第2章 第17話『届くための剣』
第二章 第十七話 届くための剣
戎は、夢を見るようになった。
夢の中で、いつも那種は障壁の向こうにいた。
白い床。
術式の線。
炎の匂い。
硝子のように硬い、透明な壁。
その向こうで、那種がこちらを見ている。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
声を出せば聞こえそうなのに、間にあるものがすべてを鈍らせる。
戎は拳で障壁を叩く。
叩く。
叩く。
拳が裂けても、血が滲んでも、障壁は壊れない。
那種は泣きそうな顔で、しかし自分を守ろうとするように炎を揺らしている。
帰るぞ。
戎は叫ぶ。
だが、夢の中の那種は動けない。
足元の術式に縛られている。
那種。
那種。
那種。
その名を呼んだところで、いつも目が覚める。
目が覚めると、そこは本条家だった。
道場の隣の小さな部屋。
薄い布団。
冷えた空気。
まだ夜明け前の暗さ。
那種はいない。
障壁もない。
拳の傷だけが、夢ではなかった。
戎は起き上がる。
水を飲む。
木刀を持つ。
道場へ行く。
それが、この頃の戎の朝だった。
◇
猛は何も言わず、戎の稽古を見ていた。
叱ることは多い。
止めることも多い。
だが、道場へ立つなとは言わなかった。
戎が道場へ来る理由を、猛は知っている。
那種のためだ。
あの子がいない家で、戎はただ待つことができない。
待つと決めた。
だが、何もせずに待つことはできない。
だから、剣を握る。
それは危うい。
怒りと悔しさは、子供の身体を簡単に壊す。
復讐心は、剣を濁らせる。
焦りは、足を乱す。
だが、それでも、戎を止めてしまえば別の場所が壊れる。
猛はそれを知っていた。
だから、戎の稽古を変えた。
強く振るな。
速く振るな。
遠くへ届こうとするな。
まず、立て。
足を置け。
呼吸を見ろ。
距離を測れ。
相手を見ろ。
床を聞け。
木刀を上げる前に、己の重心を知れ。
戎はそれを、黙って聞いた。
そして、繰り返した。
前へ一歩。
止まる。
戻る。
半歩。
止まる。
呼吸。
肩。
腰。
足。
手。
目。
それだけで、朝が終わる日もあった。
戎は木刀を振りたかった。
目の前にあるものを斬りたかった。
障壁を、記録を、あの家の影を、那種を縛ったものすべてを。
だが、猛は言った。
「斬りたいものが見えすぎる時は、斬るな」
戎は眉を寄せた。
「どうして」
「余計なものまで斬る」
「那種を縛ったものだけ斬る」
「今のお前には、まだ選べん」
戎は黙った。
猛は容赦しなかった。
「怒っている時ほど、自分が正しいと思う。守るためだと言いながら、壊すことを先に選ぶ」
「俺は」
「だから稽古する」
猛は低く言った。
「本当に守りたいなら、斬るものを選べるようになれ」
戎は木刀を握る。
握りしめすぎて、指が白くなる。
猛が木刀の柄を軽く叩いた。
「力を抜け」
「抜いたら落とす」
「落とせ」
戎の手が止まる。
「落としても拾えばいい。握り潰して手を壊すよりましだ」
戎は少しずつ力を抜いた。
木刀の重さが掌へ落ちる。
手の中で遊ぶ。
怖い。
手放しそうになる。
それでも、握りすぎていた時より、木刀が動きやすくなった。
猛が頷く。
「そうだ」
戎は自分の手を見た。
届くためには、握りしめるだけでは駄目なのだと、その時初めて少しだけ知った。
◇
紀良は、戎の稽古を見るようになった。
最初は心配だった。
兄様が倒れないか。
熱を隠していないか。
また拳を傷つけないか。
そう思って見ていた。
けれど、見ているうちに、紀良にも少しだけわかってきた。
戎は怒っている。
悔しがっている。
那種に会いたがっている。
けれど、ただ暴れているのではない。
父の声を聞いている。
何度もやり直している。
転びそうになって、立て直している。
紀良は道場の柱の陰から言った。
「兄様」
「何だ」
「姉様が帰ってきたら、驚くかな」
戎は木刀を下ろした。
「何に」
「兄様が強くなってたら」
戎は少し黙った。
