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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
大樹の魔女とその娘

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第2章 第14話『慈悲ではなく、覚悟』

第十四話 慈悲ではなく、覚悟


 那種が大樹の森に拾われてから、半年が過ぎた。


 森の色は、大きく変わらない。


 神崇皇国の季節は、厳冬期と、それ以外に分かれるようなものだった。王都や人里であれば、雨の多い時期、風の乾く時期、朝晩の冷え込む時期を細かく分ける者もいる。だが、大樹の森はそれらを人の暦ほど明確には刻まない。


 それでも、半年という時間は確かにあった。


 那種の身体は、まだ傷を抱えたままだった。


 けれど、歩ける距離は伸びた。


 粥だけではなく、柔らかく煮た野菜も食べられるようになった。水の器を落とすことも減った。寝台から起き上がる時に、必ず魔女の手を借りなければならない日も少なくなった。


 火も、少しずつ変わっていた。


 指先に灯しても、すぐに震えて消すことは減った。


 風に揺れても、戻せるようになった。


 怖い時に、怖いと言えるようになった。


 嫌な時に、嫌だと言える日も増えた。


 もちろん、毎回ではない。


 今でも那種は無理をする。


 痛くても黙りかける。


 疲れていても、まだできます、と言いかける。


 そのたびに魔女は、短く言った。


「言え」


 那種は俯きながら答える。


「疲れました」


「よい」


「少し、痛いです」


「よい」


「今日は、怖いです」


「よい」


 その繰り返しだった。


 大樹の魔女は、褒めるのが下手だった。


 慰めるのも上手くはない。


 けれど、待つことはできた。


 那種が言葉を探す間、急かさずに待つ。


 火が揺れている間、消さずに待つ。


 泣き始めても、止めずに待つ。


 その待ち方を、那種は少しずつ覚えていった。


 師匠。


 那種は魔女をそう呼ぶ。


 先生ではなく。


 お母さんでもなく。


 今は、師匠。


 いつか別の呼び方をする日が来るのかもしれない。けれど、その日を急ぐ必要はなかった。那種の中には、母様がいる。魔女は、それを急いで上書きしようとはしなかった。


 だから那種も、安心して師匠と呼べた。


 その呼び名は、母様を奪わない。


 けれど、自分を一人にもさせない。


 今の那種には、それで十分だった。


     ◇


 半年の間に、那種の火は奇妙な揺れ方を覚えた。


 最初は、庵の前での訓練中だった。


 指先に灯した赤い火が、風もないのに森の奥へ向かって傾いた。


 那種は驚き、火を消そうとした。


 魔女が止めた。


「消すな。見ろ」


「でも」


「見るだけでよい」


 那種は震えながら、自分の火を見た。


 炎の先が、森の奥へ伸びたがっている。


 誰かに呼ばれているように。


 あるいは、自分から何かを探しているように。


 その時は、息を吐き、時間をかけて火を戻した。


 魔女はそれを見て、低く呟いた。


「竜脈か」


 那種には意味がわからなかった。


 だが、その日から同じことが何度も起きた。


 火が森の奥へ揺れる。


 胸の奥が熱くなる。


 赤い炎の底に、白い細い光が混じる。


 最初は見間違いかと思った。


 だが、魔女は見逃さなかった。


 それはただの炎ではなかった。


 那種の火は、普通の火ではない。


 火でありながら、どこか竜脈へ触れる。


 燃焼ではなく、古い鱗の内側で眠る熱に似ている。


 赤い火の奥に、白銀へ変じる余地がある。


 人の魔術師が扱う炎ではなく、竜の炎に近いもの。


 魔女はそれに気づいていた。


 そして同時に、那種の身体の奥に残った傷も見ていた。


