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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
大樹の魔女とその娘

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第2章 第16話『森に咲く白銀』

第十六話 森に咲く白銀


 白銀の魔術は、花に似ていた。


 最初は、葉一枚を包むだけだった。


 薄い膜を作り、すぐに散らす。


 水滴を支えようとして、こぼす。


 風を逸らそうとして、白銀の光ごと吹き散らされる。


 それでも、那種は続けた。


 倒れるまでではない。


 痛みを無視してでもない。


 大樹の魔女に止められる前に、自分で止まる。


 それも訓練の一つだった。


「今日はここまでです」


 那種が自分からそう言った時、魔女は少しだけ目を細めた。


「まだ余力がある顔だ」


「あります」


「なら、なぜ止める」


「余力を残せ、と言われたので」


「覚えておったか」


「覚えました」


 那種は小さく頷いた。


 以前なら、できるところまで続けていた。


 できなくなるまで。


 指が震えるまで。


 頭が痛くなるまで。


 火が揺れて、呼吸が乱れて、それでも続けなければならないと思っていた。


 けれど今は違う。


 今日できたことを、今日の成功として残していい。


 全部を失敗で塗り潰さなくていい。


 そのことを、那種は少しずつ身体に覚えさせていた。


 机の上には、小さな花が一輪置かれている。


 白い花だった。


 森の奥に咲く、名も知らない花。


 那種はそれを右手で包む。


 白銀の右腕は、まだ時々ぎこちない。


 指先の感覚も、人の腕だった頃とは違う。


 でも、もう怖くて隠すだけのものではなかった。


 白銀の光が、指先から静かに広がる。


 花を閉じ込めない。


 押し潰さない。


 燃やさない。


 ただ、周囲の空気を薄く包む。


 白銀の膜は一瞬だけ揺れた。


 すぐに消えた。


 だが、花は折れなかった。


 花弁はそのまま、机の上で静かに揺れている。


 那種は息を吐いた。


「守れました」


「一瞬な」


「一瞬でも、守れました」


「ああ」


 魔女は頷いた。


「守れた」


 那種の胸の奥で、白銀が小さく灯る。


 赤い火だったものが、今は柔らかな光になっている。


 熱く燃え上がるだけではない。


 形を取り、境を作り、包む。


 それが、白銀の魔術だった。


     ◇


 森での訓練は、日ごとに形を変えた。


 葉を包む。


 花を守る。


 水滴を支える。


 風を逸らす。


 次に魔女が用意したのは、小さな鳥だった。


 怪我をしているわけではない。


 森に住む、薄茶色の小鳥である。


 小鳥は魔女の指に止まり、那種を見て首を傾げていた。


「この子を包むんですか」


 那種は不安そうに聞いた。


「そうだ」


「潰したら」


「潰すな」


「逃げたら」


「逃げる」


「それでいいんですか」


「鳥だからな」


 魔女は当然のように言った。


 那種は困った顔をした。


 小鳥は小さい。


 葉や花よりずっと柔らかく、温かく、生きている。


 白銀の膜を厚くしすぎれば、息苦しくなるかもしれない。


 薄すぎれば、守れない。


 力を入れすぎれば、怖がらせる。


 那種は右手を胸元へ寄せた。


「怖いです」


「そうか」


「傷つけたくないです」


「なら、よく見ろ」


 魔女は小鳥を枝へ移した。


 小鳥は逃げなかった。


 枝の上で、那種を見ている。


「守る相手を見ずに、守ることはできぬ」


 那種は小鳥を見た。


 小さな胸が、細かく上下している。


 羽が風に揺れている。


 脚は細い。


 目は黒く、丸い。


 生きている。


 那種は息を整えた。


 白銀を出す。


 強くではない。


 広くでもない。


