表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀華と黒刃  作者: 誠十郎
大樹の魔女とその娘

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/41

第2章 第13話『戻しきれなかった傷』

第十三話 戻しきれなかった傷


 樹那種という名は、すぐに那種へ馴染んだわけではなかった。


 朝、目を覚まして、自分の名を口にする。


「樹那種」


 そう言ってから、少し間が空く。


 本当に自分の名なのか。


 自分が名乗ってよいものなのか。


 いつか誰かに取り上げられないか。


 そういう不安が、まだ胸の奥で揺れる。


 だが、そのたびに大樹の魔女は言った。


「お前の名だ」


 短い言葉だった。


 けれど、何度も言われるうちに、那種は少しずつ覚えていった。


 この名は、奪うための名ではない。


 縛るための名でもない。


 立つための名。


 休むための名。


 いつか帰るための名。


 そう思える日が、少しずつ増えた。


     ◇


 身体の回復は、心よりも遅かった。


 熱は下がった。


 食事も少しずつ増えた。


 庵の前を歩く距離も、切り株の先から、低い花の群れのそばまで伸びた。


 火も安定し始めている。


 指先に灯し、風に揺らし、消す。


 揺れても戻る。


 それを繰り返すたび、那種は自分の火を少しずつ怖がらなくなった。


 だが、魔女は知っていた。


 見える傷が塞がっても、戻らないものがある。


 那種の身体は、長く傷つけられすぎていた。


 炎の魔力を抑える薬。


 魔力循環を鈍らせる薬。


 成長途中の身体にかけられた過剰な抑制。


 移動を封じる術式。


 抵抗を奪う薬。


 そして、森の縁へ捨てられるまでに受けた、深い消耗。


 それらは一つ一つなら、戻せたかもしれない。


 だが、重なりすぎていた。


 絡まり、沈み、身体の奥に根を張っている。


 魔女は毎日、那種の魔力循環を診た。


 那種は最初、その時間を怖がった。


 診る。


 測る。


 記録する。


 その言葉に近いものを聞くだけで、指先の火が揺れた。


 だから魔女は、最初に必ず言うようにした。


「測らぬ」


 那種は魔女を見る。


「記録もせぬ」


 那種の肩が少し落ちる。


「治すために見るだけだ」


 那種は、ようやく頷く。


「はい、師匠」


 それでも、寝台に横たわる時、手は布袋を握っている。


 魔女はその手を離させない。


 離させる必要がない。


 那種がそこに自分を繋いでいるなら、それは治療の邪魔ではなく、命綱だった。


     ◇


 その日、魔女はいつもより長く沈黙した。


 那種は寝台に横たわり、胸元に布袋を置いている。


 魔女の手は、那種の額と胸元の少し上にかざされていた。


 触れてはいない。


 大樹の魔術は、身体の流れを直接掴まない。


 根が水の流れを読むように、葉が風の向きを読むように、命の通り道を探る。


 那種の炎は戻りつつある。


 赤い火は、弱くても消えていない。


 乱された魔力循環も、時間をかければ整えられるだろう。


 外傷も塞がる。


 体力も戻る。


 だが。


 魔女は、那種の身体の奥にある傷へ触れた。


 直接ではない。


 ただ、そこに近づいた。


 その瞬間、那種の身体が強く震えた。


「っ」


「痛むか」


 魔女がすぐに手を離す。


 那種は息を詰めたまま、首を横に振ろうとした。


 だが、途中で止めた。


 言ってよい。


 痛いなら痛いと言ってよい。


 そう、何度も教えられている。


「……少し、痛いです」


「そうか」


 魔女は手を下ろした。


「今日はここまでだ」


「でも」


「ここまでだ」


 那種は言い返さなかった。


 だが、顔には不安が浮かんでいた。


 魔女は椅子に座る。


 少し迷ってから、言った。


「悪くなっているわけではない」


 那種の目が揺れる。


「本当ですか」


「本当だ。命は戻っておる。炎も戻りつつある」


「なら」


「だが、戻しきれぬ傷がある」


 那種の表情が止まった。


 魔女は、慎重に言葉を選んだ。


 この子はまだ十二だ。


 すべてを告げるには幼い。


 だが、嘘で包みすぎれば、いつかその嘘が刃になる。