 炎の魔力を抑える薬。


 魔力循環を鈍らせる薬。


 成長途中の身体にかけられた過剰な抑制。


 移動を封じる術式。


 抵抗を奪う薬。


 それらは、命だけでなく、未来の形にまで傷を残していた。


 大樹の魔術で命は繋いだ。


 火も戻した。


 歩けるようにも、食べられるようにもした。


 だが、戻しきれない場所がある。


 命を宿すための奥の器にも、深い傷が残っていた。


 今のままでは、那種が将来その望みを抱いたとしても、ほとんど叶わないだろう。


 魔女はそれを、まだ那種へ詳しく告げていない。


 十二の子に背負わせるには早すぎる。


 だが、事実は消えない。


 そして、その事実を前にして、魔女は自分の力の限界を知っていた。


 失われたものを、すべて元通りにはできない。


 傷をなかったことにはできない。


 だが、もし竜帝の白銀なら。


 砕かれた魔力循環の道を、別の形で支えられるかもしれない。


 炎として暴れかけている力を、白銀の魔素へ変え、身体の内側に新しい通り道を作ることはできるかもしれない。


 失ったものを返す力ではない。


 失われた場所に、別の柱を立てる力。


 それが、竜帝の白銀だった。


     ◇


 その日、魔女は那種を森の奥へ連れていった。


 いつもの散歩ではない。


 庵の前でも、切り株の先でも、花の群れのそばでもない。


 大樹の森の、さらに奥。


 獣も近づかず、鳥の声も少なく、木々の根が深く絡む場所。


 那種は魔女の少し後ろを歩いていた。


 胸元には、母様の布袋がある。


 右手でそれを握り、左手で時折、近くの枝に触れた。


「疲れたら言え」


 魔女が言った。


「はい、師匠」


「返事だけではなく、言え」


「……今は、まだ歩けます」


「よい」


 森の奥へ進むにつれて、那種の胸の火が揺れ始めた。


 火を出しているわけではない。


 けれど、胸の奥に灯る赤い炎が、確かに森の奥へ向かっている。


 呼ばれている。


 いや、呼んでいるのかもしれない。


 那種には、その違いがわからなかった。


「師匠」


「近い」


 魔女の声も低い。


「ここからは、火を見て歩け」


「はい」


 那種は胸に手を当てた。


 怖い。


 だが、その怖さを隠さずに言えた。


「怖いです」


「そうか」


「でも、行けます」


「無理はするな」


「はい」


 そして、森が開けた。


     ◇


 そこには湖があった。


 湖と呼ぶには小さい。


 だが、池と呼ぶには深すぎる。


 木々に囲まれた水面は、風がないのにわずかに揺れていた。水は澄んでいる。底が見えるほど透明なのに、どこまで深いのかわからない。


 その中央に、白い石床のようなものが沈んでいた。


 石は湖底にある。


 けれど、水の中にあるはずなのに、濡れているように見えない。


 白い。


 古い。


 そして、遠い。


 那種はそれを見た瞬間、足を止めた。


 胸の火が大きく揺れる。


 赤い火の奥に、白銀の光が瞬いた。


「っ」


 那種は胸を押さえた。


 魔女がすぐに横へ立つ。


「痛むか」


「痛い、というより」


 那種は息を整えた。


「呼ばれているみたいです」


「そうか」


「ここは、何ですか」


「竜脈が地表へ近づく場所だ」


 魔女は言った。


「竜脈」


「大地の下を流れる古い力じゃ。魔素の川とも違う。竜の気配を帯びた、大地の深い流れ」


 那種は湖を見る。


「竜がいるんですか」


「ここにはおらぬ」


 魔女は首を横に振った。


「ここはアストラではない。竜の都へ行く門でもない。だが、竜の都の気配が、ほんのわずかに森へ滲む場所だ」


「アストラ」


 知らない名だった。


 だが、その響きだけで、胸の奥が震えた。


「禁域のさらに奥、竜たちの都と呼ばれる場所だ。人が気軽に行くところではない」


「そこに、竜が」


