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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
大樹の魔女とその娘

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第2章 第19話『いってきますと、ただいま』

第十九話 いってきますと、ただいま


 帰る、と答えた後も、那種はすぐには動けなかった。


 猛の腕の中にいる。


 紀良が泣きながら抱きついている。


 戎が左手を握っている。


 それだけで、胸の奥がいっぱいになって、足に力が入らなかった。


 帰りたかった。


 ずっと帰りたかった。


 あの家の部屋で、閉じられた扉を見つめながら。


 森の庵で熱に浮かされながら。


 竜帝アギトと契約した痛みの中で。


 白銀の膜が初めて花を守った時も、雨を逸らした時も。


 いつも、帰りたいと思っていた。


 けれど今、本当に帰れるのだと思うと、怖かった。


 帰った後、自分はどうすればいいのか。


 この白銀の右腕をどう見せればいいのか。


 背の竜帝刻を、どう説明すればいいのか。


 変わってしまった自分を、本条家の中へ置いていいのか。


 その不安は、戎の一言で全部消えたわけではない。


 猛に抱きしめられても、紀良に泣かれても、すべてが元通りになるわけではない。


 それでも、那種は思った。


 戻れるかもしれない。


 元通りではなくても。


 昔と同じではなくても。


 戻れる場所が、まだあるのかもしれない。


「那種」


 魔女の声がした。


 那種は顔を上げた。


 大樹の魔女は、少し離れた場所に立っていた。


 森の影を背にしている。


 いつも通りの顔に見える。


 だが、那種にはわかった。


 少しだけ、寂しそうだった。


 そう思った瞬間、那種の胸が痛んだ。


「師匠」


 那種は小さく呼んだ。


 その呼び方に、猛の腕がわずかに止まった。


 戎も、紀良も、魔女を見た。


 大樹の魔女は何も言わなかった。


 ただ、那種を見ている。


 那種は猛の腕からゆっくり離れた。


 足元が少しふらつく。


 戎が支えようとした。


 魔女も動きかけた。


 那種は小さく首を横に振った。


「大丈夫」


 そう言って、自分で立った。


 まだ危うい。


 それでも、立った。


 白銀の右腕を胸元へ寄せ、左手で布袋と紀良の布人形を抱えて、那種は魔女の前へ歩いた。


 一歩。


 もう一歩。


 短い距離なのに、とても長く感じた。


 魔女は待っていた。


 急かさない。


 手を伸ばさない。


 那種が自分で来るのを待っていた。


 那種は魔女の前で立ち止まった。


「師匠」


「何だ」


「私、帰ります」


「ああ」


「本条の家に」


「ああ」


「お父さんと、戎と、紀良と一緒に」


「ああ」


 那種の目に涙が浮かぶ。


「でも」


 言葉が詰まった。


 帰りたい。


 それは本当だ。


 でも、ここを離れるのが寂しい。


 それも本当だった。


 大樹の森は、那種を拾った。


 魔女は水を飲ませた。


 粥を食べさせた。


 痛いと言ってよいと教えた。


 嫌だと言ってよいと教えた。


 怖いと言っても、見捨てられないと教えた。


 樹那種という名をくれた。


 白銀の魔術を見守ってくれた。


 ここは、あの家から逃げ延びた場所ではない。


 ここもまた、那種が生き直した場所だった。


「でも、寂しいです」


 那種は正直に言った。


「ここを出るのが、寂しいです」


 魔女は少しだけ目を伏せた。


「そうか」


「はい」


「なら、覚えておけ」


 魔女は言った。


「寂しいということは、ここがお前にとって悪い場所ではなかったということだ」


 那種の涙がこぼれた。


「はい」


「帰りたい場所がある。離れがたい場所もある。それでよい」


「二つあっても、いいんですか」


「よい」


 魔女は答えた。


「人の子は、帰る場所を一つに絞らねばならぬほど小さくはあるまい」


 那種は泣きながら、小さく笑った。


「師匠は、人の子じゃないのに」


「見ておればわかる」


「そうですか」


「そうだ」


 魔女はいつも通りに答えた。


 それが、那種には嬉しかった。


