第2章 第14話『慈悲ではなく、覚悟』
第十四話 慈悲ではなく、覚悟
那種が大樹の森に拾われてから、半年が過ぎた。
森の色は、大きく変わらない。
神崇皇国の季節は、厳冬期と、それ以外に分かれるようなものだった。王都や人里であれば、雨の多い時期、風の乾く時期、朝晩の冷え込む時期を細かく分ける者もいる。だが、大樹の森はそれらを人の暦ほど明確には刻まない。
それでも、半年という時間は確かにあった。
那種の身体は、まだ傷を抱えたままだった。
けれど、歩ける距離は伸びた。
粥だけではなく、柔らかく煮た野菜も食べられるようになった。水の器を落とすことも減った。寝台から起き上がる時に、必ず魔女の手を借りなければならない日も少なくなった。
火も、少しずつ変わっていた。
指先に灯しても、すぐに震えて消すことは減った。
風に揺れても、戻せるようになった。
怖い時に、怖いと言えるようになった。
嫌な時に、嫌だと言える日も増えた。
もちろん、毎回ではない。
今でも那種は無理をする。
痛くても黙りかける。
疲れていても、まだできます、と言いかける。
そのたびに魔女は、短く言った。
「言え」
那種は俯きながら答える。
「疲れました」
「よい」
「少し、痛いです」
「よい」
「今日は、怖いです」
「よい」
その繰り返しだった。
大樹の魔女は、褒めるのが下手だった。
慰めるのも上手くはない。
けれど、待つことはできた。
那種が言葉を探す間、急かさずに待つ。
火が揺れている間、消さずに待つ。
泣き始めても、止めずに待つ。
その待ち方を、那種は少しずつ覚えていった。
師匠。
那種は魔女をそう呼ぶ。
先生ではなく。
お母さんでもなく。
今は、師匠。
いつか別の呼び方をする日が来るのかもしれない。けれど、その日を急ぐ必要はなかった。那種の中には、母様がいる。魔女は、それを急いで上書きしようとはしなかった。
だから那種も、安心して師匠と呼べた。
その呼び名は、母様を奪わない。
けれど、自分を一人にもさせない。
今の那種には、それで十分だった。
◇
半年の間に、那種の火は奇妙な揺れ方を覚えた。
最初は、庵の前での訓練中だった。
指先に灯した赤い火が、風もないのに森の奥へ向かって傾いた。
那種は驚き、火を消そうとした。
魔女が止めた。
「消すな。見ろ」
「でも」
「見るだけでよい」
那種は震えながら、自分の火を見た。
炎の先が、森の奥へ伸びたがっている。
誰かに呼ばれているように。
あるいは、自分から何かを探しているように。
その時は、息を吐き、時間をかけて火を戻した。
魔女はそれを見て、低く呟いた。
「竜脈か」
那種には意味がわからなかった。
だが、その日から同じことが何度も起きた。
火が森の奥へ揺れる。
胸の奥が熱くなる。
赤い炎の底に、白い細い光が混じる。
最初は見間違いかと思った。
だが、魔女は見逃さなかった。
それはただの炎ではなかった。
那種の火は、普通の火ではない。
火でありながら、どこか竜脈へ触れる。
燃焼ではなく、古い鱗の内側で眠る熱に似ている。
赤い火の奥に、白銀へ変じる余地がある。
人の魔術師が扱う炎ではなく、竜の炎に近いもの。
魔女はそれに気づいていた。
そして同時に、那種の身体の奥に残った傷も見ていた。
炎の魔力を抑える薬。
魔力循環を鈍らせる薬。
成長途中の身体にかけられた過剰な抑制。
移動を封じる術式。
抵抗を奪う薬。
それらは、命だけでなく、未来の形にまで傷を残していた。
大樹の魔術で命は繋いだ。
火も戻した。
歩けるようにも、食べられるようにもした。
だが、戻しきれない場所がある。
命を宿すための奥の器にも、深い傷が残っていた。
今のままでは、那種が将来その望みを抱いたとしても、ほとんど叶わないだろう。
魔女はそれを、まだ那種へ詳しく告げていない。
十二の子に背負わせるには早すぎる。
だが、事実は消えない。
そして、その事実を前にして、魔女は自分の力の限界を知っていた。
失われたものを、すべて元通りにはできない。