「ああ」


 魔女は湖を見た。


「そして、お前の火は、その気配へ触れている」


 那種は自分の手を見た。


 火は出ていない。


 けれど、身体の奥で炎が揺れている。


「どうして、私の火が」


「普通の炎ではないからだ」


 魔女は言った。


 那種の目が揺れる。


「私の火が?」


「ああ」


「でも、私は炎の魔術師です」


「そうだ。だが、お前の炎は、人の魔術師の火に収まりきらぬ。竜脈へ触れる性質がある。竜の炎に近い」


 那種は息を呑んだ。


 竜の炎。


 自分の中にある火が。


「悪いものですか」


「悪いものではない」


 魔女は答えた。


「危ういものだ。扱いを誤れば、お前を焼く。だが、正しく通せば、お前を支える道にもなる」


「支える」


「お前の身体には、妾では戻しきれぬ傷がある」


 那種の表情が強張った。


 魔女はゆっくり続けた。


「傷をなかったことにはできぬ。奪われたものを、すべて元通りにはできぬ。だが、竜の白銀ならば、砕かれた魔力循環の道を補強できるかもしれぬ」


 那種は湖を見る。


「白銀」


「火を白銀の魔素へ変え、身体の内側に新しい通り道を作る。失われたものを返す力ではない。失われた場所を、別の形で支える力だ」


「そうすれば」


 那種の声が小さくなる。


「治るんですか」


「すべては戻らぬ」


 魔女は言った。


「だが、今はほとんど閉じている未来を、細い可能性へ変えられるかもしれぬ」


 那種は、意味をすべて理解したわけではない。


 けれど、魔女が軽く言っていないことはわかった。


 身体の奥の傷。


 戻しきれない傷。


 それを支える道。


 自分が生きるための道。


「それは」


 那種は聞いた。


「師匠には、できないんですか」


 魔女は少しだけ目を伏せた。


「妾にはできぬ」


 はっきりと言った。


「命を繋ぐことはできる。火を見守ることもできる。傷を抱えて生きる道を共に探すこともできる。だが、竜の火を白銀へ変えることはできぬ」


 那種は魔女を見た。


 魔女は悔しそうだった。


 大樹の森の主で、大魔族で、ノーザスの名を那種へ届かせなかった人が、悔しそうにしている。


「師匠」


「何だ」


「ありがとうございます」


 魔女の眉が動いた。


「なぜ礼を言う」


「できないことを、ちゃんと言ってくれたから」


 那種は胸元の布袋を握った。


「できるって言われるより、怖くなかったです」


 魔女はしばらく黙った。


 それから、そっぽを向いた。


「妙なところで泣かせることを言うな」


 那種は少しだけ目を瞬かせた。


 泣いてはいないように見えた。


 けれど、魔女の声は少しだけ硬かった。


     ◇


 湖の水面が、白く光った。


 最初は、月が落ちたのかと思った。


 けれど昼だった。


 空は枝葉に遮られている。


 なのに、水面の底から白銀の光が立ち上がっている。


 那種の火が、その光に応えた。


 赤い火の奥に眠っていた白い細線が、胸の内側で震える。


 次の瞬間、声が響いた。


『火を持つ子よ』


 那種の膝が震えた。


 魔女が一歩前へ出る。


 だが、声は那種へ届いていた。


『汝は、なお生きるか』


 深い声だった。


 森より古く、大地より硬く、空より遠い。


 那種は息を止めた。


 怖い。


 あまりにも大きい。


 自分の火など、吹けば消える灯のように感じる。


 けれど、その声は責めていない。


 測ってもいない。


 ただ、問うている。


 生きるか。


 那種は布袋を握った。


 生きる。


 そう言った。


 師匠に。


 帰るために。


 立てるようになるために。


 そして、今も。


「生きます」


 声は震えていた。


 だが、言えた。


『何のために』


 那種はすぐには答えられなかった。


 帰るため。


 本条家へ。


 お父さんへ。