 小鳥の周りに、空気の隙間を残すように。


 触れすぎないように。


 逃げ道を塞がないように。


 白銀の膜が、枝の周囲へ薄く広がった。


 小鳥が羽を震わせる。


 那種の心臓が跳ねた。


 膜が揺れる。


 消えかける。


「息」


 魔女が短く言う。


 那種は息を吐いた。


 白銀の膜が戻る。


 小鳥は逃げなかった。


 枝の上で首を傾げ、白銀の光越しに那種を見ている。


 十息。


 十五息。


 二十息。


 那種の額に汗が滲んだ。


 白銀の右腕が熱を持つ。


 背の竜帝刻が疼く。


 それでも、膜は壊れなかった。


「解け」


 魔女が言った。


 那種はすぐに膜を解いた。


 小鳥は枝の上で羽ばたいた。


 そして、那種の肩へ飛んできた。


 那種は固まった。


「お母さん」


「動くな」


「はい」


「怖がられてはおらんな」


 小鳥は那種の肩で小さく鳴いた。


 それから、森の奥へ飛んでいった。


 那種はしばらくその方向を見ていた。


「守れました」


「ああ」


「息、できていましたか」


「しておった」


「怖がっていませんでしたか」


「逃げなかった」


 那種は胸に手を当てた。


 白銀の右手ではなく、左手で。


「よかった」


 心から、そう言った。


 魔女はその横顔を見ていた。


 この子の守護は、まだ小さい。


 だが、根が違う。


 閉じ込めるためではない。


 支配するためでもない。


 自分の成果を示すためでもない。


 目の前の小さな命を、傷つけずに守りたい。


 その願いから生まれている。


 だからこそ、白銀は育つ。


 大樹の森は、静かに葉を揺らした。


     ◇


 同じ頃、本条家の道場では、木刀の音が変わり始めていた。


 戎は、毎朝、誰よりも早く道場に立った。


 まだ空が白む前。


 霜が降りる庭を横目に、道場の床へ足を置く。


 冷たい。


 足裏から、寒さが骨へ染みる。


 だが、戎は構わなかった。


 木刀を握る。


 構える。


 振る。


 振る。


 振る。


 音は鋭くない。


 まだ子供の身体だ。


 力も足りない。


 腕も短い。


 踏み込みも浅い。


 それでも、戎は振った。


 拳には、まだ薄く傷跡が残っていた。


 ノーザス家の障壁を叩いた拳。


 那種が目の前にいたのに、届かなかった拳。


 帰るぞと言ったのに、連れて帰れなかった拳。


 その傷を見るたびに、戎は道場に立った。


 怒りはある。


 悔しさもある。


 夜になると、あの障壁の向こうの那種を思い出す。


 炎が揺れていた。


 泣きそうな顔をしていた。


 それでも、自分を守ろうとした。


 自分は、何もできなかった。


 戎は木刀を振る。


 強く。


 速く。


 何度も。


「止めろ」


 猛の声が道場に響いた。


 戎の木刀が止まる。


 息が上がっていた。


 肩も上下している。


 猛は道場の入口に立っていた。


 いつから見ていたのか、わからない。


「父さん」


「今のは稽古じゃない」


 猛は言った。


「ただの八つ当たりだ」


 戎の眉が動く。


「違う」


「違わん」


「俺は」


「届かなかったから振ってる」


 戎は黙った。


 猛は道場へ入る。


 裸足で床を踏み、戎の前へ立った。


「悔しいか」


 戎は頷かなかった。


 だが、顔が答えていた。


「那種が目の前にいたのに、届かなかった」


 戎の手が木刀を握りしめる。


「障壁も壊せなかった」


 猛は続けた。


「当主も斬れなかった」


「父さん」


「怒りで振るな」


 猛の声が低くなる。


「怒りは消さなくていい。悔しさも忘れなくていい。だが、それを剣に乗せるな」


 戎は顔を上げた。


「じゃあ、何を乗せる」


「守ると決めたものだ」


 猛は即答した。


 戎は息を止めた。


「本条の剣は、腹いせのためにあるんじゃない」