傷をなかったことにはできない。
だが、もし竜帝の白銀なら。
砕かれた魔力循環の道を、別の形で支えられるかもしれない。
炎として暴れかけている力を、白銀の魔素へ変え、身体の内側に新しい通り道を作ることはできるかもしれない。
失ったものを返す力ではない。
失われた場所に、別の柱を立てる力。
それが、竜帝の白銀だった。
◇
その日、魔女は那種を森の奥へ連れていった。
いつもの散歩ではない。
庵の前でも、切り株の先でも、花の群れのそばでもない。
大樹の森の、さらに奥。
獣も近づかず、鳥の声も少なく、木々の根が深く絡む場所。
那種は魔女の少し後ろを歩いていた。
胸元には、母様の布袋がある。
右手でそれを握り、左手で時折、近くの枝に触れた。
「疲れたら言え」
魔女が言った。
「はい、師匠」
「返事だけではなく、言え」
「……今は、まだ歩けます」
「よい」
森の奥へ進むにつれて、那種の胸の火が揺れ始めた。
火を出しているわけではない。
けれど、胸の奥に灯る赤い炎が、確かに森の奥へ向かっている。
呼ばれている。
いや、呼んでいるのかもしれない。
那種には、その違いがわからなかった。
「師匠」
「近い」
魔女の声も低い。
「ここからは、火を見て歩け」
「はい」
那種は胸に手を当てた。
怖い。
だが、その怖さを隠さずに言えた。
「怖いです」
「そうか」
「でも、行けます」
「無理はするな」
「はい」
そして、森が開けた。
◇
そこには湖があった。
湖と呼ぶには小さい。
だが、池と呼ぶには深すぎる。
木々に囲まれた水面は、風がないのにわずかに揺れていた。水は澄んでいる。底が見えるほど透明なのに、どこまで深いのかわからない。
その中央に、白い石床のようなものが沈んでいた。
石は湖底にある。
けれど、水の中にあるはずなのに、濡れているように見えない。
白い。
古い。
そして、遠い。
那種はそれを見た瞬間、足を止めた。
胸の火が大きく揺れる。
赤い火の奥に、白銀の光が瞬いた。
「っ」
那種は胸を押さえた。
魔女がすぐに横へ立つ。
「痛むか」
「痛い、というより」
那種は息を整えた。
「呼ばれているみたいです」
「そうか」
「ここは、何ですか」
「竜脈が地表へ近づく場所だ」
魔女は言った。
「竜脈」
「大地の下を流れる古い力じゃ。魔素の川とも違う。竜の気配を帯びた、大地の深い流れ」
那種は湖を見る。
「竜がいるんですか」
「ここにはおらぬ」
魔女は首を横に振った。
「ここはアストラではない。竜の都へ行く門でもない。だが、竜の都の気配が、ほんのわずかに森へ滲む場所だ」
「アストラ」
知らない名だった。
だが、その響きだけで、胸の奥が震えた。
「禁域のさらに奥、竜たちの都と呼ばれる場所だ。人が気軽に行くところではない」
「そこに、竜が」
「ああ」
魔女は湖を見た。
「そして、お前の火は、その気配へ触れている」
那種は自分の手を見た。
火は出ていない。
けれど、身体の奥で炎が揺れている。
「どうして、私の火が」
「普通の炎ではないからだ」
魔女は言った。
那種の目が揺れる。
「私の火が?」
「ああ」
「でも、私は炎の魔術師です」
「そうだ。だが、お前の炎は、人の魔術師の火に収まりきらぬ。竜脈へ触れる性質がある。竜の炎に近い」
那種は息を呑んだ。
竜の炎。
自分の中にある火が。
「悪いものですか」
「悪いものではない」
魔女は答えた。
「危ういものだ。扱いを誤れば、お前を焼く。だが、正しく通せば、お前を支える道にもなる」
「支える」
「お前の身体には、妾では戻しきれぬ傷がある」
那種の表情が強張った。
魔女はゆっくり続けた。
「傷をなかったことにはできぬ。奪われたものを、すべて元通りにはできぬ。だが、竜の白銀ならば、砕かれた魔力循環の道を補強できるかもしれぬ」
那種は湖を見る。
「白銀」
「火を白銀の魔素へ変え、身体の内側に新しい通り道を作る。失われたものを返す力ではない。失われた場所を、別の形で支える力だ」
「そうすれば」