 戎へ。


 紀良へ。


 母様の霊壇へ。


 それは本当だ。


 けれど、それだけではなかった。


 那種は隣に立つ魔女を見た。


 森の縁で自分を拾ってくれた人。


 水を飲ませてくれた人。


 火を測らなかった人。


 処分されるものではないと言ってくれた人。


 嫌だと言っていいと教えてくれた人。


 樹那種という名をくれた人。


 まだ母ではない。


 その名で呼ぶには早い。


 けれど、確かに自分を守ってくれた人。


「守るために」


 那種は言った。


 湖の水面が静まる。


『誰を』


「お父さんを。戎を。紀良を。母様のいた家を」


 那種は唇を噛んだ。


「師匠を。この森を」


 魔女が、わずかに息を止めた。


 那種は続けた。


「それだけじゃ、ありません」


『ほう』


「私みたいな子を、もう作りたくない」


 赤い火が、胸の奥で揺れた。


 今度は、逃げなかった。


「名前を奪われて、帰りたいと言えなくて、火を怖がらされて、助けてって言えなくて、自分が悪いんだと思っている子を」


 那種の声が震える。


 けれど、止まらない。


「誰かの都合で測られて、使われて、捨てられる子を」


 涙が落ちた。


「もう、出したくない」


 湖の水面が白く光る。


『それで、力を欲するか』


「はい」


『己を傷つけた者を焼くためではなく』


「違います」


『己を奪った者を呪うためではなく』


「違います」


『己を捨てた世界を憎むためではなく』


 那種は少しだけ黙った。


 世界。


 自分を捨てたのは、ノーザス家だった。


 でも、世界そのものではない。


 本条家がある。


 戎がいる。


 紀良がいる。


 お父さんがいる。


 母様がいた。


 師匠がいる。


 森がある。


 世界すべてを憎むには、那種の中には大切なものが多すぎた。


「違います」


『では、何だ』


 那種は泣きそうな顔で、それでも答えた。


「私が、守られたからです」


 魔女の目が、那種へ向いた。


「師匠が、私を助けてくれました」


 那種は言った。


「森の縁で拾ってくれました。水を飲ませてくれました。火を測らないでくれました。嫌だって言っていいと教えてくれました」


 声が震える。


「名前を、くれました」


 魔女は何も言わない。


 那種は続けた。


「私は、それで生きられました」


 胸の火が、赤く揺れる。


「だから、私もそうしたい」


『そうしたい、とは』


「誰かが、私みたいに泣いていたら」


 那種は湖を見た。


「あなたは悪くないって言える力がほしい。逃げていいって、生きていいって、そう言える場所を作れる力がほしい」


 火が強くなる。


 だが、暴れない。


「私の手が届かない場所にも、守る手を伸ばせる力がほしい」


 湖全体が、静かに揺れた。


『届かない場所まで、か』


 その声には、初めてわずかな色があった。


 興味。


 あるいは、愉悦。


『小さき火よ。汝は、己の火で己の傷を焼くことを望まぬか』


「望みません」


『己を捨てた者どもを焼くことを望まぬか』


「怒っています。でも、それだけにしたくありません」


『ならば、何を為す』


「守ります」


 那種は言った。


「師匠が私を守ってくれたから。だから、私も、誰かを守れる人になりたい」


 沈黙。


 森も、湖も、魔女も黙っていた。


 そして、湖の底から白銀の光が立ち上がった。


『よい』


 声が響いた。


 深く、強く、どこか愉しげに。


『己の傷を焼くためではなく、己を救った手を継ぐために力を望むか』


「はい」


『復讐の火ではなく、守護の火を望むか』


「はい」


『ならば、その願いは我が白銀に届く』


 水面の光が強くなる。


 那種は初めて、その存在の輪郭を見た。


 白銀の鱗。


 金にも似た装甲。


 額に宿る、ひときわ強い眼。


