第2章 第11話『森の裁き』
第十一話 森の裁き
樹那種という名を与えられてから、那種は少しずつ眠れるようになった。
うなされる夜が消えたわけではない。
戎の名を呼ぶ。
紀良の布人形を探す。
お父さん、と掠れた声で呼ぶ。
母様の布袋を抱きしめ、泣きながら目を覚ます。
そういう夜は、まだ何度もあった。
だが、目を覚ました時、那種はもうノーザス家にはいなかった。
天井は冷たい石ではない。
壁には記録板も測定器もない。
扉の向こうで誰かが名を変えろと命じることもない。
そこにあるのは、大樹の魔女の庵だった。
木の香り。
薬草の匂い。
森の水。
火を閉じ込めるためではなく、火を休ませるための静けさ。
那種は何度も確かめるように、胸元の布袋を握った。
そして、ほんの小さな声で言う。
「……樹那種」
自分の名。
まだ慣れない。
けれど、嫌ではなかった。
那種=ノーザスと書かされた時のような、胸の奥を引き裂かれるような痛みはない。
樹那種。
その名は、本条を捨てる名ではない。
ノーザスを背負う名でもない。
今の自分が一度立つための名。
いつか本条へ帰るために、ここで生きるための名。
そう、魔女は言った。
だから那種は、毎朝その名を一度だけ口にした。
声に出すたび、足元に小さな根が伸びるような気がした。
◇
大樹の森は、匂いを覚えていた。
那種を運んだ者たちの匂い。
薬の匂い。
革手袋に染みついた汗。
安物の油。
馬車の車輪に付いた泥。
それから、人が人をものとして扱う時に出す、あの独特の乾いた気配。
森はそれを忘れなかった。
魔女が命じたからではない。
森自身が、それを嫌った。
大樹の森は善良ではない。
人を救うために在る森ではない。
迷い込んだものを必ず助ける場所でもない。
だが、森には森の理がある。
入ってはならない場所へ、欲を持って入った者。
捨てた命を、また拾いに来た者。
しかもその命を、娘でも、子でも、人でもなく、素材として語る者。
そういう者を、森は嫌う。
那種が庵で眠れるようになってから七日目の夜。
森の縁に、人の気配が近づいた。
◇
男たちは六人いた。
ノーザス家の正規の者ではない。
少なくとも、表に出せる名を持つ者たちではなかった。
外部の回収役。
人買いとの仲介をする者。
魔術素材の横流しに慣れた者。
表向きの記録に残らない仕事を請け負う、汚れた手の者たち。
彼らは夜を選んだ。
馬車を森の外縁より少し離れた場所に止め、灯りを布で覆い、音を立てぬように歩く。
先頭の男が舌打ちした。
「本当にここか」
「目印は合っている」
別の男が低く答える。
「銀白の髪の小娘だ。死体でも残ってりゃ、髪だけで値が付く」
「生きてたら?」
「もっと高い」
男たちは笑った。
低い笑い声だった。
森が、それを聞いた。
「ただし、森の中へは深く入るなと言われてる」
「不可侵だろうが何だろうが、縁だけなら問題ない」
「前に捨てた時は、ここらだ」
「獣に食われてなければいいがな」
「骨でも拾えりゃ十分だ。炎適性の強い子供の骨は、術具屋が欲しがる」
「血は?」
「残ってるわけないだろ」
「土ごと削るか?」
「できるならな」
男たちは、話しながら森へ近づいていく。
誰一人、森に謝らなかった。
誰一人、森へ許しを請わなかった。
誰一人、捨てた少女の名を呼ばなかった。
ただ、髪。
骨。
血。
魔力残滓。
素材。
値。
そういう言葉だけを持ってきた。
森は静かだった。
静かすぎるほどだった。
◇
庵の中で、魔女は目を開いた。
那種は眠っている。
今夜は熱が低い。
呼吸も落ち着いている。
胸元には母様の布袋があり、指先には小さな赤い火の気配が眠っていた。
魔女は立ち上がった。
音は立てなかった。
那種の寝台の横へ行き、布を一枚かけ直す。
那種がかすかに身じろぎした。
「……お母さん」
寝言だった。
誰を呼んだのか、魔女にはわからなかった。
まだ夢の中で、失った母を探しているのか。
魔女はしばらくその顔を見ていた。
娘と呼ぶには、まだ早い。
そう思った。
だが、捨て直すには、もう遅い。
そして今、森の縁に来た者たちは、この子をまたものとして扱おうとしている。
ならば。
「森」
魔女は低く呼んだ。