那種の声が小さくなる。
「治るんですか」
「すべては戻らぬ」
魔女は言った。
「だが、今はほとんど閉じている未来を、細い可能性へ変えられるかもしれぬ」
那種は、意味をすべて理解したわけではない。
けれど、魔女が軽く言っていないことはわかった。
身体の奥の傷。
戻しきれない傷。
それを支える道。
自分が生きるための道。
「それは」
那種は聞いた。
「師匠には、できないんですか」
魔女は少しだけ目を伏せた。
「妾にはできぬ」
はっきりと言った。
「命を繋ぐことはできる。火を見守ることもできる。傷を抱えて生きる道を共に探すこともできる。だが、竜の火を白銀へ変えることはできぬ」
那種は魔女を見た。
魔女は悔しそうだった。
大樹の森の主で、大魔族で、ノーザスの名を那種へ届かせなかった人が、悔しそうにしている。
「師匠」
「何だ」
「ありがとうございます」
魔女の眉が動いた。
「なぜ礼を言う」
「できないことを、ちゃんと言ってくれたから」
那種は胸元の布袋を握った。
「できるって言われるより、怖くなかったです」
魔女はしばらく黙った。
それから、そっぽを向いた。
「妙なところで泣かせることを言うな」
那種は少しだけ目を瞬かせた。
泣いてはいないように見えた。
けれど、魔女の声は少しだけ硬かった。
◇
湖の水面が、白く光った。
最初は、月が落ちたのかと思った。
けれど昼だった。
空は枝葉に遮られている。
なのに、水面の底から白銀の光が立ち上がっている。
那種の火が、その光に応えた。
赤い火の奥に眠っていた白い細線が、胸の内側で震える。
次の瞬間、声が響いた。
『火を持つ子よ』
那種の膝が震えた。
魔女が一歩前へ出る。
だが、声は那種へ届いていた。
『汝は、なお生きるか』
深い声だった。
森より古く、大地より硬く、空より遠い。
那種は息を止めた。
怖い。
あまりにも大きい。
自分の火など、吹けば消える灯のように感じる。
けれど、その声は責めていない。
測ってもいない。
ただ、問うている。
生きるか。
那種は布袋を握った。
生きる。
そう言った。
師匠に。
帰るために。
立てるようになるために。
そして、今も。
「生きます」
声は震えていた。
だが、言えた。
『何のために』
那種はすぐには答えられなかった。
帰るため。
本条家へ。
お父さんへ。
戎へ。
紀良へ。
母様の霊壇へ。
それは本当だ。
けれど、それだけではなかった。
那種は隣に立つ魔女を見た。
森の縁で自分を拾ってくれた人。
水を飲ませてくれた人。
火を測らなかった人。
処分されるものではないと言ってくれた人。
嫌だと言っていいと教えてくれた人。
樹那種という名をくれた人。
まだ母ではない。
その名で呼ぶには早い。
けれど、確かに自分を守ってくれた人。
「守るために」
那種は言った。
湖の水面が静まる。
『誰を』
「お父さんを。戎を。紀良を。母様のいた家を」
那種は唇を噛んだ。
「師匠を。この森を」
魔女が、わずかに息を止めた。
那種は続けた。
「それだけじゃ、ありません」
『ほう』
「私みたいな子を、もう作りたくない」
赤い火が、胸の奥で揺れた。
今度は、逃げなかった。
「名前を奪われて、帰りたいと言えなくて、火を怖がらされて、助けてって言えなくて、自分が悪いんだと思っている子を」
那種の声が震える。
けれど、止まらない。
「誰かの都合で測られて、使われて、捨てられる子を」
涙が落ちた。
「もう、出したくない」
湖の水面が白く光る。
『それで、力を欲するか』
「はい」
『己を傷つけた者を焼くためではなく』
「違います」
『己を奪った者を呪うためではなく』
「違います」
『己を捨てた世界を憎むためではなく』
那種は少しだけ黙った。
世界。
自分を捨てたのは、ノーザス家だった。
でも、世界そのものではない。
本条家がある。
戎がいる。
紀良がいる。
お父さんがいる。
母様がいた。
師匠がいる。
森がある。
世界すべてを憎むには、那種の中には大切なものが多すぎた。