 竜。


 いや、ただの竜ではない。


 竜帝。


 その名が、魔女の口から低く漏れた。


「アギト」


 竜帝アギト。


 那種の火に応じた、白銀の竜帝だった。


     ◇


 魔女は那種の前に出た。


「アギト」


 声は低い。


「この子を急かすな」


『大樹の魔女よ。急かしてはおらぬ』


「契約の気配を出しておる時点で同じじゃ」


 那種は魔女を見た。


 契約。


 その言葉だけで、胸が強く鳴る。


『この子は竜脈へ触れた。火はすでに白銀へ向かっている』


「だからといって、何も知らぬまま差し出させる理由にはならぬ」


『汝の治療では戻らぬ傷がある』


 魔女の顔が険しくなった。


『我が白銀なら、傷そのものは消せずとも、砕かれた道を支えられる』


「わかっておる」


『ならば、選ばせよ』


「選ばせる。だが、知る前に選ばせはせぬ」


 魔女は那種を振り返った。


 その目は厳しい。


 だが、怒っているのではない。


 那種を守ろうとしている目だった。


「那種」


「はい」


「契約は救済ではない」


 那種は息を呑んだ。


「慈悲でもない。竜が哀れんで力を恵んでくれるわけではない。契約とは、差し出し、背負い、結ぶものだ」


 竜帝アギトは否定しない。


 魔女は続けた。


「お前の身体を支える可能性はある。今ほとんど閉じている未来を、細い可能性へ戻せるかもしれぬ」


 那種はその言葉を聞いた。


 ほとんど閉じている未来。


 何のことか、すべてはわからない。


 けれど、自分の身体の奥の傷のことだとわかった。


「だが、すべてが治るわけではない」


 魔女は言った。


「傷は消えぬ。奪われた時間も戻らぬ。身体も、契約前と同じにはならぬ」


「はい」


「代償がある」


 那種は湖を見る。


 アギトの白銀の眼が、こちらを見ている。


「代償は、何ですか」


 アギトが答えた。


『右腕』


 那種は自分の右腕を見た。


 細い腕。


 本条家で戎の袖を掴んだ手。


 紀良の手を握った手。


 母様の布袋を抱いた手。


 ノーザス家で名前を書かされた手。


 那種=ノーザスと書いてしまった手。


 今は、布袋を握る手。


「失う、ということですか」


『そのままでは、そうだ』


 アギトは言った。


『ただし、契約の証として再構成される。人の腕ではなく、竜の契約を宿す腕として』


 那種は手を見つめた。


 怖い。


 右腕を差し出す。


 失う。


 再構成される。


 言葉はわかる。


 けれど、身体が理解を拒んでいる。


 怖い。


 とても怖い。


「怖いです」


 那種は言った。


 魔女が頷く。


「怖いなら、やめてよい」


「でも」


「やめてよい」


 魔女は繰り返した。


「森にいればよい。妾が守る。帰る道も、別に探す。時間はかかるが、探す」


 那種の胸が熱くなった。


 この人は、本当に止めてくれる。


 本当に、選ばせてくれる。


 那種は右腕を見た。


 失いたくない。


 それは本当だ。


 怖い。


 それも本当だ。


 だから、那種は正直に言った。


「失いたくありません」


「ああ」


「怖いです」


「ああ」


「でも」


 那種は胸元の布袋を握った。


「失うだけじゃないんですよね」


 魔女は黙っている。


「この腕は、別の形になる」


 那種は震える声で言った。


「私の身体を、支える道にもなる」


「ああ」


「そして、守る力にもなる」


 魔女は、ゆっくり頷いた。


「そうだ」


 那種は湖を見た。


 竜帝アギトの白銀の眼が、那種を見ている。


「私は、師匠に守ってもらいました」


 那種は言った。


「だから、生きています」


 魔女の顔が、わずかに揺れた。


「私は、それを私だけで終わらせたくありません」


 那種の火が、胸の奥で白く瞬いた。


