第2章 第13話『戻しきれなかった傷』
第十三話 戻しきれなかった傷
樹那種という名は、すぐに那種へ馴染んだわけではなかった。
朝、目を覚まして、自分の名を口にする。
「樹那種」
そう言ってから、少し間が空く。
本当に自分の名なのか。
自分が名乗ってよいものなのか。
いつか誰かに取り上げられないか。
そういう不安が、まだ胸の奥で揺れる。
だが、そのたびに大樹の魔女は言った。
「お前の名だ」
短い言葉だった。
けれど、何度も言われるうちに、那種は少しずつ覚えていった。
この名は、奪うための名ではない。
縛るための名でもない。
立つための名。
休むための名。
いつか帰るための名。
そう思える日が、少しずつ増えた。
◇
身体の回復は、心よりも遅かった。
熱は下がった。
食事も少しずつ増えた。
庵の前を歩く距離も、切り株の先から、低い花の群れのそばまで伸びた。
火も安定し始めている。
指先に灯し、風に揺らし、消す。
揺れても戻る。
それを繰り返すたび、那種は自分の火を少しずつ怖がらなくなった。
だが、魔女は知っていた。
見える傷が塞がっても、戻らないものがある。
那種の身体は、長く傷つけられすぎていた。
炎の魔力を抑える薬。
魔力循環を鈍らせる薬。
成長途中の身体にかけられた過剰な抑制。
移動を封じる術式。
抵抗を奪う薬。
そして、森の縁へ捨てられるまでに受けた、深い消耗。
それらは一つ一つなら、戻せたかもしれない。
だが、重なりすぎていた。
絡まり、沈み、身体の奥に根を張っている。
魔女は毎日、那種の魔力循環を診た。
那種は最初、その時間を怖がった。
診る。
測る。
記録する。
その言葉に近いものを聞くだけで、指先の火が揺れた。
だから魔女は、最初に必ず言うようにした。
「測らぬ」
那種は魔女を見る。
「記録もせぬ」
那種の肩が少し落ちる。
「治すために見るだけだ」
那種は、ようやく頷く。
「はい、師匠」
それでも、寝台に横たわる時、手は布袋を握っている。
魔女はその手を離させない。
離させる必要がない。
那種がそこに自分を繋いでいるなら、それは治療の邪魔ではなく、命綱だった。
◇
その日、魔女はいつもより長く沈黙した。
那種は寝台に横たわり、胸元に布袋を置いている。
魔女の手は、那種の額と胸元の少し上にかざされていた。
触れてはいない。
大樹の魔術は、身体の流れを直接掴まない。
根が水の流れを読むように、葉が風の向きを読むように、命の通り道を探る。
那種の炎は戻りつつある。
赤い火は、弱くても消えていない。
乱された魔力循環も、時間をかければ整えられるだろう。
外傷も塞がる。
体力も戻る。
だが。
魔女は、那種の身体の奥にある傷へ触れた。
直接ではない。
ただ、そこに近づいた。
その瞬間、那種の身体が強く震えた。
「っ」
「痛むか」
魔女がすぐに手を離す。
那種は息を詰めたまま、首を横に振ろうとした。
だが、途中で止めた。
言ってよい。
痛いなら痛いと言ってよい。
そう、何度も教えられている。
「……少し、痛いです」
「そうか」
魔女は手を下ろした。
「今日はここまでだ」
「でも」
「ここまでだ」
那種は言い返さなかった。
だが、顔には不安が浮かんでいた。
魔女は椅子に座る。
少し迷ってから、言った。
「悪くなっているわけではない」
那種の目が揺れる。
「本当ですか」
「本当だ。命は戻っておる。炎も戻りつつある」
「なら」
「だが、戻しきれぬ傷がある」
那種の表情が止まった。
魔女は、慎重に言葉を選んだ。
この子はまだ十二だ。
すべてを告げるには幼い。
だが、嘘で包みすぎれば、いつかその嘘が刃になる。
「身体の奥に、深い傷が残っておる」
「奥」
「ああ」
「治らないんですか」
「完全には、今すぐには戻せぬ」
那種は布袋を握った。
魔女は続ける。
