↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/103

ネクトリアの決意

夕食の時間――


王城の食堂には、いつものように賑やかな声が響いていた。


「お待たせいたしました」


イレアが大皿を食卓へ運ぶ。その後ろから、スズメバチのメイドたちが次々と料理を並べていく。


焼きたての肉に、香草を添えた野菜。蜂蜜を使った甘い料理に、湯気を立てる温かなスープ。


戦争が終わってからというもの、食卓を囲む顔ぶれも随分と増えた。


「おいヴェスタス! そっちの肉取ってくれ!」


「自分で取れ。目の前だろう」


「届かねぇんだよ!」


「先ほどから三皿も食べているではないか!」


「まだ三皿だろ!」


「お前の胃袋はどうなっているのだ……」


「はいはい、喧嘩しない」


ヴェスヴィが呆れながら肉の皿をヴェスピナへ押しやる。


「おっ、ありがとな姉貴!」


「アタシの分も残しといてよ」


「それは保証できねぇ!」


「保証しろよ」


「…………」


アピスは静かに紅茶を口へ運んだ。


もはや王族の食卓とは思えない騒がしさだったが、最近ではこれが日常になりつつあった。


そして――


「ねぇ、みんな!」


ネクトリアが、ふいに声を上げた。


「わたし、旅に出ようと思うの!」


「ぶふぉっ!!!」


ヴェスピナが蜂蜜酒を盛大に吹き出した。


「ヴェスピナ様!!」


イレアが素早く布巾を差し出す。


「げほっ……! お、お前、今なんつった!?」


「旅に出るの!」


「聞こえてるよ!! なんでだよ!?」


「世界を見てみたいの!」


「世界ぃ!?」


「落ち着け、ヴェスピナ」


ヴェスタスが口を挟む。


「まずは本人の話を聞くべきだ」


「お、おう……」


「ネクトリア殿。旅とは、具体的にどこへ向かうのだ?」


「東の方!」


「東……」


「うん!」


「…………」


ヴェスタスが腕を組んだ。


「東のどこだ?」


「まだ決めてない!」


「…………」


「…………」


「ならん!!!」


「お前も落ち着けよ!!」


ヴェスピナが思わず突っ込んだ。


「そもそも旅には危険がつきものだ! 道中には魔物もいれば、賊もいる! 食料の確保、野営地の選定、天候への備え、何より護衛の編成が――」


「ヴェスタス」


ヴェスヴィが面倒くさそうに声をかける。


「いいじゃん。行っといでよ」


「姉上!?」


「城の中に閉じ込めといたって、何も覚えないでしょ」


「しかし!」


「それにさ」


ヴェスヴィはネクトリアを見た。


「この子、もう自分の身を守る力くらいあるじゃん」


「…………」


ネクトリアは少しだけ背筋を伸ばした。


「わたしね、今までずっとお城で暮らしてきたでしょ?」


「うん」


「だから、知らないことがいっぱいあるんだ」


ネクトリアは自分の手を見つめる。


かつては、どう扱えばいいのかも分からなかった力。


けれど今は――


「わたし、自分の力が少しずつ分かってきたの」


「…………」


「だから、もっと色んなものを見てみたい。知らない国に行って、知らない人と話して、知らない戦い方も覚えて……」


顔を上げる。


「もっと、強くなりたいんだ!」


ヴェスピナは黙り込んだ。


その言葉が、どこか自分自身にも重なったのだろう。


「…………」


アピスは静かにカップを置いた。


「ネクトリア」


「はい!」


「旅に出るということは、王城の外で暮らすということですわ。王女である以上、あなたの身に何かあれば、王国にも影響が及びます」


「……うん」


「それでも、行きたいのですわね?」


「うん!」


ネクトリアは迷わず頷いた。


アピスはしばらく妹を見つめ――


「……そうですの」


扇を広げた。


「イレア」


「はい」


控えていたイレアが、一歩前へ出る。


「…………」


アピスは何かを言いかけて、口を閉じた。


そして、ただ一言。


「……イレア」


「承知いたしました」


イレアは静かに頭を下げた。


「明日にでも身支度を整えましょう。護衛として同行いたします。道中の物資、旅費、通行に必要な書状につきましても、こちらで手配いたします」


「…………」


アピスが僅かに目を細める。


「頼みましたわ」


「かしこまりました」


それだけだった。


長年アピスに仕えてきたイレアには、主君が何を望んでいるのか分かっていた。


王女を守ること。


そして――


王女が自分の意思で世界を知る機会を、奪わないこと。


「イレア!」


「はい、ネクトリア様」


「食材も連れていきたい!」


「食材殿ですか」


「うん!」


「…………」


イレアは一瞬だけ考えた。


「承知しました。本人の意思を確認してまいります」


「やった!」


「まだ了承は得ておりません」


「絶対来てくれるよ!」


「……そうであればよいのですが」


その横では、ヴェスタスがまだ何やら呟いていた。


「護衛が一名……いや、王女の遠出であれば本来は護衛隊を……しかし目立ちすぎても危険が……」


「お前も行けば?」


ヴェスヴィが言った。


「それでは旅にならんだろう!」


「分かってんじゃん」


「むぅ……」


賑やかな食卓に、再び笑い声が広がった。



その夜――


王城の屋外回廊。


ネクトリアは、欄干に両手を置いて夜空を見上げていた。


雲の切れ間から、いくつもの星が瞬いている。