「違います」
『では、何だ』
那種は泣きそうな顔で、それでも答えた。
「私が、守られたからです」
魔女の目が、那種へ向いた。
「師匠が、私を助けてくれました」
那種は言った。
「森の縁で拾ってくれました。水を飲ませてくれました。火を測らないでくれました。嫌だって言っていいと教えてくれました」
声が震える。
「名前を、くれました」
魔女は何も言わない。
那種は続けた。
「私は、それで生きられました」
胸の火が、赤く揺れる。
「だから、私もそうしたい」
『そうしたい、とは』
「誰かが、私みたいに泣いていたら」
那種は湖を見た。
「あなたは悪くないって言える力がほしい。逃げていいって、生きていいって、そう言える場所を作れる力がほしい」
火が強くなる。
だが、暴れない。
「私の手が届かない場所にも、守る手を伸ばせる力がほしい」
湖全体が、静かに揺れた。
『届かない場所まで、か』
その声には、初めてわずかな色があった。
興味。
あるいは、愉悦。
『小さき火よ。汝は、己の火で己の傷を焼くことを望まぬか』
「望みません」
『己を捨てた者どもを焼くことを望まぬか』
「怒っています。でも、それだけにしたくありません」
『ならば、何を為す』
「守ります」
那種は言った。
「師匠が私を守ってくれたから。だから、私も、誰かを守れる人になりたい」
沈黙。
森も、湖も、魔女も黙っていた。
そして、湖の底から白銀の光が立ち上がった。
『よい』
声が響いた。
深く、強く、どこか愉しげに。
『己の傷を焼くためではなく、己を救った手を継ぐために力を望むか』
「はい」
『復讐の火ではなく、守護の火を望むか』
「はい」
『ならば、その願いは我が白銀に届く』
水面の光が強くなる。
那種は初めて、その存在の輪郭を見た。
白銀の鱗。
金にも似た装甲。
額に宿る、ひときわ強い眼。
竜。
いや、ただの竜ではない。
竜帝。
その名が、魔女の口から低く漏れた。
「アギト」
竜帝アギト。
那種の火に応じた、白銀の竜帝だった。
◇
魔女は那種の前に出た。
「アギト」
声は低い。
「この子を急かすな」
『大樹の魔女よ。急かしてはおらぬ』
「契約の気配を出しておる時点で同じじゃ」
那種は魔女を見た。
契約。
その言葉だけで、胸が強く鳴る。
『この子は竜脈へ触れた。火はすでに白銀へ向かっている』
「だからといって、何も知らぬまま差し出させる理由にはならぬ」
『汝の治療では戻らぬ傷がある』
魔女の顔が険しくなった。
『我が白銀なら、傷そのものは消せずとも、砕かれた道を支えられる』
「わかっておる」
『ならば、選ばせよ』
「選ばせる。だが、知る前に選ばせはせぬ」
魔女は那種を振り返った。
その目は厳しい。
だが、怒っているのではない。
那種を守ろうとしている目だった。
「那種」
「はい」
「契約は救済ではない」
那種は息を呑んだ。
「慈悲でもない。竜が哀れんで力を恵んでくれるわけではない。契約とは、差し出し、背負い、結ぶものだ」
竜帝アギトは否定しない。
魔女は続けた。
「お前の身体を支える可能性はある。今ほとんど閉じている未来を、細い可能性へ戻せるかもしれぬ」
那種はその言葉を聞いた。
ほとんど閉じている未来。
何のことか、すべてはわからない。
けれど、自分の身体の奥の傷のことだとわかった。
「だが、すべてが治るわけではない」
魔女は言った。
「傷は消えぬ。奪われた時間も戻らぬ。身体も、契約前と同じにはならぬ」
「はい」
「代償がある」
那種は湖を見る。
アギトの白銀の眼が、こちらを見ている。
「代償は、何ですか」
アギトが答えた。
『右腕』
那種は自分の右腕を見た。
細い腕。
本条家で戎の袖を掴んだ手。
紀良の手を握った手。
母様の布袋を抱いた手。
ノーザス家で名前を書かされた手。
那種=ノーザスと書いてしまった手。
今は、布袋を握る手。
「失う、ということですか」
『そのままでは、そうだ』
アギトは言った。