「命に関わるところは繋いだ。炎も消えぬようにした。歩けるようにも、食べられるようにもなる」
那種は黙って聞いている。
「だが、身体には、時間をかけても戻りきらぬ場所がある」
「私」
那種の声が震えた。
「壊れているんですか」
「違う」
魔女は即答した。
少し強すぎる声だった。
那種がびくりとする。
魔女は息を吐いた。
「違う。お前は壊れたものではない」
「でも」
「傷があることと、壊れていることは違う」
那種は目を伏せた。
「傷」
「ああ」
「私のせいですか」
「違う」
「火を抑えられなかったから」
「違う」
「ちゃんとできなかったから」
「違うと言っておる」
魔女の声が少し低くなった。
怒りではない。
いや、怒りはある。
だが、それは那種へ向けたものではなかった。
「お前のせいではない。お前を傷つけた者たちのせいだ」
那種は息を詰めた。
「那種」
魔女は名を呼ぶ。
「お前は、傷つけられた」
那種の目から涙が落ちる。
「お前が悪いからではない」
涙がもう一筋落ちる。
「お前が弱かったからでもない」
那種は唇を噛んだ。
「お前の火が悪かったからでもない」
その言葉で、那種は声を漏らして泣いた。
魔女は手を伸ばした。
那種の頭に触れる。
那種は震えたが、逃げなかった。
「戻せるものは戻す」
魔女は言った。
「戻せぬものがあるなら、そこを抱えて生きる道を探す」
那種は泣きながら、かすかに頷いた。
「私は、帰れますか」
「帰れる」
魔女は答えた。
「こんな身体でも?」
「その身体は、お前の身体だ」
魔女の声は揺れなかった。
「傷があっても、お前のものだ。恥じるものではない。捨てるものでもない」
那種は布袋を抱きしめた。
「でも、戎が」
その名が出た時、火が小さく揺れた。
魔女は見ていた。
「戎が、どうすると思う」
那種は泣きながら首を横に振った。
「わかりません」
「そうか」
「嫌われたら」
「その戎という子は、そんなことでお前を嫌うのか」
那種は息を止めた。
戎。
ノーザス家へ来た。
門を越えて、訓練室まで来た。
障壁に拳を叩きつけた。
帰るぞ、と言った。
待っている、と言った。
那種は涙をこぼした。
「……嫌いません」
「ならば、それを覚えておけ」
魔女は言った。
「お前が忘れても、妾が覚えておく」
◇
その夜、那種は長く眠れなかった。
熱はない。
痛みも強くない。
だが、胸の奥がざわついていた。
身体の奥に、戻しきれない傷がある。
魔女は詳しくは言わなかった。
那種も、まだ深く聞けなかった。
ただ、自分の身体に何かが残っていることだけはわかった。
傷。
戻らない場所。
抱えて生きるもの。
那種は寝台の上で膝を抱えた。
布袋を胸に押し当てる。
母様。
そう呼びかけそうになって、止まる。
本条澄乃は、もういない。
でも、布袋はある。
そして庵の外には、大樹の魔女がいる。
那種は少し迷ってから、声を出した。
「師匠」
扉の向こうで、気配が動いた。
すぐに扉が開く。
魔女が顔を出した。
「何だ」
那種は、その反応の速さに少し驚いた。
「起きていたんですか」
「森は眠らん」
「師匠は?」
「妾も似たようなものだ」
那種は少しだけ目を伏せた。
「眠れません」
「そうか」
魔女は部屋へ入った。
寝台の近くへ椅子を引く。
「痛むか」
「少し。でも、それより」
「怖いか」
那種は小さく頷いた。
「はい」
「何が」
那種は言葉を探した。
「自分の身体が」
魔女は黙って聞いていた。
「私の中に、知らない傷があるのが怖いです」
「ああ」
「それが、ずっと残るかもしれないのが怖いです」
「ああ」
「帰った時に、みんながどう見るかも」
「ああ」
「戎が、悲しい顔をしたら」
那種の声が震えた。
「私、どうしたらいいかわかりません」