 魔女は手を伸ばした。


 那種の頭へ。


 白銀の髪へ、そっと触れる。


 不器用な撫で方だった。


 最初の頃よりは、ずっと柔らかい。


「那種」


「はい」


「お前は帰る」


「はい」


「だが、捨てられるのではない」


 那種の肩が震えた。


「追い出すのでもない」


「はい」


「妾は、お前を返す」


 魔女の声は静かだった。


「お前が帰りたいと願った場所へ、返す」


 那種は泣いた。


 自分が捨てられるのではない。


 要らなくなったから出されるのではない。


 処分されるのでもない。


 返される。


 帰りたいと願った場所へ。


 その言葉だけで、胸の奥に残っていた怖さが少しほどけた。


「師匠」


「何だ」


「私、また来てもいいですか」


 魔女は即答しなかった。


 少しだけ、森が揺れた。


 その沈黙に、那種は不安になりかける。


 だが、魔女はやがて言った。


「来い」


 短い言葉だった。


 那種の目が大きくなる。


「いいんですか」


「妾の庵に来るのに、妾が駄目と言う理由がない」


「でも、大樹の森は」


「お前は道を覚えておる」


 魔女は言った。


「森も、お前を覚えておる」


 那種は泣きながら頷いた。


「はい」


「ただし、一人で無茶に入るな。道を間違えれば、森は優しくない」


「はい」


「来るなら、妾に知らせろ」


「はい」


「返事だけでわかった顔をするな」


 那種は少しだけ笑った。


「ちゃんと、知らせます」


「よい」


 魔女は頷いた。


「それでよい」


     ◇


 猛は、少し離れた場所で二人を見ていた。


 那種が大樹の魔女を「師匠」と呼んだ時、胸の奥に小さな痛みが生まれた。


 知らない呼び方だった。


 本条家にいた頃の那種は、その名で誰かを呼ばなかった。


 だが、今の那種は自然にそう呼んでいる。


 それだけの時間が、この森にはあったのだ。


 猛たちの届かない場所で、那種は水を飲み、粥を食べ、痛いと言ってよいと教わり、嫌だと言っても見捨てられないことを覚え、樹那種という名を得た。


 その時間を、猛は知らない。


 知らないまま、迎えに来た。


 その事実が、父として少しだけ苦しかった。


 けれど、奪われたとは思わなかった。


 那種が死にかけた時、手を伸ばした者がいた。


 那種が生きると決めるまで、そばにいた者がいた。


 その相手を、那種が師と呼ぶ。


 ならば、それは止めるものではない。


 猛は静かに息を吐いた。


 そして、魔女へ頭を下げた。


「大樹の魔女」


 魔女が猛を見る。


「娘を、生かしてくれた」


 猛は深く頭を下げた。


「礼を言う」


 魔女は黙っていた。


「礼はあの子に言え、と言われた。それでも言う」


 猛の声は低かった。


「ありがとうございました」


 森が静かになる。


 魔女はしばらく猛を見ていた。


「本条猛」


「はい」


「この子は、戻しきれぬ傷を持つ」


「はい」


「夜に怯えることもある。名に怯えることもある。白銀の右腕を隠したがることもある。背を触られることを嫌がる日もある」


「はい」


「それを、甘えと呼ぶな」


 猛は顔を上げた。


「呼ばん」


「弱さと呼ぶな」


「呼ばん」


「面倒と呼ぶな」


「呼ばん」


 魔女の目が鋭くなる。


「父なら、待て」


 猛は頷いた。


「待つ」


「急かすな」


「急かさん」


「だが、放っておくな」


「わかっている」


 猛は言った。


「俺は不器用だ」


「見ればわかる」


「だが、捨てん」


 魔女は少しだけ目を細めた。


「那種は、俺の娘だ」


 魔女は黙った。


「樹那種でも、本条那種でも」


 猛は言った。


「俺の娘だ」


 那種が泣きそうな顔で猛を見た。


 魔女は静かに頷いた。


「ならば、連れて帰れ」


「はい」


「だが覚えておけ」


 魔女は那種の頭に触れたまま言った。


「この子は、妾の庵にいた子でもある」


 猛はすぐに答えた。


「忘れません」


 魔女の目が猛を見据える。


「忘れさせるな」


「はい」


 猛はもう一度、深く頭を下げた。


     ◇


 戎は、那種の少し近くに立っていた。


 手を伸ばせば届く距離。


 でも、触れない距離。


 先ほど手を取った。