庵の外で、葉が一斉に止まった。
「起こすな」
森が応える。
那種を起こすな。
この子に聞かせる必要はない。
この子に見せる必要もない。
この子は今、眠っていればいい。
魔女は庵の扉を開けた。
外へ出る。
夜の森が、魔女を迎えた。
◇
男たちは、最初に目印の木を見つけた。
幹の一部が剥がれ、古い傷がある。
そのそばに、以前馬車を止めた跡が残っているはずだった。
だが、見つからない。
「おかしいな」
「雨で流れたんだろ」
「そんなに降ったか?」
「森だぞ。湿気で全部消える」
男たちは苛立ちながら、灯りを少し上げた。
光が木々の間を照らす。
だが、見えるのは同じような幹ばかりだった。
さっきまで背後にあったはずの道が、少し違って見える。
「おい」
「何だ」
「馬車、どっちだ」
誰もすぐに答えなかった。
笑い声が止まる。
風が吹いた。
葉が揺れる。
その音が、まるで囁き声のように聞こえた。
「戻るぞ」
先頭の男が言った。
「場所を間違えた」
「まだ何も見つけてない」
「戻ると言ってる」
男たちは振り返った。
そこに、道はなかった。
木がある。
根がある。
霧がある。
歩いてきたはずの空間が、森に塞がれている。
「……術式か」
魔術師崩れの男が杖を抜いた。
だが、発動する前に、杖の先へ蔦が絡んだ。
「何だ」
男が引く。
蔦は動かない。
次の瞬間、杖が軋んだ。
乾いた音を立てて折れる。
男が悲鳴を上げた。
「馬鹿な、結界反応もなかったぞ!」
森の中で、低い声がした。
「結界ではない」
男たちは一斉に振り向いた。
木々の間に、女が立っていた。
長い髪。
古い森の色をした衣。
人のような姿。
だが、人ではない。
空気が違った。
そこだけ夜が深い。
そこだけ森が膝をついている。
男たちの一人が、顔を引きつらせた。
「大樹の……」
「魔女」
誰かが最後まで言った。
魔女は男たちを見ていた。
怒っているようには見えなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、見ていた。
それが、何より恐ろしかった。
「お前たちは、妾の森に入った」
魔女が言った。
男たちは動けない。
「初代皇王との誓約を知らぬか」
誰も答えない。
「知らぬなら、愚か」
魔女の声は静かだった。
「知ってなお入ったなら、なお愚か」
先頭の男が、震える声で言った。
「我々は、森の奥へ入るつもりでは」
「入った」
「縁だけです」
「森に、縁も奥もない」
魔女は一歩進んだ。
男たちは一歩退いた。
だが、背後には根があった。
太い根が、いつの間にか足首を囲んでいる。
「用件を言え」
魔女が言った。
男たちは黙った。
「言え」
森がざわめいた。
その音に押されるように、魔術師崩れの男が口を開いた。
「……小娘を、探しに」
「小娘」
「銀白の髪の、炎適性のある」
「名は」
男は答えられなかった。
魔女の目が細くなる。
「名を知らぬのか」
「我々は、依頼を受けただけで」
「名を知らぬ子を探しに来たのか」
「素材として」
そこまで言って、男は自分の口を押さえた。
遅かった。
森が動いた。
音もなく、根が男の足首に巻きつく。
「待て、今のは」
「素材」
魔女が繰り返した。
声に温度が消えていた。
「お前たちは、あの子を素材と呼んだか」
「違う、我々はただ」
「髪か」
魔女が言う。
別の男の肩から、白い袋が落ちた。
中には、切り取り用の小刀と、保存液の瓶が入っていた。
「骨か」
別の男の背嚢から、細い骨を納めるための箱が覗いていた。
「血か」
魔術師崩れの腰には、採血用の小瓶が並んでいた。
「魔力残滓か」
最後の男の手には、土を削るための銀の匙があった。
魔女はそれらを見た。
そして、静かに言った。
「なるほど」
男たちは震えていた。
魔女は一歩近づいた。
「お前たちは、あの子を捨てた」
「我々が捨てたわけでは」
「運んだな」
男は黙った。
「森の縁に置いたな」
「命令で」
「置いたな」
「……はい」
「その後、髪を、骨を、血を、残滓を拾いに来た」
誰も答えない。
「売るために」
沈黙。
それが答えだった。
魔女は夜空を見上げた。
枝の隙間から、細い月が見える。
「聞いたか、森」
