第2章 第12話『父の刃』
第十二話 父の刃
大樹の森の外縁に、六人分の荷物が並べられていた。
小刀。
採血瓶。
骨箱。
保存液。
銀の匙。
魔術残滓を採取するための封瓶。
それらは、まるで誰かに見せるために置かれたように、地面の上へ整然と並べられていた。
血はない。
死体もない。
足跡もない。
ただ、荷物だけがある。
そしてその中央に、木板が一枚立っていた。
不可侵。
刻まれていたのは、その二文字だけだった。
最初に見つけた巡回兵は、声を失った。
大樹の森の外縁で見つかった遺留品。
しかも、中身は明らかに魔術素材の回収道具だった。
それが何を意味するのか、境界地帯にいる者ならばすぐにわかる。
誰かが森に入った。
誰かが森で消えた。
そして森は、荷物だけを返した。
それは警告だった。
皇国への敵意ではない。
だが、見逃すなという意思だった。
巡回兵はすぐに報告を上げた。
報告は第一騎士団の外縁警備隊へ届き、そこから境界調査師団へ回された。大樹の森に関わる事案は、ただの行方不明として扱ってはならない。
境界調査師団は現地確認を行い、木板の文字が人為的に刻まれたものではないと判断した。
木の内側から、繊維そのものが押し上げられている。
大樹の森の理による警告。
その報せは中央記録院へ届き、黒印局へも共有された。
そして、遺留品の一つに刻まれていた小さな紋章が、事態を一気に変えた。
ノーザス家。
魔術名家として王都近郊に屋敷を構える一族。
その裏紋が、保存液の瓶の底に刻まれていた。
◇
本条猛がその報せを聞いたのは、夕刻だった。
道場の稽古を終えた後である。
門下生たちが床を拭き、紀良が台所の方で器を並べている。戎は庭で木刀を握っていた。
戎の拳には、まだノーザス家で裂けた傷が残っている。
治ってきてはいる。
だが、傷跡は残るかもしれない。
猛はそれを見るたび、奥歯を噛み締めた。
自分がもっと早く動いていれば。
自分が那種を預ける前に、もっと疑っていれば。
自分が娘の手紙の薄さに、もっと早く気づいていれば。
何度も考えた。
考えても、時間は戻らない。
その時、軍の使いが来た。
境界調査師団からの報告書だった。
猛は封を切り、文面を読んだ。
大樹の森外縁。
六名分の遺留品。
魔術素材回収用具。
ノーザス家裏紋。
木板。
不可侵。
猛の指が、紙を握り潰しそうになった。
だが、潰さなかった。
「父さん」
戎が近づいていた。
汗を拭うことも忘れ、猛の手元を見ている。
「何があった」
猛は少し黙った。
隠しても無駄だと思った。
この息子は、那種のことになると、言葉にしないものまで見ようとする。
「大樹の森の外縁で、ノーザス家の遺留品が出た」
戎の顔から血の気が引いた。
「那種は」
「まだわからん」
「森に」
「ああ」
戎の手が震えた。
木刀を握る手。
あの夜、那種へ届かなかった手。
「捨てたのか」
声は低かった。
「ノーザスが」
猛は答えなかった。
答えなくても、戎にはわかった。
紀良が台所の入口に立っていた。
まだ六つの少女は、話の全部を理解できたわけではない。
けれど、那種の名が出た時の空気だけはわかった。
「姉様?」
小さな声だった。
猛は振り返った。
紀良が、器を胸に抱えたまま立っている。
「姉様、森にいるの?」
猛は喉の奥で息を止めた。
安易に大丈夫とは言えない。
かといって、幼い紀良へすべてを告げることもできない。
その沈黙の中で、戎が言った。
「生きてる」
猛が戎を見る。
戎は森の方角を見ていた。
「那種は、生きてる」
「戎」
「生きてる」
それは願いだった。
だが、戎は断定した。
断定しなければ、立っていられなかったのだろう。
紀良は泣きそうな顔で頷いた。
「うん」
猛は二人を見た。
そして、静かに言った。
「俺は王都へ行く」
「俺も行く」
「駄目だ」
「父さん」
「今回は駄目だ」
猛の声は、拒絶だった。
「お前はここにいろ。紀良を見ていろ」