 那種は逃げなかった。


 それだけで胸が熱くなった。


 だが、今はまだ、急に近づいていいのかわからない。


 那種は変わった。


 右腕も、背も、魔術も。


 でも、那種だった。


 那種以外の何者でもなかった。


 戎は胸元から白銀の葉を取り出した。


「那種」


 那種が振り返る。


「何?」


 懐かしい声だった。


 少し細くなっている。


 少し怖がっている。


 でも、那種の声だった。


 戎は葉を差し出した。


「これ」


 那種は目を見開いた。


「私の、印」


「ああ」


「届いたんだ」


「届いた」


 戎は言った。


「すぐわかった」


 那種の目が潤む。


「本当に?」


「ああ」


「白銀、怖くなかった?」


「怖くない」


 即答だった。


 那種の唇が震えた。


「私の右腕も?」


「怖くない」


「背中に、竜帝刻があるの」


「うん」


「怖くない?」


「怖くない」


 戎は、那種を見る。


 逃げない。


 目を逸らさない。


「那種のものだろ」


 那種は息を呑んだ。


「……うん」


「なら、怖くない」


 それだけだった。


 戎にとっては、それ以上の理由がいらなかった。


 那種は白銀の右手を少しだけ上げた。


 まだ迷っている。


 戎は動かなかった。


 那種が選ぶのを待った。


 やがて、那種は白銀の右手ではなく、左手を差し出した。


 戎はその手を取った。


 先ほどより、少しだけ確かに。


「帰ろう」


 戎が言う。


 那種は頷いた。


「うん」


「歩けるか」


「少しなら」


 戎は少しだけ眉を動かした。


 どこかで聞いたような言い方だった。


 那種はそれに気づいて、小さく笑った。


「本当に少し」


「無理するな」


「うん」


「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言うな」


 那種は目を瞬かせた。


 それから、少しだけ頬を緩めた。


「それ、私が言う方じゃない?」


「言われたから覚えた」


「まだ言ってないよ」


「これから言われそうだ」


 那種は少しだけ笑った。


 森の中で、久しぶりに戎と会話をした。


 何気ないやり取り。


 でも、胸が痛くなるほど懐かしい。


 那種は手を握り返した。


 戎はそれ以上、力を込めなかった。


 離れない程度に。


 痛くない程度に。


 それが、今の二人にちょうどよかった。


     ◇


 紀良は、那種のそばを離れなかった。


 布人形を渡した後も、ずっと那種の袖を掴んでいる。


 袖。


 那種はそれに気づいて、胸が温かくなった。


 昔、自分が戎の袖を掴んでいた。


 不安な時。


 怖い時。


 離れたくない時。


 今、紀良が自分の袖を掴んでいる。


「紀良」


「何、姉様」


「大きくなったね」


 紀良は泣きながら頷いた。


「姉様も」


「私は、あまり」


「大きくなった」


 紀良はきっぱり言った。


「髪も長いし、腕もきれいだし」


 那種の呼吸が止まった。


「きれい?」


「うん」


 紀良は白銀の右腕を見ている。


 怖がっていない。


 ただ、真剣に見ている。


「姉様の白銀、きれい」


 那種の目に涙が浮かぶ。


「怖くない?」


「怖くないよ」


「本当に?」


「本当」


 紀良は那種の袖をぎゅっと握った。


「姉様だもん」


 那種は泣いた。


 この家の子たちは、どうして同じことを言うのだろう。


 戎も。


 紀良も。


 右腕を見ても、背の刻印の話を聞いても、傷のことを知っても。


 那種だと言う。


 姉様だと言う。


 それだけで、胸の奥に残っていた硬いものが、少しずつほどけていく。


「紀良」


「うん」


「ありがとう」


「うん」


「布人形、大事にするね」


 紀良は涙を拭いた。


「今度は、取られない?」


 その言葉に、那種の身体が一瞬強張った。


 魔女の気配が鋭くなる。


 猛の目が沈む。


 戎の手にわずかに力が入る。


 だが、那種は息を吐いた。


 怖い。


 でも、ここには三人がいる。


 魔女もいる。


 森もいる。


「取られない」


 那種は言った。


 自分に言い聞かせるように。


「もう、取られない」