大樹の森が、低く鳴った。
それは風ではなかった。
怒りだった。
◇
最初に逃げ出したのは、若い男だった。
彼は根を踏み越え、枝を払って走った。
数歩。
それだけだった。
足元の土が柔らかく沈む。
男は叫んだ。
「助け」
言い終える前に、地面から伸びた根が身体を絡め取った。
締め潰すのではない。
引きずり込むのでもない。
ただ、根が男の身体に沿って這い上がる。
足。
腰。
胸。
腕。
首。
男は暴れた。
根は静かに動いた。
やがて、男の口から声が出なくなる。
代わりに、小さな白い花が一つ、喉元から咲いた。
それは美しい花だった。
月明かりを受けて、淡く光っている。
男の身体は、その花を残して森に呑まれた。
残ったのは、地面に落ちた袋だけだった。
他の男たちが悲鳴を上げる。
魔女は動かない。
「この森で奪おうとしたものは、森へ返す」
魔女は言った。
「それだけだ」
次の男が杖を構えた。
火の術式を放とうとした。
だが、火は出なかった。
代わりに、杖の中から細い芽が吹いた。
芽は一瞬で枝となり、男の腕に巻きつく。
男は杖を放そうとした。
放せなかった。
枝は腕の中へ根を伸ばすように絡み、男の魔力を吸い上げる。
「やめろ、やめろ、やめてくれ!」
男の声が細くなる。
髪が白くなり、肌が乾き、目が落ち窪む。
それでも、死体は残らなかった。
枝が男を包み、木の瘤のように閉じる。
次の瞬間、そこには小さな若木が一本立っていた。
葉が一枚、二枚と開く。
魔女はそれを見もしなかった。
「次」
残りの男たちは崩れ落ちた。
「許してください!」
「我々は命じられただけです!」
「当主が! ノーザス家が!」
「本当に、我々は」
「名を言え」
魔女が言った。
男たちは固まった。
「お前たちが捨て、探し、売ろうとした子の名を言え」
誰も答えられなかった。
「知らぬのか」
魔女は静かに言った。
「名も知らずに、髪を切り、骨を拾い、血を売ろうとしたのか」
男の一人が震えながら言った。
「那種……」
魔女の目が動いた。
「誰に聞いた」
「記録で。那種=ノーザスと」
森が一瞬、静まり返った。
その名。
那種が泣きながら捨てた名。
魔女が剥がした名。
男の口から、それが出た。
「違う」
魔女は言った。
男は震えた。
「え」
「その名ではない」
魔女が一歩近づく。
「那種はノーザスではない」
男は口を開けたまま固まった。
魔女の声は、森の奥まで響いた。
「樹那種だ」
葉が揺れる。
根が震える。
森がその名を復唱するように鳴った。
「大樹の森が覚えた名だ」
魔女は男たちを見下ろした。
「そして」
ほんの一瞬、魔女は庵の方を見た。
眠っている少女を思う。
布袋を抱いて眠る、まだ泣き方も下手な子。
帰りたいと言いながら、それでも生きようとしている子。
名を奪われ、火を恐れ、それでも火を消さなかった子。
「妾の庵にいる子だ」
男たちの顔色が変わった。
魔女は静かに続けた。
「妾が水を飲ませた」
森が揺れる。
「妾が粥を食わせた」
根が土を鳴らす。
「妾が名を与えた」
花が一斉に開く。
「妾が、娘と呼ぶかもしれぬ子だ」
まだ娘と呼ぶには早い。
そう思っていた。
だが、この者たちの前では十分だった。
魔女の目が冷たく光る。
「その子を、ものとして語ったな」
男たちは、もう言葉を失っていた。
◇
森の裁きは、長くはなかった。
ただ、人にとっては永遠に感じられただろう。
一人は、足元から生えた蔦に包まれ、体内の魔力を花へ変えられた。
一人は、持っていた採血瓶の中へ自分の血を吸い出され、最後には瓶ごと根に砕かれた。
一人は、骨箱を抱いたまま地面に沈み、そこから白い茸が生えた。
一人は、逃げる道を求めて叫び続け、声だけを梟に持っていかれた。
一人は、森に許しを乞うたが、森はその名を知らなかった。
最後に残った男は、ただ震えていた。
先頭に立っていた男。
那種を森の縁に捨てた時、ここでいいと言った男だった。
魔女はその男の前に立った。
「お前は、あの子を置いたな」
男は首を振った。
だが、口は正直だった。
「置きました」
「生きていると知っていたな」
「……はい」
「じきに死ぬと言ったな」
男の顔が歪む。
「言いました」
「なぜ助けなかった」