「師匠がくれたものを、私も誰かへ渡せるようになりたい」


 那種は右腕を前へ出した。


 震えている。


 怖い。


 けれど、引かなかった。


「契約します」


 魔女は目を閉じた。


 止めたい。


 それでも、止められない。


 これは那種の選択だった。


 ノーザスに書かされた名とは違う。


 大人に押しつけられた役割ではない。


 恐怖を知った上で、それでも自分の言葉で選んだものだった。


 アギトの声が響く。


『樹那種』


 竜が、新しい名を呼んだ。


 ノーザスではない名を。


 森が与えてくれた名を。


『契約は慈悲ではない』


「はい」


『救済でもない』


「はい」


『汝が選び、汝が背負うものだ』


「はい」


『ならば、右腕を差し出せ』


 那種は震えながら、右腕を差し出した。


 魔女は横に立つ。


 手を握ってはくれなかった。


 契約は、那種自身が結ぶものだからだ。


 けれど、そばにいた。


 それだけで、那種は立っていられた。


 湖の水面から白銀の光が伸びる。


 光は那種の右腕へ絡みついた。


 冷たい。


 熱い。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


「っ、あ……!」


 那種の膝が崩れかける。


 魔女が支えようとして、止まった。


 契約の光が、那種の右腕を包む。


 皮膚。


 骨。


 血。


 魔力。


 火。


 すべてが白銀の光に触れ、ほどかれ、解かれ、奪われていく。


 那種は叫んだ。


 痛みで。


 恐怖で。


 それでも、腕を引かなかった。


「帰る……」


 那種は泣きながら言った。


「帰る、から」


 光が強くなる。


「守る、から」


 赤い火が、白銀の光に呑まれた。


 いや、呑まれたのではない。


 変わっていく。


 赤い炎が、内側から白く、銀に染まっていく。


 燃えるだけの火ではない。


 流れ、編まれ、層を作り、守る形を取ろうとする力。


 結界。


 構築。


 守護。


 それらの芽が、那種の中で開いていく。


 砕かれた魔力循環の道に、白銀の細い筋が通る。


 傷は消えない。


 奪われたものは戻らない。


 けれど、壊れた場所を支える柱が立つ。


 閉じかけていた未来へ、細い道が一本通る。


 絶望ではなく、可能性へ。


 その瞬間、那種の背が熱くなった。


 痛みが走る。


 背の中心。


 肩甲骨の間。


 そこへ、何かが刻まれていく。


 竜帝刻。


 黒に近い細い線が、白銀の光の中で形を取る。


 縦長の左右対称の契約刻印。


 中央主紋が肩甲骨の間に宿り、そこから上下へ細い装飾線が伸びる。


 那種は息を詰めた。


 右腕の痛みと、背に刻まれる熱が重なる。


 意識が遠のく。


 それでも、倒れない。


 師匠がそばにいる。


 森が見ている。


 竜帝が見ている。


 那種は叫びながら、契約を受け入れた。


 そして、右腕が白銀に砕けた。


     ◇


 気づいた時、那種は魔女の腕の中にいた。


 湖のそばだった。


 空はいつの間にか薄暗くなっている。


 どれほど時間が経ったのかわからない。


 身体が重い。


 熱い。


 痛い。


 けれど、生きている。


 那種はゆっくり目を開けた。


「師匠……」


「起きたか」


 魔女の声が近い。


 いつもより少し掠れていた。


 那種は右腕を見ようとした。


 魔女が止めなかった。


 そこには、腕があった。


 だが、以前の右腕ではない。


 白銀の鱗めいた光を帯びた、人の腕に似た何か。


 指は動く。


 けれど、血肉だけのものではない。


 竜の契約が宿る腕。


 那種は震えた。


「私の、腕」


「お前の腕だ」


 魔女は言った。


 その声は強かった。


「失ったものでもある。だが、今あるそれも、お前のものだ」


