心得
ガタゴト――
ガタゴト――
ネクトフラムを旅立った荷車は、街道をゆっくりと東へ進んでいた。
王都の賑わいはすでに遠ざかり、道の両側には緑豊かな草原が広がっている。
時折、荷物を積んだ商人の馬車や、街道を行き交う旅人たちとすれ違った。
王城の外にも、こんなにたくさんの人がいる。
ネクトリアは荷台から身を乗り出し、流れていく景色を楽しそうに眺めていた。
「ネクトリア様」
「はい!」
「そろそろ、今後の道程についてご説明いたします」
イレアが荷台に広げたのは、一枚の大きな地図だった。
「まず、現在地がこちらです」
すっ。
イレアの指が、地図の一点を示す。
「…………」
ネクトリアは真剣な顔で覗き込んでいる。
「そして、この街道を東へ進みます」
「はい!」
「途中、道が二つに分かれますが、北側は使いません」
「はい!」
「南側の街道を進み、東の大河を目指します」
「はい!」
「…………」
イレアはネクトリアを見る。
「ここまでは?」
「大丈夫!」
「では、現在地はどこでしょう」
「…………」
ネクトリアは地図を見る。
じーっ。
「…………」
さらに見る。
じぃぃぃぃっ。
「…………ここ?」
ネクトリアが指を置いた。
「そこは王城です」
「…………」
「出発地点です」
「…………」
「もう随分と離れています」
「難しいね、地図って!」
「まだ道一本しか説明しておりません」
イレアは静かに地図へ視線を戻した。
「グェ!」
荷車を引く食材は、とても楽しそうだった。
「ともかく――」
イレアが再び地図を指差す。
「東の大河を越えれば、ネクトフラムの国境を抜けます」
「国の外……」
ネクトリアの目が輝いた。
「はい。国境を越えれば、法律も習慣も、ネクトフラムとは異なります」
「法律も?」
「ええ。国によっては、街へ入る際に通行税を納めたり、身分を証明する書状を求められたりすることもございます」
「へぇ……!」
「必要な書状や旅費はこちらで用意しておりますが、ネクトリア様にも覚えていただかなければなりません」
「はい!」
「そして、国境を越えた先では、ネクトフラムの王女としてではなく――一人の旅人として行動していただきます」
「旅人……!」
さらに目が輝いた。
「ですので、身分は極力お隠しください」
「はい!」
「ご自身から『第三王女です』などと名乗らないように」
「はい!」
「ただし、関所などで正式に身分を確認された場合は別です。嘘をついて通過しようとしてはいけません」
「はい!」
「王家の書状は私がお預かりしております。必要な場面では、私が対応いたしますので」
「わかった!」
「それから、魔槍についても同様です」
ネクトリアの腰には、白銀の細剣が収められていた。
「顕現すること自体は構いません。ですが、可能な限り魔力は込めないようにしてください」
「どうして?」
「ネクトリア様の魔力は特徴的すぎます」
「特徴的?」
「はい」
イレアは淡々と答える。
「目立ちます」
「…………」
「とても」
「…………」
「非常に」
「そんなに!?」
「そんなにです」
ネクトリアは少しだけしょんぼりした。
「もちろん、身を守る必要がある場合は別です。しかし、危険を避けられるなら、戦わずに済ませることも覚えていただきます」
「……うん」
「困っている者を見つけても、何も考えず飛び込まないこと」
「…………はい」
少し返事が遅くなった。
イレアは、そのわずかな間を見逃さなかった。
「助けてはいけない、と申し上げているのではありません」
「……そうなの?」
「はい。まずは状況を確かめ、何ができるか考えるのです。助けようとして、かえって危険を招くこともございますから」
「そっか……!」
ネクトリアは小さく頷いた。
「では、続けます」
「はい!」
「知らない者について行かないこと」
「はい!」
「知らない植物を食べないこと」
「はい!」
「薬草と雑草を間違えないこと」
「…………はい」
「むしろ、見慣れない薬草には触らないこと」
「はい……」
「食材殿が口にしようとしているものにも、十分お気をつけください」
「グェ!?」
食材が振り返った。
「前を向いてください」
「グェ……」
こうして、旅立ちに際しての約束事を一つずつおさらいしていく。
「そして――」
イレアは地図を指でなぞった。
「大河を越えた先には、港町オギトンがございます」
「港町!」
「はい。そこで海を渡る船を探します」
「海!」
「船には決まった航路や出航日がございますので、到着してすぐに乗れるとは限りません。場合によっては、港町で数日滞在することになるでしょう」
「…………」
「また、海を渡る際には船賃のほか、荷物の積み込みについても船長と相談する必要がございます。食材殿も一緒ですので――」
「…………」
「…………」
返事がない。
イレアが顔を上げる。
「ネクトリア様?」
「…………すぅ」
「…………」
寝ていた。
荷物にもたれかかり、ネクトリアは完全に眠っていた。
「…………」
ガタゴト――
ガタゴト――
荷車だけが、変わらず東へ進んでいく。
「グェ♪」
食材は、やはり楽しそうだった。
イレアはしばらく、眠っているネクトリアを見つめた。
朝から随分とはしゃいでいた。
見送りに来た民たちへ何度も手を振り、城が見えなくなってからも、しばらく街道の景色に夢中になっていたのだ。
無理もない。
王城の外へ出ることはあっても、こうして遠い土地へ向かうのは初めてなのだから。
「…………」
イレアは何も言わず、荷物の中から毛布を取り出した。
ふわり。
ネクトリアの肩へ掛ける。
「……むにゃ……」
ネクトリアが小さく身じろぎした。
イレアは毛布がずり落ちないように整えると、再び地図へ目を落とした。
現在地。
東の大河。
港町オギトン。
そして――
眠るネクトリア。
「…………」
イレアは考えた。
どこからだ。
いったい、どこから眠っていた。
大河までは聞いていた。
港町にも反応していた。
海にも反応していた。
ならば――
「…………船からでしょうか」
イレアは、再説明を始める地点を静かに検討し始めた。
「グェ!!」
食材は――
とても楽しそうだった。