『ただし、契約の証として再構成される。人の腕ではなく、竜の契約を宿す腕として』
那種は手を見つめた。
怖い。
右腕を差し出す。
失う。
再構成される。
言葉はわかる。
けれど、身体が理解を拒んでいる。
怖い。
とても怖い。
「怖いです」
那種は言った。
魔女が頷く。
「怖いなら、やめてよい」
「でも」
「やめてよい」
魔女は繰り返した。
「森にいればよい。妾が守る。帰る道も、別に探す。時間はかかるが、探す」
那種の胸が熱くなった。
この人は、本当に止めてくれる。
本当に、選ばせてくれる。
那種は右腕を見た。
失いたくない。
それは本当だ。
怖い。
それも本当だ。
だから、那種は正直に言った。
「失いたくありません」
「ああ」
「怖いです」
「ああ」
「でも」
那種は胸元の布袋を握った。
「失うだけじゃないんですよね」
魔女は黙っている。
「この腕は、別の形になる」
那種は震える声で言った。
「私の身体を、支える道にもなる」
「ああ」
「そして、守る力にもなる」
魔女は、ゆっくり頷いた。
「そうだ」
那種は湖を見た。
竜帝アギトの白銀の眼が、那種を見ている。
「私は、師匠に守ってもらいました」
那種は言った。
「だから、生きています」
魔女の顔が、わずかに揺れた。
「私は、それを私だけで終わらせたくありません」
那種の火が、胸の奥で白く瞬いた。
「師匠がくれたものを、私も誰かへ渡せるようになりたい」
那種は右腕を前へ出した。
震えている。
怖い。
けれど、引かなかった。
「契約します」
魔女は目を閉じた。
止めたい。
それでも、止められない。
これは那種の選択だった。
ノーザスに書かされた名とは違う。
大人に押しつけられた役割ではない。
恐怖を知った上で、それでも自分の言葉で選んだものだった。
アギトの声が響く。
『樹那種』
竜が、新しい名を呼んだ。
ノーザスではない名を。
森が与えてくれた名を。
『契約は慈悲ではない』
「はい」
『救済でもない』
「はい」
『汝が選び、汝が背負うものだ』
「はい」
『ならば、右腕を差し出せ』
那種は震えながら、右腕を差し出した。
魔女は横に立つ。
手を握ってはくれなかった。
契約は、那種自身が結ぶものだからだ。
けれど、そばにいた。
それだけで、那種は立っていられた。
湖の水面から白銀の光が伸びる。
光は那種の右腕へ絡みついた。
冷たい。
熱い。
痛い。
痛い。
痛い。
「っ、あ……!」
那種の膝が崩れかける。
魔女が支えようとして、止まった。
契約の光が、那種の右腕を包む。
皮膚。
骨。
血。
魔力。
火。
すべてが白銀の光に触れ、ほどかれ、解かれ、奪われていく。
那種は叫んだ。
痛みで。
恐怖で。
それでも、腕を引かなかった。
「帰る……」
那種は泣きながら言った。
「帰る、から」
光が強くなる。
「守る、から」
赤い火が、白銀の光に呑まれた。
いや、呑まれたのではない。
変わっていく。
赤い炎が、内側から白く、銀に染まっていく。
燃えるだけの火ではない。
流れ、編まれ、層を作り、守る形を取ろうとする力。
結界。
構築。
守護。
それらの芽が、那種の中で開いていく。
砕かれた魔力循環の道に、白銀の細い筋が通る。
傷は消えない。
奪われたものは戻らない。
けれど、壊れた場所を支える柱が立つ。
閉じかけていた未来へ、細い道が一本通る。
絶望ではなく、可能性へ。
その瞬間、那種の背が熱くなった。
痛みが走る。
背の中心。
肩甲骨の間。
そこへ、何かが刻まれていく。
竜帝刻。
黒に近い細い線が、白銀の光の中で形を取る。
縦長の左右対称の契約刻印。
中央主紋が肩甲骨の間に宿り、そこから上下へ細い装飾線が伸びる。
那種は息を詰めた。
右腕の痛みと、背に刻まれる熱が重なる。
意識が遠のく。
それでも、倒れない。
師匠がそばにいる。
森が見ている。
竜帝が見ている。
那種は叫びながら、契約を受け入れた。
そして、右腕が白銀に砕けた。
◇
気づいた時、那種は魔女の腕の中にいた。
湖のそばだった。