「驚かせたいわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「次は届く」
紀良は首を傾げた。
「届く?」
「ああ」
「姉様に?」
戎は頷いた。
紀良は少し考えた。
「姉様、帰ってくるよね」
「ああ」
「兄様、迎えに行く?」
「ああ」
「私も行く」
「駄目だ」
「どうして」
「危ない」
「兄様だって危ない」
「俺は」
「私も姉様の妹」
戎は言葉に詰まった。
紀良は泣いてはいなかった。
幼い顔のまま、真剣に戎を見ている。
「姉様に、ただいまって言ってほしい」
戎は黙った。
猛が遠くから見ていた。
戎はしばらくして言った。
「父さんに聞け」
「兄様は?」
「俺は止めたい」
「ずるい」
「危ないからだ」
「でも、姉様は危ないところにいた」
戎の顔が強張った。
紀良はすぐに俯いた。
「ごめんなさい」
「いや」
戎は首を横に振った。
「その通りだ」
紀良は顔を上げた。
「那種は、危ないところにいた」
戎は言った。
「だから、迎えに行く時は、ちゃんと連れて帰る」
「うん」
「紀良が来るかは、父さんが決める」
「うん」
「でも、帰ってきたら」
「うん」
「泣くなよ」
紀良は口を尖らせた。
「兄様も泣かないでね」
「泣かない」
「絶対?」
「ああ」
「姉様が帰ってきても?」
戎は少し黙った。
「……たぶん」
紀良は少しだけ笑った。
それを見て、戎の表情もほんのわずかに緩んだ。
◇
森では、那種が帰る道の話をしていた。
大樹の魔女は、庵の机に古い木片をいくつも並べている。
地図ではない。
人間の道を示すものでもない。
森の根の流れ。
水脈。
古い誓約の境界。
皇国側の巡回路。
人が通れる場所。
人が通ってはならない場所。
それらを、魔女は木片の位置で示していた。
那種は椅子に座り、それを見ている。
白銀の右腕は膝の上。
左手には母様の布袋。
「この森を出れば、すぐに皇国ですか」
「森は皇国内にある」
「でも、皇国の領土ではない」
「覚えておるな」
「はい」
那種は森のことを少しずつ理解していた。
大樹の森は、皇国の中にある。
けれど皇国領ではない。
初代皇王グレイヴンと大樹の魔女の誓約により、不可侵とされた場所。
人の法が及ばない森。
魔族の法も及ばない森。
大樹の魔女の森。
自分は、そこに救われた。
「お母さんが私を本条家まで送ることは、できますか」
「できる」
魔女は答えた。
「だが、よくない」
「どうしてですか」
「妾が皇国の道を歩けば、騒ぎになる」
那種は少し想像した。
大樹の魔女が王都の道を歩く。
人々が逃げる。
騎士団が構える。
結界が反応する。
大変なことになるのは、那種にもわかった。
「じゃあ、森の縁まで?」
「それも簡単ではない」
「森の縁も、危ないですか」
「お前にとってはな」
魔女は木片を動かした。
「森の外へ出れば、人の目がある。お前はまだ、見知らぬ者の視線に耐えられるほど戻っておらぬ」
那種は俯いた。
確かに、まだ怖い。
大樹の魔女や森には慣れた。
だが、知らない人間の足音を聞くと、身体が強張ることがある。
誰かが記録板を持っていると、呼吸が浅くなる。
魔女が使う薬草の瓶でさえ、形によっては一瞬身体が固まる。
帰りたい。
でも、人の世が怖い。
その矛盾を、那種はまだうまく扱えなかった。
「怖いです」
那種は正直に言った。
「帰りたいのに、怖いです」
「それでよい」
魔女は言った。
「帰りたいことと、怖いことは、同時にあってよい」
「同時に」
「ああ」
魔女は木片を一つ、那種の前へ置いた。
「だから、道を作る」
「道」
「お前が一人で走って戻る道ではない。妾が抱えて閉じ込める道でもない。本条の者たちが迎えに来られる道だ」
那種の目が揺れた。
「お父さんたちが」
「ああ」
「戎も?」
「来るだろう」
魔女の声には、少しだけ呆れがあった。
「あの子は来る」
那種は思わず笑った。
「はい」
「笑うほど確信があるか」
「戎は、来ます」
「そうだろうな」
