表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀華と黒刃  作者: 誠十郎
『樹』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/43

第3章 第20話『変わった手、変わらない家』

第三章 『樹』

第二十話 変わった手、変わらない家


 本条家に帰ってきた夜、那種は自分の部屋にいた。


 懐かしい部屋だった。


 障子。


 畳。


 低い棚。


 昔、紀良が勝手に置いていった小さな石。


 戎が稽古で折った木刀の欠片を、那種がこっそり拾ってしまい込んでいた箱。


 澄乃が縫ってくれた古い布。


 何もかもが、少しずつ変わっていた。


 けれど、なくなってはいなかった。


 那種が使っていた布団は干されていた。


 棚の上には埃がない。


 誰かが掃除していたのだと、すぐにわかった。


 誰かではない。


 お父さんか、戎か、紀良だ。


 たぶん、三人ともだ。


 那種は部屋の中央に座った。


 膝の上には、母様かあさまの布袋と、紀良がくれた新しい布人形がある。


 森から持ち帰った深緑の外套は、畳んで横に置いた。


 白銀の右腕が、月明かりを受けて淡く光っている。


 那種はその腕を見た。


 自分の腕だ。


 竜帝アギトと契約した腕。


 火を失い、白銀へ変わった証。


 怖くない、と戎は言った。


 きれい、と紀良は言った。


 お父さんは、何も言わずに抱きしめてくれた。


 それなのに、那種はまだ少し怖かった。


 この部屋に、白銀の右腕を置いていいのか。


 この布団で眠っていいのか。


 昔の自分がいた場所に、今の自分がいていいのか。


「……ここ、私の部屋」


 小さく口に出した。


 声は部屋の中へ落ちて、すぐに消えた。


 誰も否定しない。


 誰も追い出さない。


 誰も扉を閉めない。


 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。


 那種は布団に入った。


 目を閉じる。


 眠ろうとする。


 けれど、眠れなかった。


 畳の匂いが懐かしい。


 遠くで道場の床が鳴る。


 夜風が障子を揺らす。


 すべて懐かしいはずなのに、身体だけが、まだ森の庵を探していた。


 火の場所。


 木の机。


 師匠の足音。


 森の水の匂い。


 眠れない夜、師匠が黙って水を置いてくれた気配。


 あそこも、帰れる場所だった。


 ここも、帰りたかった場所だった。


 二つあることはよいと、師匠は言った。


 それなのに、今はどちらにもきちんと収まれないような気がした。


 那種は寝返りを打った。


 白銀の右腕が布団の上で少し冷える。


 背の竜帝刻が、布に触れてうずいた。


 痛いほどではない。


 けれど、息が詰まる。


 那種は上体を起こした。


 少し迷ってから、掛け布を肩から外す。


 背が軽くなる。


 呼吸が楽になる。


「……そっか」


 師匠が言っていた。


 息が詰まるものを、平気な顔で着るな。


 那種は胸元を押さえた。


 この家なら、言っていいのだろうか。


 背を塞がれると苦しいと。


 寒くても、そういう服は嫌だと。


 変だと言われないだろうか。


 我慢しろと言われないだろうか。


 いや。


 お父さんは言った。


 背中が開いた服を用意する、と。


 戎は黙って覚えていた。


 紀良なら、きっと「姉様が苦しくない方がいい」と言う。


 わかっている。


 わかっているのに、不安はすぐには消えなかった。


 那種は布団から出た。


 母様の布袋と、紀良の布人形を抱える。


 廊下へ出ると、夜の本条家は静かだった。


 台所の火は落とされている。


 道場の方からは、木の匂いがした。


 猛の部屋の前を通ると、中から気配がした。


 起きている。


 たぶん、眠っていない。


 那種は立ち止まりかけた。


 お父さんのところへ行けば、きっと入れてくれる。


 でも、今日の猛はたくさん我慢していた。


 抱きしめて。


 謝って。


 礼を言って。


 歩幅を合わせて。


 ずっと那種を見ていた。


 今は休んでほしい。


 そう思った。


 紀良の部屋の方からは、寝息が聞こえる。


 泣き疲れて眠ったのだろう。


 那種はそちらにも行かなかった。