「命令で」
「なぜ名を聞かなかった」
「必要が」
「必要がなかったか」
魔女の声が低くなる。
「お前にとっては」
男は泣いていた。
だが、魔女の心は動かなかった。
涙は、人を許す理由にはならない。
特に、他者をものとして扱った者の涙は。
「最後に教えてやる」
魔女は言った。
「あの子は生きている」
男の目が見開かれた。
「生きて、名を得た」
男は震えた。
「それを知ったまま、森に還れ」
地面が開いた。
根が男を掴む。
男は叫んだ。
助けてくれ。
許してくれ。
命令だった。
知らなかった。
そう叫んだ。
魔女は答えなかった。
男の身体は、ゆっくりと森に沈んでいく。
最後に残った手が、地面を掴もうとした。
その指先から、小さな芽が出た。
そして、すべてが土に呑まれた。
静けさが戻った。
森には死体が残らなかった。
ただ、男たちが持ち込んだ道具だけが、地面に並べられていた。
小刀。
採血瓶。
骨箱。
銀の匙。
保存液。
袋。
それらは、森の外縁へ運ばれた。
誰かが見つけられる場所へ。
人の世界へ返すために。
◇
翌朝、神崇皇国側の森外縁で、六人分の荷物が見つかった。
人影はない。
血痕もない。
争った跡もない。
ただ、荷物だけが整然と並んでいた。
その中央に、木板が一枚立っていた。
木板には、刃物ではなく、根が内側から押し上げたような文字が刻まれている。
不可侵。
ただ、その二文字だけだった。
見つけた巡回兵は、顔色を変えた。
すぐに上へ報告が上がった。
大樹の森の外縁に、不審な荷物。
人間の遺留品。
魔術素材回収用具。
そして、不可侵の警告。
その報せは、やがて中央記録院へ届く。
境界調査師団へ届く。
皇王府へ届く。
そして、本条猛の耳にも入ることになる。
だが、その時、那種はまだ何も知らなかった。
◇
庵では、那種が目を覚ましていた。
いつもよりよく眠れた朝だった。
熱はない。
身体はまだ重い。
だが、胸の奥の火は静かだった。
那種は寝台の上で、布袋を握る。
「樹那種」
小さく言う。
それから、もう一度。
「樹那種」
扉が開く。
魔女が入ってきた。
いつもと同じ顔だった。
昨夜、何があったのかなど、微塵も見せない。
「起きたか」
「はい」
「粥を食うか」
那種は少し考えた。
「食べます」
「どれくらい」
「昨日より、少しだけ」
「よい」
魔女は頷いた。
那種は魔女を見た。
ふと、何かを感じた。
理由はわからない。
だが、森の匂いがいつもより濃い気がした。
「お母さん」
呼んでから、那種は固まった。
魔女も固まった。
庵の中が静かになる。
那種の顔が一瞬で赤くなった。
体力が戻っていないので、赤くなるにも限度がある。けれど、本人はひどく慌てていた。
「あ、違、すみません、今のは」
魔女は黙っていた。
那種は布袋を抱えたまま、泣きそうな顔になる。
「ごめんなさい。母様と、違うのに。私」
魔女はゆっくり息を吐いた。
「謝ることではない」
那種は顔を上げた。
「ですが」
「呼びたくなければ呼ばなくてよい。呼んでしまったなら、それもよい」
魔女は少しだけ目を逸らした。
「妾も、どう返せばよいかわからん」
那種は目を瞬かせた。
魔女が困っている。
それが少しだけ不思議だった。
大魔族で、大樹の森の主で、何でも知っていそうな魔女が、ただの呼び間違いに困っている。
那種はそのことに、ほんの少しだけ息を抜いた。
「……ごめんなさい」
「だから、謝らんでよい」
「はい」
「粥を作る」
「はい」
魔女は台所へ向かった。
背を向けたまま、小さく言った。
「それと」
「はい」
「今の呼び方は、嫌ではなかった」
那種は何も言えなかった。
胸元の布袋を握る。
母様のもの。
本条澄乃の残したもの。
それは変わらない。
誰にも代わりはいない。
けれど、この森にも、誰かがいる。
水を飲ませてくれる人。
火を測らない人。
名前をくれた人。
取らないと言って、本当に取らない人。
那種は目を伏せた。
涙が少しだけ落ちた。
悲しいだけの涙ではなかった。
台所から、粥の匂いがした。
大樹の森は、眠らない。
昨夜、森は裁きを終えた。
けれど庵の中では、ただ一人の少女が、少しだけ多く粥を食べようとしていた。