「でも」
「お前が行けば、また走る」
戎は黙った。
否定できなかった。
猛は戎の肩に手を置いた。
「今度は俺が行く」
その声に、戎は初めて何かを呑み込むような顔をした。
「……連れて帰って」
猛は答えられなかった。
那種がどこにいるのか、生きているのか、まだわからない。
それでも、猛は言った。
「探す」
戎は頷いた。
「俺は待つ」
「ああ」
「でも、遅かったら」
「わかってる」
猛は低く言った。
「遅くはしない」
◇
ノーザス家の屋敷に調査の手が入ったのは、翌朝だった。
皇王府の命を受けた中央記録院。
境界調査師団。
黒印局。
そして、軍属魔術師ユルゲン・ヴァイス。
表向きは、魔術教育記録の確認だった。
だが、屋敷へ入った黒印局員たちは、最初から柔らかい顔をしていなかった。
ノーザス家は抵抗した。
記録は整理中だと言った。
教育上の機密だと言った。
対象者である那種は訓練中に体調を崩し、遠方療養へ出したと言った。
その療養先を問われると、答えが曖昧になった。
中央記録院の係官が、冷静に記録の提出を求める。
ノーザス家の管理役が拒む。
黒印局員が一歩前に出る。
それだけで、拒む声は小さくなった。
最初に開かれた記録庫から、すべてが崩れた。
那種の教育記録。
感情反応測定。
本条家への手紙の写し。
手紙の検閲記録。
私物管理記録。
布人形回収。
短刀保管。
那種=ノーザスへの内部名変更。
防火円への移動抑制術式追加。
本条戎侵入時の反応測定。
処分搬送。
失踪扱い。
記録の一部は焼かれていた。
だが、焼き方が甘かった。
灰の中に残った文字を、中央記録院の術師が拾い上げる。
黒印局が地下倉庫を開ける。
そこには、魔術素材取引の裏帳簿があった。
炎適性児。
高魔力髪。
魔力残滓保存。
外部回収。
森外縁。
その文字を見たユルゲンは、長く目を閉じた。
自分が、この家を候補に挙げた。
表向きの評判を信じた。
完全に不安のない預け先などない、と言った。
あの時、もっと踏み込んでいれば。
そう思った。
だが、今は悔いるだけの時間ではない。
「これは教育ではない」
ユルゲンは低く言った。
「魔術師の名を騙った虐待だ」
中央記録院の係官は黙って記録を封じた。
黒印局は関係者を拘束した。
ノーザス家は、その日のうちに封鎖された。
◇
裁きは早かった。
いや、早く見えただけだった。
実際には、皇王府、中央記録院、黒印局、境界調査師団が同時に動き、逃げ道を一つずつ塞いでいった。
ノーザス家は魔術名家である。
多少の不祥事で即座に潰せる家ではない。
だが、今回は違った。
大樹の森の不可侵に関わる。
子供の魔術教育を装った虐待。
家名の強制変更。
本条家への手紙改竄。
処分搬送。
魔術素材売買の疑い。
そして、大樹の森へ人を送り込んだ事実。
どれ一つとして軽く扱えなかった。
裁きの場で、ノーザス当主は最後まで認めなかった。
「教育上の措置です」
彼はそう言った。
「炎適性が強すぎる子供に対し、情緒依存を制限し、魔術師としての自立を促したにすぎない」
中央記録院長の代理官が、冷静に記録を読み上げる。
布人形回収。
手紙制限。
感情反応測定。
処分搬送。
那種本人の所在不明。
当主は眉一つ動かさずに答えた。
「処分とは、教育記録上の分類です。実際の殺害を意味するものではありません」
「では、対象者はどこに」
「療養先です」
「療養先の記録はありません」
「担当者が管理していました」
「担当者は大樹の森外縁で遺留品のみ発見されています」
「私は知りません」
その言葉に、傍聴席の空気が凍った。
本条猛は、後方に立っていた。
座らなかった。
座る気になれなかった。
戎は連れて来ていない。
紀良もいない。
来させなくて正解だった。
この男の声を、あの子たちに聞かせたくない。
猛はそう思った。
「本条家の子を、なぜ那種=ノーザスと記録した」
裁きの場で、皇王府の官が問う。
当主は答えた。