 魔女が静かに言う。


「その通りだ」


 那種は頷いた。


 布人形を、母様かあさまの布袋と一緒に胸に抱いた。


     ◇


 帰る準備はすぐに終わった。


 といっても、那種の荷物は多くない。


 母様かあさまの布袋。


 紀良の新しい布人形。


 魔女が持たせた薬草。


 白銀の魔術を安定させるための小さな木片。


 森の水を封じた小瓶。


 そして、魔女が最後に渡した薄い外套。


 深い緑色の外套だった。


 見た目は簡素だが、内側に森の細い術式が編まれている。


「冷える時に着ろ」


 魔女は言った。


「白銀の右腕は、寒さに慣れるまで冷えやすい」


「はい」


「背の竜帝刻が疼く日も、これを羽織れ」


「はい」


「無理に人の服に慣れようとするな。背を塞がれるのが嫌なら、嫌と言え」


 那種は少しだけ驚いた。


 魔女は何でもないように続ける。


「竜帝刻を布で押さえ込むような服は避けろ」


「でも、外では」


「外でもだ」


 魔女は言った。


「息が詰まるものを、平気な顔で着るな」


 那種は小さく頷いた。


「はい」


「本条猛」


 魔女が猛を見る。


「この子は、背を塞がれることを嫌がる日がある」


 猛はすぐに頷いた。


「わかりました」


「わからん顔をしておる」


「……背中が開いた服を用意する」


「冬は」


「厚手の外套で調整する」


 魔女は少しだけ満足そうに頷いた。


「よい」


 猛は真面目な顔で考えていた。


 帰ったら、すぐに仕立てを頼む必要がある。


 道場着では無理だ。


 普通の子供服でも合わない。


 背を塞がず、寒さを防ぎ、動きやすい服。


 本条家にそんな知識はない。


 だが、必要なら学ぶ。


 娘が息が詰まると言うなら、それを無視する理由はない。


 戎はそのやり取りを聞いていた。


 那種の背。


 竜帝刻。


 塞がれると嫌。


 覚えた。


 ただ、それだけだった。


 覚えればいい。


 那種が嫌なことを。


 怖いことを。


 痛いことを。


 これから一つずつ覚えればいい。


     ◇


 庵を出る前、那種は入口で立ち止まった。


 振り返る。


 小さな庵。


 木の机。


 寝台。


 火を灯す場所。


 粥を食べた椀。


 白銀の膜を初めて作った机。


 怖い夢を見た夜に、魔女を呼んだ部屋。


 痛いと言ってよいと覚えた場所。


 嫌だと言って、止めてもらえた場所。


 那種は、そこへ深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 庵は答えない。


 だが、木の壁が小さく軋んだ。


 まるで、聞いたと言うように。


 那種は外へ出た。


 魔女が隣に立つ。


 森の道が開いている。


 本条家の三人が少し前で待っている。


 那種は魔女を見た。


 言わなければならない。


 ただ帰るだけでは駄目だ。


 ここを出る言葉が必要だった。


 でも、何と言えばいいのか、少し迷った。


 さようなら。


 違う。


 ありがとうございました。


 それだけでは足りない。


 また来ます。


 それも本当だけれど、今の言葉ではない。


 那種は胸元の布袋と人形を抱きしめた。


 そして、魔女を見上げた。


「師匠」


「何だ」


「いってきます」


 魔女の目が、ほんの少しだけ見開かれた。


 森が静かになる。


 その言葉は、別れではなかった。


 帰る場所へ向かう者が、もう一つの帰る場所へ残す言葉。


 出ていくのではない。


 捨てるのでもない。


 戻ってくることを前提にした言葉。


 魔女は長く黙った。


 そして、静かに言った。


「行ってこい」


 那種は泣きながら笑った。


「はい」


「転ぶな」


「はい」


「無理をするな」


「はい」


「痛ければ言え」


「はい」


「返事だけで済ますな」


 那種は涙を拭いた。


「ちゃんと言います」


「よい」


 魔女は那種の頭を撫でた。


「行ってこい、樹那種」


 那種は頷いた。


「はい」


 そして、歩き出した。


 森の道を。


 本条家の方へ。


     ◇


 大樹の森を出る時、那種は一度だけ振り返った。


 魔女は森の境に立っていた。


 それ以上は来ない。


 大樹の森の主だから。


