第2章 第10話『樹の名』
第十話 樹の名
那種が庵の外で、少しだけ歩けるようになったのは、森に拾われてから十日ほど経った頃だった。
歩ける、といっても、庵の入口から古い切り株までのわずかな距離である。
魔女が横に立ち、森の根が足元を平らにし、草が滑らぬように葉を寝かせる。そこまでされて、ようやく那種は一歩ずつ進めた。
それでも、那種にとっては大きなことだった。
寝台から起きる。
自分の足で立つ。
外へ出る。
風を浴びる。
木漏れ日の中を歩く。
それだけのことが、ひどく遠い場所から戻ってきたように感じられた。
「無理をするな」
魔女が言った。
那種は反射的に頷いた。
「はい、師匠」
「返事だけはよいの」
「……はい」
「そこも返事をするのか」
魔女が呆れたように言うと、那種は困った顔をした。
この魔女は、何を望んでいるのか時々わからない。
命令する。
けれど、従いすぎると呆れる。
聞く。
けれど、答えなくても怒らない。
水を飲ませる。
こぼしても叱らない。
火が揺れても記録しない。
那種には、その一つ一つがまだ不思議だった。
ノーザス家では、正解があった。
正しい出力。
正しい姿勢。
正しい返答。
正しい署名。
正しい沈黙。
そのどれかを間違えれば、記録され、修正され、また試される。
だが、この森には違う種類の静けさがある。
正解を急がない静けさ。
間違えても、すぐには罰が落ちてこない静けさ。
那種はそれに、まだ慣れなかった。
「疲れたか」
魔女が聞いた。
那種は首を横に振りかけた。
だが、途中で止めた。
言ってよい、と魔女は言った。
寒い。
痛い。
嫌だ。
帰りたい。
それらを言ってもよい、と。
那種は自分の足を見た。
膝が震えている。
息も少し上がっている。
切り株までは、あと数歩。
そこまで行きたい。
けれど、今は少し苦しい。
「……少し、疲れました」
声は小さかった。
それでも、言えた。
魔女はすぐに頷いた。
「なら、座れ」
切り株の前まで行かせるのではなく、足元の根が静かに盛り上がった。
座れる高さの、柔らかな根の椅子。
那種は目を丸くした。
「これ」
「森は便利じゃろう」
魔女は当然のように言った。
那種は恐る恐る腰を下ろした。
根の椅子は見た目より柔らかく、背中を支えるように形を変えた。
那種は膝の上で布袋を握る。
母様の布袋。
もう何度も魔女に「取らない」と言われている。
それでも、手放すことはできなかった。
布の感触がないと、自分がどこにいるのかわからなくなる。
自分が誰なのか、わからなくなる。
魔女はそれを見ても、何も言わなかった。
◇
森での日々は、ゆっくり進んだ。
朝、魔女が水を持ってくる。
那種は少し飲む。
粥を食べる。
食べられる日もあれば、食べられない日もある。
食べられない日、那種は必ず謝る。
魔女はそのたびに言う。
「明日、食べればよい」
昼、魔女は那種の魔力循環を診る。
焦げついた箇所をほどく。
薬の残りを薄める。
傷ついた炎の流れを、無理に矯正せず、ただ通り道を作る。
夜、那種は時々うなされる。
かい。
お父さん。
紀良。
母様。
名を呼ぶ。
それから、たまに別の言葉も漏れる。
違う。
やめて。
その名前で呼ばないで。
私は。
私は。
そこから先は、いつも声にならない。
魔女はそのたびに、那種の額へ布を置いた。
触れられることへの震えは、少しずつ小さくなっている。
逃げるように身を強張らせる時間も短くなった。
だが、名前の話になると、那種は崩れる。
魔女はそれを見ていた。
那種。
それが名。
では、姓は何か。
最初に尋ねた時、那種は答えられなかった。
言いたくないのではない。
言えば何かが壊れるように怯えていた。
その理由は、少しずつ聞いた話で見えてきている。
本条。
ノーザス。
那種=ノーザス。
その名前で呼ばれた時、那種の火がどう揺れたかも、魔女は見ている。
名は、ただの音ではない。
誰が呼ぶか。
どのように呼ぶか。
どの手で与えられ、どの手で奪われたか。
それによって、名は命綱にも、枷にもなる。
那種にとって、ノーザスは枷だった。
では、本条は。
それは帰る場所だ。
だが、今の那種には遠すぎる。
自分は戻ってよいのか。
戻れば迷惑をかけるのではないか。