 猛は木刀を取った。


 門下生用のものではない。


 使い込まれた、重い稽古木刀だった。


「斬るためだけでもない。荒ぶるものを鎮める。前へ出て、守るための剣だ」


「守れなかった」


「ああ」


 猛は頷いた。


「今回は届かなかった」


 戎の顔が歪む。


 猛は容赦しなかった。


「届かなかった事実から逃げるな」


 戎は歯を食いしばった。


「だが、届かなかった悔しさだけで振れば、次も届かん」


「どうすればいい」


「稽古をする」


「してる」


「今のは違うと言った」


 猛は木刀を構えた。


 戎は反射的に身構える。


 その瞬間、猛の木刀が動いた。


 速い。


 だが、ただ速いのではない。


 戎が反応した時には、すでに木刀の先が喉元の前にあった。


 触れてはいない。


 だが、少しでも前に出れば当たる距離。


 戎は動けなかった。


「見えたか」


「……少し」


「嘘をつくな」


「見えなかった」


「そうだ」


 猛は木刀を下ろした。


「速く振ったんじゃない。届く場所に、先に置いた」


 戎は目を見開いた。


「先に」


「ああ」


「でも、動いた」


「動いたように見えたんだろうな」


 猛は静かに言った。


「間合い、呼吸、重心、足、肩、目線。全部を削れば、刃は届く場所へ勝手に行く」


 戎は木刀を握り直した。


「教えて」


「簡単に言うな」


「教えて」


 戎の声は強かった。


 怒りではない。


 願いだった。


 次は届く場所にいたい。


 那種が手を伸ばした時、障壁の外で拳を傷つけるだけの子供ではいたくない。


 猛はその目を見た。


 そして、深く息を吐いた。


「今日から、今までよりきついぞ」


「構わない」


「熱が出たら休ませる」


「平気だ」


「その返事は信用しない」


 戎は少しだけ黙った。


 猛は続けた。


「那種が帰ってきた時、倒れてたらどうする」


 戎の顔が変わった。


「倒れない」


「なら、休むことも覚えろ」


「……わかった」


「今の間は長すぎる」


「わかった」


 猛は少しだけ口元を緩めた。


 すぐに消えた。


「まずは足だ」


 戎が構える。


 猛は木刀で床を軽く叩いた。


「振るな。踏め」


     ◇


 その日から、戎の稽古は変わった。


 木刀を振る時間は減った。


 代わりに、足を運ぶ時間が増えた。


 前へ一歩。


 戻る。


 半歩。


 止まる。


 踏む。


 抜く。


 また止まる。


 子供には退屈な稽古だった。


 だが、戎は文句を言わなかった。


 猛が言う。


「肩が先に動いてる」


 戎は直す。


「足が浮いてる」


 直す。


「目が那種を探してる」


 戎が止まる。


 猛は低く言った。


「今、目の前にいるのは俺だ」


 戎は唇を噛む。


「那種を思うなとは言わん」


 猛は言った。


「だが、剣を振る時は、目の前を見ろ。目の前を見られん奴は、遠くの誰かも守れん」


 戎は頷いた。


 足を踏む。


 床が鳴る。


 まだ重い。


 まだ粗い。


 だが、怒り任せの音ではなくなっていく。


 紀良は道場の隅でそれを見ていた。


 最初は心配そうだった。


 兄様が無茶をしている。


 父様が厳しい。


 那種姉様はいない。


 そう思うと、不安だった。


 だが、戎の顔が少しずつ変わっていくのを見て、紀良は黙って見守るようになった。


 戎は、泣かなかった。


 弱音も吐かなかった。


 ただ、時々、稽古の合間に拳の傷を見る。


 届かなかった拳。


 その傷が消えかけていることを、戎は少し嫌だと思った。


 忘れそうで。


 あの日が、遠くなりそうで。


 だが、猛は言った。


「傷を残そうとするな」


「忘れたくない」


「忘れないなら、身体に残す必要はない」


 戎は黙った。


「傷を大事にするな。覚悟を大事にしろ」


 猛はそう言って、戎の拳を見た。


「その拳で障壁を叩いたことは、無駄じゃない」