 皇国の道を歩く者ではないから。


 けれど、見送ってくれている。


 那種は手を振ろうとして、右腕を上げかけ、少し迷った。


 そして、白銀の右手を上げた。


 魔女はそれを見ていた。


 小さく頷いた。


 那種は手を下ろした。


 大樹の森の影が、少しずつ遠ざかる。


 寂しい。


 怖い。


 でも、隣には戎がいる。


 前には猛がいる。


 後ろに紀良がいる。


 いや、紀良はすぐに那種の横へ並び、袖を掴んだ。


 那種は小さく笑った。


「紀良」


「何?」


「歩きにくくない?」


「歩きにくくない」


「本当?」


「本当」


 戎が反対側を歩いている。


 手は繋いでいない。


 だが、すぐ届く距離にいる。


 猛は先頭を歩きながら、何度も足を止めそうになっていた。


 那種の歩幅を見ている。


 疲れていないか。


 ふらついていないか。


 右腕が冷えていないか。


 背が痛んでいないか。


 父の視線だった。


 那種は、それを感じていた。


 少し恥ずかしい。


 少し安心する。


「お父さん」


「何だ」


「歩けます」


「知ってる」


「でも、見てます」


「見る」


 那種は少しだけ笑った。


「はい」


 猛はそれ以上言わなかった。


 ただ、歩幅を少しだけ緩めた。


     ◇


 本条家の門が見えた時、那種は足を止めた。


 夕方だった。


 空は薄い橙色に染まり、道場の屋根が影を落としている。


 門は昔と変わらなかった。


 少し古くなったかもしれない。


 那種がいなかった時間の分だけ、木目が深くなっている気がした。


 それでも、門はそこにあった。


 本条家。


 剣の家。


 澄乃のいた家。


 猛が帰ってくる家。


 戎と紀良が待っていた家。


 那種が、初めて自分の場所として覚えた家。


 那種の足が震えた。


 戎が気づく。


「那種」


「うん」


「入れるか」


 那種は門を見た。


 胸が苦しい。


 帰りたい。


 でも、怖い。


 門をくぐったら、本当に帰ってきたことになる。


 そう思うと、涙が出そうだった。


 猛は門の前で振り返った。


 急かさなかった。


 紀良も袖を掴んだまま、黙っていた。


 那種は深く息を吸った。


 白銀の右腕を胸に寄せる。


 左手で布袋と人形を抱く。


 そして、一歩進んだ。


 門をくぐる。


 本条家の空気が、那種を包んだ。


 木の匂い。


 道場の床の匂い。


 台所の煙の匂い。


 遠くで門下生が息を呑む気配。


 懐かしい。


 懐かしすぎて、胸が痛い。


 母屋の障子が見える。


 縁側。


 庭。


 井戸。


 すべてが、少しずつ変わっていて、でも変わっていなかった。


 那種はそこで立ち止まった。


 何を言えばいいのか、わかっていた。


 ずっと言いたかった。


 でも、声が出ない。


 喉が詰まる。


 涙で前が滲む。


 猛が待っている。


 戎が待っている。


 紀良が待っている。


 この家が待っている。


 那種は唇を震わせた。


「ただいま」


 小さな声だった。


 けれど、確かに届いた。


 猛が目を閉じた。


 戎が息を止めた。


 紀良がまた泣いた。


 道場の奥で、門下生の誰かが鼻をすすった。


 猛はゆっくり歩み寄った。


 大きな手を、那種の頭へ置く。


 少し力が強い。


 でも、那種は逃げなかった。


「ああ」


 猛は低く言った。


「おかえり」


 その一言で、那種は泣き崩れた。


 戎が支える。


 紀良が抱きつく。


 猛が三人ごと抱き寄せる。


 本条家の庭に、泣き声が重なった。


 悲しいだけではない。


 痛いだけでもない。


 戻ってきた者と、待っていた者の泣き声だった。


 那種は泣きながら、何度も言った。


「ただいま」


 猛が答える。


「おかえり」


 戎も答える。


「おかえり、那種」


 紀良も泣きながら言う。


「おかえり、姉様」


 那種は、そのたびに頷いた。


 大樹の森へは、いってきますと言った。


 本条家へは、ただいまと言った。


 帰る場所が、一つではなくなった日。


 樹那種は、本条の家へ帰ってきた。


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