第8章:スーパームーンの朝
スーパームーンの当日。本当は、念のため、1日有給を取り、ずっと家にいようと思ったのだが、緊急事態が発生した。
財務・経理部から、このままだと本四半期に、計画の5,960万円分の売り上げが立たず、損失が出る予定とのアラーム・メールを受信した。
この数字を見て、すぐに副主任のデスクに向かった。
「ねぇ。先週、部内稟議を通した5,960万円の請求書だけど、財務・経理部に提出した?」
僕が、副主任に聞くと、副主任は『は?え?』と拍子抜けした声を出した後、顔面蒼白になり『本当に申し訳ありません。失念しておりました。』と言って、自分のデスクの引き出しから、稟議書の原本を出してきた。
「先週、部長まで、承認が下りた後、PDFを取って課の共有フォルダに格納して、その日の定時までに財務・経理部に提出してって言ったよね?」
語気が少し強い言い方をしてしまったのが、自分でも分かった。
『本当に申し訳ありません。課代から書類をもらった後、お昼休みにOG訪問で来ていた大学の後輩たちの1人から、追加で聞きたい質問があると電話を受けてしまって、対応していたら、この書類のことを失念してしまいました。』
あの日、彼女を含めて3人の女性社員がランチに出かけて行ったが、全員が都内にある同じ女子大の卒業生で、来年の就職活動で、この会社を受けようとしている同じ女子大の現役の学生たちとランチを食べながら、質問会をしていたそうだ。
学生たちも、折角、現役で働いている先輩たちに、直接フランクに話が聞けるチャンスなので、質問が多くなってしまい、ランチタイムの時間を超えて、執務室に帰ってきたということだった。
名刺交換をしていたので、彼女の携帯電話番号とメールアドレスを学生たちは知っていた。
その内の1人の学生が、副主任と学部も学科もゼミも同じだそうで、その子は、この会社が第1志望ということもあり、副主任もその学生を贔屓にしていた。
その彼女から、電話があり、聞き忘れた質問があったそうで、対応していたら、この書類を財務・経理部に持っていくのを忘れてしまったということだった。
この金額なので、先方には2ヶ月分の支払い猶予を与えている。
部内稟議が通ったのが、10月の末だったので、その日に財務・経理部に出して、先方に発出をしていれば、ギリギリだが12月末に入金し、本四半期の売上になる。
しかし、11月になってしまったので、2ヶ月後といえば1月上旬だ。まぁ次四半期の売上になってしまうが、回収は出来るので大きな問題はないのであるが、本四半期は、当課としても、部全体を見ても売上が宜しくない。
当課は、本四半期の予算をギリギリ達成することができることになっていたので、この1件はとても致命的であった。
私は、急遽、取引先の所に向かうことにした。
先方に、謝罪をして、頭を下げて、なんとか12月末までに入金を早めてもらえないだろうかとお願いをした。
この取引先は、元々、僕が管理職になる前から、お世話になっていた会社でもあり、社長も担当者もよく知っていた。
管理職である僕が、直接わざわざ謝罪をしに来たということで、社長も担当者も喜んでくださり、懐広く12月末までに支払ってくれることで合意をしてくれた。
僕は、安心したが、やはり肝が冷えたのか、取引先から帰ってくる途中で、何度も体調が悪くなった。駅のトイレで、ベリーの香水をハンカチに何度も吹きかけ、それを口と鼻で押さえた。
駅のトイレは汚臭がするが、それでもベリーの良い香りが、僕の心を落ち着かせてくれた。
なんとか人間の姿の自分を保ちながら、会社に帰るが、どうしても動悸が止まらない。
会社に戻り、すぐにトイレに入り、個室の中で、再度ベリーの香水を何度もハンカチに吹きかけて、それを口と鼻に押し当てる。ゆっくりと深く呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
10ほど経っただろうか、ようやく落ち着いてきたので、給湯室に行き、白湯を飲みながら常備薬を飲む。
主任がお勧めしていた倉庫型の大型ディスカウントストアで購入した解凍した冷凍ブルーベリーが入ったタッパーを開けて、一つずつ噛みしめるように食べていった。
『課代、大丈夫ですか?』
またあの主任が声をかけてきた。
「大丈夫だよ。いや、さすがに焦ったけど、なんとか先方も了承してくれて、全て丸く収まったよ。」
「やっぱり、普段から良好な関係を作っておくのは、大切だね。」
『課代は、甘すぎです。』
突然、棘のある発言に、僕は驚いた。
『あの副主任、仕事できなさ過ぎじゃないですか。』
『他部署に書類を持っていく。そんなこと新卒でもできますよね?』
『普段から書類の不備も多すぎますし、そもそも、今日も取引先に謝罪をしに行くのに、どうして課代だけが行ったんですか?』
『今の担当者は彼女ですよね?本来は、彼女が1人で行って、謝罪をしてくるべきなんじゃないでしょうか?』
言ってることは、ごもっともだ。
しかし、副主任が、普段から、先方に迷惑をかけているのは、僕も知っている。
だからこそ、今回の件も、彼女に行かせたら、火に油を注ぐ事態になりかねないと思った。
それであれば、昔から良好な関係を構築していて、管理職である僕が1人で行った方が、丸く収められると思って、あえて彼女は残して僕だけが行った。
「君の言うことも分かるよ。でも、誰だって失敗はするし、彼女は成長するペースが人より遅いだけなんだよ。」
「ゆっくり少しでも、昨日よりできるようになっていれば、それでいいさ。」
『課代は、今日、本当は有給休暇の日でしたよね。確か先週から言っていたと思いますが。』
その通りだ。僕は、既に有給休暇を申請して、部長の承認を得てしまっているので、今日の僕の丸一日は完全なる無給業務だ。
「まぁ仕方がないよ。部下の責任を取るのも管理職の仕事だからね。」
僕は、彼女と話をしていて、また動悸が激しくなっているのが分かる。
休みなんだから、できれば今日はもう帰りたい。
時間は午後3時を回ったところだ。定時まで、まだ時間はあるが、僕は、今日は有給休暇なのだから、早く帰っても問題はないはずだ。
この後、上長2人と財務・経理部に結果を報告して、彼女にもきちんと反省するように伝えたら、もう帰ろう。
『課代、本当に大丈夫ですか?家まで1人で帰れますか?』
「子供じゃないんだから、帰れるよ。体調が悪くなったら、途中の駅で降りて、ゆっくり休みながら、帰るようにするよ。」
『私、津田沼の駅まで一緒に帰りますよ。』
「気持ちはありがたいけど、大丈夫だよ。定時まで時間残っているし、まだ君は帰れないでしょう。」
『大丈夫です。私、時休取りますから。』
うちの会社は、5分ごとに時間休暇が取れる。要は、早退できる制度だ。
「いやいや、お気持ちはありがたいけど、大丈夫だよ。君だって仕事が残っているだろう。」
『大丈夫です。今日中にやらなければいけない仕事は終わりましたので。課代のことが心配なので、私も一緒に津田沼までお送りします。』
一体、この人は何なんだろうか。
僕のことを好いてくれているのだろうか。
でも、僕は狼だ。当然だが、人間と結ばれることはできない。
僕は、彼女に少し踏み込んだ質問をした。
「気持ちは嬉しいよ。本当にありがとう。でもどうしてそんなに僕のことを心配してくれるんだい?正直、普通の上司と部下の範囲を超えているように感じるんだけど。」
『私、課代のことが、好きです。』
彼女は、突然、告白した。
第9章に続く