戻る資格があるのか。
その恐れが、本条の名まで痛みに変えかけている。
魔女は、考えていた。
◇
その日、那種は庵の前で火を灯していた。
小さな火だった。
指先ほどの、赤い火。
森の風に揺れながら、それでも消えない。
魔女は少し離れて見ていた。
「火を見ろ」
魔女が言う。
那種は頷いた。
「はい、師匠」
「火を抑えるな」
「はい」
「火を放すな」
「はい」
「揺れるのはよい。暴れそうなら、息を吐け」
那種は息を吐いた。
火が揺れる。
揺れて、戻る。
「よい」
魔女が言った。
那種の目が、ほんの少しだけ明るくなった。
褒められた。
そう理解するまでに、少し時間がかかった顔だった。
魔女はその顔を見るたび、どうにも落ち着かない気持ちになる。
この子は、褒められることに慣れていない。
褒められても、次に何を求められるのか身構える。
だから、魔女はできるだけ余計な条件をつけずに言うようにしていた。
よい。
それだけ。
十分。
それだけ。
少しずつでいい。
それだけ。
那種は火を見つめながら、言った。
「あの」
「何だ」
「この火、怖くないですか」
「妾がか」
「はい」
「怖くはない」
魔女は即答した。
那種は火を見る。
「でも、ノーザスでは、危ないって」
「危ないのは当然だ」
那種の肩が小さく縮こまる。
魔女は続けた。
「火は危ない。水も危ない。土も、根も、刃も、言葉も危ない。扱いを誤れば何でも人を傷つける」
那種は魔女を見る。
「だが、危ないから悪い、ではない」
「悪い、ではない」
「火は照らす。温める。焼く。遠ざける。守ることもある」
那種の火が、小さく揺れた。
「守る火」
「ああ」
那種は黙った。
その言葉を、かつて誰かに聞いたことがある。
ユルゲン。
本条家へ来た軍属の魔術師。
火は壊すだけではない。
そう教えてくれた。
その時の自分は、ちゃんと学んで帰るつもりだった。
怖くない火にする。
守る火にする。
戎にそう言った。
その言葉を思い出した瞬間、火が少し強くなった。
那種は慌てて息を吐く。
火は揺れる。
けれど、暴れない。
「……戻った」
那種が小さく言った。
「そうだ」
魔女は頷いた。
「揺れても戻れる。それでよい」
那種は指先の火を見つめた。
涙が目に溜まる。
火はまた揺れる。
それでも、消えない。
「私」
那種は言った。
「帰りたいって思うと、火が揺れます」
「そうだろうな」
「戎のことを思い出しても、揺れます」
「そうだろうな」
「お父さんも、紀良も、母様も」
「ああ」
「でも、戻れますか」
魔女は那種の火を見た。
赤い、小さな火。
傷つきながらも消えない火。
「戻れるようにする」
魔女は言った。
那種は魔女を見た。
「妾が教える」
その言葉に、那種の顔が変わった。
驚き。
戸惑い。
恐怖。
そして、ほんのわずかな期待。
「教える……?」
「ああ。火を閉じ込めるためではない。測るためでもない。お前が、自分の火で自分を焼かぬようにするためじゃ」
那種の唇が震えた。
「私、まだ学んでいいんですか」
「学ぶ気があるならな」
「でも、私は失敗して」
「何度も言わせるな。失敗したのはお前ではない」
魔女は少しだけ声を強めた。
那種はびくりとしたが、逃げなかった。
「那種」
名を呼ぶ。
那種が顔を上げる。
「お前は火を持っている。なら、その火を知ればよい。火を恐れることと、火を憎むことは違う。火を抑えることと、火を殺すことも違う」
那種はゆっくり頷いた。
「はい」
「今日はここまでだ」
魔女が言うと、那種は驚いた顔をした。
「もう、ですか」
「ああ」
「まだできます」
「知っておる」
「なら」
「できるところでやめるのも訓練だ」
那種は言葉に詰まった。
できなくなるまでやる。
そうしなければ、頑張ったことにならない。
そう思っていた。
「余力を残せ」
魔女は言った。
「火も、身体も、心も。全部使い切るな」
那種は指先の火を見た。
小さな火を、ゆっくり消す。
消えた。
怒られなかった。
もっとやれとも言われなかった。
那種は不思議そうに自分の指先を見つめた。
「……難しいです」
「だろうな」
「ノーザスで習ったことと、違います」
「なら、ここで覚え直せ」
那種は小さく頷いた。