「身体の奥に、深い傷が残っておる」


「奥」


「ああ」


「治らないんですか」


「完全には、今すぐには戻せぬ」


 那種は布袋を握った。


 魔女は続ける。


「命に関わるところは繋いだ。炎も消えぬようにした。歩けるようにも、食べられるようにもなる」


 那種は黙って聞いている。


「だが、身体には、時間をかけても戻りきらぬ場所がある」


「私」


 那種の声が震えた。


「壊れているんですか」


「違う」


 魔女は即答した。


 少し強すぎる声だった。


 那種がびくりとする。


 魔女は息を吐いた。


「違う。お前は壊れたものではない」


「でも」


「傷があることと、壊れていることは違う」


 那種は目を伏せた。


「傷」


「ああ」


「私のせいですか」


「違う」


「火を抑えられなかったから」


「違う」


「ちゃんとできなかったから」


「違うと言っておる」


 魔女の声が少し低くなった。


 怒りではない。


 いや、怒りはある。


 だが、それは那種へ向けたものではなかった。


「お前のせいではない。お前を傷つけた者たちのせいだ」


 那種は息を詰めた。


「那種」


 魔女は名を呼ぶ。


「お前は、傷つけられた」


 那種の目から涙が落ちる。


「お前が悪いからではない」


 涙がもう一筋落ちる。


「お前が弱かったからでもない」


 那種は唇を噛んだ。


「お前の火が悪かったからでもない」


 その言葉で、那種は声を漏らして泣いた。


 魔女は手を伸ばした。


 那種の頭に触れる。


 那種は震えたが、逃げなかった。


「戻せるものは戻す」


 魔女は言った。


「戻せぬものがあるなら、そこを抱えて生きる道を探す」


 那種は泣きながら、かすかに頷いた。


「私は、帰れますか」


「帰れる」


 魔女は答えた。


「こんな身体でも?」


「その身体は、お前の身体だ」


 魔女の声は揺れなかった。


「傷があっても、お前のものだ。恥じるものではない。捨てるものでもない」


 那種は布袋を抱きしめた。


「でも、戎が」


 その名が出た時、火が小さく揺れた。


 魔女は見ていた。


「戎が、どうすると思う」


 那種は泣きながら首を横に振った。


「わかりません」


「そうか」


「嫌われたら」


「その戎という子は、そんなことでお前を嫌うのか」


 那種は息を止めた。


 戎。


 ノーザス家へ来た。


 門を越えて、訓練室まで来た。


 障壁に拳を叩きつけた。


 帰るぞ、と言った。


 待っている、と言った。


 那種は涙をこぼした。


「……嫌いません」


「ならば、それを覚えておけ」


 魔女は言った。


「お前が忘れても、妾が覚えておく」


     ◇


 その夜、那種は長く眠れなかった。


 熱はない。


 痛みも強くない。


 だが、胸の奥がざわついていた。


 身体の奥に、戻しきれない傷がある。


 魔女は詳しくは言わなかった。


 那種も、まだ深く聞けなかった。


 ただ、自分の身体に何かが残っていることだけはわかった。


 傷。


 戻らない場所。


 抱えて生きるもの。


 那種は寝台の上で膝を抱えた。


 布袋を胸に押し当てる。


 母様。


 そう呼びかけそうになって、止まる。


 本条澄乃は、もういない。


 でも、布袋はある。


 そして庵の外には、大樹の魔女がいる。


 那種は少し迷ってから、声を出した。


「師匠」


 扉の向こうで、気配が動いた。


 すぐに扉が開く。


 魔女が顔を出した。


「何だ」


 那種は、その反応の速さに少し驚いた。


「起きていたんですか」


「森は眠らん」


「師匠は?」


「妾も似たようなものだ」


 那種は少しだけ目を伏せた。


「眠れません」


「そうか」


 魔女は部屋へ入った。


 寝台の近くへ椅子を引く。


「痛むか」


「少し。でも、それより」


「怖いか」


 那種は小さく頷いた。


「はい」


「何が」


 那種は言葉を探した。


「自分の身体が」


 魔女は黙って聞いていた。


「私の中に、知らない傷があるのが怖いです」


「ああ」


「それが、ずっと残るかもしれないのが怖いです」


「ああ」


「帰った時に、みんながどう見るかも」


「ああ」


「戎が、悲しい顔をしたら」


 那種の声が震えた。