 那種は右手を動かした。


 ぎこちない。


 指先に白銀の光が揺れる。


 怖い。


 でも、そこに火がある。


 赤ではない。


 白銀の火。


 那種の中に、以前とは違う流れがある。


 魔力が背の刻印を通り、魔素へ変わっていく。


 まだ荒い。


 まだ痛い。


 けれど、確かにある。


 那種は背中に意識を向けた。


 熱がある。


 痛みもある。


 何かが刻まれている。


「背中」


「ああ」


「何か」


「竜帝刻だ」


 魔女は言った。


「竜帝アギトとの契約の証。お前の背に刻まれたものだ」


 那種は目を閉じた。


 怖い。


 怖いけれど、不思議と嫌ではなかった。


 その刻印は、ノーザスの名とは違う。


 奪うために刻まれたものではない。


 自分が選んだ契約の証。


 痛みはある。


 代償もある。


 けれど、それは自分の選択だった。


 湖の水面が揺れる。


 竜帝アギトの声が、もう一度響いた。


『樹那種』


 那種は顔を上げた。


『汝は、我のはじめての、正当なる契約者だ』


 魔女が目を細めた。


 那種は意味を完全には理解できなかった。


 けれど、その言葉が重いことだけはわかった。


 正当なる契約者。


 測られたのではない。


 奪われたのでもない。


 選んだ。


 契約した。


 那種は震える声で言った。


「はい」


『守ると望むなら、守れ』


 アギトの声が響く。


『だが忘れるな。守る者は、己も守らねばならぬ』


 那種は息を止めた。


 魔女が、ほんの少しだけ頷いた気がした。


『己を削り尽くすことを守護とは呼ばぬ。己を捨てることを覚悟とは呼ばぬ』


 那種は右腕を抱えた。


『汝が守る力を得たのは、汝が消えるためではない』


 その言葉は、那種の胸へ深く沈んだ。


 守るために、自分も守る。


 母様が言った。


 誰かを守りたいなら、自分も誰かに支えてもらいなさい。


 師匠も言った。


 全部使い切るな。


 余力を残せ。


 竜帝も、同じことを言っている。


 那種は涙をこぼした。


「はい」


 今度の返事は、ただの従順ではなかった。


 自分で受け取るための返事だった。


     ◇


 庵へ戻る道を、那種は歩けなかった。


 魔女が抱いた。


 契約直後の那種は、火も魔力も魔素もひどく乱れていた。右腕は再構成されたばかりで、背の竜帝刻も熱を持っている。


 那種は何度も意識を落としかけた。


 そのたびに、魔女の服を掴む。


 白銀の右手ではなく、左手で。


「大丈夫だ」


 魔女は言った。


「帰るぞ」


 その言葉に、那種は少しだけ目を開けた。


「帰る」


「ああ。庵へ帰る」


 那種は小さく頷いた。


 今は、本条家ではない。


 でも、帰る場所が一つ増えた。


 大樹の森の庵。


 師匠のいる場所。


 そこへ帰る。


 那種は目を閉じた。


 痛みの中で、右腕が熱を持つ。


 背の竜帝刻が脈打つ。


 赤い火は、もう以前のままではない。


 白銀の光が、胸の奥で静かに揺れている。


 怖い。


 けれど、それは確かに守る力だった。


 魔女は那種を抱えたまま、森を歩いた。


 森は道を開ける。


 枝が退く。


 根が平らになる。


 葉が白銀の光を受けて、かすかに輝く。


 大樹の森は、眠らない。


 その日、森は新しい契約の気配を覚えた。


 炎の子が、白銀へ至る最初の日。


 樹那種が竜帝アギトと契約した日。


 それは、慈悲による救済ではなかった。


 誰かに与えられただけの奇跡でもなかった。


 痛みと代償を知った上で、那種自身が選んだ覚悟だった。


 師匠に守られた子が、いつか誰かを守るために選んだ、最初の白銀だった。


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