「教育系譜上の整理です」
「本人は拒否した記録がある」
「幼い子供の一時的反発です」
「本条家へ返す意思はあったのか」
「十分な成果を得た後であれば」
「成果とは何だ」
「炎魔術師としての完成です」
猛の拳が鳴った。
周囲の者が、わずかに緊張した。
だが、猛は動かない。
まだだ。
まだ、父の刃を抜く時ではない。
皇国法の裁きが先だ。
澄乃なら、そう言うだろうと思った。
まず正しく立ちなさい。
あの声が、どこかで聞こえる。
猛は歯を食いしばった。
裁きは続いた。
ノーザス家の家名剥奪。
魔術名家資格剥奪。
教育権限の永久剥奪。
屋敷封鎖。
記録押収。
資産没収。
関係者の尋問。
非血族の教師・管理役・使用人は罪状に応じて拘束、証言、追放、監視対象へ分類。
そして、ノーザスの血を持つ者たちは、皇国より追放。
それは皇国法における最も重い断絶の一つだった。
家としてのノーザスは、ここで終わった。
だが、猛にとっては、まだ終わっていなかった。
◇
裁きの後、ノーザス当主は一時拘束室へ移された。
正式な身柄移送までの間、黒印局の監視がつく。
それでも、当主は最後まで誇りを捨てなかった。
誇りではない。
執着だった。
黒印局員が記録の確認に出たわずかな間、猛は部屋へ通された。
許可されたわけではない。
止める者が、止めきれなかっただけだ。
当主は椅子に座っていた。
手枷をつけられている。
それでも、猛を見上げる目には憎悪があった。
「本条猛」
当主が言った。
「よくも、我が家を」
猛は黙っていた。
「我が家を壊したのは、あの小僧だ」
当主の声が低くなる。
「本条戎。あの子供が、屋敷へ踏み込み、私を殴った。あれさえなければ、事はもっと穏当に収まった」
猛の目が、静かに変わった。
「那種のことではなく、そこか」
「那種」
当主は鼻で笑った。
「あれは惜しい素材だった。炎の資質は本物だった。正しく管理すれば、ノーザス家を次の段階へ押し上げる器になった」
猛は一歩進んだ。
当主は続けた。
「だが、あの小僧が壊した。情緒依存を断ち切る過程だったものを、感情で引き戻した。あれがなければ、那種=ノーザスは完成していた」
「その名で呼ぶな」
猛の声は低かった。
当主は笑った。
「やはり本条家は野蛮だ。剣しか知らぬ家が、炎の価値を理解できるはずがない」
猛は止まらなかった。
当主の前まで歩く。
「那種はどこだ」
「知りませんよ」
「お前が処分を命じた」
「記録上の言葉です」
「那種はどこだ」
当主は少しだけ目を細めた。
そして、吐き捨てるように言った。
「森で死んだでしょう」
空気が止まった。
「そうでなければ困る」
当主の声には、初めて隠しきれない憎悪が滲んだ。
「あれが生きていれば、本条家は必ず動く。あの小僧もまた来る。なら、死んでいた方が都合がいい」
猛の手が、刀の柄へ動いた。
当主はそれを見て、笑った。
「斬りますか」
猛は答えない。
「私を斬っても、あの小僧はいずれ殺す。私が死んでも、ノーザスの名を継ぐ者はいる。本条戎だけは許さない。あの小僧だけは、必ず」
最後まで言えなかった。
刀が抜かれていた。
音は、ほとんどなかった。
本条の剣は派手ではない。
荒ぶるものを鎮めるための剣。
斬るべきものを斬り、終わらせるための剣。
当主の言葉が止まる。
椅子に座ったまま、身体が崩れた。
猛は刀を納めなかった。
しばらく、倒れた男を見ていた。
「娘を奪った」
猛は低く言った。
「娘をものにした」
声は震えていなかった。
「その上、息子まで狙うと言った」
猛は刀を振り、血を払った。
「なら、父として斬る」
扉の外にいた黒印局員たちは、動かなかった。
止めるには遅すぎた。
あるいは、誰も本気で止める気がなかったのかもしれない。
少し遅れて、扉が開く。
黒印局の者が室内を見た。
当主の死体。
刀を持つ本条猛。
重い沈黙。
猛は振り返った。
「処分は受ける」
