第2章 第18話『父と弟と妹』
第十八話 父と弟と妹
黒い鳥が飛び去った後、本条家は静かになった。
騒がしくなるはずだった。
那種が生きているかもしれない。
大樹の森から知らせが来た。
迎えに行ける。
その事実だけで、紀良は泣き、戎は葉を握りしめそうになり、門下生たちは息を呑んで立ち尽くした。
だが、猛が低く言った。
「支度しろ」
その一言で、空気が変わった。
これはただの再会ではない。
大樹の森へ向かうのだ。
皇国の中にありながら、皇国の領土ではない不可侵の森へ。
そこには、大樹の魔女がいる。
人類の味方でも、魔族の味方でもない古い大魔族。
那種を救ったかもしれない存在。
そして、間違えれば本条家ごと呑まれる相手。
浮かれて走れる場所ではなかった。
戎は白銀の葉を両手で持っていた。
光は消えない。
葉脈の中に、那種の白銀が宿っている。
淡く、静かで、しかし確かに那種の気配だった。
「父さん」
「何だ」
「すぐ行く」
「行く」
猛は頷いた。
「だが、走るな」
戎の眉が動いた。
「わかってる」
「本当にか」
「……わかってる」
「今度は壊しに行くんじゃない」
猛は戎を見た。
「迎えに行くんだ」
戎は葉を見た。
那種の気配。
森の印。
迎えに行く。
その言葉を、胸の奥へ沈める。
「はい」
短い返事だった。
だが、以前のような焦りだけではなかった。
紀良が涙を拭きながら言った。
「私も行く」
猛が紀良を見る。
「危ない」
「でも行く」
「大樹の森だ」
「わかってる」
「わかってない」
「わかってないけど、行く」
紀良は袖を握りしめていた。
まだ幼い。
けれど、その目は揺れていなかった。
「姉様に、会いたい」
猛は黙った。
「姉様に、ただいまって言ってほしい」
紀良の声が震える。
「私、待ってたって言いたい」
戎は紀良を見た。
止めたいと思った。
危ない。
連れて行きたくない。
大樹の森が何をするかわからない。
魔女が何を考えているのかもわからない。
でも、紀良も那種の妹だ。
待っていた。
泣いていた。
那種の布人形を思い出しては、自分の小さな手を握っていた。
その紀良を、置いて行っていいのか。
戎には答えが出せなかった。
猛はしばらく紀良を見ていた。
それから、低く言った。
「俺のそばを離れるな」
紀良の顔が上がる。
「いいの?」
「途中で泣いても止まらんぞ」
「泣かない」
「嘘をつけ」
「泣いても、歩く」
猛は短く息を吐いた。
「なら来い」
紀良は大きく頷いた。
戎も何も言わなかった。
門下生の一人が声をかける。
「先生、護衛は」
「いらん」
「ですが」
「大樹の森に人数を連れて行く方が危ない」
猛は即答した。
「俺と戎と紀良で行く」
門下生は黙った。
それが本条家として迎えに行く、ということなのだと理解したからだ。
◇
支度は簡素だった。
水。
乾いた食料。
薬。
防寒具。
小さな灯具。
そして、那種が本条家を出る時に持たせた短刀の代わりになる、小さな守り刀。
あの短刀は戻っていない。
ノーザス家の押収品の中にも、見つからなかった。
猛はそれを今でも悔いていた。
だから、新しい守り刀を包みに入れた。
持たせるためではない。
返すためでもない。
ただ、那種が帰ってきた時、本条家からもう一度渡すものが必要だと思った。
紀良は自分の小さな布袋に何かを入れていた。
戎が聞く。
「何を入れた」
「姉様にあげるもの」
「何だ」
「内緒」
紀良は布袋を胸に抱いた。
戎はそれ以上聞かなかった。
後で見ればいい。
那種が受け取るところを見ればいい。
そう思った。
戎自身は、白銀の葉を小さな布で包んだ。
壊れないように。
消えないように。
胸元へ入れる。
そこに那種がいるような気がした。
猛は刀を佩いた。
本条流の刀。
荒ぶるものを鎮める剣。
だが、大樹の森へ向かう今、猛はそれを抜くために持っていくのではない。
父として、娘を迎えに行く。
その道中で必要ならば抜く。