魔女は木片を並べ直した。
「ならば、妾は知らせを出す」
「知らせ」
「大樹の森は、言葉だけで話すわけではない」
魔女は森の外へ目を向けた。
「白銀の痕跡を残す。お前のものだとわかる程度に。だが、知らぬ者には意味がわからぬように」
「私の白銀を?」
「ああ」
「できますか」
「お前がする」
那種は目を見開いた。
「私が?」
「帰りたいのだろう」
「はい」
「なら、帰るための印を自分で灯せ」
那種の胸が強く鳴った。
怖い。
でも、嫌ではない。
自分で灯す。
本条家へ帰るための印を。
那種は右手を見た。
白銀の腕。
竜帝アギトとの契約の証。
守る力。
それは、帰るための力にもなるのだ。
「やります」
那種は言った。
「私が、灯します」
◇
本条家では、戎が初めて猛に打ち込んだ。
もちろん、本当に当てたわけではない。
猛は避けた。
受け流した。
戎はすぐに崩された。
床に転がり、背中を打つ。
息が詰まった。
「立て」
猛が言う。
戎は立った。
「今の何が悪い」
「踏み込みが浅い」
「他は」
「肩が先に動いた」
「他は」
「目が木刀を追った」
「他は」
戎は黙った。
猛は言った。
「届かせようとして、身体が前に流れた」
戎は歯を食いしばる。
「届かせたいと思うのは悪くない」
猛は続けた。
「だが、身体が流れれば、刃は死ぬ」
「刃が死ぬ」
「ああ」
「じゃあ、どうする」
「届く場所まで、身体を運べ」
猛は床を足で軽く叩いた。
「腕を伸ばすな。足で近づけ。近づきすぎるな。間を作れ。間を作ったら、そこに刃を置け」
戎は木刀を構え直した。
「もう一回」
「休め」
「もう一回」
「呼吸が乱れてる」
「まだ」
「休め」
猛の声が低くなった。
戎は止まった。
那種に怒られる。
そう思った。
そして、そのことに自分で気づいて少しだけ驚いた。
那種はいない。
まだ帰ってきていない。
でも、那種の声が、自分を止めた。
大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わないで。
お姉ちゃん、怒るよ。
戎は木刀を下ろした。
「休む」
猛は頷いた。
「よし」
戎は道場の端へ座った。
息を整える。
拳を見る。
傷跡はほとんど消えた。
けれど、忘れていない。
届かなかったこと。
那種が向こうにいたこと。
待っていると言ったこと。
戎は手を握った。
握りしめすぎないように。
落とさない程度に。
猛が横へ座った。
「戎」
「何」
「那種が帰ってきたら、何を言う」
戎はすぐには答えなかった。
考えたことは何度もある。
怒りたい。
謝りたい。
迎えに行くと言いたい。
待っていたと言いたい。
帰るぞと言いたい。
でも、どれが最初なのかわからない。
「わからない」
戎は正直に言った。
「そうか」
「父さんは」
「俺もわからん」
戎は猛を見た。
猛は道場の床を見ている。
「ただ」
「ただ?」
「帰ってきたなら、まず帰ってきたことを受け止める」
猛は低く言った。
「何が変わっていてもだ」
戎は黙った。
那種は変わっているかもしれない。
どこか傷ついているかもしれない。
泣いているかもしれない。
自分たちを怖がるかもしれない。
それを戎は、考えないようにしていた。
考えると、稽古にならなくなるからだ。
猛は続けた。
「戻ってきた子に、昔のままを求めるな」
戎の肩が揺れた。
「那種は那種だ。だが、同じまま帰ってくるとは限らん」
「それでも」
戎は言った。
「那種だ」
猛は頷いた。
「ああ」
「それだけでいい」
「なら、それを忘れるな」
戎は頷いた。
目の奥が少し熱かった。
泣かない。
まだ泣かない。
那種が帰ってきた時に、自分がどんな顔をするのかはわからない。
だが、一つだけ決めた。
どんな那種でも、那種だと言う。
それだけは、必ず言う。
◇
大樹の森の外縁で、那種は白銀の印を灯した。
場所は、人の巡回路から少し外れた木立の奥だった。
誰でも見つけられる場所ではない。
だが、本条家の者ならば、探せば辿り着ける。