 そして、戎の部屋の前で止まった。


 昔から知っている戸。


 何度も立ったことがある場所。


 でも、今は少し違う。


 勝手に開けていいのかわからない。


 戎はもう、自分より小さな弟ではない。


 まだ九つなのに、前よりずっと静かで、前よりずっと強くなっていた。


 障壁を叩いた手。


 森で、那種の左手を取った手。


 待っていた、と言ってくれた声。


 那種は戸の前で立ち尽くした。


 入っていいのか。


 戻った方がいいのか。


 それとも、ここに座っているだけでもいいのか。


 迷っていると、戸の向こうで気配が動いた。


「那種?」


 戎の声だった。


 那種はびくりとした。


 すぐに戸が開いた。


 寝間着姿の戎が立っている。


 眠っていなかったのか、目ははっきりしていた。


「どうした」


 那種は答えようとして、言葉に詰まった。


 どうした。


 そう聞かれると、何も言えなくなる。


 怖い。


 眠れない。


 部屋にいると息が詰まる。


 でも帰ってきたばかりなのに、そんなことを言っていいのか。


 困らせないか。


 呆れられないか。


「那種」


 戎は少しだけ声を低くした。


「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言うな」


 那種は目を瞬かせた。


 少しだけ笑いそうになって、すぐに泣きそうになった。


「……眠れない」


「うん」


「部屋にいたら、少し苦しくなった」


「うん」


「でも、ここに来ていいのか、わからなくて」


「いい」


 戎は即答した。


「入れ」


 その言い方が昔と同じで、那種は胸の奥が少し緩んだ。


「いいの?」


「いい」


「寝てたら、ごめんね」


「寝てない」


「寝た方がいいよ」


「那種もだ」


「そうだね」


 那種は少しだけ笑った。


 戎は戸を大きく開けた。


「ここに座るか」


「うん」


 那種は戎の布団の横に座った。


 昔と似ていた。


 戎が夜に泣いていた頃、那種がそばに行った。


 戎が熱を出した時、那種が横に座った。


 紀良が泣いた時、二人で並んで座った。


 でも、今は那種が眠れない。


 戎がそばにいる。


「寒くないか」


「少し」


 那種は正直に言った。


 戎は自分の掛け布を少し引いて、那種の膝へかけた。


 その時、布が背に触れかける。


 那種の肩がぴくりと動いた。


 戎はすぐに止めた。


「背中か」


 那種は小さく頷いた。


「うん。塞がると、少し苦しい」


「わかった」


 戎は布をかける位置を変えた。


 肩と膝は温まる。


 背は押さえない。


 那種は息を吐いた。


「ありがとう」


「ああ」


「変じゃない?」


「何が」


「背中、塞がるの嫌なの」


「嫌なら嫌でいい」


 戎は言った。


「師匠にも言われた?」


「うん」


「なら、そうしろ」


「戎も、そう思う?」


「那種が息苦しいなら、しない方がいい」


 当然のように言う。


 那種は少し俯いた。


「戎は、変わらないね」


「変わった」


「え?」


「前より強くなる」


 那種は戎を見た。


 戎は真面目な顔で言った。


「でも、那種の嫌なことを嫌だと思うのは変わらない」


 那種の目に涙が浮かんだ。


「……そっか」


「ああ」


 那種は膝に置いた左手を見た。


 白銀の右腕ではなく、左手。


 森で戎が取ってくれた手。


 今も、何かに触れていたかった。


 けれど、自分から言うのは少し怖い。


 戎はそれに気づいたのか、黙って手を差し出した。


 那種は目を瞬かせた。


「いいの?」


「いい」


「重くない?」


「手だろ」


「うん」


「重くない」


 那種はゆっくり、左手を戎の手に重ねた。


 戎は握った。


 強くはない。


 離れないくらいに。


 痛くないくらいに。


 那種は目を閉じた。


 胸の奥が、少しずつ静かになる。


 布団の匂い。


 道場の木の匂い。


 夜の本条家の気配。


 隣にいる戎の呼吸。


 森ではない。


 庵でもない。


 ここは本条家だ。


 変わっている。


 でも、なくなってはいない。


「戎」


「何だ」


「私、変わったね」


「ああ」


「右腕も、背中も、魔術も、名前も」