だが、森に対して向けるものではない。
猛は霊壇の前に立った。
本条澄乃の霊壇。
静かに手を合わせる。
「澄乃」
声は低かった。
「迎えに行ってくる」
返事はない。
それでも、猛は続けた。
「遅くなった」
戎も、紀良も、後ろで黙っていた。
猛は目を閉じる。
「今度は、連れて帰る」
それだけ言って、手を下ろした。
紀良が小さな声で言う。
「お母さん、姉様に会えるかな」
猛は振り返らずに答えた。
「ああ」
「姉様、母様って呼ぶよね」
「呼ぶ」
戎が言った。
「那種は、ちゃんと帰ってくる」
紀良は頷いた。
三人は霊壇を後にした。
◇
大樹の森へ向かう道は、遠いようで近かった。
王都近郊から伸びる街道を外れ、低い丘を越え、古い石標を過ぎる。
そこから先は、空気が変わる。
人の道の匂いが薄くなる。
草の背が高くなり、木々の影が濃くなる。
遠くに見える森は、ただの森ではなかった。
大樹の森。
神崇皇国の中にありながら、皇国領ではない場所。
初代皇王グレイヴンと大樹の魔女の誓約によって不可侵とされた森。
人は、無断で入らない。
入った者は、戻らないこともある。
戎は歩きながら、胸元の葉を感じていた。
白銀の気配が、微かにある。
その気配が、森の方へ向いている。
那種がいる。
そう思うだけで、足が前へ出そうになる。
だが、猛の言葉を思い出す。
走るな。
迎えに行くんだ。
戎は呼吸を整えた。
父の足音に合わせる。
紀良は猛の袖を掴んで歩いている。
怖がっている。
それでも、泣かなかった。
「紀良」
戎が呼ぶ。
「何、兄様」
「疲れたら言え」
「言ったら置いていく?」
「置いていかない」
「じゃあ、まだ大丈夫」
「無理するな」
「兄様に言われたくない」
戎は黙った。
猛がわずかに口元を動かした。
「その通りだな」
「父さん」
「無理をする奴ほど、人に無理をするなと言う」
戎は言い返せなかった。
紀良は少しだけ笑った。
その笑みはすぐに消えた。
森が近づいていたからだ。
◇
森の境には、柵も門もなかった。
ただ、そこから先は違うとわかる境目があった。
木々が密になり、影が深くなり、空気が重くなる。
鳥の声が少ない。
風は吹いているのに、葉擦れの音がどこか遠い。
戎は森の前で足を止めた。
身体が、入るなと告げている。
それでも胸元の葉は、白銀の光を少しだけ強めた。
那種がいる。
この先に。
猛は森の境へ向かって一歩進んだ。
だが、足を踏み入れる前に止まる。
そして、深く頭を下げた。
戎もすぐに頭を下げた。
紀良も慌てて真似をする。
猛は言った。
「本条猛だ」
森は何も答えない。
「娘を迎えに来た」
風が止まった。
木々が、こちらを見たような気がした。
猛はさらに続けた。
「名は、那種」
その名を口にした瞬間、戎の胸元の葉が微かに震えた。
「あの家の名では呼ばん」
猛の声は低く、硬かった。
「俺の娘だ」
森の奥で、何かが動いた。
霧が出る。
地面から、木々の間から、白い霧が流れ出す。
紀良が猛の袖を握りしめた。
戎は一歩前に出かけて、止まった。
走るな。
迎えに行く。
そう自分に言い聞かせる。
霧の中から、女が現れた。
大樹の魔女だった。
長い髪。
古い森の気配。
人の形をしていながら、人ではない圧。
魔族でありながら、魔族の軍勢とも違う孤高の気配。
戎は一瞬で理解した。
この存在が、那種を救った。
そして、もし自分たちが間違えれば、那種へ近づくことを許さない。
魔女は三人を見た。
まず猛。
次に戎。
最後に紀良。
「本条猛」
魔女が言った。
「はい」
「よく来た」
歓迎の言葉ではない。
確認だった。
猛は頭を上げた。
「那種は」
「生きておる」
紀良が息を呑んだ。
戎の拳が震えた。
猛は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして、開いた。
「ありがとうございます」
猛は深く頭を下げた。
