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暗躍・一

ガタゴト――


ガタゴト――


東へ続く街道を、一台の荷車が進んでいた。


「……んぅ」


荷台の上で、ネクトリアが身じろぎする。


「…………」


ゆっくりと目を開けた。


見慣れない空。


揺れる荷車。


肩には、いつの間にか毛布が掛けられていた。


「……あれ?」


ネクトリアは身体を起こし、辺りを見回した。


「イレア?」


「お目覚めですか、ネクトリア様」


御者台から、イレアが振り返る。


「わたし、寝ちゃってた?」


「はい。港町へ向かう船の説明をしている途中からです」


「えへへ……ごめんなさい」


「構いません。朝から随分とはしゃいでおられましたので」


イレアは手綱を握り直した。


「ただし、道程については後ほど改めてご説明いたします」


「はーい!」


ネクトリアは元気よく返事をした。


それから、ふと思い出したように首を傾げる。


「そういえば、イレア」


「はい」


「わたし、旅人になるんだよね?」


「ええ。そのつもりでございます」


「でも、ネクトリア様って呼ばれたら、王女だって分かっちゃわない?」


「…………」


イレアは少し考えた。


「おっしゃる通りです」


「じゃあ、どうしよう?」


「人前では、別のお名前を使われるのがよろしいでしょう」


「別の名前……!」


ネクトリアの目が輝く。


「わたし、自分で決めてもいい!?」


「もちろんです」


「じゃあね、じゃあね……」


しばらく考え込む。


「…………」


「…………」


「トリア!」


「トリア、ですか」


「うん! ネクトリアの、トリア!」


イレアは小さく頷いた。


「覚えやすく、呼びやすいお名前ですね」


「でしょ!」


「では、これから人前ではトリアとお呼びいたします」


「うん!」


「ただし、これはあくまで身分を伏せるためのお名前です。関所などで正式な身元確認を求められた場合には、私が対応いたします」


「わかった!」


「それから、私のことも普段どおりイレアとお呼びください。王城での役職や、王家との関係については、むやみに話さないようお願いいたします」


「はい!」


「では、練習してみましょう」


イレアは軽く咳払いをした。


「……トリア」


「はいっ!」


「…………」


「…………」


「……トリア、あまり荷台から身を乗り出さないでください」


「はい!」


「…………」


「イレア?」


「いえ。少々、慣れないものですから」


「えへへ! わたしも!」


二人は顔を見合わせ、笑った。


「グェ!」


食材も楽しそうに鳴いた。


「食材は、そのまま食材だよね!」


「…………」


イレアは荷車を引く食材を見た。


「……そうですね」


その名前が後にどのような誤解を招くのか、このときの二人はまだ知らなかった。


やがて――


潮の匂いが、風に混じり始めた。


街道の先に、建物が増えていく。


荷を積んだ荷車や商人たちが行き交い、遠くには船の帆が見えた。


「わぁ……!」


ネクトリアが身を乗り出す。


「イレア! 海だよ!」


「はい。港町オギトンに到着しました」


「すごい! 大きい!」


「トリア」


「あっ!」


ネクトリアは慌てて座り直した。


「えへへ……そうだった!」


イレアは小さく息を吐いた。


先は長そうだった。


* * *


港町オギトン。


ここから海を渡れば、遥か東。


今回の目的地である、極東の国《ムラサキ》へと辿り着く。


――はずだった。


「船が出ていない?」


「はい」


港の船着き場で、イレアの問いに答えたのは、船の運航を取り仕切る男だった。


男は困ったように頭を掻いた。


「正確には、定期便が全部止まってるんです」


「欠航の理由を伺っても?」


「少し前から、沖に魔獣が出るようになりましてね。何隻か襲われてからは、船主も船長も、船を出したがらなくなっちまった」


「被害はどの程度なのでしょう」


「船を壊されたところもあれば、乗組員が戻ってこなかった船もあるとか…。詳しいことは、まだ分かっちゃいません」


「なるほど……」


イレアは港へ視線を向けた。


桟橋には大小さまざまな船が係留されている。


普段なら荷役で賑わっているのだろうが、今は積み荷を降ろす者も少なく、船員たちが所在なさげに集まっていた。


「魔獣……」


ネクトリアも海を見る。


穏やかな波。


青い空。


少なくとも今は、魔獣などいるようには見えない。


「どうする? イレア」


「そうですね……」


急ぎの旅ではない。


無理に海を渡る必要もなかった。


だが、船が出なければ、いつまで経ってもムラサキへは辿り着けない。


「ひとまず、情報を集めましょう。魔獣についても、もう少し調べる必要がありそうです」


「わかった!」