「ああ」


「でも、ここにいていい?」


 戎は少しだけ眉を寄せた。


 怒った顔ではない。


 痛いものを見た顔だった。


「いていい」


「本当に?」


「那種の部屋がある」


「うん」


「父さんが布団を干してた」


「うん」


「紀良が石を置いたままにしてた」


「うん」


「俺も、待ってた」


 那種の涙がこぼれた。


「待ってた」


 戎はもう一度言った。


「だから、いていい」


 那種は声を出さずに泣いた。


 戎は手を離さなかった。


 泣き止ませようとはしなかった。


 何を言えばいいのか、わからなかったからだ。


 ただ、手を握っていた。


 今、戎にできることは、それだけだった。


     ◇


 那種は、いつの間にか眠っていた。


 手を繋いだまま。


 最初は座っていた。


 やがて少しずつ身体が傾き、戎が慌てて支えた。


 起こすか迷った。


 だが、那種の呼吸は穏やかだった。


 久しぶりに眠れているように見えた。


 戎は動かなかった。


 腕が少し痺れても、動かなかった。


 那種の白銀の右腕は、胸元にそっと置かれている。


 月明かりを受けて、淡く光っていた。


 怖くない。


 本当に怖くなかった。


 むしろ、那種がここにいる証のように見えた。


 戎は、その光を見つめた。


 自分が届かなかった間に、那種は変わった。


 傷ついた。


 死にかけた。


 森で生きた。


 魔女に拾われた。


 竜帝と契約した。


 白銀になった。


 自分の知らない那種が、たくさんある。


 それが悔しくないと言えば嘘になる。


 だが、知らないからといって、否定する気はなかった。


 これから知ればいい。


 那種が嫌なこと。


 怖いこと。


 楽な姿勢。


 眠れる場所。


 笑えること。


 全部、これから知ればいい。


 戎は手を握り直した。


 強くしすぎないように。


 離れないように。


「おかえり」


 小さく言った。


 那種は眠ったまま、少しだけ指を動かした。


 返事のようだった。


     ◇


 朝になった。


 最初に気づいたのは、紀良だった。


 那種の部屋を覗きに行ったら、布団が空だった。


 紀良は青ざめた。


 それから、ほとんど泣きそうな顔で廊下を走り、猛の部屋へ向かった。


「お父さん、姉様がいない!」


 猛は即座に起きた。


 刀に手が伸びかけた。


 だが、廊下に出る前に、戎の部屋の方から声がした。


「いる」


 戎の声だった。


 猛と紀良が同時にそちらを見る。


 戎の部屋の戸が、少しだけ開いている。


 中には、戎が座っていた。


 その横で、那種が眠っていた。


 座ったまま眠り、途中で布団に横たえられたらしい。


 背を塞がないよう、掛け布は肩と膝だけにかかっている。


 白銀の右腕は胸元に置かれ、左手はまだ戎の手を握っていた。


 紀良はしばらく固まっていた。


 それから、小さな声で言った。


「兄様、ずるい」


 戎は少し困った顔をした。


「ずるくない」


「姉様と寝てる」


「寝てない。俺は起きてた」


「もっとずるい」


 紀良の目に涙がたまる。


 不安がほどけた後の涙だった。


 猛は部屋の入口に立ち、那種の寝顔を見た。


 昨夜より、少しだけ呼吸が深い。


 白銀の右腕は光っている。


 背の竜帝刻は見えない。


 だが、苦しそうではない。


 猛は低く息を吐いた。


「寝かせておけ」


 紀良は鼻をすすった。


「私も隣にいていい?」


 猛は少しだけ考えた。


「起こすな」


「起こさない」


「泣くな」


「もう泣かない」


「嘘をつけ」


「ちょっとだけ」


 猛は何も言わなかった。


 紀良はそっと部屋に入り、那種の足元の方に座った。


 戎はまだ那種の手を握っている。


 猛は入口に腰を下ろした。


 誰も大きな声を出さなかった。


 朝の光が障子を透かし、部屋の中に淡く入ってくる。


 那種は眠っている。


 本条家で。


 白銀の右腕を隠さずに。


 背を無理に塞がれずに。


 戎の手を握ったまま。


 変わったものはある。


 戻らないものもある。


 それでも、変わらないものも、まだここにあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