「はい、師匠」
◇
その夜、那種は少し長く眠った。
うなされる時間は短かった。
魔女は灯りを落とし、庵の窓辺に座っていた。
外では森が静かに息づいている。
那種の呼吸を聞きながら、魔女は古い記録を思い返していた。
本条家。
那種が何度も呼ぶ名。
森の風は、わずかな噂を拾っている。
王都に本条という剣の家がある。
古い葦の国由来の剣を継ぐ家。
かつて境界で魔獣と戦い、従魔人を斬り、荒ぶるものを鎮めてきた家。
その当主は、本条猛。
戦場で名を知られた剣士。
それ以上の情報は、まだ少ない。
だが、那種の話を聞く限り、少なくともその家は那種をものとして扱ってはいなかった。
飯を食わせた。
叱った。
守った。
送り出した。
そして、待っていた。
戎という子供は、ノーザス家へ単身で乗り込んだらしい。
馬鹿だ。
無謀だ。
だが、悪くない。
魔女は少しだけ笑った。
「本条の家、か」
その名は、那種にとって帰る場所だ。
しかし今、那種はその名を名乗れない。
名乗れば、帰れなかった自分を責める。
名乗れば、本条家に迷惑をかけたと思う。
ノーザスに奪われた名を捨てても、すぐに本条へ戻るには傷が深すぎる。
では、どうする。
空白にしておくのか。
那種。
ただの那種。
それでもよい。
だが、人の世では名に紐づくものが多い。
記録。
保護。
連絡。
帰る道。
そして何より、本人が自分を呼ぶための足場。
ノーザスではない。
本条へ戻るにはまだ痛む。
ならば、一時の名が必要だった。
奪う名ではない。
縛る名でもない。
守るための名。
魔女は外の森を見た。
大樹の森。
古く、深く、誰のものでもない森。
根を張り、枝を伸ばし、風を受け、傷ついてもまた芽吹く森。
「樹」
魔女は小さく呟いた。
悪くない。
◇
翌朝、那種は熱を出さずに目を覚ました。
初めてだった。
目覚めた時、身体はまだ重い。
痛みもある。
けれど、熱に沈んでいない。
那種はしばらく天井を見ていた。
それから、ゆっくり横を向く。
水の器がある。
布がある。
窓から森の光が入っている。
胸元には、母様の布袋。
ここはノーザス家ではない。
ここは、本条家でもない。
大樹の森。
魔女の庵。
那種は身体を起こそうとして、止まった。
無理をするな。
余力を残せ。
魔女の言葉を思い出す。
少し考えてから、那種は声を出した。
「……起きたいです」
台所の方で物音が止まった。
魔女が顔を出す。
「一人でか」
「手伝って、ほしいです」
言えた。
那種自身が驚いた。
手伝ってほしい。
そんなことを、言ってよいのだろうかと思っていた。
魔女は当然のように近づいた。
「よかろう」
那種の背に手を添える。
那種は一瞬だけ強張ったが、逃げなかった。
ゆっくり起き上がる。
背中が痛む。
肩が重い。
それでも、倒れなかった。
「できました」
那種は小さく言った。
「そうだな」
魔女は答えた。
「今日は少し粥を増やすか」
那種は考えた。
増やす。
食べられるだろうか。
食べられなかったら。
吐いたら。
残したら。
少し迷ってから、那種は言った。
「少しだけ」
「少しだけだな」
「はい」
「よい」
魔女はそう言って、台所へ戻った。
那種は寝台の上で、胸元の布袋を握った。
自分で言えた。
起きたい。
手伝ってほしい。
少しだけ。
それだけの言葉なのに、胸が少し震えた。
泣きそうになる。
だが、今は泣かなかった。
窓の外で、葉が揺れた。
まるで、よく言えた、とでも言うように。
◇
粥を食べ終えた後、魔女は那種を庵の前へ連れ出した。
いつもの根の椅子に座らせる。
那種は膝の上で布袋を握っていた。
魔女はその正面に立つ。
「那種」
「はい、師匠」
「今日は名の話をする」
那種の顔が強張った。
指が布袋を握る。
魔女はすぐに言った。
「無理に姓を言えという話ではない」
那種の肩が少しだけ下がる。
「では、何を」
「お前は、ノーザスではない」
那種の息が止まった。
風も止まったように感じた。
「何度でも言う。お前はノーザスではない」
魔女の声は静かだった。
だが、森の奥まで届くような声だった。
「お前にあの名を与えた者たちは、お前をものとして扱った。測り、削り、奪い、捨てた。そんな名を、お前が背負う必要はない」