「トリア。くれぐれも、お一人で調べに行かないでくださいね」


「…………」


「トリア?」


「は、はい!」


イレアは静かに頷いた。


「グェ!!」


食材は、やはり楽しそうだった。


* * *


その夜。


一行は、港町の宿に泊まることになった。


食材を連れているため、荷車を置ける場所がある宿を選び、宿の主人に頼んで裏手の荷置き場を借りた。


イレアは荷車の車輪を固定し、貴重品や旅の書状を部屋へ運び込んだ。


食材には水と餌を用意し、雨露をしのげる場所で休ませる。


「食材殿。何か異変があれば、お知らせください」


「グェ!」


頼もしい返事だった。


その頃、空には月がなかった。


新月。


僅かな星明かりだけが照らす街は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。


しん――


人通りの途絶えた道。


遠くから聞こえる波の音。


時折、潮風に軋む看板。


そして――


宿の裏手。


「…………」


闇の中で、何かが動いた。


一つ。


二つ。


音を殺しながら、影が近づいてくる。


その先にあるのは、一台の荷車。


昼間、ネクトリアたちが乗っていたものだった。


「…………グェ」


その様子を、食材が見ていた。


荷車の近くで丸くなり、うとうとしていた食材が――


ぱちり。


目を開く。


「…………」


暗闇の中、荷車へ近づく影。


「…………グェ」


少し考える。


それから、足元に転がっていた小石を拾った。


宿を見上げる。


二階。


ネクトリアとイレアが眠る部屋。


狙いを定め――


ひょい。


カツンッ。


小石が窓に当たった。


「…………」


反応がない。


もう一つ。


カツンッ。


「…………」


さらに一つ。


カツンッ!!


「――ッ」


室内。


イレアの目が開いた。


次の瞬間には、その手に一本のナイフが握られていた。


「…………」


音を立てずに起き上がる。


隣を見る。


「すぅ……」


「すぅ……」


ネクトリアは、爆睡していた。


「…………」


イレアは窓へ近づき、僅かにカーテンを開く。


下にいるのは、食材。


こちらを見上げている。


「グェ」


そして、その視線がゆっくりと横へ動いた。


イレアも追う。


暗闇。


荷車。


その周囲を動く、複数の影。


「…………なるほど」


イレアは静かにカーテンを閉じた。


どうやら、荷物を狙った賊らしい。


宿の主人を起こして騒ぎにすることもできる。


だが、相手の人数も目的も分からない以上、まずは状況を確かめた方がよさそうだった。


何より、ネクトリアを不用意に危険へ近づけるわけにはいかない。


イレアは荷物から、細い糸と小さな金具を取り出した。


扉の内側。


蝶番と取っ手の位置を確かめ、細工を施していく。


「…………」


扉が不用意に開かれれば、異変を知らせる。


簡単な警戒用の仕掛けだった。


イレアは仕上がりを確かめると、ベッドへ視線を向けた。


「…………」


ネクトリアは、よく眠っている。


「ネクトリア様」


「…………すぅ」


「少々、外出して参ります」


「…………」


「…………」


返事はない。


「でしょうね」


イレアは紙を一枚取り出した。


さらさらと、文字を書いていく。


『ネクトリア様へ


 少々、外の様子を確認して参ります。


 部屋の扉には警戒用の仕掛けを施しておりますので、絶対に近づかないでください。


 念のため――』


そこで、イレアの筆が止まった。


ベッドを見る。


「…………」


少し考えた。


もしネクトリアが途中で目を覚ましたら。


自分がいないことに気づき、探しに来るかもしれない。


扉を開けようとして、仕掛けに触れるかもしれない。


あるいは――


魔槍を顕現させて、窓から飛び出すかもしれない。


「…………」


イレアは静かに頷いた。


対策が必要だった。


そして――


数分後。


「すぅ……」


ネクトリアは、ベッドに括り付けられていた。


「…………」


寝返りが打てる程度の余裕は残されている。


もちろん、身体を痛めないよう、柔らかな布も当ててある。


イレアは固定具合を確認すると、再び紙へ向かった。


『念のため、ネクトリア様をベッドに固定させていただきました。


 起床された際には、ご不便をお掛けすることをお詫び申し上げます。


              イレア』


「…………」


読み返す。


問題ない。


紙を、ネクトリアの枕元へ置いた。


「すぅ……」


本人は、何も知らずに眠っている。


「では――」


イレアは窓を開いた。


夜風が、静かに部屋へ流れ込む。


窓枠へ足を掛ける。


そして――


闇の中へ。


音もなく、その姿を消した。

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