第2章 第15話『白銀の魔術』
第十五話 白銀の魔術
契約の翌朝、那種は高い熱を出した。
それは病ではなかった。
身体が、変わった力に追いつこうとしている熱だった。
右腕は白銀の光を帯びたまま、薄く震えていた。人の腕の形はしている。指もある。掌もある。だが、皮膚の下に流れるものは血だけではない。
竜帝アギトとの契約。
白銀の魔素。
魔力を魔素へ変えようとする、新しい流れ。
それらが那種の身体の中で動き始めていた。
背の竜帝刻も熱を持っている。
肩甲骨の間に刻まれた黒細線の主紋が、息をするように微かに脈打つ。そこから上下へ伸びる細い装飾線が、熱と痛みを連れて、那種の背中へ居座っていた。
痛い。
熱い。
重い。
けれど、嫌ではない。
那種は寝台の中で、何度もそのことを確かめた。
ノーザス家で身体に刻まれた痛みとは違う。
押さえつけられる痛みではない。
奪われる痛みでもない。
自分が選んだものが、自分の中に根を張ろうとしている痛みだった。
それでも、痛いものは痛い。
怖いものは怖い。
那種は布団の中で身を縮めた。
「痛むか」
魔女が枕元で聞いた。
那種はすぐに頷いた。
「痛いです」
「どこが」
「右腕と、背中と、胸の奥」
「息は」
「苦しくはないです。でも、熱いです」
「火は」
那種は目を閉じた。
胸の奥を探る。
昨日まであった赤い火は、もう同じ形ではなかった。
燃える。
揺れる。
温める。
それだけではない。
火だったものが、糸のようにほどけ、光の膜のように広がり、何かを包もうとしている。
白銀。
まだ小さい。
まだ弱い。
けれど、確かにそこにある。
「白いです」
那種は言った。
「少し、銀色です」
「そうか」
「火、なんでしょうか」
「火でもある」
魔女は答えた。
「だが、火だけではなくなった」
「じゃあ、これは何ですか」
「白銀の魔術だ」
那種は目を開けた。
「白銀の、魔術」
「ああ」
魔女は椅子に座ったまま、那種の右腕を見た。
「竜帝アギトの魔素を通した、お前だけの魔術だ。炎を根に持ちながら、守護と構築へ向かう力。燃やすだけではない。遮り、編み、受け止め、包む力だ」
那種はゆっくり右手を持ち上げた。
指先が震える。
白銀の小さな光が、爪先に集まった。
すぐに散った。
那種は驚いて手を引いた。
「ごめんなさい」
「何に謝った」
「散らしたので」
「散るものだ」
魔女は淡々と言った。
「昨日契約したばかりで、形になると思うな」
「はい」
「返事だけで納得するな」
那種は少し困った顔をした。
魔女は続けた。
「散ってよい。揺れてよい。消えてもよい。今は、お前がそれを見て、戻れることが大事だ」
那種は右手を見た。
白銀の腕。
まだ自分のものとは思いきれない。
だが、魔女は言った。
お前の腕だ、と。
だから那種は、小さく頷いた。
「私の、腕」
「ああ」
「私の、魔術」
「ああ」
「怖いです」
「そうか」
「でも、嫌ではないです」
「なら、それでよい」
◇
契約後の三日間、那種はほとんど寝台から出られなかった。
熱が上がる。
下がる。
右腕が光る。
背の竜帝刻が疼く。
魔力の流れが途中で乱れ、息が浅くなる。
そのたびに魔女がそばに来て、那種の流れを整えた。
森の水を飲ませる。
大樹の葉を煎じたものを唇へ含ませる。
根から汲み上げた柔らかな魔素を部屋へ満たす。
那種の身体は、それでも何度も震えた。
人の身に竜の契約を宿すということは、容易いことではない。
右腕だけではない。
背に刻まれた竜帝刻は、那種の魔力と竜帝アギトの魔素を繋ぐ門になった。
門は開いたばかりだ。
流れは荒い。
少し力を入れれば、白銀の魔素が過剰に漏れる。
少し怖がれば、火の名残が縮こまり、流れが詰まる。
魔女はそれを一つずつ整えた。
怒鳴らない。
急かさない。
測らない。
ただ、戻す。
「息を吐け」
「はい」
「返事より先に吐け」
那種は慌てて息を吐いた。
「右腕を握るな」
「力が入ります」
「なら左手で布袋を握れ」
那種は左手で母様の布袋を掴んだ。