「私、どうしたらいいかわかりません」


 魔女はしばらく黙った。


 それから、静かに言った。


「悲しい顔はするかもしれぬ」


 那種の目が揺れた。


 魔女は嘘をつかなかった。


「お前が傷ついたと知れば、悲しむだろう。怒るだろう。苦しむだろう」


 那種の指が布袋を握る。


「でも、それはお前を嫌うからではない」


 那種は顔を上げた。


「大切だから、悲しむ」


 魔女は言った。


「大切だから、怒る」


「大切だから」


「ああ」


 那種は黙った。


 その考え方は、まだ難しかった。


 ノーザス家では、相手が不快になることは、自分の失敗だった。


 相手が怒るのは、自分が間違えたから。


 相手が顔を曇らせるのは、自分に価値が足りないから。


 そう思う癖が、身体の奥に残っている。


 魔女は、その癖を見抜いていた。


「那種」


「はい」


「誰かが悲しむことまで、お前の罪にするな」


 那種の息が止まった。


「それは、その者の心だ。お前の傷を見て悲しむなら、その者がそれだけお前を大切に思っているということだ」


 那種の目に涙が溜まる。


「私のせいじゃ、ないんですか」


「違う」


「でも、私が傷ついているから」


「傷つけたのは、お前ではない」


 魔女は、何度でも同じことを言った。


「お前は、傷つけられた側だ」


 那種は布袋を抱え、泣いた。


 魔女は椅子に座ったまま、その涙を止めなかった。


 泣けるなら、泣けばいい。


 涙もまた、戻ってきたものだ。


     ◇


 翌日、魔女は那種に一つだけ課題を出した。


 火ではない。


 歩くことでもない。


 食べることでもない。


「今日は、嫌なことを一つ言え」


 那種は困惑した。


「嫌なこと」


「ああ」


「何でもですか」


「何でもよい」


「でも、嫌なことは」


「あるだろう」


 那種は俯いた。


 ある。


 たくさんある。


 痛いのは嫌だ。


 怖い夢を見るのは嫌だ。


 ノーザスの名前を思い出すのは嫌だ。


 布袋を取られるのは嫌だ。


 火を測られるのは嫌だ。


 帰れないのは嫌だ。


 でも、それを口にするのは怖い。


 嫌だと言えば、わがままだと言われる気がする。


 訓練にならないと言われる気がする。


 魔術師として未熟だと言われる気がする。


 那種は長く黙った。


 魔女は待った。


 森も待った。


 鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。


 那種はようやく言った。


「……今日は、身体の奥を診られるのが嫌です」


 魔女は頷いた。


「そうか」


 那種は身構えた。


 次に何を言われるのか。


 だが、魔女は言った。


「なら、今日は診ない」


 那種は顔を上げた。


「いいんですか」


「嫌だと言えと言ったのは妾だ」


「でも、治療が」


「一日空けても死なん」


「でも」


「嫌だと言ったなら、今日は休め」


 那種は目を瞬かせた。


 胸の奥が、変なふうに揺れた。


 嫌だと言った。


 それで、聞いてもらえた。


 叱られなかった。


 記録されなかった。


 治療を放棄した悪い子にもされなかった。


「……嫌だって」


 那種は呟いた。


「言っても、いいんですね」


「前から言っておる」


「でも、今、少しわかりました」


「そうか」


 魔女は少しだけ口元を緩めた。


「なら、今日の課題は終わりだ」


「早いです」


「文句か」


「違います」


 那種は慌てて首を横に振った。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


 小さな、小さな笑みだった。


 魔女はそれを見て、目を細めた。


 森の葉が、静かに揺れた。


     ◇


 それから数日、魔女は那種の身体の奥へ触れなかった。


 外傷の確認だけ。


 食事。


 睡眠。


 小さな火。


 短い散歩。


 それだけを繰り返した。


 那種は少しずつ落ち着いた。


 自分の身体に残った傷のことを忘れたわけではない。


 怖さが消えたわけでもない。


 だが、怖いと言っていいことを知った。


 嫌だと言えば、止まってもらえることを知った。


 それだけで、身体の中に少し空間ができた。