 戎が顔を上げる。


「那種に届いた」


「連れて帰れなかった」


「でも、待ってるとは伝えた」


 戎の目が揺れた。


「なら、次は迎えに行けるようになれ」


 猛は木刀を構えた。


「拳じゃなく、足で届け。剣で道を開け。怒りじゃなく、守ると決めたもので前に出ろ」


 戎は木刀を握った。


「はい」


 返事は短かった。


 だが、その声には、以前より深いものがあった。


     ◇


 森では、那種が小さな結界を作っていた。


 道場では、戎が一歩を覚えていた。


 那種は、白銀の膜を薄く保つ練習をする。


 戎は、木刀を振る前に踏む練習をする。


 那種は、力を入れすぎると花を傷つけると知る。


 戎は、力で押すと間合いを失うと知る。


 那種は、守るために全部を抱えなくていいと学ぶ。


 戎は、届くために怒りだけで走ってはいけないと学ぶ。


 二人は離れていた。


 互いが何をしているのか、知らない。


 それでも、進んでいる方向は同じだった。


 那種は守るために白銀を覚えていた。


 戎は届くために剣を沈めていた。


     ◇


 ある夕方、那種は森の中で雨に遭った。


 急な雨だった。


 大樹の森では、空が見えにくい。


 葉が揺れたと思った時には、細い雨が降り始めていた。


 魔女はすぐ近くにいた。


「戻るか」


 那種は雨を見上げた。


 冷たくはない。


 けれど、白銀の右腕に雨粒が触れると、不思議な感覚がした。


 人の皮膚とは違う。


 水が表面を滑り、内側の魔素の流れが少し震える。


「少しだけ、やってみてもいいですか」


「何を」


「雨を、逸らす練習」


 魔女は那種を見た。


「疲れは」


「少しあります」


「白銀は」


「揺れています。でも、見えています」


「痛みは」


「背中が少し。でも、嫌な痛みではないです」


 魔女は少し黙った。


 そして言った。


「十息だけだ」


「はい」


「駄目ならすぐ解け」


「はい」


 那種は右手を上げた。


 雨粒が白銀の腕に当たる。


 冷たい。


 けれど、怖くない。


 白銀の膜を広げる。


 頭上に。


 広くしすぎない。


 厚くしすぎない。


 雨を止めるのではなく、少し横へ流す。


 膜の縁を意識する。


 内と外。


 雨の流れ。


 自分の呼吸。


 白銀が薄く広がった。


 雨粒が膜に触れた。


 弾く。


 弾かない。


 滑る。


 横へ流れる。


 那種の髪に落ちるはずだった雨が、少しだけ斜めへ逸れた。


 一息。


 二息。


 三息。


 膜が揺れる。


 那種は息を吐く。


 四息。


 五息。


 六息。


 背の竜帝刻が熱を持つ。


 怖がらない。


 見ている。


 七息。


 八息。


 九息。


「解け」


 魔女が言った。


 那種はすぐに白銀を解いた。


 雨が髪に落ちる。


 肩に落ちる。


 服を濡らす。


 那種は膝に手をついた。


 少し息が上がっている。


「できました」


「ああ」


「雨、少し逸れました」


「見えておった」


 那種は雨の中で笑った。


 小さな笑みだったが、確かに笑っていた。


 魔女はその顔を見て、ふと目を細めた。


 森の中に、白銀の光が一瞬咲いた。


 火ではない。


 花でもない。


 けれど、魔女にはそれが花のように見えた。


 森に咲く、白銀の小さな花。


 まだ弱く、風に揺れ、雨に濡れる。


 それでも、確かに咲き始めていた。


     ◇


 本条家では、戎が初めて猛の木刀を避けた。


 避けたと言っても、完璧ではない。


 肩を掠めた。


 体勢も崩れた。


 床に膝をついた。


 それでも、喉元へ置かれるはずだった木刀の軌道から、半歩だけ外れた。


 戎は息を切らしていた。


 猛は木刀を下ろす。


「今のは」


 戎が顔を上げる。


「見えたか」


「少し」


「嘘か」


「少しは、本当」