「背を丸めすぎるな。竜帝刻が詰まる」
「見えないので、わかりません」
「妾が見ておる」
「はい」
「痛ければ言え」
「痛いです」
「よし」
那種は熱の中で、少しだけ笑った。
「痛いって言って、よしって言われるの、変です」
「言えたなら、よいことだ」
「そうですか」
「そうだ」
魔女は淡々と答えた。
その淡々とした声に、那種は何度も救われた。
痛いと言ってよい。
怖いと言ってよい。
休みたいと言ってよい。
嫌だと言ってよい。
そして、それでも選んだものを、少しずつ自分のものにしてよい。
契約とは、一度の痛みで終わるものではない。
その後も続くものだ。
那種は熱に浮かされながら、それを身体で覚えていった。
◇
四日目の朝、那種はようやく寝台から起き上がった。
魔女はすぐに手を出さなかった。
那種も、すぐに助けを求めなかった。
まず、自分で身体を起こす。
右腕を使おうとして、うまく力が入らず、布団を掴み損ねる。
白銀の指が布を滑った。
那種は息を呑む。
胸の奥がざわつく。
使えない。
動かない。
怖い。
そう思いかけた時、魔女が言った。
「左手を使え」
那種ははっとした。
左手で布団を掴み直す。
右腕に全部を任せなくていい。
今まで通りの腕もある。
今は、できるやり方で起きればいい。
那種は左手を支えにして、ゆっくり起き上がった。
少し息が上がる。
背の竜帝刻が熱を持つ。
右腕が重い。
それでも、起きられた。
「起きられました」
「見ればわかる」
「少し、嬉しいです」
「なら、言ってよい」
那種は小さく笑った。
「嬉しいです」
「そうか」
魔女は短く言った。
それだけだった。
だが、那種には十分だった。
庵の外には、朝の光が差している。
葉の間から落ちる光が、床に揺れていた。
那種はその光を見た。
そして、右手をそっと持ち上げた。
指先に白銀の光が集まる。
昨日より少しだけ、形を保っている。
火ではない。
丸い、小さな膜。
薄く、透けるような白銀の膜が、指先の周りに生まれていた。
那種は息を止めた。
膜はすぐに破れた。
白銀の光が、ぱっと散る。
那種は手を引きそうになった。
けれど、今度は謝らなかった。
魔女が何も言わずに見ている。
那種は、自分から言った。
「散りました」
「ああ」
「でも、少し形になりました」
「ああ」
「膜みたいでした」
「見えておったか」
「はい」
「なら、第一歩だ」
那種は右手を見つめた。
「これが、守る力ですか」
「芽だ」
「芽」
「まだ盾ではない。結界でもない。ただの薄い膜だ」
魔女は言った。
「だが、火が外へ走るのではなく、何かを包む形を取った。大きな違いだ」
那種の胸が熱くなった。
右腕の熱とは違う。
嬉しさに近いものだった。
「包む」
「ああ」
「燃やすんじゃなくて」
「ああ」
「守る、形」
白銀の光が、那種の指先でまた小さく揺れた。
今度は散らなかった。
薄い膜にはならない。
ただの光だ。
でも、消えずに揺れている。
那種はそれを見て、静かに息を吐いた。
◇
最初の訓練は、葉を守ることだった。
森の葉を一枚、机の上に置く。
それを那種の白銀で包む。
火で燃やさない。
握り潰さない。
魔素を強く流しすぎて破裂させない。
ただ、薄く包む。
それだけの訓練だった。
だが、那種には難しかった。
赤い火を灯す時は、燃やすものがあればよかった。
強くする。
弱くする。
消す。
火には、まだわかりやすい動きがあった。
白銀は違う。
出そうとすれば散る。
抑えようとすれば縮む。
怖がると指先から逃げる。
強く願うと葉を押し潰す。
那種は何度も失敗した。
一度目は、光が出ない。
二度目は、葉の上で散った。
三度目は、葉を焦がしかけた。
四度目は、白銀の膜が厚くなりすぎて葉が折れた。
那種は折れた葉を見て、顔を青くした。
「ごめんなさい」
「葉に謝るなら、次は力を抜け」
「はい」
「妾には謝らなくてよい」
「はい」
「自分にも謝るな」
那種は顔を上げた。
「自分に?」
「失敗した自分を責める顔をしておる」
