門出
王城の正門前――
いつもより多くの民が集まっていた。
王城から続く大通りには、見送りに訪れた者たちが並び、門の両脇には近衛兵が整列している。
今日は、第三王女ネクトリアが旅立つ日だった。
行き先は、遥か東の地。
極東の国、ムラサキ。
王族の外遊ともなれば、本来は護衛隊を編成し、訪問先との調整を重ね、相応の行列を組むものだ。
だが、今回は違う。
ネクトリアが望んだのは、王女として諸国を巡ることではなく、自分の足で世界を知る旅だった。
そのため、護衛はイレア一人。
女王アピスの許可を得て、必要な通行書状と旅費を携えた、ささやかな旅立ちとなった。
もっとも――
「イレアー! これも持っていっていい?」
「必要ありません」
「じゃあこれは?」
「必要ありません」
「これは?」
「置いてきてください」
「まだ何も見せてないよ!?」
準備だけは、なかなか終わりそうになかった。
王城の前には、一台の荷車が停められている。
その荷台では、イレアが黙々と荷物を整理していた。
保存の利く食料に、水を入れた容器。着替え、雨具、薬、野営のための道具。
さらに、旅費を分けて収めた袋と、王家の印章が押された書状。
イレアは一つずつ中身を確認し、取り出しやすい順に積み直していく。
「ネクトリア様。旅先では必要なものを、その都度手に入れることも覚えていただきます」
「でも、持っていった方が安心じゃない?」
「荷物が増えれば、それだけ移動が大変になります」
「そっかぁ……」
「それに、食材殿にも限界がございますので」
そして――
その荷車を引くのは。
「グェ!!」
食材。
「…………」
妙に楽しそうだった。
「なんでお前が一番楽しそうなんだよ……」
ヴェスピナが呆れたように呟く。
「グェェ!!」
「褒めてねぇよ」
食材は胸を張り、ますます得意げに鳴いた。
「……本当に大丈夫なのか、こいつ」
「食材殿は昨日から張り切っておられます」
「張り切りすぎて途中で倒れんじゃねぇぞ」
「グェッ!!」
「だから褒めてねぇって!」
そんなやり取りを見ながら、ネクトリアは楽しそうに笑っていた。
今日、彼女はネクトフラムを旅立つ。
知らない国。
知らない種族。
知らない文化。
そして、まだ見たことのない戦い方。
城の外には、どれほど広い世界が待っているのだろう。
そう考えるだけで、胸が弾んだ。
「…………」
ヴェスピナは、そんな妹をじっと見つめていた。
「……本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ!」
「知らねぇ奴にホイホイついてくんじゃねぇぞ」
「うん!」
「変なもん食うなよ」
「うん!」
「危ねぇと思ったらすぐ逃げろ」
「うん!」
「あと、毎日ちゃんと飯食って、夜は変な場所で寝るなよ。それから――」
「ヴェスピナ」
横からヴェスヴィが口を挟んだ。
「なんだよ」
「お前が行くのか?」
「行かねぇよ!!」
「なら少し黙れ」
「心配なんだよ!!」
「昨日から同じこと何回言ってんのさ」
「何回だって言うだろ!!」
「はいはい」
ヴェスヴィは肩をすくめた。
「ヴェスピナお姉ちゃん」
「あ?」
ネクトリアが笑う。
「大丈夫だよ」
「…………」
「わたし、強くなって帰ってくるから!」
「…………」
ヴェスピナは少しだけ目を逸らした。
「……当たり前だろ」
そして、ネクトリアの頭に手を置く。
くしゃくしゃ。
「ウチの妹なんだからよ」
「えへへ……」
ネクトリアは嬉しそうに目を細めた。
その隣では――
「…………」
アピスが扇を広げていた。
いつもより、随分と高い位置で。
「アピスお姉様?」
「……なんですの?」
「顔、見えないよ?」
「今日は日差しが強いのですわ」
「曇ってるよ?」
「…………」
扇が、さらに上がった。
「……風が強いのですわ」
「風もないよ?」
「ネクトリア」
「はい」
「余計なことを言わなくてよろしくてよ」
「は、はい!」
扇の向こうから聞こえる声は、ほんの少しだけ震えていた。
アピスは小さく息を整えると、扇を下ろした。
「ネクトリア」
「はい!」
「あなたには、王家の名において旅立ちを許可しました。ですが、これは外交使節としての任務ではありません」
「うん」
「行く先々で王女として振る舞う必要はありませんわ。ただし、王家の名を使うときには、その責任を忘れないこと」
「はい!」
「それから、イレアの判断には従いなさい。道中で危険があれば、予定を変更しても構いません」
「うん!」
「……そして」
アピスは一瞬、言葉を詰まらせた。
「帰りたくなったら、いつでも帰っていらっしゃい」
「…………!」
「この城は、あなたの帰る場所なのですから」
ネクトリアは満面の笑みを浮かべた。
「うん!!」
アピスは再び扇を広げた。
今度は、先ほどよりもずっと高く。
その時だった。
「ネクトリアァァァァァァ!!!」
突然、背後から凄まじい声が響いた。
「絶対に無事で帰ってくるのだぞぉぉぉぉ!!!」
「ヴェ、ヴェスタスお兄ちゃん!?」