魔女はしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「悲しい顔はするかもしれぬ」
那種の目が揺れた。
魔女は嘘をつかなかった。
「お前が傷ついたと知れば、悲しむだろう。怒るだろう。苦しむだろう」
那種の指が布袋を握る。
「でも、それはお前を嫌うからではない」
那種は顔を上げた。
「大切だから、悲しむ」
魔女は言った。
「大切だから、怒る」
「大切だから」
「ああ」
那種は黙った。
その考え方は、まだ難しかった。
ノーザス家では、相手が不快になることは、自分の失敗だった。
相手が怒るのは、自分が間違えたから。
相手が顔を曇らせるのは、自分に価値が足りないから。
そう思う癖が、身体の奥に残っている。
魔女は、その癖を見抜いていた。
「那種」
「はい」
「誰かが悲しむことまで、お前の罪にするな」
那種の息が止まった。
「それは、その者の心だ。お前の傷を見て悲しむなら、その者がそれだけお前を大切に思っているということだ」
那種の目に涙が溜まる。
「私のせいじゃ、ないんですか」
「違う」
「でも、私が傷ついているから」
「傷つけたのは、お前ではない」
魔女は、何度でも同じことを言った。
「お前は、傷つけられた側だ」
那種は布袋を抱え、泣いた。
魔女は椅子に座ったまま、その涙を止めなかった。
泣けるなら、泣けばいい。
涙もまた、戻ってきたものだ。
◇
翌日、魔女は那種に一つだけ課題を出した。
火ではない。
歩くことでもない。
食べることでもない。
「今日は、嫌なことを一つ言え」
那種は困惑した。
「嫌なこと」
「ああ」
「何でもですか」
「何でもよい」
「でも、嫌なことは」
「あるだろう」
那種は俯いた。
ある。
たくさんある。
痛いのは嫌だ。
怖い夢を見るのは嫌だ。
ノーザスの名前を思い出すのは嫌だ。
布袋を取られるのは嫌だ。
火を測られるのは嫌だ。
帰れないのは嫌だ。
でも、それを口にするのは怖い。
嫌だと言えば、わがままだと言われる気がする。
訓練にならないと言われる気がする。
魔術師として未熟だと言われる気がする。
那種は長く黙った。
魔女は待った。
森も待った。
鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。
那種はようやく言った。
「……今日は、身体の奥を診られるのが嫌です」
魔女は頷いた。
「そうか」
那種は身構えた。
次に何を言われるのか。
だが、魔女は言った。
「なら、今日は診ない」
那種は顔を上げた。
「いいんですか」
「嫌だと言えと言ったのは妾だ」
「でも、治療が」
「一日空けても死なん」
「でも」
「嫌だと言ったなら、今日は休め」
那種は目を瞬かせた。
胸の奥が、変なふうに揺れた。
嫌だと言った。
それで、聞いてもらえた。
叱られなかった。
記録されなかった。
治療を放棄した悪い子にもされなかった。
「……嫌だって」
那種は呟いた。
「言っても、いいんですね」
「前から言っておる」
「でも、今、少しわかりました」
「そうか」
魔女は少しだけ口元を緩めた。
「なら、今日の課題は終わりだ」
「早いです」
「文句か」
「違います」
那種は慌てて首を横に振った。
それから、ほんの少しだけ笑った。
小さな、小さな笑みだった。
魔女はそれを見て、目を細めた。
森の葉が、静かに揺れた。
◇
それから数日、魔女は那種の身体の奥へ触れなかった。
外傷の確認だけ。
食事。
睡眠。
小さな火。
短い散歩。
それだけを繰り返した。
那種は少しずつ落ち着いた。
自分の身体に残った傷のことを忘れたわけではない。
怖さが消えたわけでもない。
だが、怖いと言っていいことを知った。
嫌だと言えば、止まってもらえることを知った。
それだけで、身体の中に少し空間ができた。
