はい」
「この家で、役に立つために帰ってきたんじゃない」
那種は顔を上げた。
「お前は帰ってきたんだ」
その言葉は、昨日から何度も聞いたものに近かった。
けれど、まだ胸に響いた。
「まず、それだけでいい」
那種は唇を噛んだ。
「……はい」
猛は頷いた。
「飯を食え。眠れ。寒けりゃ言え。背が苦しけりゃ言え。右腕が冷えたら言え」
「はい」
「手伝いは、その後だ」
那種は小さく頷いた。
紀良が那種の袖を握った。
「じゃあ、今日は一緒にいる日」
「一緒にいる日?」
「うん。姉様が帰ってきたから、一緒にいる日」
那種は少しだけ笑った。
「そういう日なの?」
「そういう日」
紀良は真剣だった。
戎も否定しない。
猛も、何も言わなかった。
だから、その日はそういう日になった。
◇
昼前、猛が那種を呼んだ。
「来られるか」
那種は縁側に座っていた。
肩には深緑の外套を掛けている。
背は塞がない。
膝には母様の布袋と、紀良の布人形がある。
「どこへ?」
「霊壇だ」
那種の手が止まった。
霊壇。
母様の霊壇。
帰ってきたら、行かなければと思っていた。
けれど、怖かった。
母様の前に、今の自分で立つのが。
白銀の右腕を持った自分。
背に竜帝刻を持った自分。
炎ではなく白銀の魔術を使う自分。
師匠から、樹那種という名をもらった自分。
母様は、どう思うだろう。
変わったね、と言うだろうか。
痛かったね、と言うだろうか。
おかえり、と言ってくれるだろうか。
それとも。
那種は胸元の布袋を握った。
「……行きたい」
声は小さかった。
だが、はっきりしていた。
猛は頷いた。
「なら来い」
戎が立ち上がる。
「俺も行く」
紀良もすぐに立った。
「私も」
猛は何も言わなかった。
四人で廊下を歩く。
本条家の奥。
静かな部屋。
そこに、澄乃の霊壇があった。
大きくはない。
けれど、丁寧に整えられていた。
小さな花。
水。
古い櫛。
澄乃が使っていた湯呑。
那種の記憶の中にある母様の気配が、そこに少しだけ残っているようだった。
那種は入口で足を止めた。
胸が苦しくなる。
背ではない。
竜帝刻ではない。
もっと奥だ。
那種は動けなかった。
戎が横に立つ。
紀良が袖を握る。
猛は少し先で待っていた。
誰も急かさない。
誰も、早くしろとは言わない。
那種は一歩踏み出した。
それだけで、目に涙が浮かんだ。
もう一歩。
霊壇の前に座る。
膝の上に布袋を置く。
紀良の布人形も、そっと隣に置いた。
白銀の右腕が、朝の光を受けて淡く光る。
那種はそれを隠そうとして、途中で止めた。
隠さない。
母様には、隠さない。
「母様」
声が震えた。
「ただいま」
それだけで、涙がこぼれた。
言えた。
やっと言えた。
森で何度も夢に見た言葉。
あの家で、閉じられた部屋の中で、何度も言いたかった言葉。
ただいま。
母様に。
本条家に。
自分が帰ってきたことを伝える言葉。
那種は白銀の右手を膝の上に置いた。
「私、変わりました」
猛も、戎も、紀良も、黙って聞いていた。
「火だけじゃなくなりました。右腕も、白銀になりました。背中に、竜帝刻があります。背を塞がれると、少し苦しいです」
自分で言いながら、涙が止まらなかった。
「師匠が、助けてくれました。水をくれて、粥をくれて、痛いって言っていいって教えてくれました。嫌だって言ってもいいって。怖いって言っても、捨てられないって」
那種は布袋に触れた。
「母様の袋、ずっと持ってました。取られそうになったけど、なくさなかったです。森でも、契約の時も、ずっと」
右腕が少し震える。
那種は息を吸った。
「師匠から、樹那種という名をもらいました」
その名を霊壇の前で言うのは、怖かった。
本条を捨てる名ではない。
師匠はそう言った。
でも、母様の前で言うには、まだ勇気が要った。
「でも、本条を捨てたわけじゃありません」
声が少し強くなる。
「私、本条に帰ってきました」
紀良が鼻をすすった。
戎は動かなかった。
猛は目を閉じていた。
那種は深く頭を下げた。
「母様。ただいま」
部屋は静かだった。
返事はない。
けれど、風が少しだけ障子を揺らした。
花が、ほんのわずかに揺れた。
那種は顔を上げた。
何も起きていない。
奇跡もない。
声も聞こえない。
それでも、不思議と少しだけ息がしやすくなった。
「おかえりって」
紀良が小さく言った。
那種は振り返る。
紀良は涙をこぼしながら、真剣な顔で霊壇を見ていた。
「お母さん、きっと言ってる」
「紀良」
「絶対言ってる。姉様が帰ってきたんだから」
那種は泣きながら笑った。
「うん」
戎が短く言う。
「言ってる」
猛も、低く言った。
「ああ」
那種はもう一度、霊壇を見た。
母様はもういない。
それは変わらない。
でも、ここに戻ってきたことを、伝えることはできた。
白銀の右腕を隠さずに。
師匠からもらった名を抱えたまま。
本条の娘として。
◇
その日の午後、那種は霊壇のそばで眠ってしまった。
最初は座っていた。
紀良が隣で、森へ贈る絵を描いていた。
戎は少し離れて、木刀の手入れをしていた。
猛は縁側で茶を飲みながら、時折こちらを見ていた。
何か特別なことをしていたわけではない。
ただ、同じ部屋にいた。
那種はその気配を聞いているうちに、少しずつ眠くなった。
眠ってはいけない、と思いかけた。
霊壇の前で。
昼間に。
皆がいるのに。
けれど、師匠の声を思い出した。
眠い時は、眠れ。
那種は抵抗するのをやめた。
母様の布袋を握り、紀良の布人形を膝に置いたまま、こくりと眠った。
戎がすぐに気づいた。
動こうとして、猛に止められる。
「寝かせておけ」
「でも」
「眠れる時に眠らせろ」
戎は黙った。
紀良がそっと外套を直す。
肩と膝を温める。
背は塞がない。
もう、紀良はそれを覚えていた。
那種は眠っている。
母様の霊壇のそばで。
家族の気配に囲まれて。
何かを成し遂げたからではない。
役に立ったからでもない。
ただ、帰ってきた娘として。
その寝顔を見ながら、猛は低く言った。
「澄乃」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
「帰ってきたぞ」
返事はない。
けれど、本条家の奥の部屋には、静かな光が満ちていた。