戎も頭を下げた。
紀良も、泣きそうになりながら頭を下げた。
魔女はそれを見ていた。
「礼は、あの子が自分で生きたことに言え」
猛は顔を上げる。
「妾は拾った。水を飲ませた。粥を食わせた。名を与えた。だが、生きると決めたのはあの子だ」
戎の胸が詰まった。
那種が生きると決めた。
知らないところで。
自分たちの届かない場所で。
那種は生きていた。
「名を与えた、と」
猛が低く聞いた。
魔女は静かに答える。
「今のあの子は、樹那種と名乗っておる」
猛の目が、わずかに動いた。
「樹……那種」
「ああ」
魔女は言った。
「妾が与えた名だ。あの子が、あの家の名を捨て、すぐに本条を背負うこともできぬまま、一度立つための名だ」
猛は黙った。
戎も、紀良も、その名を聞いていた。
樹那種。
那種。
でも、少し違う。
大樹の森で生きた那種の名。
魔女が守るために与えた名。
魔女は猛を見た。
「拒むか」
「拒まん」
猛は即答した。
声に迷いはなかった。
「その名で、あいつが立てたなら、それでいい」
魔女の目が細くなる。
「本条の名ではないぞ」
「関係ない」
猛は言った。
「樹だろうが、本条だろうが、那種は那種だ」
戎が、小さく頷いた。
紀良も涙を浮かべたまま頷いた。
魔女はそれを見て、しばらく黙っていた。
そして、戎へ視線を向けた。
「お前が、戎か」
「はい」
「障壁を殴った子だな」
戎の顔が強張った。
「はい」
「無謀だ」
「はい」
「愚かだ」
「はい」
「だが、あの子には届いた」
戎は息を止めた。
魔女は続けた。
「あの子は、お前が来たことを覚えておる」
戎の目が揺れた。
「待っていると言ったことも、覚えておる」
戎は唇を結んだ。
泣くな。
まだ泣くな。
まだ会っていない。
「会わせてください」
戎が言った。
声が震えていた。
魔女の目が戎へ向く。
空気が重くなる。
「会って、どうする」
「連れて帰ります」
「連れて帰る?」
その声が、少しだけ低くなった。
「どこへ」
「本条の家へ」
「何として」
戎は一瞬だけ言葉に詰まった。
何として。
姉として。
家族として。
那種として。
樹那種として。
答えは一つではなかった。
猛が言う前に、戎が答えた。
「那種として」
魔女の目が細くなる。
戎は続けた。
「変わっていても、那種です」
胸元の白銀の葉が揺れた。
「何があっても、那種です」
魔女は黙った。
戎は言葉を探した。
うまく言えない。
でも、言わなければならない。
「俺は、待つと言いました」
「ああ」
「でも、待つだけじゃなくて、迎えに来ました」
「ああ」
「帰ってきたら、那種だと言います」
戎は魔女を見た。
「それだけは、絶対に言います」
森が静かになった。
魔女はしばらく戎を見ていた。
そして、少しだけ視線を紀良へ向ける。
「お前は」
紀良はびくりとした。
「はい」
「妹か」
「はい」
「何をしに来た」
紀良は袖を握りしめた。
涙がこぼれそうだった。
でも、必死に言った。
「姉様に、会いに来ました」
「それだけか」
「待ってたって、言いに来ました」
紀良の声が震える。
「あと」
「あと?」
「ごめんなさいって」
猛と戎が紀良を見る。
紀良は俯いた。
「私、姉様に布人形を渡したのに、守れなかった」
戎の顔が歪む。
猛も言葉を失う。
紀良は泣きながら続けた。
「姉様、寂しくないようにって渡したのに、取られちゃったって聞いて」
魔女の目がわずかに揺れた。
「あれは、お前のせいではない」
「でも、姉様にもう一回、渡したい」
紀良は布袋を開いた。
中には、小さな布人形が入っていた。
不格好な人形だった。
縫い目は粗く、顔も少し歪んでいる。
だが、大事に作られたものだとわかった。
「今度は、ちゃんと持って帰ってもらうの」
紀良は泣きながら言った。
「姉様が、また寂しくならないように」
魔女は布人形を見ていた。
あの子が、失ったもの。
奪われたもの。
