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銀華と黒刃  作者: 誠十郎
『樹』

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第3章 第22話『樹』

第二十二話 樹


 那種が本条家へ帰ってから、三日が過ぎた。


 大きな事件は起きなかった。


 それが、那種には少し不思議だった。


 朝になれば、台所から音がする。


 紀良が那種の部屋を覗きに来る。


 戎は道場で稽古をしている。


 猛は門下生を叱っている。


 昼には粥か汁物が出て、夕方には井戸の水が冷たくなる。


 夜になれば、那種は自分の部屋で眠ろうとする。


 眠れない時は、戎の部屋へ行く。


 紀良が気づくと、自分も一緒に寝ると言い出す。


 猛は最初だけ渋い顔をしたが、結局、布団の位置を整えた。


 そんな日が続いた。


 何も起きない。


 誰も那種を責めない。


 誰も白銀の右腕を怖がらない。


 誰も背の竜帝刻を無理に見ようとしない。


 それが嬉しくて、同時に少し怖かった。


 こんなに静かでいいのだろうか。


 こんなに優しくていいのだろうか。


 また突然、どこかへ連れて行かれるのではないか。


 そんな考えが、ふと胸をよぎることがある。


 けれど、そのたびに紀良が袖を掴む。


 戎が近くにいる。


 猛が低く「飯だ」と呼ぶ。


 その声で、那種は少しずつ戻ってくる。


 本条家に。


 今の自分に。


     ◇


 四日目の朝、猛は王都へ向かう支度をしていた。


 那種は縁側でそれを見ていた。


「お父さん」


「何だ」


「お仕事?」


「半分はな」


「半分?」


「ああ」


 猛は腰に刀を佩き、外套を羽織った。


 いつもの出立と少し違う。


 戦場へ行く顔ではない。


 けれど、ただの用事でもない。


 那種にはそれがわかった。


「私も行く?」


「行かなくていい」


 即答だった。


 那種は目を瞬かせた。


「でも」


「お前は休め」


「もうだいぶ」


「休め」


 猛は言い切った。


 那種は口を閉じた。


 それから、小さく聞いた。


「私のこと?」


 猛の手が少し止まった。


 戎が縁側の端からこちらを見る。


 紀良も台所の方から顔を出した。


 猛は那種を見た。


「そうだ」


 隠さなかった。


 那種は膝の上で左手を握った。


 白銀の右腕が、朝の光を受けて淡く光る。


「私、行かなくていいの?」


「行かなくていい」


「でも、私のことなら」


「だからだ」


 猛は低く言った。


「お前を連れて行く必要がないことは、俺が先に行く」


 那種は息を止めた。


「お前に聞かせなくていい言葉があるかもしれん。見せなくていい紙があるかもしれん。なら、俺が先に見る」


 猛の声は不器用だった。


 だが、はっきりしていた。


「お前は、ここで待ってろ」


 待ってろ。


 その言葉に、那種の胸が少し揺れた。


 昔は、待つしかなかった。


 閉じられた部屋で。


 返事の来ない手紙の前で。


 いつ帰れるかわからないまま。


 でも今の「待ってろ」は、違った。


 置いていく言葉ではない。


 守るための言葉だった。


「……はい」


 那種は頷いた。


「待ってます」


 猛は頷き返した。


 戎が言った。


「俺も行く」


「駄目だ」


「父さん」


「駄目だ」


 猛は戎を見た。


「お前が行くと、顔に出る」


 戎は黙った。


 紀良が小さく言う。


「兄様、絶対怒る顔する」


「しない」


「する」


 紀良は即答した。


 那種は少しだけ笑った。


 戎は納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。


 猛は門へ向かう。


 その背に、那種は声をかけた。


「お父さん」


「何だ」


「いってらっしゃい」


 猛は足を止めた。


 少しだけ振り返る。


「ああ」


 短く答えた。


「行ってくる」


 その言葉を聞いて、那種は胸の奥が少し温かくなった。


 いってらっしゃい。


 行ってくる。


 当たり前の言葉。