「…………」


あの星の向こうにも、知らない世界があるのだろうか。


そんなことを考えていると――


「ネクトリア様」


「あっ、イレア!」


振り返ると、イレアが静かに歩いてきた。


「食材殿にお話ししてまいりました」


「どうだった!?」


「快く引き受けてくださいました」


「やったぁ!!」


ネクトリアが両手を上げる。


「ただし、荷車を引いていただくことになりますので、道中は適度な休息が必要かと」


「うん! いっぱい休もうね!」


「……ネクトリア様も歩いていただくことになるかもしれません」


「えっ!?」


「食材殿にも限界がございますので」


「そ、そっか……」


ネクトリアは少し考え――


「じゃあ、一緒に歩こう!」


「ふふ……それがよろしいかと」


二人は並んで夜空を見上げた。


「ねぇ、イレア」


「はい」


「イレアは旅とかしたことあるの?」


「私は幼い頃よりアピス様にお仕えしておりますので、旅と呼べるほどの経験は多くありません」


「そうなんだ」


「遠征にお供したことはございますが」


「遠征?」


「はい。王族の護衛として、他国への訪問や領内の視察に同行したことがございます」


「それも旅なんだ……」


「目的は異なりますが、知らない土地へ赴くという意味では同じかもしれません」


「そっかぁ……」


ネクトリアは再び空を見上げた。


「楽しみだなぁ」


「…………」


イレアはその横顔を見つめていた。


「ネクトリア様」


「ん?」


「旅先では、楽しいことばかりではありません」


「…………」


「知らない土地では、思い通りにならないことも多いでしょう。言葉が通じないことも、考え方の違いから争いになることもございます」


「……うん」


「そして時には――深く傷つくこともあるかと思います」


ネクトリアは少しだけ俯いた。


けれど、すぐに顔を上げた。


「うん」


「…………」


「だから、イレアもいてくれるんでしょ?」


「…………!」


イレアが目を見開く。


ネクトリアは笑った。


「一人だったら怖いかもしれないけど、イレアも食材も一緒だもん!」


「…………」


イレアは、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「……はい」


その時だった。


「へぇ……」


頭上から、気の抜けた声が聞こえた。


「いいじゃん」


「……?」


二人が顔を上げる。


屋根の上。


月明かりを浴びながら、ヴェスヴィが腰掛けていた。


「ヴェスヴィ!!」


ネクトリアが嬉しそうに叫ぶ。


「そんなとこで何してるの!?」


「んー? 涼んでた」


「落ちない?」


「落ちないよ」


ヴェスヴィは笑い、片膝を抱えた。


「それにさ、ネクトリア」


「ん?」


「どこにいたって、何してたって、傷つくことなんかいっぱいあるよ」


「…………」


「城の中にいたってそうでしょ?」


「……うん」


「だったらさ」


ヴェスヴィは夜空を見上げた。


「誰と傷つくかを、自分で選ぶのが大事なのかもね」


「…………」


「一緒に笑える奴と、一緒に泣ける奴。そういう相手を見つけられたら、それだけで旅に出た意味があるんじゃない?」


ネクトリアは隣のイレアを見た。


イレアもまた、静かに頷いた。


「……うん!」


「だから、いっぱい見ておいでよ」


「うん!!」


ネクトリアは満面の笑みを浮かべた。


そして、ふと思い出したように尋ねる。


「ねぇ、ヴェスヴィ」


「ん?」


「ヴェスヴィは旅とかしなかったの?」

「女王様だったから、遠征になるのかな?」


「ん? アタシ?」


ヴェスヴィは少し考え込んだ。


「うーん……正直、あんま覚えてないんだよね」


「えっ!?」


「いや、覚えてはいるんだけどさ」


ヴェスヴィは自分の胸に手を当てた。


「なんつーか……自分のことじゃないみたいな」


「…………?」


「確かにアタシがやったことなんだけど、今のアタシがやった気がしないっていうか」


「……難しいね」


「難しいねぇ」


ヴェスヴィは小さく笑った。


「まぁ、もう女王はやめたからいいんだよ」


「そっか……」


ネクトリアは少しだけ考えた。


けれど、何も聞かなかった。


ヴェスヴィも、それ以上は語らなかった。


しばらくして――


「ねぇ、ネクトリア」


「なぁに?」


「ネクトリアは女王になりたいの?」


「…………」


ネクトリアが首を傾げる。


「んー……」


しばらく考えてから――


「わかんない」


そう答えた。


「…………」


ヴェスヴィは、少しだけ目を細めた。


「そっか」


そして笑った。


「わかんないんだね」


「うん」


「じゃあ、それも旅先で考えたらいいよ」


「……うん!」


ネクトリアは再び空を見上げた。


遥か遠くに広がる、まだ知らない世界。


そこにはきっと、今の自分には想像もできないものが待っている。


楽しいことも。


悲しいことも。


嬉しいことも。


傷つくことも。


その全てを――


自分の目で見てみたかった。



月明かりの下。


王女と、侍女と、かつての女王。


身分も、種族も、生きてきた道も違う三人が――


同じ夜空を見上げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。