 魔女は、その変化を見ていた。


 治療は術だけでするものではない。


 水。


 飯。


 眠り。


 言葉。


 沈黙。


 待つこと。


 触れないこと。


 それらもまた治療だった。


 那種はまだ子供だ。


 命を繋いだだけでは足りない。


 この子は、生き直す必要がある。


     ◇


 ある夜、魔女は一人で森の奥へ出た。


 月は雲に隠れている。


 森の中は暗い。


 だが、魔女に灯りは要らない。


 根が道を教える。


 葉が風を知らせる。


 土が記憶を運ぶ。


 魔女は古い大樹の根元に立った。


 この森で最も古い木の一つ。


 初代皇王グレイヴンと誓約を結んだ時にも、この木はすでにここにあった。


「戻しきれぬ」


 魔女は低く言った。


 誰に聞かせるでもない。


 だが、森は聞いている。


「あの子の身体は、戻しきれぬ場所がある」


 木々は何も言わない。


 ただ、静かに葉を揺らした。


「命は繋いだ。火も消さぬ。歩けるようにも、食べられるようにもする。だが、奪われたものの全てを戻すことはできぬ」


 その言葉には、怒りがあった。


 悔しさもあった。


 大樹の魔女は大魔族である。


 人の法にも、魔王の軍勢にも属さない、古い森の主である。


 多くの人間から見れば、畏怖の対象だ。


 できぬことなどないように語られる存在だ。


 だが、それでも、できないことはある。


 死んだ時間は戻らない。


 奪われた日々は返せない。


 壊された安心は、一晩では戻らない。


 そして、身体の奥に刻まれた傷のすべてを、なかったことにはできない。


 魔女は拳を握った。


「妾は、あの子に何と詫びればよい」


 森は答えない。


 詫びる必要はない、とも言わない。


 ただ、古い木が一本、葉を落とした。


 魔女の足元に、緑の葉が一枚落ちる。


 まだ枯れていない葉だった。


 魔女はそれを拾った。


「そうか」


 小さく言う。


 戻しきれないなら。


 それでも、育てるしかない。


 傷のない身体に戻せないなら、傷を抱えても生きられる身体にする。


 奪われる前の少女へ戻せないなら、奪われた後でも立てる少女にする。


 それが、今できることだ。


 魔女は葉を握り、庵の方を見た。


「あの子は、生きると言った」


 ならば、魔女も応えなければならない。


「生かす」


 森が揺れた。


「生きさせる」


 葉が鳴る。


「いつか帰ると言うなら、帰れるところまで連れていく」


 森全体が、静かに応えた。


     ◇


 翌朝、那種は庵の前で魔女を待っていた。


 まだ一人で遠くへは行けない。


 だが、根の椅子までは自分で歩いたらしい。


 魔女が戻ると、那種は少し得意そうな、けれど不安そうな顔をした。


「一人で来ました」


「見ればわかる」


「怒りますか」


「なぜ」


「勝手に出たので」


「倒れたか」


「倒れてません」


「ならよい」


 那種はほっとしたように息を吐いた。


 魔女はその隣に立つ。


「身体は」


「少し疲れました」


「正直でよい」


 那種は小さく頷いた。


 それから、少し迷って言った。


「今日は、診てもいいです」


 魔女は那種を見た。


「無理をしておらぬか」


「少し怖いです」


「なら、やめるか」


「でも」


 那種は布袋を握った。


「怖いって言っても、やめてもらえるってわかったので。今日は、少しなら、大丈夫です」


 魔女はしばらく黙った。


 それから頷いた。


「少しだけだ」


「はい」


「嫌になったら言え」


「はい」


「返事ではなく、言え」


 那種は小さく笑った。


「はい、師匠」


「また返事だけか」


「あ」


 那種は慌てて口を押さえた。


 魔女は呆れたように息を吐いた。


 だが、その目は柔らかかった。


 森の朝は静かだった。


 大樹の森は、眠らない。


 だがその朝、庵の前には、少しだけ穏やかな時間が流れていた。


 戻しきれなかった傷はある。


 それでも、那種は生きている。


 火は消えていない。


 名もある。


 帰りたい場所もある。


 そして今は、怖いと言えば止まってくれる手がある。


 それだけで、昨日より少しだけ、前へ進めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