空はいつの間にか薄暗くなっている。
どれほど時間が経ったのかわからない。
身体が重い。
熱い。
痛い。
けれど、生きている。
那種はゆっくり目を開けた。
「師匠……」
「起きたか」
魔女の声が近い。
いつもより少し掠れていた。
那種は右腕を見ようとした。
魔女が止めなかった。
そこには、腕があった。
だが、以前の右腕ではない。
白銀の鱗めいた光を帯びた、人の腕に似た何か。
指は動く。
けれど、血肉だけのものではない。
竜の契約が宿る腕。
那種は震えた。
「私の、腕」
「お前の腕だ」
魔女は言った。
その声は強かった。
「失ったものでもある。だが、今あるそれも、お前のものだ」
那種は右手を動かした。
ぎこちない。
指先に白銀の光が揺れる。
怖い。
でも、そこに火がある。
赤ではない。
白銀の火。
那種の中に、以前とは違う流れがある。
魔力が背の刻印を通り、魔素へ変わっていく。
まだ荒い。
まだ痛い。
けれど、確かにある。
那種は背中に意識を向けた。
熱がある。
痛みもある。
何かが刻まれている。
「背中」
「ああ」
「何か」
「竜帝刻だ」
魔女は言った。
「竜帝アギトとの契約の証。お前の背に刻まれたものだ」
那種は目を閉じた。
怖い。
怖いけれど、不思議と嫌ではなかった。
その刻印は、ノーザスの名とは違う。
奪うために刻まれたものではない。
自分が選んだ契約の証。
痛みはある。
代償もある。
けれど、それは自分の選択だった。
湖の水面が揺れる。
竜帝アギトの声が、もう一度響いた。
『樹那種』
那種は顔を上げた。
『汝は、我のはじめての、正当なる契約者だ』
魔女が目を細めた。
那種は意味を完全には理解できなかった。
けれど、その言葉が重いことだけはわかった。
正当なる契約者。
測られたのではない。
奪われたのでもない。
選んだ。
契約した。
那種は震える声で言った。
「はい」
『守ると望むなら、守れ』
アギトの声が響く。
『だが忘れるな。守る者は、己も守らねばならぬ』
那種は息を止めた。
魔女が、ほんの少しだけ頷いた気がした。
『己を削り尽くすことを守護とは呼ばぬ。己を捨てることを覚悟とは呼ばぬ』
那種は右腕を抱えた。
『汝が守る力を得たのは、汝が消えるためではない』
その言葉は、那種の胸へ深く沈んだ。
守るために、自分も守る。
母様が言った。
誰かを守りたいなら、自分も誰かに支えてもらいなさい。
師匠も言った。
全部使い切るな。
余力を残せ。
竜帝も、同じことを言っている。
那種は涙をこぼした。
「はい」
今度の返事は、ただの従順ではなかった。
自分で受け取るための返事だった。
◇
庵へ戻る道を、那種は歩けなかった。
魔女が抱いた。
契約直後の那種は、火も魔力も魔素もひどく乱れていた。右腕は再構成されたばかりで、背の竜帝刻も熱を持っている。
那種は何度も意識を落としかけた。
そのたびに、魔女の服を掴む。
白銀の右手ではなく、左手で。
「大丈夫だ」
魔女は言った。
「帰るぞ」
その言葉に、那種は少しだけ目を開けた。
「帰る」
「ああ。庵へ帰る」
那種は小さく頷いた。
今は、本条家ではない。
でも、帰る場所が一つ増えた。
大樹の森の庵。
師匠のいる場所。
そこへ帰る。
那種は目を閉じた。
痛みの中で、右腕が熱を持つ。
背の竜帝刻が脈打つ。
赤い火は、もう以前のままではない。
白銀の光が、胸の奥で静かに揺れている。
怖い。
けれど、それは確かに守る力だった。
魔女は那種を抱えたまま、森を歩いた。
森は道を開ける。
枝が退く。
根が平らになる。
葉が白銀の光を受けて、かすかに輝く。
大樹の森は、眠らない。
その日、森は新しい契約の気配を覚えた。
炎の子が、白銀へ至る最初の日。
樹那種が竜帝アギトと契約した日。
それは、慈悲による救済ではなかった。
誰かに与えられただけの奇跡でもなかった。
痛みと代償を知った上で、那種自身が選んだ覚悟だった。
師匠に守られた子が、いつか誰かを守るために選んだ、最初の白銀だった。