那種の目に涙が浮かぶ。
「でも」
「でも、ではない」
「私、自分で書きました」
那種は言った。
声が震えていた。
「那種=ノーザスって。自分で書きました」
「書かされたのだろう」
「でも、私の手で」
「それは奪った者の理屈だ」
魔女の目が冷たくなる。
「奪う側は、よくそうする。本人に差し出させる。本人に書かせる。本人に選ばせた形にする。そうすれば、奪われた者は自分を責める」
那種は涙をこぼした。
「私、弱かった」
「弱かったのではない」
「嫌って言えなかった」
「言っても届かぬ場所にいた」
「でも」
「那種」
魔女が名を呼ぶ。
那種は口を閉じた。
「お前は、あの名を捨ててよい」
那種は泣いた。
声を出さずに泣いた。
それから、かすれた声で言った。
「本条に、戻ってもいいんでしょうか」
魔女はすぐには答えなかった。
それは魔女が決めることではない。
本条の家がどう思うかではなく、那種自身がどう受け止めるかの問題だった。
今の那種に、ただ「戻れ」と言えば、彼女はきっとまた自分を責める。
戻れなかった時間。
助けられなかった手紙。
戎に怪我をさせたこと。
紀良の布人形を守れなかったこと。
短刀を返せなかったこと。
そういうものを全部抱えて、本条の名に潰される。
だから、魔女は正直に言った。
「戻ってよい」
那種が顔を上げる。
「だが、今すぐ名乗れとは言わん」
「え」
「本条へ戻るかどうかは、いつかお前が自分で決めればよい。戻りたいなら戻ればよい。まだ痛むなら、少し休めばよい」
那種は戸惑った。
「休む」
「ああ」
「名前も、休んでいいんですか」
「よい」
魔女は言った。
「だが、空白のままでは寒かろう」
那種は意味がわからず、魔女を見た。
魔女は森を見渡した。
「ここは大樹の森だ」
「はい」
「この森は、皇国のものではない。魔王のものでもない。妾のものですら、完全にはない。ただ、古くからここに在り、根を張り、枝を伸ばしてきた」
葉が揺れる。
那種は森を見た。
「樹は、すぐには動かん」
魔女は言う。
「だが、育つ。傷つけば樹皮を厚くし、折れれば枝を伸ばし、焼けても根が生きていればまた芽吹く」
那種の指が、布袋を握る。
「お前は今、根を失ったと思っておる。名を奪われ、家を遠くされ、自分がどこに立っているのかわからなくなっている」
那種は何も言えなかった。
「ならば、一つ名をやろう」
魔女は那種を見た。
「樹だ」
風が止まった。
森が、耳を澄ませた。
「樹那種」
魔女は静かに告げた。
「この森の樹。大樹の樹。ノーザスではなく、今すぐ本条を背負えぬお前が、一度立つための名だ」
那種の目が、大きく開かれた。
「樹、那種」
「そうだ」
「それは」
那種の声が震える。
「私の名前ですか」
「気に入らぬなら捨ててもよい」
魔女は言った。
「名は鎖ではない。お前が立つための杖だ。必要なくなれば置いていけばよい」
那種は泣いた。
今度は、声が漏れた。
胸を押さえ、布袋を抱きしめ、肩を震わせて泣いた。
「私、ノーザスじゃないんですか」
「違う」
「もう、あの名前じゃないんですか」
「違う」
「私は」
那種は言葉を探した。
「私は、誰ですか」
魔女は答えた。
「那種だ」
そして、もう一度言った。
「樹那種だ」
那種は顔を伏せた。
泣きながら、何度もその名を小さく繰り返す。
「樹、那種」
声は震えている。
けれど、嫌がってはいない。
「樹那種」
もう一度。
名を確かめるように。
自分の手で、壊れた器の欠片を集めるように。
「樹那種」
魔女はそれを黙って聞いていた。
森も聞いていた。
その日、大樹の森は一人の少女の名を覚えた。
那種。
ノーザスではない。
まだ本条へ戻る途中の、傷ついた少女。
大樹の森に拾われ、魔女に名を与えられた子。
樹那種。
那種は泣き続けた。
魔女は、初めてその頭に手を置いた。
那種は震えた。
けれど、逃げなかった。
「よく生きた」
魔女は言った。
「よく、ここまで来た」
那種の泣き声が、大きくなった。
森の葉が静かに揺れる。
慰めるように。
祝うように。
名を奪われた少女に、新しい名が与えられた。
それは、家に帰ることを諦める名ではない。
いつか帰るために、一度立ち上がる名だった。