那種は口を閉じた。
魔女は折れた葉を拾った。
「これは葉だ」
「はい」
「折れた」
「はい」
「だが、森にはまだ葉がある」
「はい」
「次がある」
魔女は新しい葉を置いた。
「もう一度だ」
那種は息を吸った。
右手を伸ばす。
白銀の腕は、まだ思い通りに動かない。
指先の感覚も少し鈍い。
でも、那種のものだ。
那種は心の中で、そう繰り返した。
私の腕。
私の魔術。
私の白銀。
光が生まれる。
今度は、強く押さない。
葉を燃やすのではない。
閉じ込めるのでもない。
包む。
風から守るように。
寒さから手を包むように。
紀良の小さな手を、痛まないように包んだ時のように。
薄い膜が、葉の上に広がった。
ほんの一瞬。
すぐに消えた。
だが、葉は折れなかった。
焦げもしなかった。
那種は息を止めたまま、魔女を見た。
「できましたか」
「一瞬な」
「一瞬でも」
「できた」
その言葉に、那種の目が潤んだ。
魔女は眉をひそめた。
「泣くほどか」
「はい」
「そうか」
「嬉しいです」
「そうか」
魔女は少し困ったように、葉を見た。
「なら、今日はここまでだ」
「もうですか」
「嬉しいうちに終われ」
那種は不思議そうにした。
「嬉しいうちに」
「ああ。訓練は、潰れるまでやるものではない」
那種は少し黙った。
ノーザス家では違った。
できれば次を求められた。
失敗すれば原因を探られた。
疲れても、記録のために続けさせられた。
嬉しいうちに終わる、という考えはなかった。
魔女はそれを知っているように言った。
「今日の記憶を、失敗で塗り潰すな」
那種の胸に、その言葉が落ちた。
今日の記憶。
白銀の膜が、葉を一瞬包んだ記憶。
できた、と言われた記憶。
嬉しかった記憶。
それを、失敗で塗り潰さない。
「はい」
那種は頷いた。
「今日は、ここまでにします」
「よい」
魔女は葉を片づけた。
那種は右手を膝の上に置いた。
白銀の腕は、まだ熱い。
でも、その熱が少しだけ誇らしかった。
◇
その夜、那種は夢を見た。
本条家の夢だった。
道場の床。
木刀の音。
台所から聞こえる、少し不揃いな包丁の音。
紀良の声。
戎の足音。
お父さんの低い声。
母様の柔らかな声。
那種は縁側に立っていた。
右腕は白銀だった。
背には竜帝刻がある。
けれど、夢の中の本条家の誰も、それを怖がらなかった。
紀良が駆け寄ってくる。
「姉様、きれい」
そう言って、右腕に触れようとする。
那種は慌てて手を引く。
怖い。
傷つけるかもしれない。
その時、戎が言った。
「那種の腕だろ」
那種は振り返る。
戎は木刀を持って立っていた。
少し幼い。
最後に見た時のままの戎だった。
「怖くない」
そう言った。
夢だとわかっていた。
けれど、那種は泣きそうになった。
戎なら、そう言う気がした。
根拠はない。
でも、そう思えた。
お父さんは、何も言わずに那種の頭へ手を置いた。
少し力が強い。
でも、温かい。
母様は遠くにいた。
台所の光の中で、微笑んでいる。
「守りたいなら、自分も誰かに支えてもらいなさい」
那種は夢の中で頷いた。
「はい、母様」
目が覚めた時、那種は泣いていた。
でも、嫌な涙ではなかった。
胸は苦しい。
帰りたい気持ちは強い。
けれど、それだけではない。
帰るために、今日も生きようと思えた。
◇
白銀の魔術は、日ごとに少しずつ形を取った。
まずは葉を包む。
次に、水滴を包む。
小さな水滴を白銀の膜で支え、落とさずに保つ。
何度も失敗した。
水滴は弾け、机を濡らした。
那種は最初こそ慌てたが、魔女が布を差し出すだけなので、次第に落ち着いて拭けるようになった。
「濡れました」
「拭け」
「はい」
「終わりだ」
「怒らないんですか」
「水が落ちただけだ」
それだけだった。
那種は水滴を落とすことに怯えなくなった。
次は、風。
森の小さな風を、白銀の膜で逸らす。
葉が揺れる。
膜が破れる。
光が散る。
それでも、何度かに一度は、風が少しだけ横へ流れた。
魔女はそれを見て頷いた。