黒印局員はしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「記録します」
それだけだった。
◇
ノーザス当主は死んだ。
皇国法による正式処刑ではない。
本条猛によって斬られた。
その事実は記録された。
処罰の議論も起きた。
だが、当主の発言内容、ノーザス家の罪状、本条家への被害、そして那種の所在不明という状況が重なり、猛への処分は重い謹慎と軍務停止に留まった。
それで済んだのは、皇王府の判断だけではない。
中央記録院。
黒印局。
境界調査師団。
そして、ノーザス家の記録を読んだ者たちの沈黙があった。
誰も、声高に猛を責めなかった。
法としては責めねばならない。
だが、人としては責めきれなかった。
ノーザス家は、皇国の中で終わった。
屋敷は封鎖された。
記録は押収された。
資産は没収された。
家名は剥がされた。
魔術名家としての資格も消えた。
非血族の教師や下働きは、証言と処罰の対象になった。
罪の軽い者は追放や監視へ。
直接関与した者は拘束へ。
だが、ノーザスの血を持つ者たちは、皇国から追放された。
彼らは口々に言った。
知らなかった。
自分は関係ない。
当主が勝手にやった。
教育の詳細には関与していない。
那種という子供の顔も知らない。
それらの言葉を、皇国は記録した。
記録した上で、国境の外へ出した。
皇国は、ノーザス家を法で裁いた。
だが、大樹の魔女にとっては、そこからが裁きの始まりだった。
◇
追放されたノーザス血族は、皇国の外へ向かった。
馬車は三台。
護衛は最低限。
彼らには、もう家名も爵位もない。
だが、血はある。
ノーザスの血。
那種を那種=ノーザスと呼び、家の成果として扱い、炎の器として記録し、処分した家の血。
追放の夜、道は濃い霧に包まれた。
街道のはずだった。
だが、馬は進まない。
車輪がぬかるみに沈む。
灯りが滲む。
霧の向こうから、葉擦れの音が聞こえた。
「森?」
誰かが言った。
「ここに森などないはずだ」
馬が怯える。
護衛が剣を抜く。
だが、剣を向ける相手はいない。
霧の中で、女の声がした。
「ノーザス」
その名を呼ばれ、馬車の中の者たちは凍りついた。
もう剥奪された名。
皇国から奪われた名。
だが、呼ばれた。
「誰だ」
男が叫ぶ。
霧の向こうに、魔女が立っていた。
大樹の森の主。
人類の味方でも、魔族の味方でもない大魔族。
那種へ水を飲ませ、粥を食べさせ、名を与えた者。
魔女は馬車を見た。
そこに乗る者たちは、那種を直接知らない者もいた。
幼い者もいた。
遠縁だと叫ぶ者もいた。
だが、魔女の目は揺れなかった。
皇国は法で裁いた。
ならば、ここからは森の理だ。
「妾の森に来た者だけで終わらせるつもりだった」
魔女は言った。
「だが、お前たちは、あの子をノーザスの名で縛った」
馬車の中で、誰かが泣き出した。
「知らなかった!」
「私たちは関係ない!」
「当主がやったことだ!」
「もう家名は剥奪された!」
魔女は静かに聞いていた。
そして言った。
「ならば、なぜその名で得たものを食ってきた」
誰も答えられなかった。
「なぜその名で屋敷に住み、その名で守られ、その名で他者を見下ろした」
沈黙。
「お前たちは、あの子にノーザスを背負わせようとした」
魔女の声が低くなる。
「ならば、その名の終わりも背負え」
霧の中で、根が動いた。
街道にあるはずのない根。
森から遠く離れているはずなのに、地面の下から古い根が現れた。
それは大樹の森から伸びたものではない。
魔女の意志が、土に森の理を呼んだのだ。
ノーザス血族の馬車が、一台ずつ霧に呑まれていく。
悲鳴が上がる。
助けを呼ぶ声。
許しを乞う声。
知らなかったと叫ぶ声。
魔女は一つも那種へ届けなかった。
その夜、ノーザスの血は皇国の地図から消えた。
死体は残らなかった。
墓も残らなかった。
ただ、追放記録の最後に、こう書き添えられた。
以後、ノーザスの血統確認不能。