魔女は、その変化を見ていた。
治療は術だけでするものではない。
水。
飯。
眠り。
言葉。
沈黙。
待つこと。
触れないこと。
それらもまた治療だった。
那種はまだ子供だ。
命を繋いだだけでは足りない。
この子は、生き直す必要がある。
◇
ある夜、魔女は一人で森の奥へ出た。
月は雲に隠れている。
森の中は暗い。
だが、魔女に灯りは要らない。
根が道を教える。
葉が風を知らせる。
土が記憶を運ぶ。
魔女は古い大樹の根元に立った。
この森で最も古い木の一つ。
初代皇王グレイヴンと誓約を結んだ時にも、この木はすでにここにあった。
「戻しきれぬ」
魔女は低く言った。
誰に聞かせるでもない。
だが、森は聞いている。
「あの子の身体は、戻しきれぬ場所がある」
木々は何も言わない。
ただ、静かに葉を揺らした。
「命は繋いだ。火も消さぬ。歩けるようにも、食べられるようにもする。だが、奪われたものの全てを戻すことはできぬ」
その言葉には、怒りがあった。
悔しさもあった。
大樹の魔女は大魔族である。
人の法にも、魔王の軍勢にも属さない、古い森の主である。
多くの人間から見れば、畏怖の対象だ。
できぬことなどないように語られる存在だ。
だが、それでも、できないことはある。
死んだ時間は戻らない。
奪われた日々は返せない。
壊された安心は、一晩では戻らない。
そして、身体の奥に刻まれた傷のすべてを、なかったことにはできない。
魔女は拳を握った。
「妾は、あの子に何と詫びればよい」
森は答えない。
詫びる必要はない、とも言わない。
ただ、古い木が一本、葉を落とした。
魔女の足元に、緑の葉が一枚落ちる。
まだ枯れていない葉だった。
魔女はそれを拾った。
「そうか」
小さく言う。
戻しきれないなら。
それでも、育てるしかない。
傷のない身体に戻せないなら、傷を抱えても生きられる身体にする。
奪われる前の少女へ戻せないなら、奪われた後でも立てる少女にする。
それが、今できることだ。
魔女は葉を握り、庵の方を見た。
「あの子は、生きると言った」
ならば、魔女も応えなければならない。
「生かす」
森が揺れた。
「生きさせる」
葉が鳴る。
「いつか帰ると言うなら、帰れるところまで連れていく」
森全体が、静かに応えた。
◇
翌朝、那種は庵の前で魔女を待っていた。
まだ一人で遠くへは行けない。
だが、根の椅子までは自分で歩いたらしい。
魔女が戻ると、那種は少し得意そうな、けれど不安そうな顔をした。
「一人で来ました」
「見ればわかる」
「怒りますか」
「なぜ」
「勝手に出たので」
「倒れたか」
「倒れてません」
「ならよい」
那種はほっとしたように息を吐いた。
魔女はその隣に立つ。
「身体は」
「少し疲れました」
「正直でよい」
那種は小さく頷いた。
それから、少し迷って言った。
「今日は、診てもいいです」
魔女は那種を見た。
「無理をしておらぬか」
「少し怖いです」
「なら、やめるか」
「でも」
那種は布袋を握った。
「怖いって言っても、やめてもらえるってわかったので。今日は、少しなら、大丈夫です」
魔女はしばらく黙った。
それから頷いた。
「少しだけだ」
「はい」
「嫌になったら言え」
「はい」
「返事ではなく、言え」
那種は小さく笑った。
「はい、師匠」
「また返事だけか」
「あ」
那種は慌てて口を押さえた。
魔女は呆れたように息を吐いた。
だが、その目は柔らかかった。
森の朝は静かだった。
大樹の森は、眠らない。
だがその朝、庵の前には、少しだけ穏やかな時間が流れていた。
戻しきれなかった傷はある。
それでも、那種は生きている。
火は消えていない。
名もある。
帰りたい場所もある。
そして今は、怖いと言えば止まってくれる手がある。
それだけで、昨日より少しだけ、前へ進めた。