 でも、今の那種には、ひどく大切な言葉だった。


     ◇


 猛が向かったのは、中央記録院だった。


 王都の中枢にある巨大な建物である。


 古い聖堂を改築した記録院は、石造りの壁と高い窓を持ち、内部には皇国各地から集められた記録が保管されている。


 民籍記録。


 軍属記録。


 貴族家の登録。


 土地の移動。


 裁きの記録。


 古い誓約文書。


 神崇皇国という国が、何を覚え、何を認め、何を消したか。


 その多くが、ここに収められていた。


 猛は受付で名を告げた。


「本条猛」


 記録官の若い男が顔を上げ、すぐに背筋を伸ばした。


「本条様。お話は伺っております」


「誰からだ」


「宰相府および黒印局より、照会の可能性ありと」


「そうか」


 猛は表情を変えなかった。


 宰相府。


 黒印局。


 すでに話は回っている。


 ノーザス家の件は、ただの家の問題では終わらなかった。


 大樹の森の不可侵誓約。


 森の警告。


 魔術名家による不正な引き取りと拘束。


 人買いへの横流し未遂。


 そして、竜帝アギトとの契約を経て生還した少女。


 関わるものが多すぎる。


 だからこそ、猛は先に来た。


 那種を連れてくる前に。


 娘の前へ、余計な刃を出さないために。


 奥の応接室へ通された。


 しばらくして、年配の記録官が現れた。


 痩せた男だった。


 目は鋭いが、声は落ち着いている。


「本条猛殿。中央記録院所属、民籍および家名変更記録を担当するオルマーです」


「本条猛だ」


「本日は、樹那種殿の件ですね」


 猛の目が細くなった。


「その名で呼ぶのか」


 オルマーはすぐに頷いた。


「現時点で、記録上確認できる正式名が、その名です」


「確認できる?」


「はい」


 オルマーは机の上へ数枚の紙を並べた。


 原簿の写し。


 民籍の変更記録。


 保護記録の未整理写し。


 それらを見た猛は、すぐに眉を寄せた。


「……ノーザスの名がない?」


 応接室は静かだった。


 オルマーは、困惑を隠しきれない顔で頷いた。


「はい」


「那種=ノーザスの記録は」


「ありません」


「後見記録は」


「ありません」


「養子扱いの記録は」


「ありません」


「魔術教育名目の移動記録は」


「それは残っています。ただし、ノーザス家による正式な家名取得記録ではありません」


 猛の目が細くなった。


「どういうことだ」


 オルマーは机の上の原簿写しを指した。


「民籍上、那種殿の流れはこうなっています」


 そこには、はっきりと記されていた。


 本条那種。


 そして、その下に続く名。


 樹那種。


 間に、ノーザスの名はなかった。


 那種=ノーザス。


 その表記はない。


 旧家名としてもない。


 所属記録としてもない。


 後見名としてもない。


 まるで最初から、そこだけ存在しなかったかのように。


「おかしいだろう」


 猛は低く言った。


「ノーザスは、あの子をそう呼んでいた」


「はい」


「紙も書かせていたはずだ」


「その内部記録は、押収品の中に確認されています」


「なら、なぜ民籍にない」


 オルマーは答えられなかった。


 しばらく沈黙した後、静かに言う。


「正直に申し上げます。記録院にも、理由はわかりません」


 猛は顔を上げた。


「わからない?」


「はい。ただ、原簿上はこうなっています。那種殿の記録は、本条那種から樹那種へ移っています。ノーザスの名は、民籍上どこにも残っていません」


 猛は紙を見た。


 樹那種。


 その文字だけが、静かに残っている。


「大樹の森か」


 猛が言うと、オルマーは小さく頷いた。


「その可能性が最も高いと考えています」


「魔女がやったと?」


「断定はできません」


「なら、何だ」


「大樹の魔女が那種殿を保護し、樹那種という名を与えた。その時点で、何らかの古誓約上の作用が働いた可能性があります」


 オルマーは慎重に言葉を選んだ。


「大樹の森は、皇国の中に在りながら、皇国の領土ではありません。初代皇王との誓約により、皇国法の外側にある理を持っています。その森の主が名を与えた場合、通常の民籍処理では説明できない変化が起きても、不思議ではありません」