 猛はしばらく戎を見た。


 それから、短く言った。


「よし」


 戎の目が見開かれた。


 猛が稽古で褒めることは少ない。


 特に戎には、ほとんどない。


「今の半歩を忘れるな」


「はい」


「だが調子に乗るな」


「はい」


「今日は終わりだ」


「まだできます」


「終わりだ」


 戎は言い返そうとして、止めた。


 熱を出した時の那種の顔を思い出したからだ。


 大丈夫じゃない人が、大丈夫って言わないで。


 お姉ちゃん、怒るよ。


 戎は木刀を下ろした。


「終わる」


 猛は少しだけ眉を動かした。


「珍しく聞き分けがいいな」


「那種に怒られる」


「そうか」


 猛は低く笑った。


 それは久しぶりの笑いだった。


 紀良が道場の端でぱっと顔を明るくする。


「兄様、今日はちゃんと休むの?」


「ああ」


「本当?」


「本当だ」


「姉様に言うよ?」


「まだ帰ってきてない」


「帰ってきたら言う」


 戎は少し黙った。


 それから、静かに言った。


「なら、ちゃんと休む」


 紀良は満足そうに頷いた。


 猛は二人を見ていた。


 那種はまだいない。


 だが、この家の中には、もう那種の気配が戻り始めていた。


 戎を止める言葉。


 紀良が帰りを信じる声。


 猛が剣を教える理由。


 すべてが、那種へ向かっている。


 猛は木刀を片づけながら、ふと思った。


 帰ってこい。


 早く帰ってこい。


 この家は、まだお前の場所を空けている。


     ◇


 夜、森の庵で那種は小さな白銀の膜を作った。


 掌の上に、雨粒を一つ乗せる。


 白銀で包む。


 水滴は丸いまま、ふるふると揺れていた。


 那種はそれを見つめた。


「お母さん」


「何だ」


「私、少しずつ守れるようになっていますか」


「なっておる」


「本当に?」


「本当だ」


 那種は水滴を見た。


 白銀の膜の中で、小さな水が光っている。


「帰ったら」


 那種の声が少しだけ震えた。


「戎に見せたいです」


「見せればよい」


「怖がらないでしょうか」


「その子は、お前の火を怖がったか」


 那種は思い出した。


 ノーザス家へ来た戎。


 障壁の向こうの戎。


 揺れる火を見ても、逃げなかった。


 那種を呼んだ。


 帰るぞと言った。


 待ってると言った。


「怖がりませんでした」


「なら、白銀も怖がらぬ」


 那種は少しだけ笑った。


「お父さんは」


「頭を撫でるだろう」


「力が強いです」


「知っておるのか」


「はい」


「なら、避ければよい」


「避けません」


 魔女は横目で那種を見た。


 那種は水滴を解いた。


 白銀の膜が消え、水滴が掌に落ちる。


 冷たい。


 那種はその冷たさを感じながら、静かに言った。


「帰りたいです」


 魔女は黙った。


 その言葉は、以前からあった。


 夜に泣きながら言ったこともある。


 熱の中でうわ言のように呟いたこともある。


 けれど、今の声は少し違った。


 逃げるような帰りたいではない。


 助けてほしいというだけの帰りたいでもない。


 自分の足で戻るための、帰りたい。


 魔女は水滴の消えた掌を見た。


 それから、那種の顔を見た。


「そうか」


「はい」


「なら、そろそろ考えねばならんな」


 那種の目が揺れる。


「帰ることを?」


「ああ」


 魔女は庵の外へ目を向けた。


 大樹の森は深い。


 人の世から遠い。


 けれど、この子には帰る家がある。


 母の布袋を抱え、父の名を呼び、弟と妹を思い、竜の契約を背負い、それでも帰りたいと言う家がある。


 ならば、森はいつまでも抱え込むべきではない。


 魔女は静かに言った。


「帰る道を、探そう」


 那種の白銀が、掌の上で小さく揺れた。


 今度は、散らなかった。


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