魔女がそう選んだ場所だった。
那種は少し緊張していた。
森の外縁に近づくと、人の世の気配がする。
風の匂いが変わる。
遠くに馬の匂いがある。
金属の匂いもある。
知らない足音の記憶が、身体の奥をざわつかせる。
那種は立ち止まった。
「怖いか」
魔女が聞く。
「怖いです」
「戻るか」
那種は首を横に振った。
「少し、ここにいます」
「よい」
魔女は待った。
那種は息を整える。
背の竜帝刻が熱を帯びる。
白銀の右腕が、淡く光る。
手を伸ばす先には、古い木の根があった。
大樹の森の根。
そこに白銀の光を少しだけ灯す。
強くではない。
目立ちすぎないように。
でも、消えないように。
那種は右手を根へ近づけた。
白銀の膜ではなく、細い線。
花を包むものでも、水滴を支えるものでもない。
印。
自分が生きていると伝えるための、小さな白銀。
那種は目を閉じた。
お父さん。
戎。
紀良。
私は、生きています。
帰りたいです。
迎えに来てください。
声には出さない。
けれど、その思いを白銀へ乗せる。
光が根に宿った。
白銀の小さな花のようだった。
根の表面に、薄い光の紋が咲く。
それは竜帝刻とは違う。
ただ、那種の白銀の気配を宿した印。
魔女はそれを見て頷いた。
「よい」
那種は右手を引いた。
少しだけ息が上がっている。
「届きますか」
「届かせる」
魔女は言った。
「森が覚えた。人の巡回に見つかる前に、正しい者へ向かわせる」
「正しい者」
「本条の者だ」
那種の胸が熱くなる。
「戎、気づくでしょうか」
「気づく」
魔女は即答した。
那種は驚いた顔で魔女を見た。
「どうしてそんなに」
「あの子は、お前を探す目をしておる」
魔女は淡々と言った。
「たとえ森の影に隠しても、白銀のかけらがあれば食いつくだろう」
那種は少しだけ笑った。
「戎らしいです」
「厄介な子だ」
「はい」
「そこは否定せんのか」
「厄介です。でも、優しいです」
魔女は何も言わなかった。
ただ、白銀の印を見る。
これで、動き出す。
森に隠していた娘を、人の世へ返す道が始まる。
寂しさがないと言えば嘘になる。
だが、魔女はもう決めていた。
この子を、森に閉じ込めない。
帰る場所がある子を、帰らせる。
それが、母というものなのだと。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
◇
翌朝、本条家に一羽の黒い鳥が来た。
普通の鳥ではない。
大樹の森の気配をまとった鳥だった。
門の上に止まり、動かない。
門下生が不審に思い、猛を呼んだ。
猛が外へ出る。
戎も来た。
紀良も、台所から走ってきた。
黒い鳥は、猛を見た。
次に戎を見た。
そして、小さく鳴いた。
その声は、鳥の声ではなかった。
葉擦れ。
水音。
根の軋み。
遠い森の気配。
戎の身体が、先に動いた。
「那種」
猛が戎を見る。
戎は門の外を見ていた。
何も見えないはずの道の先を、まっすぐに。
「那種だ」
「戎」
「いる」
戎の声は震えていた。
「那種の気配がする」
黒い鳥が羽ばたいた。
足元に、小さな白銀の光を落とす。
それは葉だった。
大樹の森の葉。
その葉脈に、白銀の細い光が宿っていた。
猛は息を止めた。
戎が一歩近づく。
手を伸ばす。
葉に触れた瞬間、白銀がふわりと揺れた。
熱くはない。
冷たくもない。
ただ、あの子の気配がした。
那種。
生きている。
戎は葉を握らなかった。
壊れないように、両手でそっと受けた。
紀良が泣き出した。
「姉様?」
猛は葉を見た。
白銀の光。
森の気配。
大樹の魔女の知らせ。
間違いない。
「支度しろ」
猛は低く言った。
戎が顔を上げる。
「行くぞ」
その言葉で、戎の目に光が戻った。
待つ時間が終わる。
今度は、迎えに行く。
拳で障壁を叩くのではない。
怒りで走るのでもない。
本条の家として。
父として。
弟として。
妹として。
那種を迎えに行く。
黒い鳥は、もう一度鳴いた。
そして、大樹の森の方へ飛んでいった。