その代わりを、この小さな妹が持ってきた。
魔女は目を伏せた。
「そうか」
短い言葉だった。
だが、声の硬さは少しだけ和らいでいた。
最後に、魔女は猛を見た。
「父よ」
「はい」
「お前は、あの子を守れなかった」
猛は逃げなかった。
「はい」
「預けた」
「はい」
「気づくのが遅れた」
「はい」
「迎えにも遅れた」
猛の拳が震えた。
「はい」
魔女は容赦しなかった。
「それでも、父と名乗るか」
戎が息を呑む。
紀良が泣きそうに猛を見る。
猛は、まっすぐ魔女を見た。
「名乗ります」
声は低く、重かった。
「守れなかったことは消えません」
「ああ」
「遅れたことも、預けたことも、見誤ったことも、消えません」
「ああ」
「それでも、俺はあの子の父です」
猛は頭を下げた。
「父として、迎えに来ました」
魔女は黙っていた。
「許されるためではありません」
猛は続ける。
「責められないためでもありません」
声が少しだけ掠れた。
「帰ってきた時、あの子が帰る場所をなくさないために来ました」
森の葉が揺れた。
魔女は猛を見ていた。
長く。
深く。
そして、静かに言った。
「ならば、覚えておけ」
猛は顔を上げる。
「あの子は変わった」
「はい」
「右腕も、背も、魔術も、名も」
「はい」
「戻しきれぬ傷もある」
戎の顔が強張った。
紀良が泣きそうになる。
猛は奥歯を噛んだ。
「それでも、同じ子として抱けるか」
猛は即答した。
「抱きます」
魔女の目が、戎へ向く。
「お前は」
戎は答えた。
「那種です」
「まだ見ておらぬ」
「見ても、那種です」
「右腕が違ってもか」
「那種の腕です」
「背に竜の刻印があってもか」
「那種の背です」
「傷があってもか」
戎は一瞬だけ息を止めた。
悲しい。
怒りたい。
何をされたのか聞きたい。
それでも、言葉は迷わなかった。
「那種です」
魔女は、最後に紀良を見た。
「お前は」
紀良は布人形を握ったまま、泣きながら言った。
「姉様は、姉様です」
それは幼い言葉だった。
けれど、十分だった。
◇
森の霧が動いた。
木々の間に、道ができる。
人の道ではない。
森が一時だけ許した道。
魔女は三人へ背を向けた。
「来い」
猛が歩き出す。
戎も続く。
紀良は布人形を抱え、猛の袖を掴んだまま歩く。
森の中は静かだった。
足元の根が、歩きやすいようにわずかに沈む。
枝が顔に当たらないように退く。
だが、歓迎されているわけではない。
見られている。
試されている。
大樹の森全体が、本条家を見ていた。
戎は胸元の葉を感じる。
白銀の気配が強くなる。
近い。
那種が近い。
心臓がうるさい。
走りたい。
叫びたい。
だが、走らない。
今度は、障壁を叩くのではない。
迎えに行く。
那種が帰れるように。
那種が怖がらないように。
戎は呼吸を整えた。
猛の背中を見て歩く。
その先に、木々の間から小さな庵が見えた。
大樹の森の奥にある、魔女の庵。
その前に、白銀の光が一つ灯っていた。
戎は足を止めた。
紀良も止まる。
猛も、息を止めた。
庵の前に、少女が立っていた。
銀白の髪。
細い身体。
白銀の右腕。
背を庇うような立ち方。
胸元には古い布袋。
そして、こちらを見ている金色の瞳。
那種だった。
戎は、言葉を失った。
那種も、動けなかった。
森の空気だけが、二人の間を流れていた。
魔女は何も言わない。
猛も、紀良も、まだ動かなかった。
最初に声を出すべきなのは、誰か。
その答えを、誰も急がせなかった。
那種の白銀が、指先で震える。
怖い。
会いたかった。
帰りたかった。
でも、目の前にいる三人が、自分をどう見るのかが怖い。
那種は右腕を胸元へ寄せた。
隠すように。
その瞬間、戎が一歩進んだ。
魔女の気配が鋭くなる。
猛も止めようとした。
だが、戎は走らなかった。
一歩だけ。
ゆっくり。
那種が逃げない速さで。
そして、言った。
「那種」
声は震えていた。
けれど、確かだった。