「不思議ではない、で済むのか」


「済みません」


 オルマーは正直に答えた。


「ですが、記録院が確認できる事実は一つです」


「何だ」


「那種殿の民籍に、ノーザスの痕跡はありません」


 猛は黙った。


 喜べばいいのか。


 怒ればいいのか。


 わからなかった。


 ノーザスの名がない。


 あの子を削った名が、紙の上に残っていない。


 それは救いだった。


 だが、その救いをもたらしたのが、人の法ではなく、大樹の森の魔女であることが、猛の胸を深く刺した。


 父である自分が外せなかった鎖を、森の魔女が外した。


 悔しさはあった。


 だが、それ以上に、ありがたかった。


「……そうか」


 猛は低く言った。


「消えているんだな」


「はい」


「那種=ノーザスは」


「ありません」


「旧名としても」


「ありません」


「民籍にも、保護記録にも、身分写しにも」


「出ません」


 猛は長く息を吐いた。


「なら、それでいい」


 オルマーは頷いた。


「記録院としては、今後、樹那種殿を大樹の森由来の保護名として扱います。あわせて、本条家保護下にあることを明記します」


「本条家から離す名ではないんだな」


「違います」


 オルマーははっきり答えた。


「記録上は、本条那種から樹那種へ。ノーザスを経由していません」


 猛は、その言葉を胸の奥で噛みしめた。


 本条那種から、樹那種へ。


 ノーザスではない。


 那種=ノーザスではない。


 あの家の名は、娘の紙には残っていない。


「本人同意なき調査、召喚、身体確認は」


「禁じる形で保護記録を整えられます」


「背の竜帝刻も、白銀の右腕も」


「本人の意思なく確認できません」


「書け」


「はい」


 オルマーは筆を取った。


 紙の上に、新しい文字が書かれていく。


 樹那種。


 本条家保護下。


 大樹の森古誓約関与。


 本人同意なき調査、召喚、身体確認を禁ずる。


 ノーザスの名は、そこにはなかった。


 最初から、最後まで。


 猛はその紙を見ていた。


 紙は万能ではない。


 記録だけで娘の傷が癒えるわけではない。


 だが、少なくとも、紙の上にあの名はない。


 それだけは、那種に伝えられる。


 父としてではなく。


 勝ち取った者としてでもなく。


 ただ、帰ってきた娘へ。


 お前の名に、あの家は残っていないと。


     ◇


 猛が本条家へ戻ったのは、夕方近くだった。


 門をくぐると、紀良が真っ先に走ってきた。


「お父さん!」


「走るな」


「走ってない!」


「走ってる」


 紀良は慌てて足を止めた。


 その後ろに、那種と戎がいた。


 那種は縁側に座っている。


 肩には深緑の外套。


 背は塞がない。


 白銀の右腕は、膝の上に置かれていた。


 戎はその少し横に立っている。


 やはり、顔に出ていた。


 心配と、苛立ちと、警戒が、全部。


 猛は内心で息を吐いた。


 連れて行かなくて正解だった。


「お父さん」


 那種が呼んだ。


「おかえりなさい」


 猛は足を止めた。


 朝と同じ言葉の対だった。


 いってらっしゃい。


 行ってくる。


 おかえりなさい。


 ただいま。


 当たり前の言葉。


 だが、今の本条家には、どれも重い。


「ああ」


 猛は短く答えた。


「ただいま」


 那種は少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、猛はようやく少し肩の力を抜いた。


     ◇


 居間で、猛は話した。


 難しいところは削った。


 オルマーの言葉をそのまま全部は伝えない。


 けれど、必要なことは隠さなかった。


「ノーザスの名前は、なかった」


 猛は言った。


 那種は、最初その意味がわからなかった。


「なかった?」


「ああ」


「無効にしたんじゃなくて?」


「違う」


 猛は那種を見る。