「防いだのではない」
「逸らした?」
「ああ」
「受け止めるだけじゃ、ないんですね」
「守るとは、ただ受けることではない」
魔女は言った。
「流す。逸らす。逃がす。近づけぬ。壊さずに済ませる。それも守りだ」
那種はその言葉を、何度も胸の中で繰り返した。
守るとは、受け止めるだけではない。
全部を自分で抱えることでもない。
流していい。
逸らしていい。
逃がしていい。
近づけないようにしていい。
それは、魔術だけの話ではなかった。
◇
ある日の午後、那種は初めて小さな結界を作った。
大きさは、両手で包めるほど。
白銀の薄い球。
中には、森の小さな花が一輪入っている。
那種は震えながら、それを保っていた。
「息を止めるな」
「はい」
「力を入れすぎるな」
「はい」
「花を見るな。膜の縁を見ろ」
「縁」
「境を意識しろ。内と外だ」
那種は目を凝らした。
白銀の膜。
内側の花。
外側の空気。
境。
そこに意識を置く。
すると、膜が少し安定した。
花は揺れている。
でも、折れていない。
中の空気も詰まっていない。
閉じ込めるのではなく、守る。
那種はその感覚を掴もうとした。
次の瞬間、膜が弾けた。
花びらがふわりと揺れた。
那種は肩を落とした。
「消えました」
「十息は保った」
「十息」
「ああ」
「今までで一番長いですか」
「そうだ」
那種は花を見た。
花は無事だった。
白銀の膜は消えた。
でも、花は折れていない。
那種はそっと手を伸ばし、花びらに触れた。
「守れました」
「少しな」
「少しでも」
「ああ」
魔女は頷いた。
「守れた」
那種の目から涙が落ちた。
魔女はもう、それに驚かなかった。
この子は、失ったものの大きさだけ、できたことに泣く。
ならば、泣けばいい。
魔女は何も言わず、机の上に布を置いた。
那種はそれで涙を拭いた。
◇
夜、那種は庵の外へ出た。
魔女も隣にいる。
空には星があった。
大樹の森の夜空は、人里よりも近く見える。
枝の隙間から覗く星々が、白銀の小さな点のように瞬いていた。
那種は右腕を胸に抱いた。
「白銀って、星みたいですね」
「そうか」
「火より、遠い感じがします」
「遠いか」
「でも、冷たくはないです」
那種は指先に小さな白銀の光を灯した。
それは炎のように揺れたが、熱を撒き散らさない。
ただ、淡く周囲を照らす。
「不思議です」
「お前の力だ」
「はい」
那種は光を見つめた。
「私の力です」
その言葉を、ようやく少しだけ信じられた。
ノーザスのものではない。
竜帝に奪われたものでもない。
魔女が押しつけたものでもない。
自分が選び、得て、これから覚えていく力。
那種は小さく息を吐いた。
白銀の光が揺れる。
揺れて、戻る。
「師匠」
「何だ」
「いつか、この力で、大きなものも守れますか」
「お前が生きて学べばな」
「生きます」
「なら、守れる」
那種は星を見上げた。
今はまだ、葉一枚。
水滴一つ。
小さな花一輪。
それでも、守れた。
なら、いつか。
いつか、本条家へ帰った時。
お父さんの家を。
紀良を。
戎を。
自分が大切に思う人たちを。
守れるかもしれない。
那種は右手の白銀を、そっと胸に寄せた。
「私は、白銀の魔術を覚えます」
魔女は横目で那種を見た。
「急ぐな」
「はい」
「倒れるまでやるな」
「はい」
「全部を守ろうとして、自分を忘れるな」
那種は少し黙った。
それから、頷いた。
「忘れそうになったら、言ってください」
「言う」
「きっと、何回も」
「何回でも言う」
那種は小さく笑った。
「ありがとうございます」
魔女は答えなかった。
ただ、那種の背にある竜帝刻の気配を静かに見ていた。
黒細線の契約刻印。
竜帝アギトとの証。
那種が選んだ代償。
それは痛みの跡であり、同時に、守る力への門だった。
森の夜風が、二人の間を通り抜ける。
那種の白銀は消えなかった。
小さく揺れながら、指先で静かに灯っていた。
まだ弱い。
まだ幼い。
けれど確かに、守るための光だった。