ヴェスタスが、今にも泣き出しそうな顔で駆け寄ってくる。
「辛いことがあればいつでも戻って来い!!」
「う、うん!」
「腹が減ったら食え!!」
「うん!」
「寒かったら着込め!!」
「うん!」
「知らない者について行くな!!」
「それヴェスピナお姉ちゃんにも言われた!」
「ならば二度聞いておけ!!」
「……お前は母親か」
ヴェスヴィが呆れたように弟を見る。
「うるさい!! 妹が旅に出るのだぞ!!」
「お前、妹ができてからまだ大して経ってないだろ」
「時間など関係あるか!!!お兄ちゃんと呼んでくれたんだ!!!」
「はいはい」
ヴェスタスはなおも何か言おうとしたが、ヴェスヴィに肩を叩かれてようやく口を閉じた。
「まったく……」
ヴェスヴィはため息を吐き、ネクトリアを見る。
「まぁ……気をつけてな」
「うん!」
「外には色んな奴がいる。ネクトフラムの常識が通じるとも限らない」
「うん」
「だから――いっぱい見てこい」
ネクトリアが目を瞬いた。
「強くなるだけじゃなくてさ。知らないものを見て、知らない奴と話して――」
ヴェスヴィは、いつもの気楽な調子で笑った。
「いっぱい失敗してこい」
「失敗していいの?」
「あぁ」
「怒られない?」
「そりゃ、怒られることもあるだろうね」
「えぇ!?」
「でもさ、失敗しなきゃ分かんないことだってあるじゃん」
ヴェスヴィはネクトリアの頭を軽く撫でた。
「そのための旅だろ?」
「…………!」
ネクトリアの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!!」
その様子を、イレアは少し離れた場所から見守っていた。
昨夜、月明かりの下で交わした言葉を思い出す。
知らない土地で、知らないものに出会うこと。
楽しいことばかりではないと、ネクトリア自身も理解している。
それでも彼女は、旅に出ると決めたのだ。
「…………」
イレアは静かに微笑み、荷車の最後の留め具を締めた。
「ネクトリア様。準備が整いました」
「本当!?」
「はい。いつでも出発できます」
「やった!」
イレアは御者台へ乗り、手綱を取った。
続いてネクトリアも荷車へ乗り込む。
「食材殿。お願いいたします」
「グェ!!」
食材は力強く鳴いた。
やる気に満ちていた。
王城の門が、ゆっくりと開かれる。
整列していた近衛兵たちが、一斉に姿勢を正した。
「第三王女殿下、御出立!」
衛兵の声が響く。
ネクトリアは少し驚いたように振り返った。
「……なんだか、すごいね」
「王女殿下の門出ですので」
イレアが答える。
「ですが、門を出れば、まずは道を行く一人の旅人です」
「……うん!」
「参りましょう」
ゆっくりと、車輪が回り始めた。
ゴト……。
ゴトゴト……。
「みんな――!!」
ネクトリアが荷台から身を乗り出す。
「行ってきます!!!」
その声を合図にしたように、民たちから一斉に歓声が上がった。
「ネクトリア様ー!!」
「お気をつけて!!」
「行ってらっしゃいませ!!」
「元気でー!!」
「イレア様もお気をつけてー!!」
「グェェ!!」
「食材も元気でねー!!」
「お前まで見送られてんのかよ!!」
ヴェスピナの声に、周囲から笑いが起こった。
ネクトリアは何度も何度も手を振った。
「行ってきまーす!!!」
その顔に、不安は見えなかった。
これから始まる旅への期待が、いっぱいに溢れていた。
ゴトゴト……。
荷車が離れていく。
ネクトリアの姿が、少しずつ小さくなっていく。
それでも、彼女はずっと手を振っていた。
「…………」
アピスも。
ヴェスタスも。
ヴェスヴィも。
そして、集まった民たちも。
その姿が見えなくなるまで、旅立つ王女を見送っていた。
やがて、荷車は街道の向こうへと消えた。
「…………」
ヴェスピナだけが、じっと遠くを見つめていた。
「…………よし」
ブゥン――。
突然、翅を広げる。
「…………」
ガシッ。
「うぉっ!?」
飛び立とうとしたヴェスピナの足を、ヴェスヴィが掴んでいた。
「離せ!!」
「どこ行く気だ」
「いや別に!?」
「ちょっと東の方に用事が!!」
「今できた用事だろ」
「うるせぇ!! 離せ!!」
「やっぱ心配だ!!」
ブゥゥゥゥン!!!
「おい!! ネクトリアァァァ!!」
「待ってろ!! ウチも――」
ズルズルズル……。
ヴェスヴィが、ヴェスピナを地面へ引きずり下ろす。
「行かせてやれ」
「でもよぉ!!」
「強くなって帰ってくるって言っただろ」
「…………」
ヴェスピナの翅が止まった。
「それにさ」
ヴェスヴィは、もう見えなくなった街道へ目を向けた。
「帰ってくる場所があるって、結構大事なんだよ」
「…………」
「だから、アタシらはここで待ってりゃいいの」
ヴェスピナはしばらく黙り込んだ。
そして――
「…………ちぇっ」
ほんの少しだけ笑った。
「ちゃんと強くなって帰って来いよ」
遠く、遥か東へ。
まだ知らない世界へと続く道を、一台の荷車が進んでいく。
こうして――
第三王女ネクトリアの旅が、始まった。