「お前の民籍には、最初からノーザスの名が残っていなかった」


 那種の息が止まった。


 戎も、紀良も、黙っていた。


「本条那種から、樹那種になっていた」


「樹那種」


「ああ」


「那種=ノーザスは?」


「ない」


「旧名にも?」


「ない」


「紙のどこにも?」


「ない」


 那種の白銀の右手が、胸元へ寄った。


 那種=ノーザス。


 あの音。


 あの呼び方。


 返事をしなければならなかった名。


 胸の奥を削っていった名。


 それが、紙の上にはない。


 無効にされたのではない。


 削られたのでもない。


 残っていなかった。


「どうして」


 那種の声は震えていた。


 猛は少しだけ目を伏せた。


「わからん」


「わからない?」


「記録院にも、わからんらしい」


「じゃあ」


「大樹の魔女だろう」


 その名を聞いて、那種の肩が震えた。


「師匠が?」


「おそらくな」


 猛は低く言った。


「どういう手を使ったのかは知らん。古誓約か、森の理か、樹の名か。それはわからん」


 那種は、ただ聞いていた。


「だが、記録はそうなっていた。本条那種から、樹那種へ。ノーザスは挟まっていない」


 那種の目に涙が浮かんだ。


「私は」


 声が詰まる。


「私は、紙の上でも、あそこにいなかったの?」


 猛は少しだけ顔を歪めた。


「お前が苦しんだことは、消えねぇ」


「うん」


「ノーザスがしたことも、消えねぇ」


「うん」


「だが、お前の名には残っていない」


 那種の涙がこぼれた。


「もう、そこにいなくていい?」


「ああ」


「紙の上でも?」


「ああ」


「名前でも?」


「ああ」


 那種は声を出さずに泣いた。


 紀良が左側から抱きつく。


 戎は何も言わず、那種のそばに座った。


 猛は那種の頭に手を置いた。


「お前は、那種=ノーザスじゃない」


 低い声だった。


「一度も、そうである必要はなかった」


 その言葉で、那種は崩れるように泣いた。


 白銀の右腕が震える。


 背の竜帝刻が熱を持つ。


 それでも、苦しくはなかった。


 鎖が一つ、外れた。


 そう思った。


 猛は続けた。


「公的には、樹那種として守る」


「樹那種」


「ああ。大樹の魔女がくれた名だ。お前をノーザスから切り離し、本条へ戻すために残った名だ」


「本条じゃないの?」


 那種の声は震えていた。


 猛はすぐに答えた。


「本条じゃなくなるという意味じゃねぇ」


「でも」


「お前は俺の娘だ」


 猛は言った。


「紙の上で何と書かれても、それは変わらん」


「樹那種でも?」


「樹那種でもだ」


「白銀の腕でも?」


「腕で娘かどうかを決める親がいるか」


 猛の声が少し荒くなった。


 那種は目を瞬かせた。


 戎が横で小さく頷く。


「いない」


 紀良も言う。


「いないよ」


 那種は白銀の右腕を見た。


 淡く光る、自分の腕。


 森で得た力。


 師匠が見守ってくれた白銀。


「師匠が言ってた」


 那種はぽつりと言った。


「樹那種は、本条を捨てる名じゃないって」


「そうだな」


「いつか本条へ帰るために、ここで生きるための名だって」


「ああ」


「じゃあ、私、樹那種でいてもいい?」


 その言葉は、怖々としたものだった。


 許しを求めるような声だった。


 猛は少しだけ眉を寄せた。


「俺に許しを取るな」


 那種がびくりとする。


 猛はすぐに声を落とした。


「お前の名だ。お前が決めろ」


 那種は胸元の布袋を握った。


 母様の布袋。


 紀良の布人形。


 白銀の右腕。


 本条の家。


 大樹の森。


 師匠。


 全部が、今の那種の中にある。


 一つを選んだら、他が消えるわけではない。


 そう、少しずつわかってきている。


「……樹那種」


 那種は小さく言った。


「うん」


 紀良が頷く。


「姉様の名前」