「那種だろ」
那種の目が大きく開いた。
白銀の光が、小さく揺れた。
右腕も、背の竜帝刻も、傷も、名も、何もまだ説明していない。
それでも、戎は言った。
那種だろ。
その一言で、那種の中に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
涙がこぼれた。
「戎」
声になった。
震えていた。
でも、確かに呼べた。
「うん」
子供の頃のような返事が、那種の口からこぼれた。
「私、那種」
戎の顔が歪んだ。
泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
「知ってる」
那種は一歩踏み出そうとして、足が震えた。
白銀の右腕が光る。
背の竜帝刻が疼く。
怖さと安堵が一度に押し寄せる。
倒れそうになった瞬間、魔女が支えようとした。
だが、その前に猛が動いた。
ゆっくりと。
那種を怯えさせないように。
大きな手を伸ばす。
「那種」
猛の声が、森の中に落ちた。
「迎えに来た」
那種は顔を上げた。
「お父さん」
「ああ」
猛の顔は、いつもよりずっと苦しそうだった。
それでも、両腕を広げた。
「帰るぞ」
那種の涙が止まらなくなった。
その言葉を、ずっと聞きたかった。
あの家で。
森の中で。
熱の中で。
白銀を覚えながら。
何度も、何度も。
帰るぞ。
その言葉が、今、目の前にある。
那種は一歩進んだ。
また一歩。
そして、猛の腕の中へ入った。
猛は那種を抱きしめた。
強く。
だが、壊さないように。
初めて抱いた時より、那種は大きくなっていた。
けれど、軽かった。
軽すぎた。
猛は奥歯を噛んだ。
「遅くなった」
那種は泣きながら首を横に振った。
「お父さん」
「ああ」
「帰って、いいですか」
猛の腕に力が入る。
「いいに決まってる」
那種は声を上げて泣いた。
紀良も泣き出した。
「姉様!」
那種が顔を上げる。
紀良が布人形を抱えて立っている。
小さな妹。
最後に見た時より、少し大きくなっている。
「紀良」
「姉様、これ」
紀良は泣きながら布人形を差し出した。
「前の、取られちゃったから。今度の」
那種は震える手で受け取った。
左手で。
白銀の右腕で触れるのが少し怖かったからだ。
紀良はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、那種へ抱きついた。
「姉様、帰ってきて」
那種は布人形を抱えたまま、紀良を抱いた。
「うん」
「待ってた」
「うん」
「ずっと」
「うん」
紀良は泣きながら、何度も言った。
待ってた。
待ってた。
待ってた。
那種はそのたびに頷いた。
魔女は少し離れて見ていた。
森も見ていた。
戎は、まだ一歩離れていた。
那種が紀良を抱きしめたまま、戎を見る。
戎も見ている。
そこには、まだ言葉にできないものがあった。
謝りたい。
泣きたい。
抱きしめたい。
でも、どう触れていいかわからない。
那種が右腕を少し動かす。
戎は、それを見た。
白銀の右腕。
竜帝の契約を宿した腕。
それでも、戎は怖がらなかった。
ただ、ゆっくり手を伸ばした。
那種の右手ではなく、左手へ。
昔、那種が戎の袖を掴んだ時のように。
今度は、戎が那種の手を取った。
「待ってた」
戎は言った。
那種の涙がまた溢れた。
「うん」
「帰ってきた」
「うん」
「なら」
戎は手に力を込めた。
強すぎないように。
でも、離さないように。
「帰ろう」
那種は泣きながら頷いた。
「うん」
その答えを聞いて、魔女は静かに目を伏せた。
まだ終わりではない。
那種には、大樹の森へ言うべき言葉がある。
魔女へ言うべき言葉がある。
そして、本条家へ帰ってから言うべき言葉もある。
だが、この瞬間だけは、それでよかった。
父と弟と妹が、那種を迎えに来た。
そして那種は、帰ると答えた。
大樹の森に、白銀の光が静かに揺れていた。