家名継承者なし。
追跡不要。
それは人の記録だった。
森の記録は、もっと短かった。
終わった。
◇
那種は何も知らなかった。
その夜、庵で眠っていた。
まだ体力は戻っていない。
火の訓練も、ごく小さなものだけだ。
粥は少しずつ増えた。
水は自分で飲めるようになった。
庵の外を歩く距離も、切り株の先まで伸びた。
夜、魔女が戻ってきた時、那種は目を覚ました。
胸元に布袋を抱いている。
「お母さん」
今度は、呼び間違いではなかった。
那種は少し迷いながらも、そう呼んだ。
魔女は足を止めた。
まだ慣れない。
けれど、嫌ではない。
「起きておったのか」
「少しだけ」
「眠れ」
「はい」
那種は頷いたが、すぐには目を閉じなかった。
「何か、ありましたか」
魔女は那種を見た。
勘が鋭い。
あるいは、森の空気が変わったことに気づいたのかもしれない。
魔女は少し考えた。
何を言うべきか。
ノーザスの血が消えたことを、那種に告げる必要はない。
この子は、まだ自分のせいで誰かが傷つくことを恐れている。
ここで血の話をすれば、また自分を責める。
だから、魔女は違う言葉を選んだ。
「安心せい」
那種は目を瞬かせた。
「お前をあの家へ戻そうとする者は、もうおらぬ」
那種の息が止まった。
「もう?」
「ああ」
魔女は寝台の横へ座った。
「ノーザスの名は、お前には届かぬ」
那種の指が、布袋を握る。
「本当に?」
「本当だ」
「私、また連れて行かれませんか」
「行かれぬ」
「名前を、また書かされませんか」
「書かされぬ」
「手紙を、見られたり」
「されぬ」
「紀良の人形を」
そこで声が詰まった。
魔女は静かに言った。
「いつか探してやる」
那種の目に涙が浮かぶ。
「見つかるでしょうか」
「わからぬ」
魔女は嘘をつかなかった。
「だが、探す」
那種は小さく頷いた。
魔女は続けた。
「お前を縛る手は、もう残っておらぬ」
那種はしばらく黙っていた。
その言葉を、ゆっくり身体の中へ入れているようだった。
縛る手は、もうない。
ノーザスの名は、届かない。
あの家へ戻されない。
名前を書き換えられない。
火を測られない。
手紙を奪われない。
布袋を取られない。
「私」
那種は小さく言った。
「もう、怯えなくていいんですか」
「少しずつでよい」
魔女は答えた。
「すぐに怖くなくなる必要はない。怖い時は、怖いと言え」
那種は泣いた。
声を押し殺そうとしたが、魔女が言った。
「声を出してもよい」
その一言で、那種は小さく嗚咽した。
魔女は手を伸ばす。
那種の頭に触れる。
那種は震えた。
けれど、逃げなかった。
「お前はもう、あの名に怯えなくてよい」
魔女は静かに言った。
「お前は、樹那種だ」
那種は泣きながら頷いた。
「はい」
「妾の庵にいる子だ」
「はい」
「森が覚えた子だ」
「はい」
「そして、いつか帰る家を持つ子だ」
那種の涙が、またこぼれた。
本条。
お父さん。
戎。
紀良。
母様。
その名を思い出しても、火は暴れなかった。
小さく揺れただけだった。
揺れて、戻った。
那種は胸元の布袋を抱きしめる。
「お母さん」
「何だ」
「私、生きます」
魔女は少しだけ目を伏せた。
「そうせい」
「帰るために」
「ああ」
「ちゃんと、立てるようになるために」
「ああ」
那種は泣きながら、でも確かに言った。
「私は、樹那種です」
森の外で何が終わったのか、那種は知らない。
知らなくてよい。
今、彼女に必要なのは、裁きの詳細ではない。
自分を追う手がもうないこと。
あの名がもう届かないこと。
ここで生きていいこと。
それだけだった。
魔女は那種の頭を撫でた。
不器用な手つきだった。
母の手というには、まだ少し硬い。
けれど、那種はその手から逃げなかった。
大樹の森は、眠らない。
その夜、森は一つの家名の終わりを知っていた。
だが庵の中では、ただ一人の少女が、自分の名を取り戻しつつあった。