 戎も言った。


「那種は那種だ」


 猛は低く言う。


「必要な時は、樹那種と名乗れ。家では、那種でいい」


 那種は顔を上げた。


「本条の娘でもいい?」


「当たり前だ」


 猛は即答した。


「お前は、本条の娘だ」


 その言葉に、那種はまた泣いた。


 けれど、さっきとは少し違った。


 苦しくて泣いているだけではない。


 消えていたものがある。


 残っていたものがある。


 そして、自分で選べる名がある。


 それを知って、泣いていた。


     ◇


 その日の夜、那種は自分の部屋で、紙に名前を書いた。


 師匠からもらった名。


 記録院の紙に残っていた名。


 今の自分を守る名。


 樹那種。


 左手でゆっくり書く。


 線は少し震えた。


 けれど、途中で止まらなかった。


 書き終えると、那種はその文字をじっと見た。


 樹。


 那。


 種。


 そこに、ノーザスはない。


 あの音はない。


 あの家はない。


 那種は紙の端を指で押さえた。


 白銀の右手ではなく、左手で。


「樹那種」


 小さく声に出す。


 まだ少し慣れない。


 でも、嫌ではない。


 胸の奥が痛む。


 でも、締めつける痛みではなかった。


 ほどけた場所が、まだ熱を持っているような痛みだった。


 戸が小さく叩かれた。


「那種」


 戎の声だった。


「起きてる?」


「うん」


 戸が少し開く。


 戎が顔を出した。


 手には湯呑を持っている。


「水」


「ありがとう」


 那種は湯呑を受け取った。


 戎は紙を見た。


「書いたのか」


「うん」


「樹那種」


「うん」


 戎はしばらく文字を見ていた。


 それから、短く言った。


「那種の字だ」


「震えてる」


「那種の字だ」


 戎は同じことを言った。


 那種は少しだけ笑った。


「戎」


「何だ」


「この名前でも、呼んでくれる?」


「必要なら」


「家では?」


「那種」


「うん」


「でも、樹那種でも那種だ」


 那種は湯呑を両手で包んだ。


 白銀の右手は、器の温度をあまり感じない。


 左手だけが、じんわり温かい。


「私、まだよくわからない」


「ああ」


「本条那種だった。那種=ノーザスって呼ばれた。師匠に樹那種って名をもらった。今は、紙の上でも樹那種」


「ああ」


「でも、私は私?」


 戎は少しだけ眉を寄せた。


 その問いが痛かったのだろう。


 それでも、戎は迷わず答えた。


「那種は那種だ」


「うん」


「俺の姉だ」


 那種の目が揺れた。


「お姉ちゃん?」


「ああ」


 戎は少しだけ視線を逸らした。


「腹立つくらい、ずっと」


 那種は泣きそうになって、少し笑った。


「腹立つんだ」


「勝手にいなくなった」


「……ごめん」


「でも戻った」


「うん」


「だから、今はいい」


 那種は湯呑を持ったまま、頷いた。


「うん」


 戎は部屋の入口に座った。


 那種の部屋に、勝手には入ってこない。


 でも、そこにいる。


 戸を開けたまま。


 那種が一人になりすぎない距離で。


 那種はもう一度、紙の名前を見た。


 樹那種。


 ノーザスはない。


 そこにはない。


 でも、本条は消えていない。


 胸の中にある。


 部屋にある。


 戸の向こうに座る戎の声にある。


 台所で水を沸かす猛の音にある。


 廊下の向こうで寝息を立てる紀良にある。


 那種は筆を置いた。


 そして、紙の下に小さくもう一つだけ書いた。


 本条の娘。


 戎がそれを見て、何も言わなかった。


 けれど、少しだけ頷いた。


 那種も頷いた。


 名前は、まだ一つに定まらない。


 でも、あの家の名はもうない。


 それだけで、今夜は少し息ができた。


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